8.最後の聖地へ
シルワ大聖堂は完全に死霊の場所となった。
逃げ遅れた者達はかなりいたらしく、何処に隠れていようと死霊たちは生者の匂いに敏感だった。あらゆる場所で食い殺される者達の悲痛な叫びがあがり、次々に死の女王の配下は増えていった。
やがて、シルワ大聖堂でも、インシグネ御殿でも、悲鳴は聞こえなくなった。隠れていた者たちは追い出されたか、あるいは食べ尽くされてしまったのだろう。そんな頃合いを見計らって、死霊の女王は新たな指示を送った。
都を襲え。
その言葉に死霊たちは分散した。ある者たちはシルワ大聖堂とインシグネ御殿に留まり、またある者たちは都を目指して進軍する。そこまで見届ければ、あとはどうでもよかったらしい。沈黙に包まれたシルワ大聖堂を歩み、地巫女の私室を見つけて入り込んでいく。そんなソロルの後に続くと、彼女は地巫女がいつも座っていただろう椅子に腰かけ、姿見をぼんやりと眺め始めた。
「シルワの大仕事がやっと終わったわね」
呟く彼女の声は弱々しい。壁の向こうでは死霊たちが息を潜めている。生き残りを探しているのだろう。各々がそれなりに忙しく生者の世界を動き回り、ここで時を潰す私たちに干渉してくる様子はなさそうだ。
呼び出されているのはソロルと同じ死霊たちであるはずだが、明らかに立場の違いを感じる。巫女の力を手に入れているためか、はたまた強い個体に対する畏怖なのか、本や口頭で学んだ同調現象というものをようやく真の意味で知ることが出来た。その様子はまさに王制の中で生きる人間たちのようである。女王たるソロルの威厳は、並々ならぬものだ。カエルムの時よりもその傾向は強く感じた。二人の巫女を手に入れて、ソロルもそれだけ強くなっているのだろう。
だが、今だけは一人の女のようだった。疲労を感じているような表情で鏡を見つめているその姿には、勇ましさが残っていない。
「これで残る場所はイムベルだけ」
小さな声で彼女は言う。
「イムベルでも同じように事を済ませれば、いよいよあなたの願いを叶えてあげられるわ。ヴァシリーサを倒して、サファイアを蘇らせるの。楽しみでしょう? ……あたしも楽しみよ。全ての巫女の力を手に入れれば、この世界を変えられるもの。そうして、死霊たちの平穏な国を築くの。冷たい死後の世界ではなく、温かい地上の世界で暮らせるように」
「そうして君は女王になるのだね」
声をかけると、ソロルが鏡越しに私を見つめてきた。青い目の輝きは何故だか切なげだ。サファイアにそうされているような気持ちになると落ち着かない。そっとソロルの肩に手を添えると、サファイアは落ち着いたように息を吐く。
「そう……かもね。巫女たちの力があれば、兄弟姉妹は皆、あたしを頼るようになるかもしれないわ。……でもね、ゲネシス。違うの。そうじゃないの。あたしは……みんなの女王になりたいわけではないの」
「じゃあ、何になりたいんだい?」
「――あたしは」
鏡を見つめ、ソロルは言葉を濁す。青い目に映る視界は私と同じもののはずだ。しかし、彼女の見える世界と私の見ている世界はずれでもあるのだろうか。願いを叶えてくれる絶対的な存在。それがこの特別なソロルである。それでも、私は彼女の考えていることがあまりよく分かっていない。彼女がどうしてこのような表情をするのか。不満なのか、寂しいのか、不安なのか、分からないのだ。
そのヒントとなる言葉を貰えるより先に、大聖堂の鐘が急に鳴り始めた。鐘撞がまだ生き残っていたのか。だが、よくよく聞くと襲撃の時に耳障りなほどに鳴っていた時とは違い、余裕を感じた。警鐘ではないようだ。まるで大聖堂で何事も起こっていないかのように鳴っている。もしかすれば死霊の誰かが鳴らしているのかもしれない。
「まずは聖域から、あたし達の場所になっていくのね」
ソロルがぽつりと呟いた。そして、その肩に置いた私の手に優しく触れてきた。
「ねえ、ゲネシス」
その感触に、心が躍った。体の中で大きな二つの気配が蠢いている。ジズとベヒモスだ。この嬉しい気持ちは彼らのせいだろう。ソロルに触れられながら目を閉じると、自分が大きな獣になってしまったかのように思えた。大聖堂で、あるいはカンパニュラの学園内で、大きくて恐ろしい姿のケダモノが小さくて美しい乙女に宥められている絵画を見たことがある。あのイメージにぴったりだ。
「すべてが終わったら、あなたはあたしを愛してくれる?」
ソロルの淡々とした声が耳に入ってきた。こちらに問いかけているはずなのに、まるで独り言のようだった。答えが定まらないでいると、ソロルは温かな手で私の頬に触れてきた。柔らかな肌の感触と熱いまでの温もり。以前よりもその存在感が生きた人間に近くなってきているように思えるのは気のせいだろうか。
「すべてが終わったら、君はサファイアになるのだろう。当然、愛さずにはいられない」
「……そうよね。変なことを訊いてごめんなさい」
微笑みながら詫びる彼女の姿は儚げで、降りやんだ後の塵のように消えていきそうな気がして、私は急に怖くなった。
「すべてが終わったら、君は何になりたいんだい?」
不安から逃れたい一心で訊ねると、ソロルの笑みはさらに深まった。
「サファイア」
柔らかな唇から漏れ出すのは美しい響き。
「ただのサファイアよ」
宣言するその目は、何故だか寂しい雰囲気をまとっていた。
こうして、しばしの安らぎの時は過ぎていった。
都には寄らない方がいいというソロルの判断で、私たちはシルワ大聖堂から都を避ける形でイムベルを目指すことになった。
カリスの行方は分からないままだ。仕留めることが出来なかった不安と、生きたまま逃げてくれた安心感という、相反した想いが心に宿ってなかなか落ち着かない。カリスのことを想うと、カエルムでソロルが言っていた、聖女という者の不思議な力について思い出す。人の心を惑わす存在。真っすぐ向いているはずの意思を曲げようとする魔性の者。カリスは聖女などではないが、私にとっては似たようなものだろう。
ソロルはそんなカリスを殺そうともしたし、仲間にしようともした。私があまりにも優柔不断な態度を取るためだろうか。殺す最大の機会で呟いたソロルの言葉が耳から離れない。
――それとも、あなたはあたしを恨むことになるのかしら。
もしもあの時、地巫女と共にカリスが死ぬ場面を見せられていたら、私は何を思っただろう。どうあろうとも、私はソロルと約束をした。指輪は我々を繋いでいるし、共に未来を掴む誓いも立てたのだ。彼女を恐れているようなことは起きないと信じている。だが、それとは別に、カリスが死ぬという事を私自身が正しく理解しているのか、それが少し分からなかった。
彼女がいま何処にいるとしても、次なる聖地では再び出会うだろう。今度こそ、我々は殺し合うことになるかもしれない。イムベルには巫女だけではなく聖女がいるのだ。ソロルが聖女を野放しにするはずがないし、私だって強くはないが自分を殺せる可能性が高いのだとかいう不気味な存在を放置するのは怖い。
四の五の言っている場合ではない。今度こそ、カリスを殺さなくては。躊躇わずに、この剣で。なに、心配はいらない。永久の別れではない。ソロルは言っていたじゃないか。彼女がすべての巫女を食べ尽くし、完全無欠の者になれたならば、生も死も思いのまま。カリスも、そして、カリスの愛している哀れな聖女も、我々にとって無害な生き物として蘇ることが出来るのだ。
――すべてを思いのままに出来る。だから、恐れるな。
シルワ大聖堂を発ってしばらく。聖森は参道を外れるとたちまち死の森と化すのだと聞いたことがあった。それでも、ソロルは心配いらないと言って私を参道から外れた道へと誘った。
時折、見知らぬ〈果樹の子馬〉たちの姿が見られた。私たちに興味を持ってついてくる彼らは、恐らく生者ではない。ソロルの力でここら一帯は死霊の領域となったのだ。かつて森で迷って屍と化し今も迷っていた者達が、魂を無事に拾われて蘇っている。生まれ変わりというものはあるにしろ、ないにしろ、死霊という者たちはそうやってかつていた者達の活き活きとしていた頃の姿で現れる。その中身が死霊となっても、彼らは無邪気で愛らしかった。
「兄弟姉妹が言っているわ。もうそろそろ塵が降る。ひと休みしましょうか」
歩き続けても大して風景の変わらない森の中で、ソロルはそう言った。彼女の言葉に従って座り込んだ頃、〈果樹の子馬〉の姿をした死霊たちが森の中で歌いだした。たしかあれが木霊と呼ばれる所以だったと思い出しながら、静かにその歌を聴いていると、ソロルの言っていた通り塵が降り出した。
腕に、頭に、膝に降り積もる灰色の塵。その様子をただ見ていると、前方よりぼうっと浮かび上がる影が現れた。隣に座るソロルが真っすぐその影を見つめる。その落ち着いた様子から、敵ではないことがすぐに分かった。
思った通り、現れたのはクリケットだった。
「御機嫌よう、クリケットさん」
真っ先にソロルが声をかけると、クリケットは黙ったまま丁寧にマグノリア風のお辞儀をした。距離は保ってくれているものの、その表情はやけになれなれしい。だが、そんなことはどうでもいい。相手が敵なのか、味方なのか、それさえ分かれば後はどうでもよかった。なにより、ソロルが敵視しないのならば、それでいい。ソロルは美しい顔に微笑みを浮かべ、クリケットに言った。
「あなたのお陰で仕事が早く終わったわ。頼りになる人ね」
「それは何よりです。この地も無事にあなた方のものになったご様子。私の思っていた通り、あなた方は世界を変えられるお方々のようだ」
クリケットが言うと、周囲で〈果樹の子馬〉たちがくすくすと笑いだした。中身は死霊のはずだが、その振る舞いは生前の印象とあまり変わらない。他者からすれば、どちらも同じと考えて良さそうなくらいだ。
「当たり前じゃない」
愛らしい〈果樹の子馬〉たちの笑い声に包まれながら、ソロルは落ち着き払って答える。堂々とした姿にはすでに女王の威厳があった。少なくとも、シルワ大聖堂の巫女の部屋で見た、あの弱々しい印象は微塵も感じられなかった。
「だから、愛しいこの人を誘っているのよ。確信がなければこんなことはしないわ。それで、クリケットさん? まさか、お約束を覚えていないなんてことあり得ないわよね?」
「勿論ですとも」
姿勢を正してクリケットは肯く。
「それではお約束通りお話しましょう。聖女様のとっておきの情報です」
語り始めようとする彼に向って金銭を投げようとしたが、生憎、すぐには見つからなかった。クリケットの方はこれ幸いと言わんばかりに待たずに話し始めた。
「〈赤い花〉の魔女アマリリス。旦那様はご存知かと思われますが、彼女は〈金の卵〉と主従の魔術で結ばれております」
「それはあたしも知っているわ。ルーナという愛玩動物」
ソロルが囁くとクリケットは笑みを深めた。
「その通り。クロコ帝国の片田舎で繁殖用に育てられた大事な雌個体。今は、リリウム教会の保護下に置かれた無力な少女。各国の言葉を勤勉に学び、学園に通う日を楽しみにしている無邪気な子です」
「そいつがどうした」
言葉を遮ってみれば、クリケットはすぐに答えた。
「旦那様はご存知でしょうか。主従の魔術というものは偉大な魔女や魔人であっても生半可な覚悟で唱えてはならないものなのです。魔法の世界では常識で、自らの弱点を増やすきっかけになる。それでも魔女というものは従者を欲しがる時がある。不思議なものです」
「回りくどいぞ」
「それは失礼。でしたら、分かりやすく。ルーナというその〈金の卵〉は、存在そのものがアマリリスの弱点なのです。彼女はルーナとの未来を望んで戦おうとしている。ならば、その戦う意味を奪えばいい。ならば、彼女を潰すには何をすればいいかお判りでしょう?」
「ルーナを先に殺せと言いたいのね」
さらりと答えるソロルに、クリケットは肯いた。
「ご名答。ですが、ルーナは守られるべき子ども。戦闘に駆り出されることはないでしょう。そこで利用するべきと私が注目しているものが、主従の絆です」
「絆?」
訊ね返すと、クリケットはやけに楽しそうに肯いた。
「魔女や魔人の御方々は、煩わしい性に囚われる代わりに私ども翅人よりも高度な魔術を操る才能があります。しかし、その代償は性を満たすだけでは足りないこともある。魔術に心を支配されることだって珍しくはない。むしろ、それが当たり前だ。主従の魔術は人々の手に負えないような魔物たちを使役する素晴らしい術にもなりますが、縛られるのは術者も同じ。そして、その双方の絆がお互いの力になることもあれば、足を引っ張るきっかけにもなるのです」
「つまり?」
ソロルが促すと、クリケットはやや言葉を強調して答えた。
「つまり、主人の危険を知れば、従者は冷静ではいられなくなる。身を挺して主人を助けようとするのです。この仕組みさえ分かれば、あとは何とでもなる」
何とでもなる。確かにそうかもしれない。これまでどうにかなってきたのだ。直接対決を避けて、ルーナを先に探し出すことは可能だろう。しかし、そうだとして、気になることが一つ。
「本当にルーナを奪うだけでアマリリスは無力化できるのかしら」
ソロルが先に問いかけた。同じく私もクリケットを見つめる。すると、クリケットは自信ありげに肯き、そして付け加えた。
「勿論、絶対とは言い切れません。死は悲しみと怒りを招く。復讐心を煽るだけの場合もあるでしょう。しかし、その場しのぎにはなります。主従の魔術はそれだけ副作用が重い。異なる生き物の在り方を書き換えてしまうとんでもない魔術ですからね。完全に、とは言えずとも、海巫女を攫って逃げるくらいの時間稼ぎにはなるはずですよ」
「そう。それなら、考えてみるのも悪くはないわね。巫女と獣さえ集めてしまえば、あとはどうとでもなる。せいぜい、戦う意味とやらを奪ってやりましょうか」
無力な少女。学園生活を夢見る子ども。
その言葉に、脳裏にいまだ存在する誰かの面影が重なった。
関係ない。手順が増えただけだ。〈金の卵〉ならばいずれは辿る道だ。むしろ、一瞬で楽にしてやれる方がいい。〈赤い花〉も同じこと。リリウム教会の正義のために犠牲になるのと私の剣で死に攫われ何もかも分からなくなるのとどちらが良いか。一瞬でも無力化出来るのならば、そのままアマリリスとやらも殺してやろう。それが救いとなるはずだから。
「私の情報はお役に立ちそうでしょうか。それでは、ついでにイムベルのことについてもお話ししましょう。竜人たちと聖海の民の者達について。人間たちがもっとも愛する聖地の現状をお伝えしましょう」
そして、クリケットは語りだした。いつの日だったか、サファイアが憧れた世界の今。たった一人の巫女の自由を縛り、大勢の人間たちの平安を祈る場所。マナンティアル家の者達の悲しみで築かれた歴史と、それに縋り続ける人々の様子。
我々はイムベルをいかに蹂躙すべきか。クリケットの話を聞きながら、私はそればかりを考え続けていた。次第に思考は深まっていき、やがて雑念が入り込んでいく。血生臭い記憶が頭をよぎり、残っていた青い角人の姿と勇ましい声が蘇った。
――愛する人を永遠に苦しめる罪人になど、私はなりたくないのだ。
幻聴を振り払うためにふと空を見上げ、そして気づいた。
そういえば、塵の悪臭が全く感じられない。




