8.海巫女の最期
ソロルがやっと歩みを止めたのは、竜人たちの声が届かなくなってからのことだった。
そこは大聖堂ではなく隣接する御殿であった。死霊たちに守られながら向かったのは、海巫女が暮らすはずだったとみられる豪華な寝室であった。安全な扉と壁に守られるその中へと、ソロルは海巫女を連れ込んだ。
死が間近に迫ったためだろう。海巫女はついに恐れをなして、抵抗しかけた。だが、そこへソロルは囁いた。
「約束、守って欲しいのでしょう?」
その一言で、海巫女は観念した。海巫女はソロルに引っ張られながら、最期の場所となる寝室へと消えていった。それを見送ると、私は廊下で目を光らせた。
この壁は安全なはずだが、過信は出来ない。人狼は神出鬼没であり、何処から現れるか分からない。カリスがすでに脱出しているとはどうしても思えなかった。花を託し、怪我人を託し、なおも追いかけようとしていたあの姿を思い出すたびに、気が立って仕方なかった。
幸い、カリスの気配は覚えている。憶えたあの頃は、近づいてくることに喜びすら感じていた。その感覚が今はもう思い出せない。敵ではなかった頃のカリスのことが、もはや思い出せないのだ。
寝室の中からくぐもった悲鳴が聞こえた。食事が始まったのだろう。代々の海巫女たちが過ごした、もっとも神聖と呼ぶべき場所が、死で穢されていく。聞こえてくるのは苦しそうな嗚咽ばかりだ。そして、さらにしばらく待つと、急に何も聞こえなくなった。
そっと中を窺うと、ベッドの上で血の気を失った海巫女を抱きしめるソロルの姿が見えた。その表情は恍惚としている。対する海巫女に表情はない。目には生気がなく、体はぴくりとも動かない。やがて、その時は訪れた。これまでの二人と同じように、その体が崩壊していったのだ。降り積もった塵が風に飛ばされるように、海巫女の肉体が滅んでいく。通常の食事とは違い、肉も、血も、骨も、臓物も、辺りに少しも残らない。
海巫女の存在全てが消えてしまうと、ソロルは感嘆の声を漏らした。
その目の青さはただ美しい。顔立ちも、気品も、何もかもが一変した。海巫女の着ていた衣服を抱きしめ、ソロルは感動で震えだしていた。
「ああ、ああ、ついに手に入れた。欲しかったものが手に入った」
そして、私の存在にやっと気づいて、微笑んできた。
「ゲネシス」
名を呼ばれ、傍に寄って跪けば、ソロルは私の頬を撫でてきた。
「愛しい人。あなたのお陰ですべてが上手くいった。あとはあなたの願いを叶えなくては。改めて聞きましょう。貴方の願いの優先度を。今すぐ本物のサファイアになってもいいわ。あたしにはそれが出来るから」
その手を握り締め、私は彼女に応えた。
「ヴァシリーサが先だ。ミールを取り戻し、奴の城を手に入れよう。死霊の女王となった君にあの城をあげよう。そのあとで、サファイアになって共に暮らしてほしい。それが私の願いだ」
「分かったわ。その願い、叶えに行きましょう。今の貴方からヴァシリーサは逃げられない。霧を払い、迷宮を一本道にすることくらい容易いわ。その後は、二人で――いいえ、三人で暮らしましょう。物言わぬ人形になってしまったとしても、ミールの魂はそこにあるはずだから」
手を取り合うと、ここが戦場であることを忘れてしまいそうになる。
死霊たちは今もうろつき、生きている者達を探しているだろう。グロリアは生き延びられるのか、アマリリスは逃れてしまうのか、そう言ったことも今だけは忘れられた。ただ、一つだけ、忘れてはならないことがあった。
「そろそろ出よう」
恍惚としたままのソロルに、私は言った。カリスが今にも来るかもしれない。恐れに近い焦りが何故か生まれた。達成したからこそ邪魔されたくない。冷静に立ち向かえば殺せるだろう。しかし、もしも誤ったらと思うと、急に怖くなったのだ。
「そう怖がらないで。狼女なんて敵じゃないわ」
「無駄な争いで君を危険に晒したくないんだ」
静かにそう宥めると、ソロルはサファイアの目を細めつつため息交じりに呟いた。
「……それは、サファイアの身体を壊したくないから?」
意味ありげなその表情と質問に、私は即答できなかった。しばし考え、やっと答える。
「君は死霊の女王になるのだろう? 私の復讐と救済を約束してくれた。サファイアになってくれるという君を、失うわけにはいかないんだ」
すると、ソロルは急にいつもの余裕ある表情に戻った。
「そうよね。変なことを訊ねてごめんなさい。貴方がそういうのなら、すぐに行きましょう。……確かにあの女が来ているようよ」
死霊は敏感だ。私はすぐさま剣を抜いて周囲を窺った。この部屋を出るときも油断がならない。この特殊な巫女の部屋の壁を抜けて来られなかったとしても、廊下で息を潜めるくらい訳もないだろう。慎重に窺いながら外に出てみれば、ソロルに呼ばれたらしき死霊たちがすでに警戒態勢に入っていた。
「人狼が来ます」
待っていた死霊たちは五体ほど。そのうちの一人であるフラーテルがそう言った。その見た目はいずれも大聖堂に仕える修道士のようだ。殺したばかりなのか、だいぶ前にこの地で死んだものなのか、それは分からない。ただ、人間にしか見えない彼らであっても、その目の輝きだけは死霊らしさを隠せていない。今までよりも少ないけれど、相手は狼女一匹だけ。問題ではないのだろう。
「貴方たちで荷が重そうならすぐに伝えなさい」
ソロルはそう言い残し、さっさと先を目指し始めた。彼女の言葉に静かに頭を下げると、五人の死霊たちは身構えだした。背を向けるのは怖い。だが、今はソロルの傍を離れてはならない。そうして、歩き出してしばらくしてから、死霊たちの大声と猛獣の雄叫びは聞こえてきた。カリスを見つけ、引きずり出したらしい。戦っている。
本当に大丈夫なのか。立ち止まって振り返れば、カリスの輝く姿がすぐに分かった。すでに死霊の一体が首を噛まれている。その光景は人間を捕食する恐ろしい魔物にしか見えない。
ソロルも立ち止まり、振り返る。
「そう。まだまだ元気が有り余っているのね」
そう言うと、静かに手のひらを向けた。その動作に反応するかのように、床が盛り上がって新たな死霊たちが呼び出される。カリスの表情が険しいものになった。その場を飛びのいて死霊たちから距離を取る。荒々しいが、先程のような戦意が薄まっている。その様子を見て、ソロルはくすりと笑った。
「覚えている顔でもあった? そうよね。貴女の記憶の片隅にいる死人たちの魂だもの。貴女が生きるために犠牲になった尊い獲物たち。さあさ、お相手なさい」
カリスの狼の目が揺らいだ。ソロルの言っていることが正しいのだろうか。その顔、その姿のすべてを覚えているとは思えないが、それでも見覚えはあるのかもしれない。明らかに動揺している彼女に対し、ソロルは勝ち誇ったかのように笑う。
「これで思い出せたかしら。聖女を守り、自分も聖女になったかのような気でいたのかもしれないけれど、貴女は所詮、人狼なのよ。人食いの化け物であった過去は取り消せない」
ソロルの指示に従って、死霊たちが一斉に動き出した。
カリスは戦えるだろうか。この期に及んで心配する気など私にはない。それでも、彼女が食いちぎられるのならば、その姿は出来れば見たくなかった。
「今のうちに行きましょうか」
心を察したのか、ソロルが小さく囁いた。しかし、その時だった。カリスが遠吠えをし、そして人間の言葉で怒鳴ったのだ。
「過去は変えられない。だが殺した分だけ救えばいい。そう言ったのは……お前だ、ゲネシス!」
来るつもりだ。
振り返れば、カリスは死霊たちの相手をせずに高く跳躍していた。白い牙を見せている。そのままの勢いでこちらに――ソロルに飛び掛かって来るつもりだ。慌てて剣を構え、私はソロルの前へと割り込んだ。
ほんの一瞬の出来事だった。カリスの巨体がぶつかったと思えば、焼けるような痛みが首筋付近を襲った。猛獣のように唸るカリスの吐息と、肉がちぎれる感触、生暖かい液体が体を伝って床に落ちているのが分かった。
それはソロルの手を取って以来の、初めての痛みであった。
「ゲネシスっ!」
ソロルが悲鳴を上げて駆け寄ってきた。そんな彼女の姿を見るのも、初めてだったかもしれない。ソロルの手が荒々しくカリスの顔を掴もうとする。それを見て、カリスはようやく牙を離し、距離を保った。だが、ソロルの怒りはおさまりそうにない。止めようと思ったが、牙から解放された私はただしゃがみ込むことしか出来なかった。
「よくも、よくも彼を!」
ソロルが怒りに支配されている。それを見て、カリスは唸り声をあげた。口元が赤い。紛れもなく私の血であった。食い殺すつもりだったのか、それは分からない。とにかく、牙を真っ赤にしながらソロルを見上げる猛獣の姿は、恐ろしくて仕方がなかった。サファイアもこんな化け物に襲われたのだ。そう思うと、心が震えた。
「サファイア……逃げろ」
朦朧とする意識の中でそう呟くと、ソロルはすぐに戻ってきた。そこへ卑怯にも追撃しようとするカリスに怪しげな魔術をぶつけた。殺す力はないらしく、直撃を受けてものけぞるだけだった。だが、その間に、死霊たちがカリスの相手を引き受けてくれた。
私が見ることのできた光景はここまでだ。瞼が次第に閉じていき、ただ痛みに耐えることしか出来なかった。シルワでは毒矢にも打ち勝ったはずなのだ。それなのに、今は震えていることしか出来ないなんて。
温かな手が流血の続く首筋に触れてきた。痛みを感じて抵抗しそうになったが、すぐに愛する人の声が聞こえ、落ち着いた。
「ゲネシス。じっとしていて」
目を閉じていると、サファイアに看病されているようだった。
「大丈夫。大丈夫よ。あたし達はもうただの生き物じゃないもの。こんな傷、あたしが癒してあげる。だから、行きましょう。安全な場所――二人きりになれる場所に」
どうにか瞼を開くと、私たちや戦うカリスと死霊たちを興味ありげに見つめている人影が見えた。翅人である。コックローチではない。クリケットだ。彼はカリスたちに気づかれないようにゆっくりと私たちに近づいてきた。そしてしゃがみ込んで、ソロルを見つめる。含みのありそうな笑みは、この状況であっても気を許せない。
「お手をお貸ししましょう」
彼の言葉にソロルは落ち着き取り戻したと見え、冷静な声で返した。
「お願い」
短い言葉が合図となって、私たちは翅人の不思議な魔術に囚われていった。人を攫う事の出来るその力に包まれながら、私はしばしの眠りについた。




