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AMARYLLIS  作者: ねこじゃ・じぇねこ
1章 ルーカス

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5.優しい世界

 休みなく走り続けてしばらく。影道を使わない時よりもはるかに早いはずなのに、かなり時間がかかったような錯覚にとらわれた。たどり着いてからも気は休まらない。アマリリスはちゃんとそこにいるが、いて欲しくない気配と声までするからだ。

 ベッドの下の影に潜みながら、様子を窺う私に、彼らは気づいているだろうか。すぐに飛び出しても意味がない。排除には正当な理由とタイミングが重要だった。何より殴りかかってもいいほどの状況だったが、躊躇われる思いもあった。なぜなら、影より見つめるその先でアマリリスに向かって語り掛けている人物が、半ば親しみすら感じてしまうほどの身近な顔だったからだ。


 コックローチ。幾度となく奔走に付き合ってくれた翅人の男。

 全ての聖戦士に気づかれることなく、彼はアマリリスのすぐ傍まで迫っていた。


「可哀想に。だから私は言ったのだ」


 心から同情するかのような面持ちで、彼は語り掛けていた。跪く彼の眼差しはどこまでも優しく、まるで愛に満ちているように見えた。


「私は聖戦士たちが憎い。あの時、邪魔をされなければ、今頃、君はルーナと一緒に平和なひと時を過ごせたはずなのだ」

「……もう遅いわ」


 アマリリスの答えは弱々しい。


「ルーナは死んでしまったの。もはや誰も恨めない。恨むとしたら私自身だけ」

「ああ、アマリリス」


 コックローチの嘆きの声がわずかに響く。どこか嬉々としているように聞こえるのは気のせいではあるまい。

 もはやこの二人は対等な関係ではない。ぴりぴりとした緊張感が漂っていたとしても、アマリリスが自ら抵抗することはないだろう。収穫が始まろうとしていた。


「君は本当に不幸な子だ。そうやって自分を責めるのはお止しなさい。もう大丈夫だ。こんな恐ろしくて悲しい世界にいつまでもいることはないのだから。これより私が誘うのはひたすら君を甘やかす優しい世界。私と共に来れば、もう苦しまなくていい。ルーナと共に過ごしたその蜜月と変わらぬ夢を見せてあげよう。悲しみを忘れられる場所。ここよりもずっと美しくて過ごしやすい世界だ」


 言葉巧みに彼は語り掛けていた。まるで恋を囀る小鳥のようだ。あるいは永遠の愛を誓いあう狼の遠吠えのそれ。しかし、どんなに口上がうまくとも、いくら何でも黙って連れていかれる彼女ではないはずだ。

 どんなに気迷っていたとしても、花売りについて行くということの意味を〈赤い花〉の女性として生き延びてきた彼女が分からないはずがない。分かった上でコックローチと上手に距離を取って、利用してきたはずなのだ。


 それなのに、アマリリスの答えは私にとって悲しいほどに衝撃的なものだった。


「そこに行けば、もう苦しまなくていいの?」


 まるで幼児のように、彼女は問いかけた。その悲痛な声が胸に沁みてとても痛かった。コックローチが怪しく目を細めている。反感を誘う醜い笑みだが、きっとアマリリスの心には響かない。


「そうだよ」


 彼は上機嫌でそう言った。


「そこならば、もう怖いことは何もない。悲しいことも何もない。誰とも戦わなくていいんだ。ただ私と私の家族の言うことを聞いていればいい。今までよりも世界は小さくなるかもしれないが、そこは綺麗で優しい君だけの世界だ。安らぎと甘美を約束しよう。そして、狂えるほど酔いしれる悦楽のひと時を与えよう。しかし、ここにいてはいけない。私と共においで、アマリリス」


 伸ばされた手を見て、もう居ても立ってもいられなかった。


「彼女に触れるな!」


 ベッドの影から飛び出し、真っすぐコックローチへと飛び掛かる。一瞬だけ驚いた表情を浮かべた彼だったが、この爪と牙が当たることはなかった。全く持って翅人というものは得体が知れない。攻撃手段は殆どないと言ってもいいはずなのに、それを躱す術にかけては右に出る者がいないほど。だが、その血の味が知れずとも、連れ去られる前にアマリリスの前に立てただけでも良かった。


「カリス……」


 力ない声が背後から聞こえる。咎めるのでもなければ、感謝しているわけでもない。警戒心の欠片もない状態は、より深刻だった。コックローチの方は早くも冷静さを取り戻していた。私から距離を取りつつも、まだ諦めていない。気心の知れた人狼一匹ならば出し抜けると思っての事だろうか。彼は様子を窺っていた。


「盗み聞きなんてはしたない。これだから人狼は」


 私を嘲るようにそう言ってから、コックローチはアマリリスへと声をかけた。


「アマリリス。よく考えてごらん。その女は君を苦しみに縛り付けようとしているのだ。私ならば君を解放してあげられる。巻き込まれることはない。〈赤い花〉に生まれたからといって、リリウムの連中のために戦う義理がどこにある。彼らのせいでルーナは死んでしまった。そして君も死の危険に晒されている。戦えない君を人間どもはどう扱うだろう。悲しくとも、苦しくとも、君だって死ぬのは怖いだろう? 私なら大切に咲かせてあげられる。生きていることの意味を知れる場所へ連れて行ってあげられる」


 誘うような眼差しから、アマリリスを遮りながら私は諭した。


「聞くな。奴は花売りだ。優しい世界など存在しない。ついて行った先に待っているのは、こことは違う暗闇の世界。お前は怖がっていたはずだ。マグノリアの地下の世界を。競りにかけられる恐ろしさを。この男について行けば、お前の血を引く幼い子どもが、同じ目に遭ってしまうのだぞ」


 しかし、反応は鈍い。恐ろしくなるほど心に響いていなかった。


「アマリリス、聞いているのか?」

「――分からないの」


 彼女はたどたどしくそう言った。アルカ語でも、クロコ語でもない。ラヴェンデル語でもなければ、シトロニエ語でも、ローザ語でもない。これはイリス語だ。たどたどしいイリス語。私にも聞き取れる言語で彼女は言ったのだ。


「私には何も分からない。ただここに居るのが辛い。リリウムの風が沁みてとても苦しいの。だってここは……ルーナが愛した世界だもの」


 悲鳴のような心からの嘆きを目の当たりにして、私は言葉を失った。ぼろぼろと涙をこぼす彼女は幼い子供のよう。かつて私が心惹かれ、恨み続けた魔女。気高く咲いていた〈赤い花〉は、今にも萎れそうになっている。


 ――諦めよう。そいつはもう駄目だ。


 いつかどこかで聞いたルーカスの声が蘇る。

 どんなに私が諦められなくとも、現実はリリウムの人間の多くが判断している通りなのだろうか。諦めが悪いのは昔からの癖だった。そのせいでゲネシスにも手を差し伸べ続け、被害を大きくさせてしまった。

 私は間違っているのだろうか。

 くつくつと笑いながらコックローチは私を見つめる。


「今のアマリリスにとって残酷なのはどうやら君の方らしいねえ、カリス。さあ、かつての宿敵を哀れに思うのならば、そこを退いてくれませんか。今まで散々危ない目にあいつつも君たちに力を貸してきたのです。今度は御代を頂くお時間だ」


 リリウムと花売り。アマリリスにとって残酷なのは、どちらなのか。戦うことが出来なければ、ここにいても命の補償はない。良くても花売りの元にいるのとそう変わらない現実が待っている。悪ければ今のアマリリスは死に等しい状況となるだろう。ならば、人の理に背くとしても大事にしてくれるコックローチの元の方が――。

 すすり泣くアマリリスの声を背に、私は焦りを強めていった。どちらが正しいのか分からなくなる。どちらが後悔しないのか。


 ――後悔。


 汚らしい世界の中でひっそりと咲いている美しい花。かつて母のように慕ったアネモネによく似ている魔女。憎んだ性癖は封印され、残されたのは憧れだけ。幾度となく約束を交わし、義を重ね、いつしか彼女は希望となり、守るべき宝となった。戦いが厳しいものであればあるほど、希望は強まり、思いは深まっていったのだ。


 そうだ。残酷であろうとなかろうと、手放すわけにはいかない。手放すということは、諦めるということだ。何よりも、私の想いを。かつて愛した人間をこの手で葬るという思いを、そして、今、愛している花をこの手で守りたいという思いを、私自身が大事にしなければならないのだ。


 高まる思いは胸から弾け、遠吠えへと変わった。静寂の夜を貫く獣の声に、人間どもは飛び起きるだろう。しかし、迷いはなかった。人狼戦士へ、いや、全ての戦士へ伝えるため、私は敵意をむき出しにした。


「……こいつ!」


 と、コックローチが怒りをあらわにしたとき、扉をノックする音が聞こえた。


「聖女様? 中に誰かいるのですか?」


 見張りだ。恐らく寝ぼけていたと思えるが、さすがに遠吠えに気づかないほど無能ではなかったらしい。

 鍵を開けようとする音が響くと、コックローチの目の色が変わっていった。素早く動き出すそのタイミングを逃さずに、私はアマリリスへと覆いかぶさった。


 風のように、亡霊のように、他人を攫うのが翅人だ。誘拐と逃亡にかけては吸血鬼や人狼よりも優秀。そんな彼を撃退するのはともかく、大事なものを盗まれぬように守る戦いは、これまでにないほど恐ろしいものがあった。しかし、相手だって恐ろしいのは同じはず。私は人狼であり、彼は翅人なのだ。盗むか、死ぬか。冷静になれば、その天秤がどちらに傾くかなど考えなくとも分かることだ。


 そこへ追い打ちと言わんばかりに遠吠えが聞こえてきたのだ。カルロス、いや、それとも伝令役をよく引き受けているラヨシュだろうか。いずれにせよ、他の人狼の返答が聞こえてきたのだ。生きるために花狩りをしている彼が、この状況を甘く見るはずがない。


「……どうやら、お友達が来ているようだ」


 コックローチが慌てたように呟いた。


「よろしい。今日のところはツケにしておいてあげましょう。しかし、アマリリス。どちらが君にとって相応しい場所なのか、よく考えておきたまえ。ここは危険だ。死霊たちは手ごわく、サファイアは君を手折るまで諦めない。それに、私の一族は世間が言っているような残虐非道な花売りじゃない。いつか君を優しい世界へと連れて行ってあげると約束しよう」


 そして気配は過ぎ去った。振り返ると彼はもうそこにはいなかった。気配は遠ざかり続け、一目散に逃げていく。優秀な戦士たちは逃げる彼を追っているらしい。だが、私もその集団に加わるという気にはならなかった。ベッドに押し付けられたまま、今なお泣いている大きな子供がここにいる限りは、誰かがついていなければ。

 そこで、ようやく鍵は開けられた。突入してきたのは、とても若い人間戦士だった。少年の風貌の抜けきらない青年。その無垢な眼差しがこちらを向き、見開かれる。


「カ、カリスさん。いつの間に?」

「人狼ならば当然だよ、新人」


 煽るように言うも、彼は動揺したままだった。


「何があったんですか?」

「花売りだ。有能らしく全ての見張りを掻い潜って此処まできた。すでに追い払ったし、お仲間が追いかけているらしいが……多分、奴は捕まらないだろう」

「は、花売り……!」


 いちいち反応が可愛らしいものだ。こんな新人――それも人間の子供ならば、コックローチに気づかなくても無理がないだろう。竜人だったとしても同じだったかもしれない。それよりも不安なのは、この人手不足さだ。こんな新人にたった一人でここを守らせなくてはならないような状況。それだけゲネシスとサファイアによる被害は深刻ということかもしれない。


「聖女様はご無事ですか?」


 新人戦士が心配そうに訊ねてきた。


「危害は加えられていない。だが、新人、しばらく二人きりにさせて欲しい。お前は廊下をしっかりと見張れ。他の戦士が来たら、私がついていると説明しろ」

「……分かりました」


 あっさりと承諾して、彼は扉を閉めてくれた。こういうところは新人の良さであり、悪さでもある。これがカルロスやグロリアだったら、こうはいかなかっただろう。私にとっては都合がいいが、いつまでも二人きりにさせては貰えなさそうだ。


「さてと」


 一息ついてから、振り返り際にアマリリスの腕を掴んだ。顔を隠そうと抵抗する彼女を取り押さえ、無理やり目と目を合わせた。


「なんで……なんで」


 泣きじゃくる彼女の心は閉ざされたままだ。しかし、今だけは優しく見守ってやることが出来ない。何よりも、私にその余裕がなかったのだ。


「なんで、じゃない。お前、自分が何をしようとしていたのか、分かっているのか」

「……なんで、止めたの。なんで、コックローチを追い払ったの」


 私を恨むように嘆きはじめる。その嗚咽に、これまで溜め込んでいたものがあふれ出した。獲物を支配するときのように、蹂躙するときのように、私はアマリリスを抑え込んだ。


「アマリリス!」


 牙をむいて吠えるも、アマリリスは泣いたままだった。


「もうこんなのは嫌なの。カリス。殺して。私を殺して。ルーナの元へ行きたい。何もかも忘れてしまいたいの。お願い、カリス」


 彼女の目は私を向いていなかった。


 どうして。どうして分かってくれない。どうして届かないのだろう。触れ合っていても、心は一つにならない。私の想いは伝わらない。状況も立場も全く違うけれど、これではゲネシスの時と変わらないではないか。

 無力感に苛まれ、力が抜けていく。牙で脅したところで無意味だ。彼女の心には届かない。見つめてくる目と視線を合わせることが出来ず、私はそのまま俯いてしまった。


「あなたの手で楽にして」


 願いのこもった声が耳に響くと、もう耐えられなかった。


「やめろ」


 戦いに敗れたような惨めな気持ちと共に、私はアマリリスに懇願していた。


「もうやめてくれ」

「カリス?」


 苦しくてたまらない。息をするだけでも必死だった。動悸がしてくる。目眩がしてくる。

 アマリリスの胸の上で嗚咽を漏らしているのが他ならぬ自分であると気づくのには相当時間がかかった。そして、気づいてしまうと、さらに歯止めがかからなくなった。

 いまやすっかり、泣いているのは私の方になっていた。アマリリスは異様に大人しく、私はまるで癇癪を起こした子どものようだった。泣きながら自分が何を言っているか始めは理解できず、頭がようやく回るようになって、アマリリスに対して甘えるように訴えていたのだと自覚した。


「頼むから、そんなこと言わないでくれ」


 しがみつきながら、抱きつきながら、私はアマリリスに繰り返し訴えていたのだ。

 そんな情けない私を、アマリリスは黙って支えていてくれた。何を思っているのか、どう捉えているのか、それは全く分からない。それでも、私を拒絶することなく、彼女は私の心身を温めてくれていた。

 花の香りが包み込んでくる。その居心地の良さと、懐かしい気分が少しずつ私の心の落ち着きを呼び戻そうとしている。鼻先をアマリリスに撫でられて、いつの間にか狼の姿になっていたことを知る。


 恐る恐る見つめてみると、アマリリスは敵意のない視線をこちらに向けていた。

 それはとても心地の良い、美しい眼差しだった。

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