3.有力な手掛かり
イムベルの都はいつも以上に騒々しい。ラケルタ島の神聖な地が死に穢れたという大事件はすでに広まってしまっている。それだけではない。ラケルタ島を包む呪いの風は、海を越えてこちらまでやってきているのだ。
教会に祈りに来る者たちの中には、隣人を死霊ではないかと疑う者たちが多かった。それだけ、死霊騒ぎは大きくなりつつあるのだ。死霊の動きが大きくなると、聖戦士たちは休みなく戦い、傷つく。薬も魔力も足りなくなりつつある中、聖職者たちはますますアマリリスの扱いを巡る議論を激化させていった。
立ち入りを禁じられていたけれど、私は常に見張っていた。だが、見張るべきは議論の場に留まらない。アマリリスが眠ってしまった後は、死霊の臭いにも敏感になっていた。誰かを死霊だと見抜くのは難しい。奴らは人の血を求めるため、魔物からは姿を隠す術も身に着けているのだ。私にできるのは、せいぜい目を光らせて近づかせないように牽制するだけだった。
リリウムの者達の動向に気を付け、死霊の動きに気を付け、それだけでも疲れるものだ。しかし、もう一つ部外者の気配にも敏感になっていなければならなかった。花売りである。
腕に自信のある花売りは、リリウムの権威に怯まないと言われている。すでにこの教会で心の弱った〈赤い花〉が囚われていることは広く知られており、あわよくば掠め取ろうと目論む向こう見ずも多いのだ。そんな蛮人たちをよく思っていないのは、なにもリリウムの関係者だけではない。長年、獲物の成長を見守ってきた害虫男だってその一人だ。
コックローチ。すっかり覚えた彼の気配はつかず離れずのところでいつも彷徨っている。幾度となく彼の力を借りて、助かってきたのは確かだが、だからと言ってその報酬に聖女を差し出すわけにはいかない。ニフテリザをここまで運んだ時点で少なくない金が渡ったと聞いているが、花売りである彼が求めている額には比べ物にならないのだろう。
混沌とした戦乱の中でその存在に有難みがあったことは認めよう。だが、もはや我々は味方同士ではない。それに、今のアマリリスに話しかけられることは単純に怖かった。
非情であろうと何だろうと、血を流してでも追い払おう。そのつもりで私はウィータ教会とサルタトル館の影道を行き来していた。
――番人という連中にも必ず盲点がある。
見回りをしているうちに、ルーカスの言葉が蘇ってきた。
――不真面目な奴は置いといて、真面目な番人は完璧な見回りを求めて動こうとする。そこがまさに盲点だ。見落とさぬように気を張れば張るほど、視界は狭まるものだ。
私は今、きちんと監視できているだろうか。影道の中でふと立ち止まり、ゆっくりと息を吐いた。身体が強張っている。力が入りすぎているらしい。
「ルーカス。私はいつまで未熟者なのだろう」
「そのルーカスってやつが、お前の元伴侶なのか?」
急に話しかけられて全身の毛が逆立った。影道の中はいつだって無防備だ。狼の姿をしているとはいえ、戦うような場面はほとんどない。しかし、同じ狼が侵入者であるならば、戦わねばならないことだってあるだろう。
しかし構えた私の視線の先にいたのは、幸いにも無法者などではなかった。変形する鎧を着た巨狼。カルロスだった。
「なんだ、お前か」
「なんだじゃない。こんな時間にこんなところで何をしている」
「巡回だよ」
ため息交じりに答えると、彼もまたため息を吐いた。
「それなら担当の戦士にでも任せておけ。あんたがうろちょろしていると皆が警戒するのだ。信者でもない人狼がいつの間にか同じ空間にいる。その恐怖をあんたはちっとも分かっていない」
「お前たちの聖女を守るためだとしてもか?」
「それなら、アマリリスさんの近くで寝ていろ。今の彼女には支えが必要だ」
向けられる表情に、力が抜けてしまう。この男はリリウムの戦士の中でも分かりやすい方だ。よく言えば純粋で、悪く言えばお坊ちゃま。
「ずっと一緒にいると息が詰まる。向こうだってきっとそうだ。……それに、お前たちの会議の様子も監視しなくてはいけないからね」
恐れずにそう言うと、カルロスは分かりやすいほど表情を濁した。
「おい、そんな軽口を叩くな。この場所を行き来するのは俺たちだけではないのだぞ」
その通りだったので、口を噤んだ。耳をそばだてても、誰かが近づいてくるような気配は感じない。しかし、何処で誰が聞いているかは分からないのだ。今のこの教会ではどんな種族の密偵が見ているか分からない。ゲネシスの件が明らかになって以降は、とくにお互いを監視する空気は厳しいものになっているようだ。
裏切り者が羊の毛皮を脱ぎ捨てるより先に。第二のゲネシスが現れぬよう、その対策も必死である。
そんな不穏な空気を思い出しつつ、話題を戻した。
「ルーカスは伴侶じゃないよ」
それを聞いてカルロスが小さく唸りながら座り込む。
「あのゴキブリ野郎はそう言っていたが」
「コックローチのことか。あの野郎、安くない金をとる情報屋のくせしていい加減なことを」
「魔女だったころのアマリリスさんに食べられてしまったそうじゃないか。伴侶ではないということは……兄弟だったのか?」
「そのようなものだ。私が元盗賊であることは知っているのだよなぁ?」
「ルーナ嬢を盗もうとしていたのだと。それ以外にも罪は多くあるのだろう。食人だってその一つ。だが、生活苦で悪事に手を染める人狼は多いと聞く。だからこそ仕事を与え、食人の必要がない環境を整えてやるだけで解決するのならば、これまでの罪はそれ以上問われない。……殺した以上に、救えばいい」
殺した以上に救う。かつてまともだった頃のゲネシスが言っていたのと同じ言葉だ。
迷いなくそう主張するこのカルロス自身が、生活困窮のために人殺しをした等という経験がなさそうであることはともかくとして。
「だが、カルロス。私は時々分からなくなる。ルーカスは犠牲への感謝を忘れなかった。私もそうだった。しかし、アマリリスのせいで汚れ仕事さえも失い、明日も分からない状況で命を奪われている日々では、狩りはいつしか憂さ晴らしの遊びになっていた。お前が思っている以上に、私は人狼の力で殺戮を楽しんでいたのだ。そんな私はゲネシスと同じではないのか」
喉の奥では忘れかけていた血の味が広がりはじめる。人間を食ってどうにか生きていた頃とは違う。食わないで済む方法を知り、教会に餌付けされた日々が長くなればなるほど、過去の己の忌まわしさを思い知ることになる。
いくら悪魔のような大罪人であったとしても、かつては共に笑って話し、恋慕すら抱いた相手の血肉の味は、知りたいものではなかったのだ。
「ずいぶんと余計なことを考えるものだな、あんたは」
呆れたようにカルロスはそう言った。
「リリウムについてからのあんたの働きを評価する者だっているのだ。それを素直に受け取ればいい。……それとも、愛していた人間の事が忘れられないのか?」
見透かしたような同胞の視線を、受け止めることができなかった。
「愛する男が罪人になった。その苦しみの全てを理解することは出来ないだろう。……だが、俺でよければ話くらいはもっと聞いてやれる」
その言葉を聞いた瞬間、視界が広がったような気がした。
見つめた先の狼の顔は、どこかルーカスに似ている気がした。今までそんな事、思ったこともなかったのに。同胞であるという安心感だけでなく、何か懐かしいような気持ちになるものを彼は持っているのかもしれない。
カルロスを見つめたまま、私は呟くように言った。
「綺麗な青年だったんだ。古代イリスの彫刻のように」
漏れ出すままに言葉を紡いでいく。
「初めて見た時から、そう思った。だが、綺麗なだけだったら、獲物に過ぎない。でも、彼は塵の中で私と渡り合う強さがあった。それでいて、私にもう敵意がないと分かると、この社会で生きていくように計らってくれた……もともとは、そういう男だったんだ」
少なくとも、私が憎しみをこめて襲い掛かるべき男ではなかったはずだった。それなのに、どうしてこんなことに。リリウム教会の中では、ゲネシスの大罪を許さない者で溢れている。当たり前のことだ。彼のやったことは赦されようもない。だが、美しい見た目すらも悪魔のように囁かれ、その全てが否定されつつあるのが現状だ。
昔から悪魔は悪魔だったのだと信じる者たちによって、全ての経歴と功績に悪意を探されているのだ。その一つである私の保護もまた同じ。私とゲネシスの出会いと別れは、多くの被害者たちにとって計画された大きな悪事の一環に過ぎないらしい。
ゲネシスは断罪されるべき悪魔。それはきっと間違っていない。だからこの手で殺そうとしたのだ。そこに迷いはなかったはずだった。しかし、表面ではそう思っていても、私の心の何処かで訴える者がいたのだ。
彼はそういう人じゃなかった。――なかったはずなのに。
気づけば私は泣いていた。彼の目の前で、ぼろぼろと。弱音を見せるのは人狼にとっていいことではない。プライドが邪魔をするからこそ、心から信頼している者以外には見せたくないのだ。伴侶にさえ見せないものだっている。それなのに、私は今、伴侶でもなければ、友人だともまだ言えないカルロスの前で泣いている。そして、そのことにあまり拒否感を抱いていなかった。
「ゲネシスという男の評価はグロリアからも聞いている」
カルロスは言った。私が泣いていることにはまったく触れないでくれた。
「戦った時に見た彼の姿と、彼女から聞いたカンパニュラでの思い出に紛れる彼の姿は全く違う。奇妙なほどに。不気味なほどに」
カルロスは考え込みながら、呟く。
「呪われていたのは聖剣だけではない。その目の輝きもおかしかった。人間離れという言葉では済まされない狂気が宿っていた。邪まな心が元来のものでないのだとすれば、いったい何処から生まれたのだろう」
「お前は……ゲネシスを恨んでいないのか?」
「恨んでいるさ」
即答だった。
「奴は呪いを引き連れてこの地を蹂躙した。聖獣とブランカ様を手に入れるために、数えきれないほどの命を奪っていった。消えぬ傷を負ったのはアマリリスさんだけではない。俺の部下――三名の若い人間戦士たちの未来を奪ったことは赦せない……だが」
首を振りながら、彼は言った。
「だが、恨みの感情に捉われれば何も見えない。奴の変化は奴の正体にも繋がるはずだ。その力の秘密ともいえるもの。ただの男が狂人となった根源さえ分かれば、聖女の戦いも有利になるはず……アマリリスさんが再び立ち上がってくれるのを待つ間にも、我々が考えねばならないことはたくさんあるのだ」
その目の輝きに、私もまた勇気を取り戻した。彼は信じている。アマリリスがまだ終わっていないことを。最後まで戦わせることが酷だとしても、諦めて道具にされてしまうよりはずっとマシだということを。
信仰が違っていても志は一緒。そこに絆のようなものを感じた。同胞であるという事実以上に、頼もしいものだった。そして、何よりも冷静になれる。
「指輪だ」
記憶を頼りに私は言葉に出した。
「奴は指輪を嵌めていた」
左手の薬指。約束の証。以前はなかったそれに、三度の戦いで何度も目を奪われた。あれはなんだったのだろう。いつの間に、彼の手に嵌っていたのか。少なくとも、その前後について、私には心当たりがあった。
「前には嵌めていなかったはずだ。恐らく貰ったのだろう。愛する女の姿に化けていた死霊から」
「サファイアと名乗るソロルだったな。縁者を持つ死霊というだけにしては、奴は恐ろしいほど厄介だった」
「ディエンテ・デ・レオンに居た頃とは、もはや格が違う。いつの間にかゲネシスは、左手の薬指に奇妙な指輪をはめていた。ああ、きっと、それからだ。奴が劇的におかしくなったのは。殺戮をすればするほど、のめり込んでいくようだった。だが、分からなかったのだ。ただの指輪一つでそんなにも力を得るなんて」
「指輪……」
カルロスは黙り込む。戦った時に目撃した彼の姿を思い出しているのだろうか。サファイアが奴に与えたのだとしても、あの指輪が何なのか私は聞けていない。肝心なところを聞いていないのだ。あるいは、かのソロルがうまく私の目を盗んだのか。いずれにせよ、向こうが上手であったのには変わりない。密偵としての力が足りなかったのだ。
「その指輪について、何か聞いてはいないか?」
彼に訊ねられ、私は首を振るしかなかった。
「……ただ、あの指輪は間違いなく彼に力を与えた。ジズ、ベヒモス、リヴァイアサン。彼らは本来見えないはずだ。けれど、彼は呼び出して殺し、その力を支配した。あの指輪の力ではないかと思う。そういう伝説のこと、お前は何か知らないか?」
「俺には分からない。……だが、ウィルならあるいは」
鼻先を足元に向けて考え込んでから、カルロスはうんと頷いた。
「よし分かった。俺からウィルに聞いてみよう」
「それなら私も――」
と、言うよりも早くカルロスは走り出してしまった。思わず舌打ちをした。
「あの野郎。せっかちなところもルーカスにそっくりだ」
すぐに追いかけ、ウィルのいる場所を目指す。彼の気配もすっかり覚えている。だが、ラケルタ島での一件以来、話しかけた覚えがなかった。常に茫然自失でいるように見える彼。何か知っているとして、まともに話せるのか。
疑問に思ったところで、カルロスが影道を抜け出した。ウィルの気配が強まる。ここだ。後を追って影道の境へ身を寄せると、声が聞こえてきた。早くもカルロスが話を切り出していた。
「指輪――その話を何処で?」
「カリスだ。それに、俺も確かに見たかもしれない」
思い切って抜け出すと、ちらりと二つの視線がこちらを向いた。ウィルの目の輝きは相変わらず薄い。かつてのような勇ましさに欠ける。無傷であろうと海巫女の喪失で痛手を負っているのは間違いない。
「……カリスさん」
声も力ない。だが威厳だけは辛うじて保たれていた。
「……指輪だ。三神獣を呼び出し、屈服させるだけの力の秘密は。何か知らないか、ウィル。偉大なる祖先たちの伝承を誰よりも知るのはお前たちのはずだろう?」
この大地にて、かつては強大な勢力を誇った竜人。その濃い血を継ぐウィルの目は、輝きを失っていてもなお見る者を怯ませるだけの威圧がある。
「三聖獣ですよ」
訂正するように彼はまずそう言った。
「この教会にいる間だけでも、できれば気を付けてください。ここにいる人々が信仰の違いを理解できるものだけとは限りませんから」
不満に思いつつも、悪態は鼻息のみに留めてどうにか頷いた。
「分かった。今後気を付けよう。……それでどうなんだ?」
食いつくように訊ねれば、ウィルは拳を額に当てて考え込んだ。
「我らの母を支配し、操る指輪。にわかには信じられないし、常識ではあり得ない。しかし、千四百年前も同じような出来事はあったのだ。罪人は人間の女で、死霊はフラーテル。似て非なる状況ともいえるが、記録から漏れているだけで、もしもあの頃も、同じように指輪が使用されていたとすれば――」
ぼそぼそと呟いてから、彼は私たちに向かってはっきりと告げる。
「これは聖獣たちが神であった禁忌の時代の伝説です。リリウムの教えが届かない混沌の世界にて、ジズ、ベヒモス、そして我らの母であるリヴァイアサンは、全く違う名前を持ち、いっそう輝いていたと言われています。しかし、今より存在感の強い彼らは時に地上の者達へ怒りを向けた。我ら直系の子孫であっても彼らは容赦なかったのです。怒りを鎮めるには選ばれし巫女を生贄に捧げるしかない。輿入れの儀は、かつて血塗られた儀式だったのです。それでも、彼らは気分屋で祈りを聞き届けてくれるとは限らなかった」
ラヴェンデルの故郷でよく聞いた昔話だった。あるいは、アネモネが教えてくれたのだったか。リリウムの権威が強まる世界の中で忘れられつつある話でもある。
今ではおとぎ話として、どうにか残る程度だろう。神獣たちが聖獣としてリリウムの世界に組み込まれていく経緯は、母なる大地の教えを守る私のようなものには受け入れがたい作られた伝承だ。それでも、ウィルの語るこれは事実なのだろう。実在する神獣たちがそれを本当に求めていたかはともかく、血塗られた歴史は存在したはずなのだ。
「かつて、花嫁守りというこの私の役柄は、生贄を選び屠る竜王と呼ばれておりました。竜王は海の人々――現在のマナンティアル家の血族から生まれたばかりの美しい女児を選びだし、親元から引き取って王が大切に育て、年頃になると自らの手で屠るという辛い役目を担っていたのです。ジズのもとには鳥王、ベヒモスのもとには獣王。それぞれが今とは違う責任を負わされていました」
そう言って、彼はそっと己の服にある紋章へと触れた。花嫁守り、相談役そういった身分を表す特別な紋章だ。
「時代が進んでも、王たちの役目は変わらなかったと言われています。リリウムの勢力が強まったのは、我々、三種族の長い歴史のなかでもほんの最近の事。二千年にもまだまだ届かない程度です。しかしリリウムの風が吹き始めるより前の少しの時代、実在するかどうかも怪しい指輪に関する伝説は確かに残っているのです」
指輪。まさに今、聞くべき話のはずだ。自然と食い入る私をちらりと見つめ、ウィルは話を続ける。
「その指輪の存在は、二百年ほどの間、三つの種族の歴史に記されています。我々三つの種族と同等に渡り歩いたある人間の一族の呪い師が生み出した奇跡の代物。始祖神たちの機嫌に委ねるしかなかった我々に対し、彼は長い年月をかけて世に存在する神秘の力を集めに集め、ついに聖なる指輪を生み出し、我々と協力して長き平穏を約束したのです。その指輪の力というものが、当時は神であった三聖獣たちを操ることが出来るというものでした」
「間違いない、その指輪だ!」
思わず叫ぶ私に、しかし、とウィルは付け加える。
「……けれど、その指輪は、我々の文化がリリウムと融合する頃、反乱を指揮し、刑死したある罪人と共に火葬されました。激しい火に焼かれ、朽ち果てた。使者と共に冥界へと旅立った。もうこの世には存在しない指輪なのです」
「――存在しない?」
驚いて問い返すと、ウィルは頷いた。
「ええ。その指輪をリリウムの者達が拒絶したのは、危険視しての事だったと言われています。その指輪は確かに聖獣たちと繋がることが出来た。しかし、指輪には悪魔がついている。手順を間違えばとんでもないことになる。血に飢え、殺戮を求める怪物を生み出す危険な代物として、葬らねばならないと……そう伝説では語られていました」
「……もうないのか」
「ありません。少なくともリリウム教会の手の届く場所には。あったという証拠はこの伝説だけ。それも口伝で残っていたものを、後世の者が書き記した記録だけなのです」
その指輪だったかどうか、確かではない。しかし、信憑性の薄い伝説であるということに目を瞑れば、ゲネシスの力の秘密に結びつきそうなものだった。実在するとは思われていなかった代物が実在し、死霊たちがそれを持っていたのだとしたら。
一つの説を信じ込むのは危険だ。それでも、可能性としては留めておきたかった。
「その指輪……もし滅んでいなかったとしたら、ゲネシスが使ったという可能性はあると思うか?」
慎重に訊ねると、カルロスがそっとウィルの表情を窺った。ウィルは即答しなかった。彼もまた慎重に思考を巡らせ、そしてようやく答えてくれた。
「指輪が実在するのなら、あるかもしれません。にわかには信じられませんが、そんな指輪があったとしたら多くの疑問が片付きます」
「だとしたら、対抗するにはどうすればいい? 聖女ができるだけ有利に戦うには?」
「簡単なことです」
ウィルは声を潜める。
「先にその指輪を奪うのです。指輪を失えば、聖獣たちを指揮する力も奪われる。仮に魂ごと盗んでいたとしても、操縦できなければ意味がありません。むしろ、莫大なエネルギーは肉体への害にしかならない。戦うどころではないはずです」
「指輪を……奪う」
だが、どうやって。ゲネシスには常にソロルがついている。巫女たちの力を手に入れ、単なる死霊ではなくなってしまった邪悪の女神とも呼ぶべき存在が。想定が非現実的ならば、その対処法も非現実的だった。
途方に暮れる私の前で、カルロスがウィルに対して言った。
「このことをシメオン司教に話すべきでは?」
「……そうだな。旧世代の末裔の与太話と思われるかもしれないが、何も言わないよりはいい。それに、この話をすれば、“あれ”を回収しに行く許可を出してもらえるかもしれない」
「“あれ”って?」
思わず口を挟むも、二人の反応は鈍い。ウィルが微かに笑みを浮かべる。
「こちらの話です。とにかく、貴重な証言をありがとうございました。……カルロス、一緒に来てくれ」
頷いて人の姿になるカルロスを見て、私は喉まで出そうになった言葉を飲み込んだ。
――私も連れて行ってくれ。
もちろん、許可されるはずがない。ならばどうするべきか。簡単なことだ。大人しく見送り、こっそりつけるのだ。
「カリス」
しかし、カルロスは鼻のいい男だった。
「お前が盗み聞きするようだったら、俺は影道に潜って追い返す。いいか、ここから先は立ち入り禁止だ。アマリリスさんのところへ戻っていろ」
やや厳しい口調で言われ、唸り声が漏れそうになった。だが、言い返す間もなく、二人は部屋を出て行ってしまった。
さて、どうするべきか。このまま追いかけたところで、宣言通り追い返されて終わりだ。ともすれば、彼らに逆らったとして処罰を受ける可能性もある。リリウムの者達をあまり甘く見ない方がいい。聖具と呼ぶ怪しげな魔具もいっぱい持っているのが彼らだ。常に新しく、怪しげな代物を生み出すお抱え錬金術師も多くいることだろう。それだけの財力と資源を有しているのが彼らだ。
魔女を指輪で飼い殺す術もあるならば、人狼を飼い殺す道具を持っていてもおかしくはない。厄介な拘束具を嵌められる危険性を考えるならば、やはり追いかけるのは得策ではなさそうだ。ではどうしよう。カルロスの言う通り、アマリリスの元に素直に帰るか。
と、そこで、私はふと一人の女の姿を思い出した。
ニフテリザ。そう言えば、しばらく会いに行っていない。引き上げたばかりの頃は、すぐに昏睡状態に陥っていた。今は意識があるようだが、傷はそう簡単に治るものではないらしい。どうしているだろう。さすがにこの時間だ。眠っているかもしれない。だが、もしも起きていたら。とても気になった。
アマリリスへの手土産だ。少し様子を見に行ってみよう。




