1.柵の中で
――カリス。見てごらん。あれが人間どもの本性だ。
遥か昔に聞いた、旧友の声を何度も思い出す。流暢なラヴェンデル語。美しい横顔。勇ましい目。そして崇高な遠吠え。ラヴェンデルのある村で流行った伝染病と、それが原因で広がったデマによる哀れな刑死者たちの姿を見ながら、彼はそう言ったのだ。あの時、吊るされていたのはいずれもハダスの民であった。
ルーカスの声形を思い出すと、もう戻っては来ない子供時代、故郷の景色を思い出し、どうしようもないほど胸が痛くなる。
彼と旅をするのは楽しかった。夫婦でもなければ恋人というわけでもない。私たちは友であった。未来の話をひと時も想像しなかったわけではない。しかし、故郷が潰されてしまい、家族も人間に紛れて細々と暮らすしかない以上、狼たちが安心して暮らせる世界を作るまでは、私も彼も将来の伴侶など考える余地がなかったのだ。
辛い日々だったが、それなりに楽しかった。だが、私たちが生きるために生み出す金は、時に誰かの苦痛や涙なしにはあり得なかった。盗賊とはそういうものだ。だから、最初は痛んだ心も、いつの間にか痛まなくなっていた。人間を食べるという行為と同じだ。
恨むなら、創造主とやらを恨め。あるいは、大地の掟、己の弱さを恨むのだ。
ルーカスが死んでしまうまで、私は人間という生き物をただただ見下し、略奪と食人を正当化して生きていたのだ。
――ああ、ルーカス。あの頃にはもう戻れないんだ。
ルーカス。そして、エリーゼ。幼い頃を共に過ごした仲間たちを殺され、残りの命を逃亡に費やすだけかと思っていたあの絶望の日々すら今は懐かしかった。
何もかも悪い方向へと向かっている。思い出せば思い出すほど、今となっては遥か昔になってしまった様々な出会いの記憶が忘れられない。
今、目の前で震えながら私の話を聞く女は、かつて世にも恐ろしい人狼殺しだった。しかし、今はどうだろう。小さな指輪に縛り付けられ、まるでその命が始まったときから穢れを知らぬ聖女であったかのようだ。
出会った頃、私は高貴すら感じる山猫のようなこの目を憎み、何故か懐かしさを感じてしまうこの顔を恨んだ。
アマリリス。仲間の仇。その名は私にとって、呪いの言葉にも似ていた。
しかし、今では全く違った。
「ゲネシス」
暗い半地下の牢獄で全てを語り終えた後、アマリリスはその名前を口ずさんだ。愛するものを奪われたその恨みは計り知れない。しかし、彼女の声にはいかなる怒気も感じられなかった。感情を伴わぬ呟き。ただ言葉が漏れ出しただけのようにすら思えた。
魂の抜けたような虚ろな顔で、彼女は囁くように言った。
「私はこれまで悪魔なんていないと思っていた。全ての生き物は平等に残酷で、人間たちの言う悪魔というものは、得体の知れない権力への恐れ。すなわち、私たち魔の血を継ぐものたちへの誤解なのだと――でも!」
震えながら膝を抱え、彼女は押し殺した声で嘆く。
「確かに私は悪魔を見たわ。愛欲に惑わされた彼自身か、それを利用した死霊か、あるいはその両方なのか。真実なんて分からない。それでも、いたの。ゲネシスとサファイア。彼らの中に悪魔が……。悪魔がルーナを奪っていった……奪われてしまった。私のせいで……ルーナまで――」
声を枯らしながら途方に暮れる彼女には、もはやかつての勇ましさは残っていない。
ひたすら長い時を生きる魔女や魔人という生き物は孤独を癒すため、人の血を継がぬ魔物を隷属化するという。彼らは魔女や魔人にとって奴隷であると同時に愛すべき存在であり、半身である。隷属に死なれて生き物らしい心を失い、社会を脅かす悪魔となった魔女や魔人たちの逸話は、何処の国でも語られるものだ。
私にとっては長らくただのおとぎ話だったが、こうして目の当たりにしてやっと分かった。アマリリスは――リリウムの者達にとっての切り札は、今まさに少しずつ壊れようとしているのだ。
正常に戦えない。そう判断されれば、はたして人間どもはどう考えるだろう。
幸いにも暴れはしない。だが、聖女の指輪は量産されることが決まってしまったのだ。それがどういうことなのか。今も何処かにいるあの大罪人に対抗すべき人材をどうやって確保するつもりなのか。
思考を巡らせば巡らせるほど、私は焦りを感じていた。
「アマリリス」
その名を呼ぶと、輝きを失った目がこちらを向いた。
「今のお前の苦痛の責任は私にある。私が奴を説得できると信じたことが、結果的に多くの死を招いてしまったのだ」
すると、アマリリスは目を見開き、唇を震わせる。漏れ出す言葉は何もなかった。そんな彼女の肩を掴み、必死に言い聞かせる。
「だから、ルーナを失った怒りと悲しみで自分を傷つけてはいけない」
言い聞かせることしか私には出来ないのだ。この苦痛を肩代わりしてやることは出来ない。ルーナを復活させることはもちろん、代わりになってやろうなんて口が裂けても言えない。気休めがこの哀れな魔女の力にならないことはよく分かっていた。
だが、私の声掛けにアマリリスは確かに反応した。両手でぎゅっと私の腕を掴み、子が母に甘えるように胸の中に顔を埋めてくる。まるで幼児になったかのようなその有様は、状況がより深刻であることを証明するものだった。
それについては触れず、彼女のさせたいようにさせた。時間がないといっても、今は時間が必要だった。身体の傷が治るのに時間がかかるように、心の傷にも時間はかかる。深く抉られた心がしっかり元に戻るとは思えないが、しかしまずは治癒に専念しなくてはいけないはずなのだ。
それなのに、ここはあまりにも無情である。
「悪魔はいたのよ」
虚ろな様子で繰り返す彼女を支えながら、落ち着くのを待っていた。背中をさすってやり、叱るのを諦め、幼子から女性へと戻るのを待つしかない。子どもをあやすのは別に苦手ではない。故郷ではむしろ得意な方だった。命の恩人であるアネモネから私を引き取ってくれた大人たちによれば、私は来た時から年下をあやすのが得意だったらしい。
盗賊をやっていた時はすっかり腐らせていた得意分野だったが、ここにきて似たようなことをする羽目になるとは思わなかった。
それも、この女を相手に。
〈赤い花〉特有の花の香りに包まれながら、過去と今の違いを深く味わった。命の恩人であるアネモネのことについて、全てを覚えているわけではない。幼すぎた私は、彼女の面影と優しく包み込む〈赤い花〉の香りを覚えているくらいだ。しばらく一緒に旅をして、ずっと一緒に居られると思ったことも辛うじて覚えている。人狼の住む世界に託されると知って、この上なく不安になったことも覚えている。
――大丈夫よ、カリス。このお別れは悪い事じゃない。
鼻先をその指でつんと突いてきた彼女の顔。その時、彼女は私に魔法をかけたのだと大人たちは言っていた。恋しがらないように、記憶の一部を閉ざす魔法だ。その魔法が私の背中を押してくれたのだろうか。懐かしいと思うことはあっても、故郷での暮らしはそれ以上に楽しむことができた。ただ心残りはあった。アネモネに何の恩返しも出来ないまま、その消息が分からなくなってしまったことだ。
アマリリスに触れながら、彼女の事を思い出す。同じ〈赤い花〉だからと言って、全く同じなわけではない。しかし、こうしてアマリリスに寄り添っていると、アネモネの力になっているかのような不思議な気持ちになれた。もちろん、これは私の自己満足に過ぎない。だが、自己満足だろうと、かつて自分を救ってくれた女によく似ているこの哀れな聖女を見放すことが出来なかった。
たとえ、こいつが仲間を殺した仇であると分かっていても、である。
――ルーカス。そちらから私の姿はどう見えている?
「……ありがとう、カリス」
ふと、落ち着いた声が聞こえてきて、はっとした。
「彼の事、話してくれて、ありがとう」
いつの間にか、先ほどまでの幼児のようなアマリリスはいなくなっていた。その目には冷静さが戻ってきている。
「でも、ごめんなさい」
「何故、謝る」
「あなたは必死にゲネシスを止めようとした。一度は愛した人のはずなのに、その血の味まで知って。でも、私は……どうしても立ち上がれない。身体が震えて仕方ないの。目を閉じれば、ルーナの声ばかり聞こえてくる。あの子が呼んでいる声。笑っている声。そして、痛がっている姿が――それなのに、私は!」
その失望はあまりにも深いようだ。
怒りをばねに力を奮い立たせ復讐を。そうした期待が持てるようだったら、まだ良かっただろう。しかし、奴らは知っていたのだ。この魔女の弱点を。
やはり私の思った通り、今すぐに再起を求めるのは不可能だ。しかし、だからと言って、このまま何もせずに、この女をリリウムに託していいものか。
「自分を責めてもルーナは戻ってこない」
小声で私は彼女に囁いた。
「だが、忘れるな。リリウムの連中はお前の聖女の力を求めている。ゲネシスと死霊たちをあのまま野放しにするわけにはいかない。それでも、ただ正面から数で押し切ったところでゲネシスを止めることは出来ないだろう。しかし、お前なら……聖女となったお前に戦う気力さえあれば、ここから勝てる方法があると彼らは言っているのだ」
今もその方法について会議が行われている。盗み聞きしてその内容を把握するのは簡単だが、結論を誘導するのは至難の業だ。このままアマリリスが立ち上がれたとしても、立ち上がれなかったとしても、道具扱いは免れない。しかし、後者よりも前者の方がいくらかマシなのは会議の内容からも明白だった。
――戦えぬ魔女をいつまで人間扱いするつもりなのです?
会議の中で聞いた、見下すような聖職者の一部の言葉は今も心に突き刺さっている。被害の大きさと深刻さによる焦燥や怒りが、彼らをかつてないほどに苛立たせているのだ。
しかし――。
「私には無理よ」
塞ぎ込む彼女は、むしろ死を望んでいるかのようだった。リリウムに一生管理され、家畜かあるいは錬金術の材料にされるとなったとしても、それでいいとすら思っているのかもしれない。
私は嫌だ。しかし、私がいくら嫌がっても、今の彼女の心には響かない。響くだけの元気がないのだ。枯れかけた花を再び咲かせるには一体どうすればいい。先の見えない未来に不安が大きくなる中、今はただため息を吐くことしか出来なかった。
「焦ることはない。少しずつでいい。飯を食え、そして、自分を責めるな。立ち上がる元気が出てきたら、きっとこの部屋が窮屈に感じるだろう。その時は、外へ出たいとグロリアにでも伝えろ。出来る限りでいい。お前がまだ人らしい心を持っていることを奴らに気づかせるんだ」
今すぐじゃなくていいから、と、静かに語り掛け、そのままアマリリスから離れた。不安そうな目がこちらを見つめてきたが、彼女は彼女で壁により、そのまま自分自身の膝を抱えた。まるで実験動物が怯えているかのようだった。
「少し、外の様子を見てくる。何かあったら呼んでくれ」
頷くか、頷かないか、それを待たずに影道へと逃れた。
暗く重たい空気から解放されると、それだけ心身の負担から解放される。それと同時に、罪悪感も生まれた。狭い檻の中からあの女は逃げ出せないのだ。囚われ、監視されたまま、今後の選択を迫られている。せめて、光に当たることのできる未来を。それがこの事態を引き起こしたに等しい私の罪滅ぼしでもあった。
だが、影道の片隅で一人きりになることが出来ると、途端に涙がこぼれた。
「ルーカス……お前は呆れているだろうね」
過去がひたすら懐かしい。ルーカスと二人で必死に生きていたあの頃が。そして、ルーカスを失い、放浪の果てに出会ったゲネシスへの恋心が。ゲネシスを説得しながら、宿敵であったアマリリスを揶揄っていたあの日々のことが。
もう戻れないことが辛すぎて、一人で泣くことしか出来なかった。
「エリーゼ……君はどうだ。兄の仇を殺すどころか守ろうとする私は信じられないほど醜く見えているかもしれない」
それでも、魔女の性から解放された彼女は、もはや仇ではなかったのだ。聖女となって以降の彼女とのやり取りの一つ一つがそれを証明する。もしも、アマリリスとの関係が変わっていなかったとしたら、果たして私はゲネシスの敵でいられただろうか。
それなのに、このままでは失ってしまう。けれど、どうすればいい。
影道の静寂さに包まれながら、私はひとしきり泣いていた。ここは人狼だけに許された逃げ場所である。身の危険からだけではなく、心の危険からも逃げることができる場所だ。
幼い人狼は辛いことがあるとまず影道でそっと泣くことを覚える。しかし、気を付けなくてはいけないこともある。ここは人狼ならば誰でも入ることのできる共有の空間だ。広大な第二の世界ともいうべき場所だが、稀とはいえ誰かと居合わせることだってある。
今、この教会近辺にいる人狼は私を含めて七名ほど。そのうちの四名は聖戦士としてリリウムの世界で生きている者達だ。一人で泣くなんて惨めで貧弱な狼は私だけだろう。そう思っていた。
だが、私のいる位置から遠くない場所で、嗚咽にも似た狼の鼻を鳴らす声は確かに聞こえてきたのだった。
「誰かいるのか?」
声をかけると、その誰かは慌てたように鼻をすすった。声と匂いを頼りに近づいて行けば、その姿はすぐに見つかった。変形する鎧に包まれた大きな狼がそこにいた。うつ伏せになり、前脚で目元を隠している。カルロスだ。
「なんだ、カリスか」
「泣いているのか?」
訊ねると、笑いながら彼は返答する。
「まさか」
しかし、目元は前脚で隠したままだった。そして返しの一撃がきた。
「あんたの方こそ泣いていたように思えたが」
「まさか」
笑い飛ばしてやったが、思っていた以上に鼻声になっていた。ちらりとカルロスが前脚の隙間からこちらを窺ってくる。その目元を見て反射的に言葉が出た。
「なんだ、泣いていたんじゃないか」
すると、彼もまた不貞腐れたように返した。
「あんただって、やっぱりそうじゃないか。なんだ、“恋人”のことを思い出していたのか? 妻という亡霊にお前の献身の愛は勝てなかったらしいな」
「放っておけ。私の見る目がなかっただけだ」
言い捨てるように答えてすぐに、この度の騒動で死んだ者たちの姿を思い出し、気まずさを覚えて付け加えた。
「勿論、自分の罪くらいは自覚しているつもりだ」
対するカルロスは鼻で笑う。見るからに私への恨みが分かった。彼が今、どんな苦痛を背負っているかくらい私にだって分かる。三名いた部下だけに死なれ、蒼ざめた顔で葬儀に参列していた姿は忘れることも出来ない。
そんな彼が何か言う前に、私は正直に告げた。
「……それに、泣いていたのは奴への恋しさじゃない。己の不甲斐なさのためだ」
カルロスの目つきが少しだけ変わる。すぐにまた前脚で目元を多い、深く息を吐いてから、ぼそりと呟いた。
「それなら俺と同じだな」
溜め込んだと思われる私への不満は、飲み込まれてしまったのか、ため息と一緒に吐き出されたのか。
イムベル大聖堂が死霊たちに蹂躙されて以来、リリウム教会の者達の私への視線はだいぶ悪くなった。貴重な〈赤い花〉アマリリスをうまく誘導し、リリウムに保護させるために一役買ったのは私だが、その為に仲介したのは他ならぬゲネシスだ。彼と私が深い関りであることは疑いようがなく、さらに私はそんな彼をぎりぎりまで庇ってしまった。
結果、三聖獣の地が荒らされ、死霊の跋扈する呪われた場所に代わってしまった今、私へ向けられる視線に猜疑の色が強まるのは当然のことだった。三つの凶事の場に居合わせ、それでいて生き延びたという点もまた、彼らが私を疑う理由になった。
とくに人間たちの目は厳しいものがあった。司祭以上の聖職者たちの上位は魔の血を引かぬ人間が圧倒的に多い。その為に、ただでさえ人狼という疑わしき種族である私を拒否する反応はあまりにも顕著だった。
同じ人狼であるカルロスだって、ゲネシスを庇い続けた挙句、失敗を繰り返した私への失望があってもおかしくはない。しかし、彼はそれ以上の怒りを口に出しはしなかった。
「笑ってくれ」
彼はただそう言ったのだ。
「これでも隊長様だ。海巫女の相談役という特殊なお方の補佐だ。どうか笑ってくれ。部下だけに死なれ、ぬくぬくと生きて泣いている俺の事を。誇り高き狼像とはあまりにもかけ離れているじゃないか。なんて無様なのだろう」
「戦士というものは人死にというものに慣れていると思っていた」
「ああ、慣れるべきことだろうよ。本当ならばね。上司が死に、仲間が死に、そして部下が死ぬ。そういう場面は多い。だが、この度はあまりにも……あまりにも無様過ぎた。高貴な血筋の人狼男として生まれ恵まれた力を持ちながら、三名の内、二名をその場で亡くし、必死に安全な場所へと逃がそうとした一名も手遅れだった。なのに俺は生きている……彼らへ顔向けが出来ない」
それに、と彼は再び顔を上げた。涙はすっかり引いている。狼の目を影道特有の途方もない闇の果てへと向けて、彼は力なく呟いた。
「部下だけではない。守らねばならない命を何一つ守れなかった。ブランカ様を含むすべての人々……アマリリスさんの心の支えだったルーナまでも……」
身を起こして項垂れる。その横顔を見つめていると、私もまた無力感に苛まれた。あれほど奮闘したのにも関わらず、死霊たちは、そしてゲネシスは、せせら笑うように様々な命を飲み込んでいった。
ルーナもそのひとり。満月のようだったあの輝く目を思い出すと、何故だか胸が痛んだ。都合のいいものだと自分でも思う。最初に出会った時、私は彼女を商品としてしか見ていなかったはずだったのに。
だが、無垢というものはそれだけで武器となるのだ。失った今だからこそ、強くそう思う。とにかくアマリリスほどでないにせよ、私はルーナの死に動じていた。そしてそれは、どうやら彼も同じらしい。
「ブランカ様はな、ルーナの事をいつも心配なさっていたのだ。カンパニュラに入学した後で、彼女が人の悪意に晒されるようなことはないかと。その時に、彼女はどのように感じるだろうと。アマリリスさんに見放されることを恐れていたわけじゃない。ブランカ様もまたルーナを愛していたのだ。そして、未来への夢を託していらした。学び舎に通う〈金の卵〉の存在が新しい時代の幕開けとなる。そのために、きっと神に遣わされた子なのだろうと。間違いなく我々の守るべき新しい時代への希望の光だったのだ」
落胆する彼には失望の色しか浮かんでいない。
「彼女が愛を振りまき、愛に満たされていたのは私にも分かる。無垢な味方を守るのは強き者の務め。私もまたその敗北の味に苦痛を感じているとも」
そこには同意しつつ、私は彼に言った。
「だが、カルロス。お前の血筋はリリウムの色に染まっていたのかもしれないが、私の故郷では人狼たちが先祖代々守り続けた大地の教えというものがある。それによれば、生き物の死は大地によって決められている。母なる大地が呼び寄せた時、死の使いが迎えに来るのだ。それを生き物が止めることは出来ない。たとえ知性があろうとも、呼ばれた者は逝かなくてはいけないのだ。お前が笑われるようなことではない」
もちろん、これを分かってもらえるとは思っていない。彼はリリウム教徒だ。産まれてからずっと、その教えに染まってきているはず。私がいまだ己の一部となっている大地の教えを捨てられないように、彼もまたリリウムの教えから外れた信仰に耳を傾けられるとは限らないのだ。
それでも彼は、一応は聞いてくれた。
「母なる大地による運命、か。いかにも人食い狼と蔑まれた先人たちの教えらしい。すまないが、俺には素直に受け取れない言葉だよ」
頑固な面持ちでそう言ってから、彼は狼の顔にふと笑みを浮かばせた。
「だが、慰めてくれているのなら礼を言う。……どうやらリリウムにはあんたに厳しい視線を向けている者もいるようだが、俺は違うと言っておこう。信仰は違っても同胞として庇う立場を守ると誓おう……だから、俺が出来ないことをこれからもあんたにはしてほしい。……俺たちの聖女を守ってくれ」
非常に小さな声で、彼はそう言った。
「カルロス……」
言葉にならない情動に胸を詰まらせていたその時、ふと我らの耳に声が届いた。人狼の呼び声だ。私向けのものではないが、意味は分かる。それは、リリウムの人狼戦士たちがよく使う、「集合」の合図だった。
「ラヨシュだ。どうやら行かなくてはいけないらしい」
のっそりと立ち上がり、カルロスは伸びをする。
「いいか、カリス。ここで俺と会ったことを言いふらすなよ」
そう言い残して、彼は影道の世界を去っていった。




