7.死霊たちの足音
気配を感じた場所へ直行してみれば、すでに数名の戦士が戦っていた。
人狼が一名、若手の人間が二名。カルロスではなかった。恐らく声の主。ラヨシュだ。燃えるような赤毛のおさげを揺らしながら、人間の姿でありながらも聖斧を振り回して狼らしく戦っている。そして人間の戦士たちもまた勇敢にも強靭な敵の群れへと飛び掛かっていた。
相手は死霊たちであった。ウィータ教会の裏庭――墓場へと続く道端に現れたらしい。その者たちの身なりを見て、はっとした。新しい死霊たちだ。間違いない。その顔に見覚えはないが、着ている服ならば覚えがある。皆、特別な血筋の者達だ。海巫女の血族――マナンティアル一族と呼ばれる人間たちの血統。歴代の海巫女たちの血縁者として、ここやラケルタ島で働いていた者達だ。
恐らく、その幾人かはこの近くの墓地に埋められている。地の下で腐りながら、その命を大地に溶かしている最中のはず。しかし、魂の行方については生者たちには管理できない。ゲネシスや死霊たちの襲撃で死んだ者たちの魂が、新たな死霊の依り代になっている。戦っている人間達は、いずれもその事実に動揺していた。
大きな猛りの声はその裏返し。かつての仲間たちに剣を向ける恐ろしさは、戦士であろうと変わらないのだ。
彼らを使わしたのは誰か。ゲネシスと共に遠くへと逃げたとしても、死霊の行先は死の悲しみが導いてしまう。離れていたとしても、サファイアの脅威からは逃れられない。ならば、減らさねば。滅ぼさなければ。
影道から飛び出して、その勢いのままに私は一番近くにいた死霊を食いちぎった。悲鳴と共に崩れていく仲間に気づき、死霊たちの鋭い眼差しが私へと向いた。
「新手か!」
目を光らせて睨みつけてくる死霊どもの殺気に、思わず身が震えた。だが、怯んでいてはいけない。自分がただ生き延びるためならば逃亡も賢い手段となるだろう。しかし、今は戦わねばならないのだ。ここを安らぎの地とするためには、死を恐れていてはいけない。
「躊躇うな!」
唸り声と共に私は叫んだ。
「こいつらはもう仲間ではない。死霊に囚われた哀れな魂を解放するのだ!」
戦士たちに向けた言葉ではない。これは、私自身の奮起となる呪いでもあった。
食人から足を洗い、生き延びる方法を変えた今、人の姿をしている彼らを潰すことに何も感じないということはない。敵となったから潰す。そのような柵に囚われない精神に生まれていればさぞかし楽だっただろう。しかし、私は違うのだ。ここは、まだ人間であった頃のゲネシスが遺してくれた最後の居場所でもある。その住人であり続けたためなのか、生きるために人殺しをしていた時よりもさらに、私は、この死霊たちが人間であった頃のこと、そして今の魂がどうなっているのかということを想像してしまいそうになる。
迷いは死を招く。躊躇いは敗北を呼び込む。たとえそれが善意によるものだとしても、戦いの場では振り払わねばならない。そのために、私は遠吠えをする。月夜に響く声は、きっと人々の眠りも妨げるだろう。闇夜の中で行われる死の使いとの戦乱の気配に、戦えぬ者たちは悪夢を見るかもしれない。その悪夢が現実となる前に、送り返してしまうのが今の私の役割でもある。
目の前にいる死霊を食い破り、その死肉の味を覚える前に次の獲物へと飛び掛かる。
「カリスさんに続け、怯むな!」
人間戦士の誰かが叫び、答えるようにラヨシュが遠吠えをする。二度の咆哮はきっと応援を呼び込むだろう。だが、今の私ならば、その前に、終わらせることも出来そうだ。
一度、躊躇いを振り払ってしまえば、むしろ心地よかった。この高揚。快感。かつて、ゲネシスが見せた怪しい笑みにも似ている。暴力と破壊に取り憑かれた者に与えられる悦楽である。死霊たちにいかなる信念があろうと、そして、それに立ち向かう理由が何であろうと、一度、戦乱に心身を置いた私には関係がなくなった。ただ楽しいだけ。ただ勝利を求めるだけ。身も心も獣になったかのように、私は殺戮を楽しんでいた。
その光景はきっと、おぞましい魔物が罪のない人間を食い殺している地獄のようなものだっただろう。死霊の一体一体を動かぬまで破壊していると、臭気の広がりとともに、敵味方問わない動揺が広がっていくのを感じた。
「カ、カリスさん……!」
別の人間戦士に名を呼ばれ、冷静さを取り戻した。気づけば私の周囲には、傷つき倒れ、土塊のように消えていくのを待つ死霊でいっぱいだった。攻撃を与えるも、受けるも、全く躊躇いがなかったのだ。きちんと覚えてはいないが、その光景はさぞかし異様だったのだろう。同じ人狼であるはずのラヨシュまでも、狼ながらも眉をひそめたような表情でこちらを見つめていた。
「忌々しい狼め、恐れの感情を失ったか」
残された死霊の一体が睨みつけてくる。蔑むようなその目。だが、さらに向かって来ようとした彼は、別の死霊に引き留められた。
「待て。考えなしに突っ込んで、その体を滅ぼしても我らの女王は褒めてくださらないぞ」
壮年の男の姿をした彼は、異様に光る眼を私に向けてきた。
「お前がゲネシス殿を傷つけた化け物だな」
不敵に笑いながら彼は言う。
「この度、手に入れた新たな魂。そこに微かに残された記憶にあるぞ。マナンティアルの者達とて、リリウムの戦士とて、お前のような異教徒のそれも魔物に向ける眼差しは決して良いものではない。それなのに、まだお前は人間どもと友人になったつもりでいるのか」
耳障りな笑いに耐えつつ、私は何も言い返さなかった。売られた言葉を買ったところで得るものは何もない。そんな私の反応が気に入らなかったのか、彼は次にラヨシュへと目を向けた。
「お前もだ、若人狼。洗礼を受けていようと、クルクス聖戦士であろうと、この人間どもはお前やカルロス隊長に何を感じていたと思うか? リリウムの聖典には書かれているのだ。主は人間をお創りになった。人間を愛してくださった。人の血を継ぐ者を救ってくださるのだ。だが、人の血を継がぬ魔物はどんなに力を尽くそうとも救われぬ。聖獣の血すら引かぬ哀れな獣たちよ。人狼に生まれた時点で、お前たちは罪を背負っているのだとね」
彼の言葉に動揺したのは、共に戦う人間戦士たちだった。その心にどのような感情が芽生えているのだか。いずれにせよ、当のラヨシュにはあまり聞いていないようで、けろっとした表情のままだった。
「哀れなのはお前たちの方だ、死霊ども。主によって、未来永劫、冥界に囚われ続ける呪いを受けた者たちよ。地上に這い出すお前たちが嘘によって塗り固められていることは知っているぞ。お前が何を口にしようと、死んだ我らの同志の心は疑えない。それに、俺たちは救いを求めて戦っているわけではない!」
吠えるように反論し、走るラヨシュを見て、死霊たちは後退する。だが、その逃げ道より応援は駆けつけた。影道から飛び出すのは逞しい体つきの狼。カルロスだ。
「お前たちの帰る場所は冥界だ!」
宣言した通り、一瞬にして二体が葬られた。そして、難を逃れた死霊たちが闇に紛れるより前に、もう一人の応援は現れたのだった。振るわれた大剣が風を唸らせ、華麗なまでに三体の死霊の身体を切り裂いた。恨み節を言わせる暇すら与えず、襲撃してきた死霊たちは全てが土塊へと変貌した。
「これで最後だったようですね」
夜風よりも冷たい言葉でそう言ったのは、ウィルであった。花嫁守りとしてのプライドが打ち砕かれたあの時から、彼は死人のような表情を浮かべている。その虚無感は相変わらずだった。
「こうも簡単に潰せたということは、サファイアもゲネシスも近くにいないのでしょう。我らの動揺のみを期待して無謀にも攻めてきた。それだけ無策なのか、あるいは、アマリリスさんの状況を悟っての事か」
淡々と呟くウィルに、人間戦士の一人――中年ほどの男が声をかけた。
「ウィル様、もしもそうならば、奴らはまた来るでしょう。今日は退けても、次はそうとも限らない」
「ああ、分かっているとも。だから、猊下とも寝る間を惜しんで話をしてきたのだ。皆、ついに“あれ”を回収する時が来たぞ。いつまでも攻めを撃退すると思ったら大間違いだ。今度は我らが奴らへと攻め込む番だ」
「攻め込む?」
思わず訊ね返したが、ウィルとカルロスは距離をとる。聖戦士でない私はあくまでも部外者ということだろうか。露骨なその態度に不満をあらわにすると、カルロスが呆れたようにため息を吐いた。
「そんな顔をするな。我々にだって事情はあるのだ。それに、お前には大事な役目がある。アマリリスさんが今後どうなるかはともかく、常に傍で誰かが見守らなくてはならない。今の彼女に一番寄り添えるのはお前のはずだ、カリス」
言われなくとも分かっていることだが、それを盾にされると不快だった。だが、ここで喧嘩をしたところで何にもならない。噛みつきたい気持ちをぐっと抑え込んで、私はウィルとカルロスの両方に訊ねたのだった。
「ならばせめて教えてくれ。何をするつもりだ。“あれ”とは何なのだ」
しかし、私の切実な私の問いを、ウィルが冷たく突き放した。
「悪いけれど、説明は後で」
そして、竜の目にわずかながら血の通ったような情を浮かべる。
「説明には時間がかかる。今はあまり余裕がないのです。心配なさらず。無事に回収した後でしっかりとお話しますから」
諭すようなその声に、私は仕方なしに沈黙した。共に戦おうと、私はリリウムの神に誓いを立てた戦士ではない。後で説明する。その言葉を信じて、私はもうそれ以上、口を挟まなかった。
「ならば、私は先に去るとしよう。アマリリスが怖がっていたからね」
逃げるように影道へと飛び込めば、少しは気が楽になる。
洗礼を受ければ、戦士になれば、この疎外感からも解放されるというのだろうか。だが、そんなことのためだけに、これまで自分の心の一部であった大地への信仰を捨てる気にはならなかった。
リリウムの教えの全てを否定したりはしない。その教え、その世界は本来、あらゆる弱き者を平等に包み込み、希望を与えるものなのだ。曲解と偏見が軋轢を生んでいるだけ。ゲネシスとアマリリスとの出会いによって繋がれたあらゆる者達との接触は、そんな気付きを与えてくれた。
だが、リリウムの教えは悪魔となるゲネシスを救ってくれなかった。弱き者であったルーナを守れず、ニフテリザの未来を奪い、皆のために聖女となったはずのアマリリスを深く傷つけた。
その事実を覚えている限りは、アネモネと、故郷の大人たちが教えてくれた大地と精霊の世界に別れを告げるのはやめておこう。
私は、私の意思と信仰で、アマリリスを守らねば。
影道を走りながら、ひたすら私は恋しい花の香りを求めた。その香りが近づけば近づくほど、戦いで高ぶった心も、疎外感に害された心も、全てが癒されるようだった。




