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AMARYLLIS  作者: ねこじゃ・じぇねこ
8章 リヴァイアサン

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4.愛を奪われた者

「もういいわ、ゲネシス。素晴らしかったわ」


 愛しい人の声が聞こえて、やっと私は剣を下した。気づけばリヴァイアサンは死んでいた。美しい鱗が何枚も剥がれ、散った花びらのように血の池の上に浮いている。

 リヴァイアサンは結局、私を一切傷つけなかった。悲しそうに鳴きながら、私の剣によって鱗と肉を削がれていった。そのことに気づいたのは、彼女がもうどんな姿をしていたのか分からなくなってからだった。


 罪悪感。慈悲。後悔。そういったものが浮かぶわけではない。ただ、その事実だけが深く頭に刻まれたのだ。


 聖マル礼拝堂の床は竜の血で滑りやすくなっている。清らかな水が流れていた水路はすっかり血が混ざってしまった。

 生臭さと鉄の臭気が湿気に混じり、異様な世界へと変貌してしまった。そんな中で、私はふと感じた。体の中にあった違和感が消えた。二体の怪物たちのごろごろとした存在感が、すっきりとしているのだ。代わりに生まれるのは吐き出したくなるほどの英気であった。今の自分であれば何であっても叶いそうだ。そのくらいの万能感が花開いていた。


 後ろに立っているはずのソロルを求めて振り返る。

 彼女は無能な聖女をしっかりと捕まえたまま、私に言った。


「これで海の供物を守れるものはもういない。安心して。ゲネシス。もうすべて終わるの」


 そして、表情を変えて手に入れた獲物をこちらに示す。


「それより、見て。あなたの大嫌いな魔女よ。これからの先の大仕事のために、まずは練習をしましょうか」


 大嫌いな魔女。たしかに魔女は嫌いだ。ヴァシリーサにミールを奪われて以来、その気持ちは変わらない。だが、躊躇ってしまうのは何故だ。屠られる前の怯えた兎のようにアマリリスはこちらを見つめてくる。濃褐色の目が心を惑わしてくる。それが、聖女というものなのか。


「〈赤い花〉……汚らわしい魔女とはいえ、長年保護を命じられてきた」


 煮え切らぬ私にソロルが即答する。


「あなたはもうアルカ聖戦士じゃない。歪みだらけのリリウム教会の命令なんて、もう二度と守らなくていいの」


 優しい声だったが、苛立ちを感じていることが分かる。その気配を察し、私は気持ちを入れ替えた。聖女の力で惑わされているのだとすれば、克服しなければなるまい。ここまで重ねてきたのだ。ヴァシリーサを倒す前に、サファイアを取り戻す前に、わが身を滅ぼすような真似はしてはいけない。


 もう一度、敢えて、アマリリスの顔を見つめてみた。かなり蒼ざめている。死を覚悟しているのだろう。その様子は、私の憎むヴァシリーサのイメージとは全く重ならない。練習にもならないだろう。だが、私はそれでもよかった。


「その剣で貫きなさい。でも、注意して。〈赤い花〉を傷つけては駄目」


 ソロルが楽しい遊びを説明する少女のように告げる。


「君は、その〈赤い花〉が欲しいのか?」


 訊ね返してみれば、ソロルの笑みは深まった。


「ええ、そうね。あたしを愛しているのなら、その証に美しい花を頂きたいの」


 美しい花を記念に。


 かつて、真っ赤な薔薇をサファイアに贈ったことがある。目の美しさに似合う名前。そのために青くて美しい花を探したが、サファイアに相応しいほどの青はなかった。だから、違う色を選んだのだ。赤は彼女に映えた。

 あの時、サファイアは嬉しそうだった。枯れるまでその薔薇を愛でてくれていた。


「そうか……君がそう言うのなら」


 剣を抜き、獲物を見据える。何をされたかは知らないがソロルの力に抗えないらしく、血の気の引いた顔でこちらを見つめるばかりだった。無抵抗の女の胸元を切り裂くのだと思えば躊躇いも生まれよう。だが、それが魔女であるならば――何より、愛する人の望んでいることならば、躊躇いなど消してしまわねばなるまい。


 アマリリスの息があがる。その胸元を生きながら裂く時が迫っていた。


 だが、そんな時だった。


 聖マル礼拝堂の裏口が突然開かれたのだ。騒々しい物音を立てながら誰かが飛び込んできた。竜人戦士かと思って身構えるも、そうではない容姿が見えて呆気にとられた。そこに立っていたのは、あまりにも戦いの印象とは無縁な少女の姿だったのだ。

 真っ黒な髪、黄金の目。幼さの残る顔つき。我が目に飛び込んできたのはそんな特徴だった。アマリリスに気づく。アマリリスだけを見つめていた。そして、そんな少女の出現にもっとも驚愕していたのは、他ならぬアマリリスであった。

 あれが誰なのか、私はだんだんと察しがついた。


 ――やっと来たわね。


 くすりと笑う声が頭の中に響く。


 ――死霊たちに探させたのよ。ご主人様の危機にじっとしていられるわけがないもの。


「だめ!」


 ソロルに捕まったまま、アマリリスは必死に叫んでいた。


「逃げなさい、ルーナ!」


 ルーナ。その名前で確信が持てた。アマリリスに愛される隷従。聖女の弱点だと言われている存在。主従の魔術というものがどれだけの拘束力を持つのか等、知るわけがない。ただ、あれだけ助言されたのだ。試してみない理由もない。

 それに、アマリリスはこの様子だ。まるで我が子の危険を察知した親のように、必死になっている。しかし、隷従もまた主人を見捨てることが出来ないと言われていた。その通りらしい。どう見ても絶体絶命であるアマリリスを前に、ルーナは全く逃げる様子を見せなかった。


「お願い、ルーナ……逃げて!」


 すべてがソロルの思惑通りだった。そして私はソロルに従うだけ。彼女の為ならば、魔物とはいえ無力なだけの少女の命も奪えるだろう。


 だが、何か忘れていないか。この光景――アマリリスの泣き叫ぶ姿とその声。何か忘れかけていた大事なことを想いだしそうになる。これは、何だろう。いつか見た光景に似ている。いったい何の光景だっただろう。思い出すべきことだっただろうか。


 しかし思い出すよりも先に、ソロルの声が響き渡る。


「いらっしゃい、〈金の卵〉のお嬢さん。ちょうどよかったわね。あなたの“ご主人様”を今からいただくところなの」


 ルーナの目が見開かれる。驚いたその様子は可憐な少女にしか見えなかった。だが、その直後、彼女の表情は一変した。黄金の目が煌き、怒りを露わにしている。弱くとも、都合がよくとも、〈金の卵〉は魔物である。人間にも扱える家畜であろうと、〈金の鶏〉たちから受け継いだ魔物の血は意外な形で残っているものなのだろう。


 小さな虎のように、あるいは凶暴な猫のように、彼女は威嚇してきた。


「アマリリスを返して!」


 直後、彼女の姿は少女ではなくなった。〈金の卵〉の不安定な魔力がその形を変えていく。立派な黒豹へと変貌するなり、こちらに飛び掛かってきた。野蛮な猛獣になり切って、主人を捕らえるソロルの喉笛を噛み裂くつもりだろう。

 放っておくわけにはいかなかった。


「やめて、お願い! ルーナ、逃げて!」


 アマリリスが叫ぶ。だが、ルーナは止まらない。行く手を阻み、剣を向けてもその怒りは静まらなかった。

 好都合だ。あちらから向かってくるのならば、切り捨てるだけのこと。


 どんなに野蛮であっても、凶暴であっても、〈金の卵〉は無力だ。不意打ちされれば殺されることだってあるだろう。運が悪ければ失明などの大けがもあり得るかもしれない。だが、種というものは残酷だ。驚異的な身体能力や知能があったとしても、鶏は鶏。熊にはなれないのだから。


 しかし意外なことに、ルーナを殺すのは容易ではなかった。怒りに満ち溢れていても、私に斬られれば死ぬことくらい分かっていたのだろう。黒豹の姿で突進していた彼女も、切りかかれば瞬時に姿を変えてそれを避けた。ある時は子猫に、ある時は鴉に、ある時は鹿に、そして、ある時は狼に。彼女の思いつくままにその姿は変わっていく。〈金の鶏〉、〈果樹の子馬〉、鳥人、竜人、角人。その多彩な能力に感心しつつも、すみやかに命を奪えぬことに苛立ち始めた頃、ソロルの声が聞こえてきた。


 ――剣を。


 短い命令に体が動いた。剣が何かに当たる。金属のようだったが、よく分からなかった。アマリリスが何かしたのだろう。だが、何しようと無駄だ。いつまで抵抗が続くか。それだけでしかない。ルーナが考えを変えて逃げようとしたとしても、追い付いて斬り殺すまで諦めはしない。


「ゲネシス、やりなさい!」


 ソロルの命令が下った。


 これまで体内で蠢いていた異物感の代わりに、圧倒的な力の波がひとつにまとまってあふれ出してきた。剣を持つ手が熱く、指輪も熱い。三神とかつて呼ばれ霊気溢れる獣たちの力が、ソロルの声に導き出されていた。おそらくそれでも完全とは言えない。だが、目の前の〈金の卵〉を屠るくらいなんでもないだろう。


 そんな私を正面から見て、真っ黒な雌獅子のような姿をしていたルーナの目に怯えが宿りだした。先ほど見た人間の少女の姿へと変わり、震えながら後退し始めた。抵抗する気が失せたのだろうか。ならば今度こそ殺せるはずだ。剣を手に迫りながら、またしても私の脳裏で何かがよぎる。


 何かに似ている。だが、思い出せない。

 何か、大事なことを、大事な感情を、忘れてしまったような気がするのだ。


 しかし、違和感を解消する前に、ルーナが動き出した。もはやこれまでと悟ったのか、それとも諦めきれなかったのか、少女の姿で命乞いをするかと思われた彼女が、再び床を踏みしめ、黒豹へと姿を変えたのだ。最後の一撃に賭けたのだろう。高く、高く跳躍し、私めがけて突っ込んできたのだ。

 その姿はまさに猛獣だった。少女のような可憐さは何処にもない。そして、猛々しくありながら、それを切るのはあまりにも簡単だった。


 確かな手応えと、短い悲鳴があがった。


 生温かい鮮血が手にかかり、その感触を深く味わう前に背後で黒豹の巨体が床にたたきつけられた。振り返ればすでにその姿は少女のものに戻っていた。肩で息をしている。震えている。まだ生きているらしい。一撃で死なせてやることは叶わなかった。


「やりなさい」


 再び命令が下り、私はルーナを見つめた。


 これはいつか、彼女が辿るはずだった道だ。〈金の卵〉に生まれた以上、その血を残してから聖油にされるのが彼らの運命だ。世界の平和のために、彼らは消費される。それがたまたま〈赤い花〉に誘拐され、主人を手に入れ、その主人が聖女になっただけのこと。

 しかし、聖女が死ねばどうなっていただろうか。リリウム教会には光と闇がある。眩いばかりの人間もいれば、その眩さの影で非情な選択を恐れない者もいる。多くの善のためにといつかまた〈金の卵〉としての役目を担わされたとしてもおかしくない。

 それに、こうなってしまっては一緒だ。今のルーナは死ねずに苦しんでいるだけ。早く仕留めてやるのが元聖戦士として辛うじて残っている良心というものだろう。


 剣を振り上げると、アマリリスの悲鳴が聞こえた気がした。


 ――どこかで、この光景が。


 思い出せぬまま、私はルーナの命を奪った。


 これで終わりだ。単なる家畜相手にずいぶんと手こずらされたものだが、とにかく終わったのだ。冷たくなっていく少女の亡骸を見つめていると、ソロルが声をかけてきた。


「ゲネシス、他のお客さんが来てしまうわ。早いところやってしまって」


 そうだ。仕事自体は終わってなかった。

 見れば、ソロルの傍で真っ青な顔をした聖女が座り込んでいた。その目はルーナの亡骸を見つめたまま。クリケットの目論見は当たったらしい。主従の魔術のことなど魔人ではない私には何も分からないが、隷従の死が魔女の心を拘束した。


「あたしは先に行く。老いぼれ婆リヴァイアサンはもういないもの。代わりにマルの生まれ変わりに教えてやらなくては。新しい主人が誰なのか、抱きしめて教えてあげなくては。だから――」


 ソロルが微笑みながら、アマリリスを指さす。逃げることも、抵抗することも出来ず、ただ茫然としているだけの聖女がそこにいた。


「その子の解体をよろしく」


 ソロルは冷たくそう言った。


「〈赤い花〉を抜くだけでいい。傷つけないように注意するのよ。じゃあ、早く来てね。愛しているわ、ゲネシス」


 その言葉尻だけが生前のサファイアにとてもよく似ていた。


 ソロルはゆっくりと立ち去っていく。立ち向かう者の気配はない。いたとしても、死霊たちが彼女を守ってくれるだろう。そう信じて、私はゆっくりとアマリリスに近づいていった。その目がじっと私を見つめてくる。聖女の姿には気をつけろとソロルは言っていた。たしかにおぞましい。ただの女にしか見えないのに、見つめられると心の根底が揺るがされる。恐ろしい気持ちがまたしても沸き起こり、焦燥感が生まれた。


 早く殺さねば。


 だが、アマリリスの方は戦う気力を完全に失っていた。愛した魔物の死を受け入れられないのだろう。呆然としているが、その姿は悲痛そのものだった。

 気づけば私はそんな彼女に話しかけていた。


「泣いているのか?」

 ――泣いているのね?


 ほぼ同時に、いつかの記憶がよみがえる。


「悲しんでいるのか?」

 ――悲しいのね?


 アマリリスはただ見つめてくるばかりだ。その姿は誰かに似ている。誰だ。誰だろう。


「苦しんでいるのか?」

 ――苦しいのね?


 呆然としたまま哀しみの中で私の姿を見つめ続けている。ああ、そうだ。この姿は。


「待っていろ、すぐに楽にしてやるから」

 ――すぐに楽になるわ。あたしを信じて。


 そうだ。この姿は私に似ている。ソロルに初めて話しかけられた時の私だ。美しくて無邪気なだけの義弟ミールを奪われ、成す術もなく泣くしかなかった情けなくて仕方のない昔の私自身の姿であった。


 ああ、なんて……なんて空しい姿なのだ。

 早く消し去らねば。


 だが、その時だった。


「そうはさせない!」


 激しい咆哮と共に割り込んでくる者が現れたのだ。その声、その姿に、私は何故か目を細めてしまった。剣を下ろし、しばしその再会を味わう。奴が来た。幾度となく私の行く手を阻んできた忌々しい魔物の女が。


「カリス……」


 その名をアマリリスが呟くと、彼女は答えるようにゆったりと尾を振った。そして私を、心より憎しみを込めた目で睨みつける。その姿を見ていると、かつて彼女が親しげに話しかけてきたときの事を何故か思い出した。

 そんな過去などなかったかのように、カリスは吠えた。


「私が相手だ!」

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