3.怒れる竜
道はただ一本だ。目印などいらない。歩む私の心を引き寄せる圧倒的な霊気が行く手にある限り、私は迷ったりしないだろう。それに、床には血の跡が続いている。死霊に食われかけながら逃れたベドジフという戦士のものだ。出血は酷い様子で、そう長くはもたないだろう。しかし、彼はしぶとく歩み続けていた。
その背中が段々と見えてきた。同時に、リヴァイアサンを隠す場所も。その周辺にたくさんの人影が見える。人、と呼ぶべきだろうか。純血の人間の気配はしない。そのいずれも、人外の血が濃すぎるほどの戦士たちだった。
彼らに向かってベドジフが訴えかけた。
「敵襲……敵襲です……死霊たちが……たくさん――」
安心してしまったのだろうか。そのまま倒れ伏してしまった。待っていたとばかりに周囲から私達の仲間が現れた。複数体で彼を囲んでいる。まだ息はあるだろうが、こうなってしまえばただの新鮮な肉でしかない。
だが、奴らは諦めなかった。
「怯むな! ヴィトゥス、アントニウス、減らせ!」
猛々しい女の声が響き渡ると、待ち構えていた戦士たちが動き出した。二名の黒い竜人戦士である。対して、現れたばかりの死霊たちはいずれも人間の肉体しか持っていない。いかにソロルに同調する者たちとは言え、力差は歴然だった。
悲痛な悲鳴をあげながら、死霊たちは竜に狩られていく。その巨大な武器は聖具であろうと禍々しく、仲間たちの死に際はまるで弱者でしかない人間たちが異形の者たちに容赦なく殺されているようにしか見えなかった。
半分以上があっけなく減らされていくのが見えた。駆けつけるべきか、迷う私にソロルの囁きが背後から聞こえてくる。
「あなたが焦っては駄目。仲間たちはいつだって戻れるのだから」
騒動の中で、戦っていたヴィトゥスとアントニウスのいずれか金の鬣を持っている方が、ベドジフの倒れている辺りにしゃがみ込んでいる。それを見て、ソロルが――サファイアが私の前へと出て行った。静かに歩みながらその手で指示を送る。すると、新たな死霊たちが再び召喚された。
「ルノー、ユリアン!」
扉の前を守る竜人の女隊長が次なる号令を下した。増員は結構だが、果たしていつまで持つのか。死霊の数が勝るか、竜人たちの体力が勝るかの勝負だ。だが、それを見届けるより先に、サファイアは歩み寄っていった。危険すぎる大胆な行為に私は呆気に取られてしまった。
その視線が一方に向いている。引き寄せられるように、求めているように。最初は海巫女だと思った。私がリヴァイアサンを求めるように、彼女も海巫女の気配に引き寄せられているのだと思った。だが、違う。その視線の先にいる者をよくよく確認した途端、私の心に衝撃が走った。心臓に杭でも打たれたかのような苦痛だった。それだけ情動がおこり、混乱が産まれそうになった。
サファイアが見つめていたのは一人の女だった。竜人の女隊長ではない。その近くで竜人戦士と死霊たちの戦いを怯えたように見つめている女だ。栗色の髪と濃褐色の目は派手な外見とはいえない。しかし、着せられている衣服やただよう霊気は隠せないものがあった。何よりその手にはまる指輪の煌き。そしてそれとなく漂う花の香りの気配が、彼女が何者であるのかを示していた。
きっとあれがアマリリスだ。〈赤い花〉の魔女。
聖女扱いされている哀れな女がそこにいる。サファイアが油断するなと言った相手だと思い出し、私は慌てて視線を逸らした。直視してはいけない。その意味がよく分かった。あれは他人の心を惑わす。絶対というものの根底を揺るがしかねない存在がそこにいた。
今はただサファイアの出現に怯えているようにすら見えた。だが、あの花を摘むには一工夫必要なのだ。鍵となるのは彼女の愛でる少女。今はここに居ないようだが、ソロルはきっと見つけ出せるだろう。
「ヴィトゥス、いったん引け! 怪我人と共に中へ!」
女隊長の命令が響くと、サファイアの表情がやや変わった気がした。逃がすのをよしとしていない。それならば、動くのは今だ。
走り出すと体が妙に軽かった。聖女への動揺はあったが、だからと言って見つめるだけで力そのものを封じられるというようなことはないらしい。おかげで、竜人たちに挑むことに少しの躊躇いも生まれなかった。
「奴だ! 裏切り者だ!」
竜人の誰かが叫び、斬りかかってきた。
ベドジフを抱えた戦士は無視して逃げようとしている。どれを狙うべきか。いや、どれでもいい。多すぎる戦士の数を減らすのだ。忌々しいことにこいつらは殺したところで仲間にはならない。だが、邪魔になるくらいならば多少の手間はかけるべきだ。
怒声と共に斬りかかる竜人戦士を避けて、剣を払った。だが、さすがに動きがいい。名も知らぬその戦士は反撃を上手く受け流した。間違っても彼らの矛先がサファイアを傷つけることがないように、守りつつ、攻めた。そんな私を助力するように、サファイアは次々に仲間を呼びだした。こんなにも人が死んだのか。ああ、そうだろう。死にたての者もいるのではないか。それだけこの聖地は血の臭いが濃い。
「リリウムの紋章を今すぐ捨てろ!」
怒りに満ちた声と共に竜人戦士の一人が襲い掛かってきた。名前は分からない。その色も竜人によくいる緑色だ。だが、猛々しさや血の気の多さはよく目立つ。こういう相手はやりやすい。武器も大きく、隙も大きい。竜人の特長はその力強さと守りの硬い皮膚にあるが、意外なことに訓練を積んだ人間戦士ほど機敏に器用に動けるわけではないのだ。
それに私はもはやただの人間ではない。ジズが、ベヒモスが、彼の命を奪う手助けをしてくれた。
聖剣の刃が彼の腹を捕らえ、そのまま引き裂いていく。鱗も鎧も硬いはずだが、剣はおれそうにない。神獣と呼ばれたこともある者達の恩恵と、指輪の効力があるためだろうか。防御の厚いことで有名な竜の鱗も、私の剣の前には無力だった。
「ユリアン!」
声が響くと同時に、斬った男は倒れていく。この場で戦う力を失えば、あとは消費されるだけである。
そこへ女隊長の怒声が響いた。
「大罪人め!」
とうとう彼女も動き出す。聖女だけを扉の前に残して、こちらに向かってきた。
――怪しいわね。
サファイアの声が頭の中で聞こえてきた。
――扉を目指してみて。あたしが守ってあげるから。
囁かれ、私はさっそく従った。女隊長が殺気立った目で私を見つめていたが、死霊の壁は厚い。彼らは死を恐れずに私の防具となってくれている。下手をすれば、彼女と剣を交えることなく扉にたどり着ける可能性だってあるのだ。
だが、そこへ別の竜が突っ込んできた。たしかルノーと呼ばれていた竜人だ。
命を捨てて挑んでくるその猛々しさだけは感服するほどだ。やはり竜というものは怒らせると怖いものだ。だが、そうであっても、私を止めることまでは出来ない。遅すぎるのだ。あっさりと切り捨て、道を開いた。扉が見える。その前には聖女がいる。直視してはいけない。直視すれば私はおかしくなってしまう。踏みとどまりそうになってしまう。それが今は何よりも恐ろしかった。
私は何のために殺戮をしてきたのか。何のために悲鳴を産んできたのか。ここでやめれば何もかも無駄になる。未来を手に入れなければならないのだ。だから、聖女とあがめられるあの魔女を見てはならない。
――来るわ。構えて。
サファイアの声が聞こえ、私は反射的に剣を構えた。何かが見える。とてもゆっくりだ。自分の動きすら遅く思えるが、それだけに対処は出来た。銀色の線がいっぱいある。切れ味の良さそうな糸である。剣では切れなさそうなそれだが、構えて弾けば確かな手応えとともに緊張感は去ってしまった。これは魔術だ。魔女が生み出した糸が私を狙ってきたのだ。殺すための魔術。迷うことなくこちらに向けてきた。
あの女は危険だ。
その思いが、足を動かした。走り迫る私に魔女が動揺を見せる。だが、私達の間に割り込んでくる者はあった。女隊長である。あれほどあった死霊たちの壁を越えてきたのだ。目が覚めるほど眩い黄金の鬣に、禍々しく赤い目が印象的だった。古のイリスの伝説に出てくる蛇女のように、彼女は牙を見せながら襲い掛かってきた。
「よくも可愛い部下たちを!」
それはカエルムでも、シルワでも見た光景だった。部下を助けるべく死霊の群れに突っ込んでいったカルロス隊長の事も思い出す。誰も彼も他人の事で感情的になるものだ。そこは私も同じだろう。サファイアの為に戦ってきたのだ。彼女たちの無念を少しでも晴らすために、世間をひっくり返したい。そのために敵対する者がいるならば、憎しみあい、いがみ合うことは避けられない。
大剣を手に襲い掛かって来る彼女を飛びのいて避ける。そこを狙っていたらしく黒い竜人が武器を構えていた。視界に入るなり、まずは彼を斬りつけた。硬い鱗の感触が手に伝わる。だが、大した問題にはならなかった。
「くそ……アントニウスまで……」
「メリュジーヌ隊長! どうかご無理はなさらずに!」
何処からか竜人の声が聞こえてくる。動ける者か、そうでない者かは分からない。だが、すぐに気配は感じ取った。女隊長――メリュジーヌの援護をしようと忍び寄っていた最後の一人である。たしかヴィトゥスと呼ばれていた男。ベドジフを連れて逃げようとしていたはずだが、連れてはいなかった。
諦めたのだろうか。そうとしか思えない短時間だ。どうして諦めたのか。その理由は分からないでもない。死霊は溢れ、人の血を引く者たちは次々に肉となる。新鮮な人の魂は彼らが心から求めるものだろう。魔物でしかない竜人と違って、ベドジフの死は意味のあることなのだ。
思考に耽っていると、メリュジーヌ隊長が迫ってきた。油断ならない相手だ。隊長なだけあるだろう。他の者達のように構えていては、本当に斬り殺されるかもしれない。だからこそ、彼女の仲間は邪魔だ。
「ヴィトゥス! 退け!」
いち早くメリュジーヌ隊長が気づいて指示を送るが、間に合わせてやるわけがない。即死でもいい、即死じゃなくてもいい。立って戦う能力さえ奪えればそれでいい。そんな思いを込めた我が剣が彼女の部下を切り裂いていった。死霊たちの見守る中で、また一人の竜人が倒れ伏した。
だが、斬った手応えに喜んでいる場合ではなかった。
――また来るわ。
サファイアの声が聞こえ、私は直感に従った。まるで導かれたかのように後退した直後、周囲に居た死霊たちがまとめて何かに貫かれた。巨大な槍に見えたが、それも一瞬にして消えてしまった。放ったと思われる人物を直視しそうになって、慌てて目を逸らす。そこへメリュジーヌ隊長が挑んできた。一撃一撃を受け止めながら、その赤い目を見つめる。女とはいえ竜人である。恵まれた身体能力は人間の男性にも勝ると言われている。もしも私がソロルの援護を受けていなければ、この場であっさりと殺されているのだろう。
だが、こんな場面はもう何度も経験してきたのだ。リル隊長だって、ミケーレ隊長だって、ジブリールだって、フィリップだって、こうやって死んでいった。この世でもっとも戦いに秀でた怪物たちの血を引く男共の命を吸い取ったこの剣が、隊長であろうと雌竜に負けるとは思えない。
ましてや彼女には霊気がない。聖女に選ばれた女のように精神を惑わす力はない。ならば、力と力のぶつかり合いですべてが決まるはずなのだ。彼女の大剣とその力に命を脅かされるたびに、猛りを呼び覚ました。
「終わりだ……」
メリュジーヌ隊長が勝負を仕掛けてきた。
――ここだ。
渾身の一撃をどうにか避けて、指輪と、ジズと、ベヒモスの力を込めて、その鎧の隙間を狙って突き出した。鎧も、鱗も、硬いはずだ。だが、我が力を弾くほどの強度はなかったらしい。大きな手応えと圧力に耐えて力の限り突き出せば、その刃は面白いほどに腹部へと入り込んでいった。メリュジーヌ隊長が目を見開いた。牙を見せながら唸りだす。その表情を注意深く見つめながら、私は突き刺した剣を思いっきりぐるりと回した。
「が……があ……く……くそ……部下たちの……仇を……」
剣を引き抜く前からその体は崩れ落ちていく。赤い目が恨むように世界を映しているが、私の顔を見上げることも出来ないらしい。腹部を抑えようとしているのに気づき、剣を抜いてやった。金色の鬣を揺らしながら、彼女は前のめりに倒れていく。床に頬を付け、目を開いたまま、それでもメリュジーヌ隊長は必死に息をしていた。大剣を手放そうとしない。まだ心は戦おうとしているのだろう。体がもう二度と動かないと分かっていても、私の息の根を止める気でいる。
生命力あふれるその目から光が消えるまでどのくらい待てばいいのか。見れば見るほど、高貴なはずの雌竜の姿は哀れだった。
私にできる慈悲は限られている。剣を構え、その首を見つめる。鱗が薄っすらとある。人間のものよりも硬い皮膚は剣を弾くほどのものだろう。それでも、力を与えられた私ならば、渾身の力を込めてその首を落とすことくらいは出来るかもしれない。
だがそこへ、ソロルによる鋭い指示が入った。
「下がりなさい」
その声に体がとっさに動く。直後、私の立っていた位置に巨大な鋏が現れた。何もない空を切って消えたが、もしも反応が遅ければ切り落とされていたのは私の首だっただろう。誰がやったかなんて分かりきっている。
――考えがあるの。
ソロルの声が響く。
――あなたは彼女の気を引いて。竜たちを傷つけなさい。
その言葉に従い、私は飛び退いた先に転がっていた、生きているか死んでいるかも分からない竜人戦士の身体に剣を突き刺した。刺してみれば反応のある者もいれば、全く反応のない者もいる。だが、そんな結果はどうでもいいのだ。私の目的はただ一つ。聖女の注意を引くことだった。
「やめて!」
狙い通り、彼女は私を憎んだ。今度こそ殺そうと魔力を溜めている。今度はどんな魔術で私を狙おうというのか。しかし、その魔術が何だったにせよ、発動することはなかった。心を惑わされることを覚悟して、私は聖女のいる場所を見つめた。いつの間にかソロルがその背後に立っている。青い目で愛おしそうに聖女を見つめ、その右腕を掴み上げた。
たったそれだけで、アマリリスはもう戦えなくなってしまった。
怯えている。ソロルを恐れている。その目はすでに自分の末路を映しているようだった。
「おいでなさいな」
私に対してか、アマリリスに対してか、どちらともつかない眼差しでソロルは言った。
そして、今度はじっと扉を見つめてから、私を誘うように視線をこちらに向けてきた。
「この中よ」
その言葉に引っ張られるように、足は動き出した。周囲ではまだ誰かのうごめきが聞こえる。死霊たちは静かに見守っており、まだ死ぬことを許されていないらしいメリュジーヌ隊長がもがきながら私の行く手を阻もうとしている姿がちらりと見えた。だが、いずれも私の歩みを止めることは出来なかった。
扉は固く閉ざされている。しかし、私には分かる。この中にリヴァイアサンがいる。聖マル礼拝堂の扉である。高ぶる気持ちを抑える私にソロルの号令が下る。
「さあ、行きなさい」
その声に従い、私は扉に手をかけた。触れてみれば異様なまでにあっさりと開き、中に漂う圧倒的な気配に胸が躍る。ジズが、ベヒモスが、彼女を求めている。殺しに来たのではない。迎えに来たのだ。この場所は血と肉と臓物で穢れるかもしれない。だが、魂は私が綺麗なまま守ってやろう。
水が滴り落ちる音と湿気を含んだ空気を味わいながら、私は前へと進んだ。聖壇の位置にある祠へ。古より竜を祀ってきたその場所へ、剣を掲げるために向かった。
さあ、聖剣よ。〈シニストラ〉よ。一緒に最後の狩りをしよう。
そして今、美しき鱗に覆われた聖竜は現れた。




