9.怪物になるために
ふと気づけば、私は見知らぬ場所にいた。
息を吸うだけで湿気を含んだ重たい空気が喉を潤す。死を含んでいるはずの緑の香りはとても爽やかで、土と落ち葉の感触も心地いい。
周囲は壁で覆われている。狭い空間だ。一つしかない出口の外に広がるのは木々ばかりで、街中ではないということはすぐに分かった。だが、何処にいるのかは全く分からない。起き上がろうとする私の頬を、撫でる者があった。目だけを動かしてみれば、そこには愛おしい眼差しがあった。
「サファイア……」
あげたその手を彼女は握り締める。苦笑を浮かべつつ、彼女は言った。
「いまはまだソロルよ、愛しい人。傷は思ったよりも深いの。でも、ここなら大丈夫。癒してからローザに向かいましょう」
「ここは、何処だ?」
「リリウムとカンパニュラの境よ。現地の人々に精霊の森と恐れられた場所。木霊の一種が暮らす集落にお世話になっているの」
「木霊の集落?」
警戒心が目覚めた私をソロルは宥めるようにそっと撫でてきた。
「安心して。木霊と言っても本物ではない。木霊の魂で現世にやってきた死霊たちの集落なの。故人の記憶と知恵を利用しながら、木霊らしくひっそりと暮らし、時折、やってくる旅人を襲っているのよ」
そこで私はカンパニュラの学生時代に聞いた噂話を思い出した。あの頃からこの森には怪しい噂があった。不用意に足を踏み入れれば、そこで暮らす肉食精霊たちが襲い掛かって来るのだという怪談だ。
そこは神のご加護の届かぬ魔の森。魔族であっても相手をしたくないような連中がそこにいるらしい。度胸試しに入り込むのは生粋の魔物くらいのもので、魔の血すら引いていない人間たちは死にたくないのならば行ってはいけないという場所だった。
だが、向こう見ずはいるもので、学生時代にその森に入り込んで行方不明になった者がいた。精霊の森には財宝が眠っている。そんな噂があったからだ。財宝を探しに行った彼がどうなったのか、それは今でも分かっていない。指導者たちが捜したけれども、見つかることはなかったのだ。
「まさか木霊ではなく死霊たちだったとはね」
「知っているのね、この森のことを。それなら、話が早いわ。ローザはすぐ近くにある。でも、旅立つのは傷が治ってからでいい。それまで、族長さまが面倒をみてくださるそうだから」
そこで、私は近くに別の者がいることにようやく気付いた。木霊である。しかし、その特徴的な目の輝きから、彼が何者なのかがすぐに分かった。彼は丁寧に頭を下げると、敵意のない笑みを見せた。
「お目覚めになられたようですね」
子どものような声でそう言うと、手を叩いた。数名の仲間たちが現れる。性別や見た目の年齢はまちまちだった。
「貴方様はもはや我ら死の国の王に相応しい御方。お怪我が治られるまで、我々にお任せください。聖女たちの動きは翅人情報屋めから仕入れますので」
「その情報屋って言うのは、クリケットか?」
「ええ、確かそんなお名前でしたね」
木霊は軽く流すと、今一度、丁寧に頭を下げてから言った。
「わたくしの名はイージーといいます。常に貴方の声の届く場所におりますので、何なりとご用命ください」
そして、仲間共々すっとその姿を消してしまった。姿は見えないが、周囲に潜んでいるのだろう。敵ではない。味方だ。そう思うと、妙に安心した。安心してみれば、すぐに気が急いた。
早く、ローザに行きたい。憎きヴァシリーサを殺し、ミールを取り返したい。霧の城を我らのものにし、サファイアを呼び戻すのだ。
けれど、体は動かなかった。傷を見ようとしたが、包帯がまかれている。木霊たちお得意の怪しげな薬がたっぷりと塗られていた。触れようとすると、体が痛んだ。毒をも消し去る聖獣たちの力も、噛み千切られた肉を再生するのは苦労するらしい。
「戦いたいのね。でも、動いては駄目よ。死んでもおかしくない怪我だったの。あの女人狼、それだけ本気で貴方を殺そうとしたのね」
「カリスはどうなった?」
「見てはいないけれど、たぶん逃げたでしょうね」
力なくソロルが応えた時、またしても人の気配が現れた。だが知っている空気だ。警戒することはない。ただただ不快になるだけだが、今回ばかりは我慢するべきだろう。彼こそが私達を助けてくれた恩人であることは覚えていた。
「クリケットだな?」
姿は見えないが、ソロルの視線からだいたいどのあたりにいるのかが分かった。隠れ続ける意思はないようで、彼は答える代わりに軽く笑った。
「お喋りが出来るようになって何よりです、旦那様。焦っておられるようですが、ご伴侶様の仰るように、今は休むべきかと」
「カリスはどうなった? 聖女はまだ生きているのか?」
痛みを堪えて問いただすと、クリケットは答えた。
「やれやれ。せっかちなお方だ。ちょうどそのお話をしに来たのです。結論から先に言いますと、カリスも聖女も生きております」
死霊たちではやはりダメだったか。そう思うと同時に、カリスがまだ死んでいないと聞いて心の何処かでほっとしてしまった。まだこんな感情が残り続けているとはしぶといものだ。しかし、気にするべきはそんな心の迷いではない。
「奴らの動きを教えてくれ」
もしも反撃に備えていたら。断罪のために再び聖女を奮い立たせ、今度は計画的に私たちを狙ってくるかもしれない。死霊とリリウム教会の戦争となれば、どちらに勝ち目があるのか。自信が全くないわけではないが、私が動けぬ間に攻め込まれたりしたらと思うとやはり怖かった。
しかし、クリケットの答えはそんな私の恐れを落ち着かせるものだった。
「動きは緩やかです。各地にいる聖戦士の内、手の空いている者たちを集めているようですが、此処が見つかるまでには貴方の傷も治っているはず。それに何より、見つかったとしても、彼らは攻め込めません。聖女なしで死霊の女王に挑むなど、犬死しろと言っているようなものですからね」
クリケットがそう言うと、ソロルは静かに目を細めた。
「聖女なし、ということは動けないのね」
「ええ。まだ動く気配はありません。むしろ、今後、戦えるかどうかも分かりません。それだけ我々の計画は上手くいったのです。アマリリスはまだ、ルーナの死から立ち直れていない。現在、教会では話し合いが続いているようです。聖女の指輪を量産するべきか否か。そして、これからもアマリリスを聖女として戦わせるべきか否か」
「彼女を戦わせない、となると、この先、面倒なこともあり得るわね」
呟くソロルの手を握りながら、私は訊ねた。
「面倒っていうのは?」
「量産されるのは指輪だけとは限らない、ということです」
答えたのはクリケットだった。
「彼らはすでに〈赤い花〉の血を手に入れた。教会には優秀な錬金術師たちがおります。彼女がたとえ不妊の女だったとしても、寿命なき素材にはなるから構わない。彼らはそんな連中なのですよ」
「気高き聖女から、哀れな実験材料になるということか」
信じられないと言いたい気持ちはあるが、すでに想像していたような話であった。巫女の一族である〈金の鶏〉の無精卵から〈金の卵〉を作り上げたのが彼らだ。知性があり、人の姿にもなれる彼らを今でも屠畜し、聖油として利用し続けている組織が、さらに人に近い魔女を慈悲なき環境に置いたとしてもおかしくはない。
ルーナを殺したときのアマリリスの顔は今でも思い出せる。これから先、聖女の指輪を嵌めたまま、愛する者のいない世界を生き続けなければならない。どれほどの苦痛だろう。それに耐えられるだけの心は残っているのか。きっと残ってはいない。
だから、あの時、殺してやると言ったのに。
「カリスはどうしているの?」
ソロルの問いかけに、私は我に返った。クリケットの答えに耳を傾ける。
「甲斐甲斐しくも聖女さまに付き添っておられますよ。どうやらかつての人狼殺しの魔女の行方を心配している様子。心配せずとも、奴もしばらくはアマリリスの傍を動けないはずです。カリスが庇っているからこそ、アマリリスも手を出されずにいるのですから」
必死に守っている。その言葉に、ふとカリスの姿を思い出した。この傷を作ったのは彼女だ。その痛みが、彼女との思い出と重なり、心を揺さぶってくる。
「あれだけ思い知らせてやったのに、とんだ分からず屋ね。仲間を殺した魔女を必死に庇うなんて」
「……知り合いに似ていると言っていた」
かつて親しく話した夜のことを思い出し、私は呟いた。
「アネモネという恩人に似ているのだって」
「似ているからって本人ではないのに。でもまあいい。あちらがどんなつもりであろうと、ゲネシスにこの怪我を負わせたのはカリスよ。汚らわしいあの狼には、いつかその命で罪を償ってもらわなければ」
猛るソロルの手を握りながら、それでも私は何故か賛同できなかった。
「アマリリスの状況次第では、もう二度と、我々の前に現れないかもしれない。そうだとしたら、放っておいてやろう」
それを聞いて、ソロルが驚いたように私を見下ろしてきた。空いた手で頬を撫でてから、労わるように囁きかけてくる。
「ああ、ゲネシス。こんな傷を受けたというのに、あの狼女に情がまだあるのね。でも、駄目よ。どんな状況になろうと、あの二人は放っておけない」
「どうするつもりなんだ?」
「殺してしまいましょう。教会で守られているからと言っても、アマリリス一人を攫うのが不可能なわけではない。抜かれた牙が再生するよりも先に、人を使ってアマリリスを此処まで連れてきてもらいましょう。教会にいさせてはいけないわ〈赤い花〉を量産させるわけにはいかないもの。その前に、彼女の〈赤い花〉を食べてしまいたいの」
死霊らしくソロルは目を光らせた。
それほどまでに欲しいのならば、いつか手に入れてやろう。どうせあの女は生きていても苦しいだけだ。だが、ソロルの標的が一人ではないところに、私は賛同できずにいた。
「……カリスは?」
「カリスは黙っていられないでしょう。アマリリスを奪おうものなら、彼女との対決も避けられない。……ねえ、分かって。どうか、あたしを嫌いにならないで。カリスは殺さなくてはいけない。これはあたし達の未来のために必要な事なの」
不安そうなその顔は、私が再び旅立つときにサファイアがよく見せたものに似ていた。その手を握りなおし、その温かみを噛みしめる。二人の未来のためだ。慢心が崩壊を招くのだ。この傷だってそうだ。カリスはもはや敵でしかない。分かっているはずなのに、どうしてこんなにも決心がつかないのだろう。
自分を責めながら、私は答えた。
「分かった。君がそう言うのなら、それでいい」
ほっとしたようにソロルはため息を吐く。そして、クリケットのいる方向へと目をやると、私の手を離して優しく地面に置いた。
「少し待っていて。向こうで彼と今後の話をしてくるわ。貴方はゆっくり休んでいてちょうだい」
母性溢れる口調でそう言うと、止める間もなく立ち上がり、歩いていってしまった。クリケットとの話が何なのか、分からないまま私は一人残される。サファイアの手の感触がまだ残っている。その温もりをしみじみと感じながら、私はふと口を開いた。
「イージー。まだいるのか?」
「こちらに」
すぐさま返事があった。辛うじて姿の見える場所に現れた。
「いかがなさいました?」
友好的な表情を浮かべる彼に、私は言った。
「質問がある」
「はい、何でしょう?」
「お前たちの獲物は迷いこんだカンパニュラの学生なのか?」
率直な問いだったせいか、イージーの表情がやや強張った。だが、すぐに落ち着き払って正直に答えてくれた。
「ええ。大半はカンパニュラとは無縁の旅人ですが、その場合もないとは言えません」
「……そうか。ならば、頼みがある」
「頼み、ですか?」
「ああ、難しければ聞かなくてもいい。だが、おれの希望だと覚えていてほしい」
「とりあえず、お聞きいたしましょう」
何処となく不安そうなイージーに、私は訴えた。
「おれがここに居る間だけでもいい。カンパニュラの学生は襲わないでくれ」
呟きながら、私の脳裏にとある顔が浮かんだ。黒髪に金色の目。こうして心身を落ち着かせていると、どうしても思い出してしまうアマリリスの悲鳴。そして、彼女らの姿と何故か連鎖するのがカンパニュラに通うことを楽しみにしていた、我が義弟ミールの姿と無邪気な声だった。
私の表情に何を思ったかは分からないが、イージーはじっと窺ってきた。そして、しばし経ってから我に返ったように返答した。
「はい、その程度のことでしたら問題ありません。もともとカンパニュラの学生は滅多なことでは入り込まないものです。来たと思えば魔物の子であることも多い。ですので、貴方様のいらっしゃる間にそのようなことは起こらないでしょう。けれど、念のため、仲間たちにはお伝えしておきますのでご安心を」
「助かるよ。今言いたいのはそれだけだ」
すると、イージーは静かに頭を下げながら消えていった。
耳をすませば、穏やかそうな森の音が聞こえてくる。癒しを与えてくれそうなこの場所で、私は何処となく寂しさを感じていた。
どうして、私はイージーにこんな頼みをしたのだろうか。全てと決別する覚悟は何度もしてきたはずなのに、頼まずにはいられなかった。心の何処かに迷いが残っている。戻れぬ世界だと頭では分かっているはずなのに、ただ前を見て、振り替えずに突き進むということが実は出来ないまま、ここまで来てしまったのだろうか。
不安に駆られる心を一人抱え、私は自分に言い聞かせた。
なに、単なる気の迷いに違いない。
痛みを堪えて首を動かせば、壁に立てかけられた聖剣〈シニストラ〉の姿が見えた。これまで散々、力なき者たちを葬ってきた剣である。今更、善人ぶる気はない。私の進む先が地獄だというのならば、喜んで受け入れよう。神は救ってくれなかったのだ。ならば、神と敵対するとされる者達と手を組んだっていい。
まずは傷を癒そう。カリスに食いちぎられた肉が回復するまで、ひたすら耐えるのだ。そして、動けるようになったら、ローザへ向かおう。これまでやってこられたのだ。罪なき人を散々葬ってきたのだ。私には出来る。悪魔になることくらい、怪物になることぐらい、訳もないはずだ。
目を閉じて、耳を澄ませてみれば、かすかにだが音が聞こえた。鐘の音のようだ。長きに渡り、変わらず鳴り続けたカンパニュラの鐘の音と似ている。かつてあの音は癒しであった。そして今も聴いていると心が現れる。
瞼の裏にかつてあの場所でただの少年として過ごした日々が浮かび上がっていた。ピーター、ジャンヌ、そしてグロリア。無邪気に笑い合ったあの日々は戻ってこない。
もう二度と。……もう二度と。
そこで、癒しの鐘の音が急にくぐもった。目を開けて見れば、外では塵が降り始めていた。しんしんと、雪のように、降り積もっていく。その灰色の美しい光景を眺めながら、私は静かに心が躍るのを感じていた。
悪臭とは何の事だっただろう。
かつてはこの時間をいかに過ごすかに頭を悩ませていたはずだった。カンパニュラでは塵の中で動く方法を習ったものだった。そんな工夫が必要ない魔族や魔物のことが理解できないほどだった。
だが、今はどうだ。塵は美しい。ただ美しい。悪臭なんてしない。むしろ、良い匂いがした。血のたぎる匂いだ。体の底から闘志が溢れるほどの匂いだった。
高揚を感じながら、私はすっと理解した。やはり私はもう人間ではないのだ。カンパニュラの鐘の音――思い出に惑わされてはいけない。今は戦えぬ体かもしれないが、傷が癒えたらすぐにでも、ローザ大国のあの森に隠れているヴァシリーサの魔術を暴き、息の根を止めにいくのだ。
そこで、ふと脳裏に声が聞こえた。「行くな」という声。誰の声だったかを思い出し、心がざわついた。死霊に囚われながら、必死に戦おうとした竜の男の姿を思い出す。ウィルという名の竜。目の前で敬愛する者を奪われ、必死に吠えていた。
――行くな。行くな。
彼の言葉が何度も頭の中で響いていった。
気付けば塵は降り積もり、外は真っ白になっていた。
ぼんやりと見つめていると、昔の事を思い出す。あの向こうから、また、カリスがやって来るような気がして、思わず目を凝らしてしまった。この中を平然と歩いて魔物であることを示した麦色の髪の美しい女。初めて見た時のそのシルエットがぼんやりと浮かび上がった。カリスだろうか。いや違う。歩いてきたのは美しい女だが、その髪は樹皮のような色をしている。翡翠の目ではないが、サファイアの目はそれよりも美しい。
クリケットとの会話が終わったのか、彼女は戻ってきた。穏やかなその顔を見つめながら、私は過去を振り返ることを止めた。
未来を確かなものにするために。
失った愛を再びこの手に抱くために。
ただ前だけを見つめなければ。




