8.聖女の目覚め
花の香りを頼りに進んでいくと、歌が聞こえてきた。
その旋律に背筋が凍りそうになる。いつか聞いたルーナのものによく似ていたからだ。しかし、近づけば近づくほど、その声色やクセが違うことに気づいた。グロリアでもなさそうだ。影道から這い出してみて、納得する。歌っていたのはアマリリスであった。
リリウムの聖歌だ。信者でもない彼女が何故その歌を知っているのか。イグニスで聞いたものによく似ていた。居心地の悪い祭事を見物していた時に聴いた歌。人間の少年らのこの世のものとは思えない歌声ほどではないが、しっかりと歌えていた。
部屋の隅にいる私の気配に気づいたのか、アマリリスは歌うのを止めてこちらを見つめてきた。その眼差しの色が先ほどとはまた違うことに気づきつつ、私は彼女に訊ねた。
「その歌……たしかイグニスの祝福の儀で聴いた。覚えていたのか」
「ええ、私の養母ニューラが昔、教えてくれたの。古イリス語で歌われる憐れみの賛歌」
寂し気に彼女は語り、そして小さく付け加えた。
「ルーナが初めて音楽の美しさに囚われた時にも歌われていた」
ならば、ルーナのことを思い出していたということか。
たしかに、ルーナが密かに歌の練習をしていた時にもこの歌が混じっていたような気がする。カンパニュラの校歌にあらゆる聖歌。振り返れば振り返るほど、あの頃は希望に満ち溢れていた。
「ねえ、カリス。教えて欲しいことがあるの」
「なんだ?」
「私の知らないルーナのこと。影道で色んな人を見に行けるあなたなら、私の知らないルーナの姿も知っていたはずでしょう? 教えて欲しいの。私の傍を離れた時、ルーナはいつも何をしていたの?」
目を合わさずに訊ねてくる彼女の表情は、久しぶりにまとものように見えた。表情だけではない。眼差しに宿る光も、顔色も、かつての聖女を彷彿とさせた。まるで、ルーナがまだ生きているかのよう。何処かへまた勝手に遊びに行ってしまって、途方に暮れているだけのようだった。
そのことには触れずに、私はただ質問に答えた。
「歌をうたっていたよ」
すると、アマリリスの視線がこちらを向いた。
「どんな歌?」
「カンパニュラの校歌らしい。グロリアがひっそりと歌っていたのを聞いたから間違いない。お前にいつか披露するために、こっそり練習していたのだ」
――内緒だよ。
無邪気な笑みを思い出し、心の中でひっそりと詫びる。だが、披露の場が永遠に奪われてしまった今、その努力だけでも伝えたかったのだ。
「……ああ、ルーナ」
頭を抱え、アマリリスが嘆く。その顔には疲労の色が浮かぶ。だが、今までとは明らかに違うことに気づいた。目の光が消えていない。くすんだ色になっていない。悲しみはそう簡単に消えないだろう。それでも、アマリリスの中で何かが変わっていたのだ。
「なんだか夢を見ていたみたい。あの子との日々がどんどん遠ざかっていく。あんなに手で覚えた感触すらも薄れていって。あの子の柔らかな髪の感触。絶対に忘れないと誓ったはずの声と匂いまで、私の記憶から薄れつつある。桃花と同じだわ。私の血の繋がらない姉妹と同じ。あんなに大切だったのに、もう触れられないなんて」
涙を流す彼女を前に、私は黙り込んでいた。喪失の苦しみにかけるべき言葉は見つからない。私だってルーカスを、エリーゼを失った。それでも、死は一つ一つ違うのだ。アマリリスの苦しみをすべて理解してやるのは不可能だ。出来ることは耳を傾けることだけ。
そんな私を見つめながら、アマリリスは言った。
「けれどね、あなたの姿を見て……涙を見て、気づいたの。どんなに恋しくても、あの子の元にはまだ行けない。本当はまだ行きたくないのだって。やり残したことがたくさんある。このまま終わりたくはない。……そして、この大地はまだ私の居場所を残してくださっている」
濃褐色の目には、確かな輝きがあった。
「――あなたの隣よ」
強い主張に、息を飲んだ。近寄ってその手を握ってみれば、強く握り返す力を感じる。震えてはいるが、その目の輝きはぶれていない。夢ではない。現実だ。ずっと諦められず、求めてきた兆しがここにある。
「私は強い魔女ではないわ」
アマリリスは言った。
「自分が思っている以上にきっと私は貧弱なの。そんな私が恐ろしい悪魔を相手に対等に戦えるとは思えない。それでも、聖女の指輪は私と共にある。人々の希望に最も近いのは私なの。一人では怖くて仕方なくても、あなたが傍に居てくれる、味方をしてくれるのならば……きっと」
「ああ、傍にいる。約束だ」
私は必死に答えた。手を握り締める力に思いも籠る。
「一人で立つのが怖いのならば、私が支えになろう。指輪に心を奪われそうならば、私が手を握っていてやろう。過去が恋しいならば、紛れるまで狼の毛で温めてやろう。約束だ。だから、再び聖女として戦ってほしいのだ」
跪いて握る手が温かい。見下ろしてくる濃褐色の目は、初めて出会った時のものとは比べ物にならないほど落ち着いていた。彼女に求めているのは断罪。誰もが近づけない恐ろしい罪人への処刑執行人としての役目。
人々はそれを正義のためというだろう。だが、私は違った。愛していたから、そして、愛しているから、全てを終わらせてほしいのだ。その為ならば、命だって賭せる。
「分かったわ、カリス」
アマリリスの声。久々に聞く冷静な声。かつてお互いに揶揄い合った頃の声色が戻ってきた。永く眠りについていた心が目覚めの時を迎えている。
「全てを終わらせに行きましょう。神のためでもリリウムのためでもない。愛のために戦いましょう。勝利の代償にこの心が燃え尽きたとしても、私は構わないわ」
強い言葉に光り輝くものを感じ、私は頷いた。これでもう、幽閉されるいわれはない。彼女はまだ戦える。その心は朽ち果てていない。リリウムの勝手な都合でこれ以上、悪臭ただようこの部屋に居させる理由なんてないはずだ。
「そうと決まれば、こうしてはいられない。ウィルやカルロスに話してこよう」
影道へと飛び込もうとする私を、アマリリスは呼び止めた。
「待って!」
切実なその声に反射的に立ち止まる。振り返ると、アマリリスの目に先程のような寂しさが含まれていた。座り込むと、彼女は言った。
「その前に、もう一つ、お願いを聞いてくれる?」
「……なんだ?」
恐る恐る訊ねる私に、アマリリスは微笑みを浮かべた。
「私の思い出を聞いてほしいの」
まるで昔から友だったかのように、彼女は私に願ってきた。たとえこれが一つの指輪で結ばれたに過ぎない脆く危うい心情であるのだとしても、私は今、心穏やかにそれを受け入れた。初めからずっとこんな関係だったならば、どんなに幸せだっただろう。同じ世界で、同じ立ち位置で、向き合えるような関係だったならば。
嘆いても仕方がない。それに、今だけを見つめるならば悲観することはないはずだ。傍によって、静かに頷くと、アマリリスは語り始めた。影の中で潜みながら、見張り続けた時に聴いた話も混ざっている。あの時は、部外者だった。あの時は、別の者が聞き手だった。死んだ者には決してなれないけれども、私は在りし日のルーナのようにおとなしく、その話に夜通し耳を傾けた。
曖昧にしか残らない幼い頃の記憶。マグノリアの地下の恐怖。養母であったニューラの愛と狂気。姉妹であり友であったという桃花との怪しい友情。そして、別れ。死霊に怯えながら、殺戮を繰り返した人狼殺しの魔女の放浪。コックローチとの出会いとその危うい距離感。そして、私との出会い。
「あなたを初めて見た時は、あんなに欲しいと思ったのに」
そう語る彼女は、かつてのような不気味さに欠けた。
「今ではもうあの感覚が思い出せない。味方であるあなたを殺すなんて、とても出来ない」
私の方も同じだ。同じような気持ちだ。
ルーカスを殺され、エリーゼを殺され、絶対に復讐してやると誓ったはずだったのに。思えばあの頃から私はおかしかった。アマリリスの花の香りにきっと当てられていたのだ。だって、ゲネシスが彼女を保護する協力をしてくれた時、戦わなくていいという事実に安心感を覚えたのだから。それは、恐ろしさの為だけではなかった。
目を閉じるともう戻らぬあの日々を共に過ごした故郷の仲間たちの後ろ姿が見えるようだ。彼らと今すぐ繋がれるのならば、きっと私の姿に眉を顰める。リリウムの聖女、それも、同胞を幾人も葬っていったような魔女に尻尾を振るなんて。誇り高き人狼であればあるほど、私を蔑むだろう。
だが、それでもよかった。
――ルーカス、エリーゼ。死後の世界で、たとえお前たちに恨まれたとしても。
この絆は前途多難に違いない。平穏さとは無縁の、気の抜けないものだろう。殺し合いから始まったような縁だ。仕方がない。ゲネシスとの絆が滅びへと向かったように、少しのすれ違いが悲劇を引き寄せかねない。でも、恐れて身を引く気にはなれなかった。
今度は間違えない。未来は辛く、重たいものであるだろうが、私は迷わない。それは、私を信じて親しくなろうとしてくれている純潔な心を咲かす聖花への気持ちであった。
アマリリス。私はこの女に尽くそう。茨の道を裸足で歩かされる聖女の傍で、せめて同じ痛みだけでも分かち合いたい。きっと出来ることがあるはずだ。そして、見なければならないことがあるはずだ。
だから、同郷の者達と二度と分かり合えなくなったとしても、私はこの元人狼殺しの罪を背負う魔女の隣から離れないと誓おう。
「ねえ、カリス」
まるでルーナやニフテリザを相手にしているかのような口調で、アマリリスは私の名を呼んでくる。
「次はあなたの話を聞かせて」
そこには過去の因縁も、悲しみも、消え失せてしまっていた。人間の姿となって、私はアマリリスの隣に座る。ラヴェンデルで共に過ごした友が隣にいるかのような感覚に浸り、目頭が熱くなってくる。泣きはしない。だが、これまでと違ってずっと温かなものが身に沁みる。敵は恐ろしく、状況は決してよくない。それでも、今は気持ちが軽かった。
「それじゃあ、覚えている限りのことを話そう」
そうして、私は語り始めた。
前に話した相手はゲネシスだっただろうか。おぼろげなアネモネへの憧れと、ラヴェンデルの長閑な世界。人狼たちの集落の日々と、平穏の終結。悪に手を染めて生き延びるしかなかった絶望と、共に戦い続けたルーカス達の事。
そして、アマリリスとの出会い。こうして共に語り合える日が来るなんて、と、今でも不思議なくらいだ。しかし、運命はこのように紡がれた。その奇跡に対して思うのは、ただ感謝の心だった。
「聖女となったお前は私を信じ続けてくれた」
がむしゃらに奔走していた日々を思い出しながら、私は語り掛ける。
「ゲネシスを庇っていることを知っていながら、私を信じて任せてくれたのだ。それなのに、私はそれを活かせなかった。それどころか今だって、彼への愛情のその残り香に気が狂いそうになることがある。不甲斐ないことだ。恩知らずなことだ。だが、せめてお前の傍に居たい。お前の役に立ちたい。支えになって、守りたい」
思いをそのまま言葉にすると、アマリリスの手がそっと重ねられた。カルロス、グロリア、そしてニフテリザ。あらゆる人が聖女の行く末を案じている。彼女がここに捕まったのは私のせいでもあった。私がゲネシスに密告し、誘導したのが始まりだ。欲深い人々の眼差しは、彼女が今も恐れているマグノリアの地下にも匹敵するものだっただろう。それでも、正気を取り戻した彼女の眼差しは力強いものがあった。
「あなたを信じ続ける」
アマリリスは言った。
「選んでくれて、ありがとう」
そして、静かに、恥ずかしげに、唇を重ねてきたのだ。黙らせるために強引に奪った私とは違う。発情の苦しみからルーナを解放してやっていた時のように、優しく、控えめな口づけだった。花の香りが強まると、愛おしさがさらに増していく。その背に腕を回して、私は彼女を引き寄せた。
抱擁は幾度となくやってきたことだ。それでも、これほどまでに感情を伴ったことはあっただろうか。獲物を慰み者にするのとは訳が違う。欲を解消するためではなく、気持ちを伝えたいあまりに、抱きしめるなんてことがあっただろうか。
半地下に囚われる哀れな聖女の香りに包まれて、私は間違いなく幸福を感じていた。




