2.歌の思い出
一匹狼というものは寿命が短いらしい。人狼もまたそこは同じであった。
群れが基本となる生き物は、本能的に仲間を求めるものだ。本質は猿と変わらない人間だってそうであるし、羊や馬なども同じだ。どんなに強がってみても、私は常に寂しさに弱く、心が不安に陥れば陥るほど誰かの存在を求めてしまうものだった。
放浪癖と見物癖はその裏返しでもあるだろう。ルーカスがいなくなって以降、アマリリスから逃げるという名目以上に影道は私の居場所となっていた。ある時は一人きりになるために、ある時は誰かの傍にぎりぎりまで近づくために。
そして今は、イムベル大聖堂の崩落の日以来ずっと私の身体に残ったある感覚に苦痛を感じ、それを誤魔化すために放浪していた。その感覚とは、血の後味である。口の中に残るはずのない臭いが、今でもこびりついているように離れないのだ。
食人という今となってはおぞましき行為を繰り返したはずの私がどうして今更こんな目に遭うのか。きっと、久しぶりにその行為に牙を染めたからというだけではないだろう。この血は、特別なものだった。特別に苦しい味がしたのだ。
噛み千切ったゲネシスの血と肉。ひとたび、その味、感触が忘れられなくなると、狂ってしまいそうになるのだ。
――誰かいないか。
彷徨いながら人を探す私の脳裏に響くのは、女性の歌声だった。前に聞いたことのある賛美歌だ。歌っていた人物の姿を思い出し、首をかしげる。とても弱々しい。幻聴だろうか。そう思いながら、私は歌声の聞こえる場所へ向かった。場所は、サルタトル館の地下にある一室。密室になっていたらしいが、影道の境に潜む私の気配に歌い手は目敏く気づいたようだった。
「カリスさんですね」
やや冷めた様子の声。猛禽のような目。声の主はグロリアだった。観念してその場に姿を現すと、彼女は歌うのをやめてしまった。
「その歌は……?」
「校歌ですよ。カンパニュラの。とても簡単だけど、綺麗な歌でしょう」
「歌の良し悪しは正直よく分からない。だが、覚えのある歌だ」
「覚え?」
「ああ、その曲は……ルーナが歌っているのを聞いたんだ。イグニスでね」
カンパニュラに通って音楽の勉強をしたい。目を輝かせていた彼女の姿が脳裏に蘇る。
――アマリリスにはね、恥ずかしいから内緒なの。もっともっと上手になってから聴いてもらうの。
ルーナはいつも、イグニス大聖堂の隅に隠れてこの歌をうたっていた。誰に習ったかは知らないが、何度も何度も歌っていた。アマリリスの目の届かない場所でこっそりと、忘れてしまわないように覚えようとしていたのだ。その歌声に引き寄せられて顔を見せたことが何度かあった。そのたびに、彼女の無邪気な歓迎を受けたのが忘れられない。
リリウムの連中が信じるように創造主というものが実在するのならば、何故、〈金の卵〉から疑いの心を奪ったのだろう。彼女の笑みは私にとって凶器であり、癒しであった。
もう会えない。だが、この歌は頭に残っている。イグニスで練習に励むルーナを揶揄いながら見守ったあの僅かな時間もまた、私にとって希望が残されていた過去であるからだ。
「――そうですか」
グロリアはしばし黙り込み、目を逸らしたまま答えた。
「きっと通えることを楽しみにしていたのでしょうね。彼女はいつも私にカンパニュラの思い出を訊ねてきました。語るたびに目を丸く輝かせて……まさか私の語った思い出の登場人物が、その未来を奪うことになるなんて思いもせず……」
拳を震わせる彼女の目は、怒りに満ちていた。その顔に浮かぶ表情もまた怒りに囚われている。カンパニュラ出身の女戦士。イムベルに到着した私が真っ先に見たのは、級友であるはずのジャンヌの姿をした死霊を無残にも切り刻んだ彼女の姿だった。
魔の血を一切引かぬ人間の女であるはずなのに、その顔には感情が残っていないようにすら見えた。いや、出さないようにしていたのか。もしくは、枯れ果てていたという方があっているだろうか。だが、それだけに今の表情は対照的だった。激情が溢れそうだ。その怒りはただ一人、かつての友であるゲネシスへと向いているらしい。
「ゲネシスを憎んでいるか」
訊ねると、その鋭い眼差しがこちらを向いた。
「あなたは憎んでいないというの?」
向けられるぎすぎすとした眼差しに怯みそうになりながらも、こちらはこちらで人狼としての誇りを思い出し、どうにか受け流した。
「奴のしたことは大罪だ。……だが、心から憎むことが出来ない」
「それは何故?」
「何故……だろう。きっと、止められたはずだと今でも思ってしまうから、なのだろうな」
甘い考えだと笑われても仕方ない。だが、私の後悔は常に付きまとっていた。
どうして、もっとリリウムの者達を信用しなかったのか。どうして、ゲネシスの心の闇に気づけなかったのか。そして――どうして、私は人狼だったのか。
いや、生まれを嘆いてもしょうがない。嘆くべきことがあるとすれば、ゲネシスの人狼への偏見を覆すほどの女になれなかったという事だろう。
「お前は気づいていなかったかもしれないが、前にゲネシスがお前と一緒に楽しそうに話しているところを私はみた。正直に言うと、その時は、嫉妬したんだ。私の知らない過去を共有して、共に仲間の死を悼んでいたお前が羨ましかったんだ」
「イグニスでの時か」
やや目を細めて彼女はそう言った。
「あの時に彼が話していた人狼っていうのはあなたの事か。彼はあなたのことをずっと心配していたんだ。昔からの友人である私が嫉妬するくらいに」
「心配……?」
「そう。巡礼で知り合いの人狼が密偵にされて危険な目に遭っている……あの時は彼、そう言っていたんだ……言っていたのにな」
落胆する彼女の姿に、胸がざわついた。
心配をしていた。彼が私を。他人の口――それも彼と親しかった友人の口から聞かされたことも手伝ってか、動揺は波のように強くなっていった。思い出してしまうのは、口の中の違和感。噛み千切り、飲み込んでしまった肉の感触だ。
共に生きたいと説得した男の肉を、僅かであっても私は食ったのだ。あの場の戦いの記憶もまた、心を揺るがしてくる。偽物のサファイアによってあの時、あの場所に呼ばれた死霊たちは、確かに覚えのある顔ばかりだった。忘れてしまった顔もあるが、目に入っただけでも、その死に様が脳裏に焼き付いている者はいた。全員、私が笑いながら殺した人間たちだったのだ。
信じていたのに、と絶望する声の数々。その幻聴が頭に響く。殺戮を楽しむしかなかった私を、それでも彼はまっとうな道に誘おうとしてくれたのだ。それなのに、どうしてこうなってしまった。私はどうしたら、良かったのだろう。
俯く私の横で、グロリアはグロリアで嘆いていた。
「これでも親友だと思っていたんだ」
まるで友人にでも語るように、彼女は私にそう告げた。
「男女の違いはあったけれど、積み重ねてきたカンパニュラでの日々は変わらない。共に過ごした絆も、あの時のままだと信じていた。でも、私は不甲斐ない友だった。今思えば、彼はあの時からおかしかったのに。どうして私はあの時、気づかなかったのだろう……」
イグニスでの時。思い出すほど後悔は重なっていった。そのまま言葉が見つからず、ただ黙っていると、不意にグロリアは歌の続きをうたいだした。ルーナが奏でたものと同じ旋律。声も違うし、容姿はもっと違う。しかし、その歌う姿には、イグニスでこっそり練習していたルーナの姿が重なって見えた。
すべて歌い終えた彼女に、私は言った。
「いい歌だった。……意味は分からないのだが、懐かしい気持ちにある。それは……アルカ語の歌詞か?」
「古イリス語ですよ。分かりづらくて当然かもしれませんね。カンパニュラは学園都市になる以前、古代イリス時代の教えを受け継いだ賢者たちの英知の集った図書館がありました。その当時から多くの英知と学ぶ者たちが集まる聖地だったんです」
イリス。その響きに胸が高鳴った。
ラヴェンデルの大人たちから聞いた話だが、幼い頃の私は亡国となったイリスの幼児語らしきものを話していたらしい。アネモネもまたイリスの末裔だったから、彼女の元にいたときは問題なかったらしいが、ラヴェンデル語を覚えるまでは故郷の大人たちもなかなか苦労したそうだ。
今ではその感覚も覚えていないが、言葉だけは少し覚えている。それにしても、古イリス語だったとは。どうりで懐かしい香りがするわけだ。
「なるほど、生き抜くためにあらゆる言葉は覚えたが……さすがに古イリス語までは覚えなかったな。聞いたことがないわけではないが、必要としなかったものだから、その意味を理解しようとまで思っていなかった」
「カンパニュラでは大半の学生が学びますからね。きっとルーナさんも古イリス語を学んで、もっと多くの歌に挑戦した……はず」
どこかぎこちない様子で彼女はそう言った。まるで、そうでなかった可能性も考えているかのようで気になった。
「はず……?」
訊ね返すと、グロリアは表情を濁したまま俯いてから答えた。
「海巫女であるブランカ様のお願いを聖下が無下にするとは思いません。それに、今の学長も恐ろしくなるほどに善人であると聞いています。……でも、カンパニュラにだって、そうでない人たちはいっぱいいたのです。男女の違い、種族の違いに民族の違い、血筋の違いや顔立ちの違い、性格の違い、そういったもので判断されることも多い。祖先に魔物のいる学生はとくに早いうちからそれを目の当たりにして、優しい子ほど潰れてしまうものでした。ましてや〈金の卵〉の学生なんて……」
どうやら、ルーナがひたすら憧れたカンパニュラの学生は、己が学び、守り続けてきた世界の何もかもを信じているわけではないらしい。
愛に満たされた世界を信じたルーナを前に、彼女は何を思ってきたのか。そして今、愛を失った聖女をどう思っているのか。その答えに近いものが、グロリアの口からはもたらされた。
「リリウムの教えは大衆のためにある。聖下がどんなにご理解があっても、長く続いてきたものは今すぐには消え去らない。アルカ聖戦士として各地で戦ってきた私の結論はそれだった。そして、シルワから今日までアマリリスさん達と同行してきて、彼女が幽閉されて、分かったことがあるんです。私たちの剣でも守れないものがあるのだと。おかしいと分かっていてもこの序列に抗うだけの勇気が、私にはないっていうことが」
絞りに絞った声でグロリアはそう言った。
その目には怯えの一切がない。それでも、その口が言った通り、どんなに聖女が会われでも、上の決めることに逆らえないのは確かなのだろう。神の教えとはなんだ。教皇の目の届かないところで冷血な判断を下すことだろうか。
「いけない。長居しすぎたようだ」
グロリアはふと、そう言ってこちらに背を向けた。
「私はこれで。カリスさん、お節介かもしれませんが、会議の盗み聞きはほどほどになさってくださいね。ここにいる多くの人たちにとってあなたは部外者の狼。人々の未知のものへの偏見と恐怖心を侮ってはなりません。どうか、お気をつけて……」
そして、彼女は部屋を去った。
再び訪れるのは孤独と静寂だった。にもかかわらず、グロリアの歌声が耳について離れない。いや、彼女の歌声だろうか。私の脳裏に響くのは、今はもういない無邪気な少女の歌声だった。
――他人を疑わない生き物って哀れなものだな。
懐かしい声がまたしても蘇る。
――でも、依頼主はどうやら〈金の卵〉の雌を愛玩にしたいという変わった魔物らしい。きっと求められるのは腐った欲望の捌け口だろうが、殺されるよりはマシかもしれないな。
ルーカス。彼は各国の法と人道に背く人狼でありながら、それでいてどこか憐れみ深いところのある男だった。
もちろん、依頼主の動機が常に真実であるなんて思ってはいない。愛玩にするといっても、死ぬより辛い奴隷の身分に落とされる可能性だってあっただろう。本当に楽園なのか、生き地獄が待っているのか、そのまま屠畜されるのか、いずれにせよ、私たちには関係なく、深追いしていいことなんてなかった。
まとまった金が手に入れば、家族に送り、そしてまた放浪する。善悪など二の次で盗み続け、殆どは恨まれただろうが、中には感謝した者もいたかもしれない。だが、どうでもよかった。あの頃は、私もルーカスも獣として生きる道を選んだのだから。
それでも、こうして思い返してみれば、ルーカスという男はあの頃から私よりずっと人間だった。そんな気がする。
――なあ、ルーカス。お前から見て私は間違っているだろうか。
友の仇を討てぬまま、取り返しのつかないほど時間は流れてしまった。
今や私にとってかの恐ろしい魔女は、一人ぼっちを誤魔化すために会いに行く対象になってしまっていた。それだけじゃない。守るべき無力なものになってしまっている。放っておけば、ほぼ光の奪われた未来が約束されてしまうアマリリスのことを、私は見放すことが出来ないのだ。
嗅ぎなれた花の香りを頼りに向かってみれば、冷たくて暗い牢獄の中はその香りがしたことが不思議なほどの悪臭に満たされている。淀んだ色の壁、じめじめとしたベッド。手を付けられないまま放置されている料理に、隅に置かれた汚物入れ。修道士たちが気を利かせて小まめに清掃してくれたとしても、全体に漂う不穏な空気は変えられない。
アマリリスはそんな閉ざされた空間で横になっていた。
ラケルタ島を引き上げたあの日以来、威厳のあった赤い外套と白い装束という礼服は没収されたままだった。修道士たちが世話をしやすいように今では簡素な衣服を着せられている。清潔さを出来る限り保たれているし、修道士たちの世話に不備があるわけではないはず。それでも、昨日、私の話を聞いていた時よりも、アマリリスの様子はさらに悪くなっているようだった。
「……カリス、来たのね?」
動かなかった瞳がゆらりとこちらを向いた。求めているようなその眼差しと声に、反応せずにはいられなかった。影道から飛び出して視界に入る場所に座れば、アマリリスの目はわずかに細められた。
その目を見た瞬間、私は何かを思い出しかけた。彼女がアネモネに似ているためだろうか。目と目が合った瞬間だけ、この部屋に漂う悪臭を忘れ、花の香りが強まったようなそんな気がしたのだ。
これも魔法の一種なのだろうか。警戒心を少しだけ向けつつ、私は全く手の付けられていない料理へと視線を向けた。
「食べていないようだな」
すると、笑みがすっと引いた。幼い子供が機嫌を損ねたようにベッドに寝そべる。そして、弱々しい声で答えたのだった。
「食欲がないの。いくら言っても誰も分かってくれない」
涙の浮かんだ目でこちらをちらりと見つめてきた。甘えるようなその眼差しを一蹴し、私は料理の傍へと向かった。
「当然だ。何日まともに食べていないと思っている? リリウムの連中も苛立ち始めるぞ」
「それでもないものはないの」
「昔はあれほど食欲に忠実だったくせに」
銀の匙を手に取り、そのまま自分が放った言葉に捉われた。
食欲に忠実。ああ、私は段々と忘れてきている。ルーカスの最期を、その散り際を恍惚とした表情で眺める悪魔の姿を、その衝撃を、一生忘れないと思っていたはずなのに、今この瞬間は感覚がなくなっていた。銀の匙を持ったまま、ぬるいスープを見つめたまま、私は固まっていた。
今の我々はたった一つの指輪で守られているだけの関係だ。彼女が指輪を失えば、あっという間に均衡は崩れる。ルーカスのように死にたいか。いやだ。死にたくない。それなのに、すぐ近くのベッドで寝そべる捕食者への恐怖が薄れてきているのだ。それだけ、我々は……いや私は、この生活に馴染みすぎてしまった。血と肉の味を思い出して具合が悪くなるほどに。
赤黒いスープの滴りから目を逸らして、私はアマリリスを振り返った。寝そべったまま天井を見つめている。昨日よりもさらに青白い。戦えるかどうかを問う方が間違っていると言えるほどだ。
「きっとこの部屋のせいよ」
外に聞こえることも躊躇わずに、彼女はそう言った。
「居心地が悪くて堪らない。湿気を含んだ重たい空気に悪魔が好みそうな悪臭。そんなものに囲まれて、食事なんてできる?」
全くだ。こんな環境。いるだけで具合が悪くなるだろう。
それでも、ここで同意するわけにはいかなかった。
「……だが、お前のかつての狩りで産まれる異臭に比べれば、マシというものだろう。外を放浪していた時にはもっと酷い環境で暮らしていたはずだ」
「魔女の性に飢えている時はね」
と、アマリリスは不敵な笑みを浮かべながら言った。
「臭いなんて分からないの。あるのは飢えによる苦しみと衝動だけ。嘔吐するように力を解放して、私は狩りをしてきたの。そうやって――」
そこで、我に返ったようで彼女の表情に人間らしさが戻ってきた。私から気まずそうに目を背け、行き場を失った言葉を小さく漏らす。
「そうやって……私は、あなたの仲間たちを……」
嗚咽を漏らしながら、アマリリスは震えていた。私の視線を避けるように、涙をためた目で誰もいない一点を見つめ続け、荒い呼吸をしている。明らかにまともではない。明らかに戦える状況ではない。上の者達は勿論、死霊たち、そして教会の周囲を窺う花売りに見られるわけにはいかない姿だった。
これが、人狼殺しの魔女か。
――見てごらん、カリス。
ルーカスの声が脳裏で響く。
――魔女だ。それも珍しい香りがする。金の匂いだ。
記憶に残る彼の姿は、手ごろな兎でも見つけた野良犬のようだった。
――なに? 誰かに似ている? まさか、どうせ気のせいだろう。まあいい。君が行きたくないのなら、そこで待っているといい。俺だけで十分さ。
降りやまぬ塵。銀色の輝き。静寂の世界。ぼろぼろの紅の外套。飛び出していった友人の背中をただ見送ったあの瞬間が鮮明によみがえった。ルーカス、そして、私が信じて疑わなかった強弱関係は、あっという間に覆された。
――ルーカス!
死の瞬間、頭の中が真っ赤に染まった。おぞましき臭いが塵に混ざり、見えない命の煌きごと一人の魔女に食べられていく。そうして、幼き日々を共にした友人はこの世から去っていったのだ。
思い出せば思い出すほど、冷や汗をかきそうな記憶である。それでも、私は必死に振り払った。泣いているアマリリスにどうにか近づくと、避けられるのを覚悟でその手を握り締めた。
「私が悪かった」
握り返してくる感触を受け止めながら、私はそう言った。
「だから、そのことはもう考えるな」
それは、苦しむ私の本心からの願いだった。
「指輪をはめたお前は魔女ではなく聖女だ。あの時、心から恨んだのはお前ではない。お前の性だ。聖なる力を駆使し、悪魔を祓って無念を晴らしてくれ。お前には出来る。今も萎れない〈赤い花〉の香りがその証拠だ」
恐る恐る、といった様子でアマリリスがこちらを向いた。
「本当に、そう思う?」
疑うように彼女は答えを求めてきた。
「私は何も出来なかった。何も出来ないまま、ルーナの仇を討つことすら出来なくて……」
「それは――」
どうにか言葉を探す。前を向かせるにはどうすればいい。模索しながら、この頼りない花の茎を奮い立たせるにはどうすればいい。
「私なんて……」
アマリリスの手が私たちの視線を遮った。
教会の者達はほぼ諦めているも同じだ。庇ってくれる者はまだいる。しかし、強力な理解者であった海巫女という人を失った今は劣勢と言ってもいい。アマリリスの敵は花売りや死霊だけではないのだ。
しかし、肝心の本人が立ってくれなくては意味がない。
「私なんて、あの時に殺された方がよかったのよ。ゲネシスに、サファイアに、殺されてしまった方が――」
「アマリリス!」
気付けば私は必死になってその口を塞いでいた。
見張りたちはとうに気づいているのかもしれない。それでも、今のこの言葉を聖戦士たちに聞かれることが怖かった。苦しそうにもがきだす彼女を見て、慌てて手を離すと、咳き込みながらもアマリリスは少しだけ大人しくなった。その代わりにすすり泣きながらベッドに縋る彼女は、どう見てもおしまいだ。
――もう諦めろ。
そんな声が何度も聞こえてくる。元はと言えばこの諦めの悪さが今の惨状を招いたのだ。また同じことを繰り返すつもりなのかと。
判断が遅れれば、ゲネシスたちを止める時間もなくなっていく。ヴァシリーサを倒した後、彼らはどうするつもりだろう。サファイアとミール。ハダスの民である彼らを追いやったリリウムの世界を彼は明らかに憎んでいた。理想の国を築くために。三つの聖地で起こった以上のことを起こすつもりではないかと人々は恐れている。
だからこそ、悪魔と戦える〈赤い花〉を求めている。アマリリスが駄目ならば、代わりとなる者を立てなくては。その為に戦えないアマリリスには犠牲になってもらうしかない。平然とそう主張する人間がいるのだ。
――いつまで彼女を聖女にしておくつもりなのか。
カルロス、グロリア。庇ってくれた人はいる。けれど、聖戦士たちには限界がある。いくらアマリリスに好意を持っていて、庇おうとしたとしても、上の立場に考えの違う者がいれば動きは変えられない。だからと言ってゲネシスのように暴れるなんて者は、ここにはいないだろう。そんなことをしても意味はない。ましてや、当のアマリリスがこんな様子では。
私もまた心が折れそうだった。だんだんと分からなくなっていく。どっちが正しいのだ。どっちがアマリリスにとって幸せなのだろう。無理にでも戦わせて尊厳を守るべきなのか、家畜のように扱われながらも平穏な場所でただ生かされるほうが幸せなのか。
錬金術の材料になるとすれば、今のアマリリスのままでいられるとも限らない。殺されるなんてことはないか。記憶が失われるなんてことはないのか。それとも、その方がいいと彼女は思っているのか。
あらゆる不安と疑問が重なっていき、頭が割れそうなほど痛かった。
「ルーナ……ルーナ……」
愛する人の名を口ずさみながら、アマリリスは泣きだした。乱れた髪を整えてやると、不思議と慈愛のような感情が生まれた。
壊されたものは元には戻らない。しかし、元に近づくことは出来るはずだ。
願望にも似た希望をぎゅっと抱きかかえながら、私は迷いを振り払った。
「しばらく休め。また戻って来るから」
言い聞かせるも、あまり反応はなかった。




