6.予定外の出来事
やられた。
呑気に二度寝などしていたからこうなったのだろう。それとも、気づかなかっただけで、じわじわと味見でもされていたのだろうか。
隣人であった夢魔女は、昼過ぎに宿を去ったらしい。ずいぶんと顔色がよかったようだが大丈夫かと翅人の男性従業員から要らぬ心配をされて、腹が立った。
ルーナは心配そうに窺ってきた。恐らく、何が起こったか分かっていない。教えるはずもなく、私は今も体に残っている感覚にただ悶々としていた。
宿の主人からの忠告を忘れていたわけではない。
結界の魔術も知らなかったわけではない。ただ、魔力が勿体なくてケチってしまったのだ。不幸中の幸いをあげるとすれば、ルーナが狙われなかったことだろうか。
後遺症は辛い。目を閉じようものなら、忌々しい悪夢がよみがえってくる。
それに寂しい気持ちにもなった。夢魔というものは人の心の奥底を覗いてくる。私の見た夢は、在りし日の思い出。桃花の姿が甦った。ニューラのもとから盗んだナイフを手に傷つけられる痛みは忠実に再現されていた。だが、痛み以上に悲しみが大きかった。
ルーナに語ったせいだろうか。隣人夢魔がそれだけ深い感情を求めていたのだろうか。私は泣いていたらしい。
どうも気持ちが落ち着かない。
今日一日だけではなく、明日も宿で休むべきだろうか。
全身がだるく、頭痛もするなか、ルーナに部屋を出ないように言いつけ、私は受付へと向かった。
当初の予定では明日、町を去るつもりだった。
コックローチの情報でおおよその日程は分かっていたが、滞在時間を延ばせばいいだけだ。そんな軽い気持ちでいたのだが、思わぬ事態に見舞われた。
「事前に説明を忘れていた。申し訳ないね」
宿の主人は淡々と詫びる。しかし、その目は確かに申し訳なさそうな表情をしていたので腹は立たない。
明日は一日宿に閉じこもりたい。そういう希望の者は恐らく私以外にもいただろう。だが、どうやらそれは許されないらしい。
宿屋の夫婦のせいではない。明日の処刑時刻付近、営業を停止しなくてはならないと町より命じられているからだ。宿ならば客をすべて追い出し、完全に閉めなくてはいけないというからびっくりする。何故そんなことを、と憤る利用者もいるはずだが、宿屋の主人も参った様子だった。不本意ながらそうせざるを得ないらしい。
「何しろお役人の命令でね。例外は病人などの特別な事情のみだと」
「じゃあ、病人がいるっていうことにはならない?」
「お連れの子のことかい? そりゃ無理だね。彼女が健康そのものであることは俺も妻も、この宿の大勢の者も知っている。あんたも悪目立ちしたくなければ、大人しく従った方がいい。俺たちが黙っていたとしても、客が一人でも喋ればおしまいだ」
本当は自分も辛いのだが、それを言うと変に勘繰られそうで言えなかった。きっと隣人の顔色がよかったのは宿の主人や奥さんも見ているだろうから。
大変残念だが、今日一日でどうにか体を休めるしかない。苛立ちは残った。不安なせいもあったと思う。
「……それにしても、どうして」
嘆いてみれば、宿の主人は小声で教えてくれた。
「アリエーテの決まりさ。処刑が執り行われるときは、いかなる営業も監視できない状態となる。だから役人に閉めなければならないと言われれば、素直に閉めなくてはならないんだ。内緒で営業したとあれば、今後よくないことになるだろう。ここは魔族の店。アリエーテ教会のクルクス聖戦士様方に黙認されているところもある。ちょっとした手違いで俺たち皆、広場の主役になっちまう可能性だってあるんだ」
クルクス聖戦士というのは各地に配属される形で世界を守る聖戦士たちのことだ。アルカ聖戦士とは違い、魔物狩りで専門ではなく、各地に住まう民衆の警護や監視をしている。
風紀監視員と影で恐れられているが、アルカ聖戦士同様に善良な魔物や魔族に対して寛容的な者も多く、特に大きな問題に発展しないようなら、魔の血を引く者向けの施設を黙認することもある。
この宿もその一つだ。
彼らに見放され、この宿がなくなってしまうというようなことがあれば大問題だ。今後もしアリエーテに来ることがあったときに困る。
程よく魔の血を引く魔女の私にとってこの宿はそれだけちょうどいいのだ。魔物向けの宿はやはり怖いという気持ちもある。
その前に、客の私やルーナまで危ない目に遭う可能性だってある。
「分かった。それなら明日の予定は改めるわ」
「すまないね。で、どうする? 更新するか?」
「いえ、ついでだから明日はそのままここを発つわ」
休むことが出来ないのなら、これ以上、不穏な町に居続けることはない。
ルーナの興味をひく場所もずいぶんと見たはずだ。もっと心を落ち着けられる場所、ディエンテ・デ・レオンにさっさと向かってしまった方がいい。
体は心配だが、なに、夢魔に襲われたのが初めてというわけではない。人狼を食べておいたのもよかった。それに、寂しいなんて気持ちもルーナさえ居てくれればすぐに落ち着く。
今、考えるべきはルーナのことだ。彼女のためにも去ってしまった方がいい。
「うむ、それがいいだろうね。吸血鬼騒動もまだ収まっていないことだし」
滞在している間にも、吸血鬼による死者が出たと聞いている。遺体の様子から、私が殺した人狼の事ではない。血を吸われて死んでいたらしい。
ならば、明日に処刑される女は無実なのではと言いたい者もいるだろうが、その返答として考えられるのは、仲間がいたとしても女の無実を証明することにはならないというものだ。
判決は出てしまっている。それを覆すにはかなりの労力がいるだろう。本人だけではどうしようもないと誰もが噂している。そして、中には隣人の豚鬼たちのように、人が一人合法的に殺されるというイベントを楽しみにしている悪党までいる。
本当に嫌な雰囲気だ。
まるで町全体が、性によって飢えた状態の魔女の心を宿しているようだった。
「それにしても、可哀想にねえ」
私にしか聞こえぬほどの小声で宿の主人が呟いた。
「可哀想って?」
「明日の主役だよ」
その表現に暗いものを感じた。
「裁判を見たが、綺麗な子だった。まだ二十になったかどうかってところだったはずだよ。名前は……ニフテリザって言ったかな。彼女自身は洗礼も受けているような子だが、異教徒である流浪の民の血を引いているみたいでね、そこがまた気になる者は気になるらしい。彼女の疑いに関して、教皇領からお越しの剣士様が疑問を呈していた。だが、結局、判決はあのように決まってしまって……」
教皇領の剣士と言えば、あの青年のことだろう。
「聖戦士様も苦戦なさっているのね」
「うん、そのようだ。しかし、剣士様でさえ、判決を覆す条件が足りないらしい。所詮、アルカ聖戦士様なんてものは、よそ者扱いなのさ。どうにかならないかと嘆いているところを酒場で観たことがあったが、アリエーテ教会の司祭が味方してくれないとあってはね」
たぶん、どうにもできないだろう。
教皇領より派遣されるアルカ聖戦士の立場は、さほど弱いものではない。各町の司祭と同程度で、クルクス聖戦士よりも上位だと聞いたことがある。それでも、町が相手となれば、たった一人の戦士の意見など通用しないだろう。その言葉が教皇のものであるならばともかく、だ。
同じ身分のアリエーテの司祭が味方してくれないのだ。町の司祭がそんな態度であれば、クルクス聖戦士たちも彼の手助けなど出来ない。クルクス聖戦士は教会に従って動くためだ。どんなに民衆に崇められたとしても、余所から来たアルカ聖戦士ひとりの言葉では死罪となったものを助けられない。
「可哀想だが、誰もかれも自分の身は可愛い。これからもどうにか町で生き続けるためには、見殺しにするしかないのさ」
冷たい言葉のようだが、実を言えば私も同じである。
ニフテリザという若い女。魔族の彼の目から見て吸血鬼でないというのならその通りなのだろう。私たちからすれば、ただの人間を吸血鬼と間違えるなどあり得ない。しかし、吸血鬼にとって最良の獲物である人間たちは、その区別がつかないのだ。そこが最良の獲物たる所以でもあるし、日光に強くなかなか倒れないような、しぶとく逞しい体を持って生まれた恵みの代償なのだと聞いたこともある。
さて、ニフテリザは哀れなものだが、明日は出来るだけ早く宿を発ち、ルーナを連れてさっさと町を出よう。ルーナに悟られぬよう、足早に去らなければならない。間違っても、彼女の姿を見せることが無いように。
なぜなら、怖かったからだ。純粋なルーナが何を感じるのか。そして、見捨てるという私の姿をどんな表情で観てくるのか。それが怖かったからこそ、私はさっさと逃げる気でいた。
準備は早い方がいい。手続きを終わらせると、宿の主人とは早めに話を切り上げた。




