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AMARYLLIS  作者: ねこじゃ・じぇねこ
1章 ルーカス

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6.自分自身のために

 花の香りが心地よい。淀んだ空気と悪臭を忘れさせてくれる。絶対的な守護者が傍に居た輝かしい記憶で嗅いだ香りと同じ。私にとって〈赤い花〉の香りは、幼い頃に刷り込まれた正義の香りでもあった。

 だが、私の心は曇っていた。想いを馳せる先は、死んでしまった親友ルーカスである。彼は知っている。死んだ魔物は何処にいるのか。冥界で死霊に捕まるのは人の血を継いだ者だけ。魔物たちは違うのだ。ルーカスも、エリーゼも、そしてルーナも同じ。彼らの心はいったい何処へ行ってしまったのか。


 ――何処にいたとしても、再び触れ合えることはない。死後の世界があったとしても、生きている限りは会えないのだ。


 そして、忘れてはならない。誰だって、誰かの代わりになることは出来ないということを。私はルーナになれない。ルーナの喪失で出来た穴を塞ごうとしても無駄だ。アマリリスの痛みを完璧に和らげるなんてことは絶対に出来ないのだ。

 しかし、そんな私であっても、アマリリスは愛でるように撫でてくれたのだ。


「カリス……」


 小声で呼ばれて、我に返った。


「恥ずかしいところを見られてしまったようだな」


 憐れむような、悲しむような、そんな目で見つめられ、落ち着きが戻ってきた。

 泣くつもりなんてなかったのに。


「そんなことないわ」


 しかし、アマリリスはそう言って私をまじまじと見つめてきた。

 落ち着いたのは彼女も同じらしい。悲しそうな目はあまり変わらないが、少なくとも泣きわめくような気配はない。


 それならば、と、鼻先でそっとその手を求めてみた。可笑しい話だが、少しでも優しくされたかったのだ。アネモネに似ているこの人の温もりを感じてみたかったのだ。

 恐る恐るではあったけれど、私の心配を余所にアマリリスは素直に応じてくれた。包み込むようなその触れ合いに、私はただ癒されていた。


 殺してと言った彼女。絶望から立ち上がれない聖女。

 そんな事情など忘れてしまえるくらい、優しい感触だった。


「ねえ、カリス」


 私を見つめながら、アマリリスは訊ねてきた。


「どうしてあなたは私に寄り添ってくれるの?」


 その声色に、私はハッとした。

 かつてのような口調に聞こえたからだ。私が求めてやまないアマリリスの声。死を怖がり、生きるために人狼を追いかけていた頃のような――或いは、強者を怖がり、大きな勢力に従って聖女となったばかりの頃のような。

 生まれる期待にまるで応えるように、アマリリスは問いかけてくる。


「私が聖女に選ばれたから? それとも、命の恩人というひとに似ているから?」

「その両方だ」


 ぼんやりと答えつつ、しっくりこないものが残る。ゲネシスを止められる人であるから、アネモネに似ているから、どちらも正しいはずだ。しかし、何か大事な理由が眠っているような、そんな気がするのだ。きっと本当は、アマリリスとの間にはもっと根深いものがあったのだろう。しかし、自分の事であっても、明確な答えは出てこない。

 それでも、どうにか私はアマリリスに自分の想いを訴えた。


「魔物と蔑まれる私だって、悪魔というわけではない。ゲネシスのやったことは赦せないし、それを止められなかった自分を憎んでいる。……だが、同時に、今でも悔やんでいるんだ。ゲネシスを愛していた気持ちはすぐには消えない。他の者によって彼の首が刎ねられるところを見たくない。それならば、私の手で葬りたいが、奴を殺せるのは聖女だけと言われている」

「……聖女として選ばれた私に彼を殺してほしいのね」

「ああ、そういうことだ。その光景を目に焼き付けなくてはならない」


 けれど、と、私はアマリリスの目をしっかりと見つめた。


「聖女ならば誰でもいいわけじゃない。お前は似すぎている。アネモネによく似ている。彼女に似ているお前が、道具のように扱われるのは耐え難いのだ」

「……アネモネ?」


 訊ね返されて、ふと気づいた。そういえば、アマリリスにはまだその名前を言っていなかったかもしれない。


「私の恩人の名前だ。〈赤い花〉の魔女。人助けを性としていた善良な魔女」

「アネモネ……人助けの〈赤い花〉……」


 そう呟いて、アマリリスは何やら考え込みだした。


「もしかして……知っているのか?」


 得体の知れない不安と、ほんの少しの期待を込めて私は訊ねた。

 正しくは食いついたといった方がいいかもしれない。アネモネの消息は分からないまま。あれだけ存在感のあった魔女がいなくなったということは、それは死んだということ。大人たちの言うままに殆ど諦めていたことだったが、同じ〈赤い花〉の魔女であるアマリリスならば何か知っているのではないか。

 これまで無自覚だった切実な思いが込み上げた。だが、アマリリスの反応は鈍いものだった。目を泳がせ、答えを探している。不安が強まっていく私に、彼女はようやく答えたのだった。


「人助けの〈赤い花〉の噂については全く知らないの。でも、アネモネという名前には憶えがある……その人は――」


 淡々と言いかけたものの、すぐに首を振ってしまった。


「いいえ、きっと勘違いだわ。アネモネだなんて、そう珍しくはないもの」

「勘違いでもいい。お前の知っているアネモネという人について教えてくれないか?」


 縋りつくように訊ねたが、アマリリスの表情はすぐれなかった。


「ごめんなさい、その人の事は殆ど忘れてしまったの。話せることは何もない」

「覚えている限りのことでいいんだ」


 感情の高ぶりが声に出る。しかし、抑えることが出来ない。アマリリスはそんな私の視線が受け止めきれないようで、俯いてしまっていた。弱き獲物のように震えながら、小さく呟く。


「ごめんなさい、今はどうしても……話せそうにないの」


 声まで震えていた。弱々しい彼女の姿を前にして、我に返る。何をしているのだ、私は。甘えさせてもらったからと言って、状況を忘れてしまったというのか。心が折れかけている彼女を責めるようなことをして。

 これでは、潰さないようにと守ってきた意味がない。すっかり怯えてしまった彼女からそっと手を離し、私もまた目を逸らした。


「すまない。無理強いするつもりはなかった」

「ごめんなさい、カリス」

「謝るな。いつか話せる機会があれば、世間話のように話してくれればいい。私の知っているアネモネと、お前の知っているアネモネが同じかどうかはともかく、私の知らないお前の過去の話も少しは聞きたい」


 今の私のするべきことは、贖罪の方法は、潰されかけた聖女の支えになることだけだ。ゲネシスへの想いを断ち切り、過去と決別するために。だが、もはや、それだけではない。


 人狼殺しから解放された魔女。大きな組織に都合よく利用され、敵によってその花びらを無残に引きちぎられようと、彼女はまだ生きている。私はそんな彼女に惹かれているのだ。理由など後付けに過ぎない。私はアマリリスを守りたい。ただ、それだけのためにここにいる。


 正義とは何だろう。大衆のために盾となるアマリリスが正義だと世間が言うのならば、私は正義の味方となろう。だが、アマリリスがもしもその大役を投げ出し、逃げ出したいと言ったらどうするべきか。きっと私の役割は変わらない。今のように説得して、大役をどうにか担わせる。理由は簡単だ。リリウムを敵に回してまで守れる自信がないからだ。


 気持ちを整理すればするほど、はっきりしてくる。私はアマリリスを辛い目に遭わせたくないらしい。この願望の出所はいったい何処なのだろうか。

 在りし日のアネモネに似ているから。そう思ってきた。しかし、それだけではないような気がしてならない。


「私も……カリスの話をもっと聞きたい」


 たどたどしくアマリリスはそう言った。はかなげな表情に不安を掻き立てられて、私は彼女を再び抱きしめた。繊細な花びらを散らさないように。これ以上、傷つかないように。柔らかなその肉体に寄り添い、肌でそっと心の動きを感じていた。

 だが、これだけ寄り添ったとしても、私はルーナにはなれない。新たに主従になれたとしても、ルーナを失った悲しみを埋めることは出来ないのだ。アマリリスは微笑んでいる。しかし、その微笑みの奥で今もなお血を流しているのだ。

 一時の快楽など意味を成さない。彼女が心から笑い、再び大地を踏みしめて勇ましく戦える日は来るのか。希望を捨てずにいようとしても、人々の諦めと未来への不安はじわじわと私の心まで蝕み始めているようだ。


「それなら、まずは飯を食ってほしい」


 必死に心を抑えながら、私は懇願していた。


「少しでいいんだ。貴重な食糧だが、いまは残しても仕方ない。だが、全く食べずにルーナの元に行こうとするな。ニフテリザにだってまだ会っていないじゃないか」

「ニフテリザは……どうしているの?」

「必死に傷と戦っている。身体を動かすたびに傷が痛むらしい。しかし、そんな状況でもお前の事を……とても心配していたよ」

「……そう」


 力なく相槌を打つ彼女に、私は囁いた。


「元はと言えば、彼女だってお前が助けてやったから今があるのだ。今も動けず、お前を守れないことを悔やんでいたぞ。ああ、ニフテリザだけじゃない。カルロスだって、お前のことを心配している。それ以外にもたくさん――」


 言いかけて、私はふと気づいた。


「いや、本当は他の者の事なんてどうでもいいんだ」


 彼女に訴えるべきことは、他人の代弁だっただろうか。いや違う。真に訴えたいこと、主張したいことは、もっと純粋なものだった。


「私が耐えられないのだ」


 アマリリスの目を見つめ、素直な言葉で訴えた。


「お前が衰弱するところを見たくない。不幸になるところを見たくない。これだけは心に留めて欲しい、アマリリス。本当に嫌なんだ。今のお前が尊厳を踏みにじられるのが平気であったとしても、私の心が傷ついてしまう」


 ゲネシスが愛欲で狂っていったのと変わらない。正論で着飾っているだけで、私の動機はもっと利己的なものなのだ。清く正しくいたいから、そうしているのではない。場合によっては私の立ち位置も違ったかもしれない。それだけなのだ。


「だから、いなくならないでくれ。お互いに、もっと話をしよう。もっと一緒にいよう」


 黙って聞いているアマリリスに向かって、私は苦笑した。狼の顔でなのか、人間の顔でなのか、自分でもよく分からない。とにかく私はアマリリスだけを見つめていた。


「おかしいよな。昔はお前に宣戦布告をしたのに。全力で戦って、死ぬのも悪くないと思ったことだってあった。でも、今は違う。お前を傷つけるのは怖い。誰かに傷つけられるのも怖い。お前がお前自身を傷つけることも怖い……怖いんだ」


 くすぶり続けているこの思いがどれだけ伝わるかなんて分からない。ともすれば、何も伝わらないことだってあるだろう。愛とは、思いとは、そういうものだ。必死に止めようとしたゲネシスは戻れぬ道へと行ってしまった。分かり合えることが絶対に出来るなんてことはない。

 それでも、最初から諦めていてはいけない。絶対に自分が後悔することになるからだ。見守ることと見過ごすことは違う。アマリリスが二度と咲けなくなる前に、せめて気持ちだけでも伝えておかなくては。


「カリス……」


 弱々しく私の名を呼び、見つめてくる。その姿に少しだけ出会ったばかりの頃のゲネシスを重ねてしまった。私はどうするべきだったのか。今でも考えてしまう。初めから人狼の私に隣に立つ権利などなかったのだとしたら、どうするべきだったのか。

 答えに近いものは見つけている。私はもっと信じるべきだった。リリウムの者達のことを、ゲネシスの仲間と呼べる者達の事を、アマリリスの事を、もっと信じて話をするべきだったのだ。共にいられなくても、彼が多くの仲間と共に人間として生きて、それなりに幸せな道を見つけてくれるのを見守ればよかったのだ。


 私がやるべきだったことは、隣を独占することではなかった。私の代わりに彼を引き留めてくれる仲間をもっと増やすことだったのだ。


 今更もう遅い。だがせめて、今度は失敗したくない。


 分かっている。これは私の願いであって、アマリリスのためとは言えない。

 アマリリスの本当の幸せなど私には判断できないのだ。リリウムの者達だってもしかしたら楽園のような世界を戦えなくなったアマリリスにくれるかもしれない。その現実が花売りと何ら変わりない、尊厳を踏みにじるようなものだったとしても、虚構の中で静かに幸せに過ごせるかもしれないのだ。


 私が苦しもうとも、傷つこうとも、本人がそれでいいのならば、本当はそれでいいはずなのだ。分かっているとも。私が悔しいだけなのだ。かつて心から恐れ、憎み、逃れてきた化け物が、牙を抜かれて人間どもにいいようにされてしまうことが。

 正義のためではない。アマリリスのためではない。自分のためだ。私自身のために、ここまで抵抗しているのだ。

 気づけば気付くほど、惨めになっていく。そんな私をアマリリスはただ不安そうな顔で見つめてくる。いま、彼女は何を想っているのか。指輪にゆがめられた心の中で、私をどう捉えているのか。


 ――所詮、我々は嫌われ者。他種族と分かり合えることなんて出来ないのさ。


 笑い飛ばすルーカスの横顔が頭の片隅に蘇りかけたその時、頬を撫でるアマリリスの手の温もりが伝わってきて、我に返った。


「ごめんなさい、カリス」


 その顔に浮かんでいるのは、憐れむような色。


「さんざん苦しめて、ひとりで抱えさせて――私」


 だが、その時、アマリリスの言葉を遮るように遠くで狼の声が聞こえてきた。よく通る声。きっとラヨシュだ。戦士たちの合図の全てを知るわけではないが、少しだけ分かる。

 侵入者を撃退した。捕らえたのではなく、逃げられたらしい。代わりに漂うのはぴりぴりとした死霊どもの気配だ。ラケルタ島からこちらに来た者どもか、あるいは、ラケルタ島で死んだ者たちへの哀悼に引き寄せられている者達か、いずれにせよ、彼らはまだ生きている聖花を摘みにきている。


 耳がぴんと立った。壁の向こうを眺めながら、ラヨシュの声の聞こえたあたりを探ってみる。人手不足のこの教会にて、戦士たちの気が休まる時はないと言ってもいい。皆が皆、僅かな時間に眠り、疲れを癒すことで精いっぱいだ。いずれは他の、被害のなかった地域から、応援が駆けつけてくるだろう。しかし、それまでの間に、もう一度またサファイアが死霊を率いてきたならば。


 ゲネシスの血の味と共に、奴の悲鳴と恨みのこもった眼差しを思い出す。あれは、本当に手駒を傷つけられた時の怒りだろうか。私には違うものに思えた。愛を妨げる敵への怒り。心もサファイアになり切っての事か、あるいは本当に死霊でありながら人間の男を愛したというのか。

 私には何も分からない。もはや奪われた男の心を取り戻せる気はしない。ただ、恐ろしかった。人であれ、武器であれ、大切なものを傷つけられたあの女の怒りはいつの日か私に牙を剥く。その時に狙われるのは、私自身のみに留まらない。

 

 恐怖が蘇った。だが、怯んでいてはいけない。

 逃げ隠れする翅人とは訳が違う。戦士たちが戦っているならば、加勢をしなければ。


「様子を見てくる」

「え?」


 不安そうなその声に、狼の顔ながら笑いかけようとしたその時、脳裏に一瞬だけ記憶が浮かび上がった。今も濃く焼き付いているルーカスと共に過ごした思い出とは違う。それよりもずっと前、アネモネと共にいた頃の曖昧に残っている何かだ。

 ああ、これは、いつの記憶だろう。アマリリスの不安そうな顔を見つめながら、私はどうにか答えたのだった。


「すぐに戻ってくる」


 ――すぐに戻ってくるさ。


「だから、心配するな」


 ――それまでは私が守ってやるから。


 つたないイリス語が頭の中に浮かんだ。あれは、いつ、誰と共に過ごした記憶だっただろう。

 考えに耽りそうになったとき、再びラヨシュの声が聞こえてきた。やはり、不安は的中した。侵入者。それも、花売りのような相手ではない。


「行ってくる」


 引き留めるようなアマリリスの視線にも、記憶の幻想にもそのまま一緒に別れを告げて、私は影道へと飛び込んだ。

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