5.二度と戻れない
カリスが唸り声をあげる。喋らなければその姿はまさに猛獣だ。牙を見せつけながら毛を逆立てるその姿は、人間の生命を脅かす存在であることを隠そうとしない。
この化け物に、サファイアは殺された。ただ殺されたのではない。貪られたのだ。美しかった彼女を、かつて引き裂いた化け物だ。忘れようと何度もしてきた。それでも、一度思い出した恨みは増していくばかりだ。
憎い。この種族が憎い。人を信用させ、裏切り、容赦なく命を奪っていく化け物どもが憎くてたまらない。いくら本人たちが個人性を主張しようとも、この恨みだけは変えることがもはや出来ない。
「退け……」
怒りが満ち溢れると、何故か急に体が冷えたような気がした。
「退け、汚らわしい化け物」
かつては違う道も考えた。この女の誘いに乗って、全てを忘れる道もあったはずだ。だが、やはり諦められなかった。諦めることが出来なかった。失ったものを取り戻せる。その魅力には叶わない。やり直せる。愛した人を取り戻せる。全てを捨てる覚悟をしたのだ。私の帰る場所はリリウムではないのだ。
ならば、リリウムと共に生き、この聖女を守ろうとするこの女は化け物でしかない。味方になるのならば大目に見ただろう。それでも、もはやどうにもならない。初めから、我々に分かり合える道などなかったのだ。
剣を向け、私はカリスに告げた。
「この世は地獄だ。それは〈赤い花〉にとっても同じ事。だから、私がこの剣で、煉獄へ送り届けてやろう。それがせめてもの情けだ」
これまで死に追いやってきた者たちの顔が浮かんだ。皆、信じていた。聖女という存在に頼り切っていた。理屈ではない信仰が、彼らに勇気をもたらしていた。しかし、その頼りの聖女は今、この聖地の中でもっとも自らの死を祈っていることだろう。
戦えぬ〈赤い花〉が聖女でいられるだろうか。聖女と呼ばれ続けたのだとしても、その実態は尊ばれているとは言えないものだろう。非道な花売り共が商品を大事にするのと変わらない。彼女には地獄が待っている。
それならば、せめてこの剣で。
走り出せばアマリリスがこちらを見た。他者の動揺を招くその瞳は、迫りくる死を恐れていなかった。むしろ、自ら引き寄せているかのよう。殺して欲しいのだ。死にたがっているのだ。ならば、死なせてやるのが情けではないのか。
だが、カリスは動き出した。まだ諦めていない。狼の巨体が突っ込んできた。避け切ることも出来ず、その体当たりをまともに食らうことになった。太く逞しい脚で突き飛ばされ、一瞬だけ息が止まった。
着地には失敗した。だが、傷は浅い。痛みを堪えてすぐに立ち上がれば、カリスはさらに襲い掛かってきた。怒れる狼の突進だ。しかし、これまで何度も殺してきたのは神の子孫たちである。彼らだって本気でぶつかってきたのだ。それに私は何度も打ち勝ってきた。不可能を可能にするために。そんな力を持つ魅惑の死霊のために。
今やソロルの力になることが私の全てなのだ。戻る道はない。何処にもない。ただ前へ、前へ進まなければ、私のやってきたことが全て無駄になる。サファイアになった彼女と暮らすのだ。新しい世界で。強弱の崩れた革命の世界で。
カリスは執拗に襲い掛かり、肉を噛み千切ろうとする。私がアマリリスに少しでも近づこうとすると、攻撃はさらに激しくなった。安全に花を狩るならば、まずは誰を殺すべきなのか。それは分かっている。だが、焦りがその判断を時折混乱させた。アマリリスをここで逃がせば勿体ない。そんな思いが冷静さを欠かせるのだ。
しかし、焦っているのは私だけではなかった。
「アマリリス! 頼む、どうにか立ってくれ! 今はとにかく逃げるんだ!」
戦いながらカリスはしきりに吠えた。
けれど、アマリリスの反応は鈍い。しゃがみ込んだまま、立つことも出来ない。殺されるのを待っている。殺されたがっている。彼女は泣いていた。ルーナの死に囚われていた。隷従を手に入れた魔女にとっては致命傷だったのだろう。いくら奮い立たせようと、無駄であることは火を見るよりも明らかであった。
「アマリリス……!」
それでも、カリスは叫び続けていた。
「言っただろう、カリス」
そんな彼女に私は呟く。
「そいつは死にたがっているのだ。リリウム教会の玩具になるくらいならば、私がこの手で始末してやる。この剣を用いれば、その魔女は苦しまずに死ねるのだ。全ての〈赤い花〉に待ち受けている生き地獄よりはマシだろう」
カリスが知らないはずはない。人狼らしく、黒い仕事をして生きてきたのならば、〈赤い花〉にまつわる闇の仕事の話を知らないとは言わせない。売られるにしろ、飼い殺されるにしろ、残酷なことは変わりないのだ。むしろ、それが世界の為と本気で思っているリリウムの連中のほうが厄介なはずだ。なのに――。
「やめろ!」
感情的にカリスは叫んだ。
「やめてくれ! もうたくさんだ!」
叫びながら私から離れ、アマリリスの傍に寄り添う。すでに心が死んでしまったようであった聖女の目が、カリスに向いた。その名を呼び、愛犬でも労わるような目でカリスを見つめていた。
「もういい……あなただけでも、逃げて……」
辛うじて、彼女のそんな言葉が聞こえてきた。当然、カリスは応じなかった。
「何人殺してきた。言ってみろ。アルカ聖戦士としての誓いはどうした。愛と平和のために戦ってきたのではなかったのか……!」
狼の姿でカリスは吠える。
愛と平和。笑わせるものだ。誓いは何も守ってくれなかった。ハダスだろうとリリウムだろうと私とサファイア、そしてミールに残酷な運命しかもたらしてくれなかった。神は本当にいるのか。いるとすれば何故、私達の平穏を脅かしたのだ。試練と呼ぶにはあまりにも残酷だ。アルカ聖戦士として生きてきたことの何が尊かっただろう。無二の存在であった家族たちを奪われておきながら。
それなのに何故、私は彼女の訴えに耳を貸してしまっているのだ。迷う感情を振り払うべく、私は答えた。
「今更もう遅い。それにカリス、お前には言われたくない。生きるために罪なき人を殺してきた人食い狼のくせに!」
罵ってみたが、カリスはすぐには食いつかなかった。
「確かに私は人食いだった。だが、人食い狼を減らす方法を教えてくれたのはお前だったじゃないか。平和になれば、魔物たちも人間と共に生きられるのだろう? そう言って、私を教会まで連れて行ってくれたじゃないか!」
「うるさい、化け物めっ!」
カリスが話せば話すほど、感情が激しく揺さぶられる。
ああ、そうだ。カリスをリリウムに届けたのは私だ。アマリリスを保護させたのも私だ。カリスと出会ったばかりの頃は、これからもリリウム教会で、アルカ聖戦士のゲネシスとして生きていくはずだったのだ。
それが、いつ、いつから、こんなことになってしまったのだ。
もう今更遅い。何もかも遅い。私の道は一つしかない。
「カリス、お前は人狼だ。共には生きられない。どんなに人間の味方をしようと、お前は人狼なのだ」
過去の記憶を捨てようとすればするほど、笑いがこみ上げてきた。自嘲の笑みである。私の行く手を困難なものにしているのは、他ならぬ過去の私だったのだと気づいたからだ。皮肉なものだ。だが、ならば尚更、斬って捨てなければ。過去の私は変わるべき私である。現実を前に諦めていた私である。
リリウム教会に所属し、汚らしい数々の事実を知りながら、それでも多くの人々の平穏のためならば仕方ないと、サファイアが死んだ後も、ミールを失った後も、本気で思っていた頃の私の姿だ。
「ああ、お前はよく努力しただろう。人食いの盗賊崩れからよくぞここまで教会の連中に信用されたものだ」
カリスの表情が険しくなる。毛を逆立てる彼女を見つめていると、気持ちが異様なほど高ぶっていった。
「だが、忘れるな、カリス。人狼戦士など連中にとってみれば消耗品に同じ。いまに分かるぞ。私の言っていることが。聖下がどんなに心を痛めようと、この世界は聖下おひとりの御意向で決まるものではないのだから!」
ここまで感情的に怒鳴ったのは久しぶりだったかもしれない。怒りが抑えられず、増長されているようだ。感情の渦はそのまま体の中にいる大きなものに吸い込まれていく。この力でぶつかれば、あの麦色の身体を容赦なく切り裂けるだろう。
「これ以上、私の邪魔をするのならば、今度こそ、その首刎ねてやるから覚悟しろ!」
カリスを初めて斬った時を思い出した。
絶対に傷つけられないと思っていた彼女を斬り殺そうとしたカエルムでの記憶だ。あれから私たちはいがみ合うしかない存在になり果てた。私にはソロルさえいればいい。カリスがアマリリスを諦められない以上、これも仕方のないことだと分かっていた。だから斬れたはずなのだ。しかし、カリスはしぶとかった。まるで、捨てても、捨てても、蘇ってくる昔の記憶のようだった。
それも今日で終わる。これで全てを終わらせられる。ソロルは海巫女を手に入れ、私はローザ大国に戻ってヴァシリーサを殺しに向かう。
剣を構え、全てに別れを告げるべく私は覚悟を決めた。
しかし、そんな時、この空気を一変させる声は響いた。
「ゲネシス!」
呼び声一つで私は動揺してしまった。カリスとアマリリスの後ろに、いつの間にか彼女は到達していた。飛び込むように礼拝堂に入ると、そのまま力を失っているアマリリスを背後から抱き留める。鳶のような目が私を見つめていた。
「グロリア……生きていたのか」
あの場所から此処まで。いや、それだけではない。彼女はジャンヌに誘われたのだ。彼女に見つめられて――それなのに、生き延びている。死霊ではない。特有の雰囲気がない。まだ、たしかに、生きていることがよく分かる姿だった。
長い髪を揺らし、息を切らしながら、彼女は私を睨みつけていた。今更隠すことなんて何もない。彼女は見てきたのだ。旧友の私がやったこと、私の歩んだ道を、全て間違いなく目にしてきたのだ。
「ゲネシス……本当に、貴方が全てやったのだね……」
それでも彼女の声には動揺が含まれていた。
「私たちとの誓いはどうなったんだ……。ジャンヌやピーターにどう償うつもりだ……。彼らは貴方を友だと信じていたのに……。私だって……周囲がなんと言おうと、この目で見るまで、信じていたのに……」
死地へ向かったはずのグロリアが泣きそうな顔でこちらを睨みつけている。生きていたらまた会おうと別れた未来がこんなものになるとは。何より、私も彼女の姿に動揺した。感情を常に抑えているような彼女が、こんなにも女性らしい顔を見せるのはあまりないことだったためだ。
だが、忘れるな。心を奮い立たせよ。
グロリアは確かに旧友だった。だが、共には生きられない。生き方が違いすぎる。それを今、認識した。信仰のために命を捨てさせられそうになっても、離反しなかった時点で彼女は違うのだ。さらには友の姿をし、記憶まで持っているはずの死霊に誘われながら生き延びた。
それはつまり……つまり、ジャンヌの姿をしたソロルをあの剣で斬り殺したということではないのか。
私を前に平然とたてるこの友人は違いすぎる。
様々な感情が交錯し、私は剣を構えたまま後退した。
恐れてはならない。だが、どんなに言い聞かせようとしても、一度崩れた精神のバランスを立て直すのは困難だった。
「……お前には分からないだろう」
混乱と迷いに心が負けそうになりつつ私は吐き捨てた。価値観の違う女。それでも、彼女の言う通り、かつては共に希望を信じた仲間だったのではないか。思い出しかけて、私は心を震わした。
もう二度と、あの過去には戻れない。ピーターとジャンヌが死んだからではない。グロリアが生きていようと、もう二度と、あのように笑い合うことは出来ないのだ。
いいや、だからと言って飲まれてはならない。私にはソロルと共に生きる未来しかないのだから。
「愛を知らず、戦い続ける道を選んだお前に……おれの気持ちなんて分からないだろうよ」
怯えを払いのけようとしても、自分の声が震えていることは自覚していた。カリス、そして、グロリア。この二人の女の存在が異様に恐ろしく思える。弱き聖女の比ではない。それとも、守られている聖女の存在自体が私を惑わしているのか。
どちらにせよ、これ以上、ぶつかり合う気になれなかった。
後退し続け、踵がリヴァイアサンの亡骸に触れた。このまま友に切り捨てられるのか。かつて好意すら抱いた狼によって妻のように食い殺されるのか。
しかしそこへ、声は聞こえてきた。
――ゲネシス。もういい。あなたはよく頑張ったわ。こっちへ来て。
この混乱を察してくれたのか。サファイアの声が心強かった。
「……呼んでいる。あの人が」
彼女の隣にいなくては。この動揺を治めてもらいたかった。慰めて、貰いたかった。
「行かなくては」
「ゲネシス、待て!」
グロリアがすぐさま制止しようと叫んだ。しかし、その声にむしろ背中を押された。一刻も早くここを抜け出したかった。信じる道は一本しかない。正しい道はこれしかない。ソロルの元に行こう。今の私が共に歩める人の元に行こう。これが正しいと信じさせてくれるあの人の元に。
逃れるように聖マル礼拝堂の裏口を飛び出てしばらく、その後をつけてくる気配に気づいた。人ならざる気配。これはきっと、カリスだ。だが、確認はせずに、そのまま無視をした。
連れて行ってやろう。この聖地の終わりを見せてやろう。
そこでも邪魔をするならば、今度こそは――。
だが、そんな未来を前にして、果たして今の自分は本当にカリスを斬れるのだろうか。
分からないまま、私はソロルの元を目指した。




