7.お邪魔虫
終わってしまえば簡単だったようにすら思えてくる。
彼らもそれなりに考えて、抵抗したらしいが、守りたいものは何も守れないまま、シルワはカエルムのようになってしまった。カエルムと比べて犠牲者こそ少ないだろうが、数はどうでもいい。重要なのは誰が殺されてしまったかだ。
「ああ……グリス……怖がらないで……」
恍惚とした様子でソロルは言った。さっきまで信じられないほど愛らしい生き物を抱擁していた彼女も、今はもう自分自身のみを抱きしめている。妖精のようだったあの生き物はもういない。空より降り積もる塵が風に攫われる時のように、消えてなくなってしまったのだから。地巫女の姿はもう何処にもない。探したところで誰も見つけられない。今の彼女を認識できるのは、世界でたった二人だけ。少しずつ異質な存在へと近づいていくあのソロルと、私だけだ。
死の臭気が立ち込め、静かになってしまった聖ベヒモス礼拝堂。恍惚としたままソロルが再び沈黙すると、嗚咽だけが響いていた。無様に涙を流しながら床をかいているのは麦色の髪を持つ美しい女カリスである。せっかく地巫女が最期の力を込めて突き飛ばしたというのに、カリスは逃げることが出来ないでいた。絶望しているのか、悔やんでいるのか、床をかいたままただただ泣いていた。私はただそれを眺めていた。敵意がないのなら、何も殺さなくていい。この女は無力だ。生き延びたのに何も出来なかった。目の前で二人の巫女をみすみす死なせてしまった彼女に、殺されるだけの理由があるだろうか。
けれど、分かっている。私がカリスを見逃す気でいても、私と共に歩む者はそうとは限らないということを。
「さてと……」
いまだ夢から覚めきれぬ様子だが、ソロルはようやく視線を床に向けた。俯いて泣き続けている哀れな人狼を目にすると、静かに微笑みを浮かべる。失意に呑まれるカリスと目を合わせようとしゃがみ込むと、その手でそっと頬を撫でた。殺すつもりだろうか。その可能性に何故か不安と警戒心が宿る。しかし、ソロルは穏やかな口調で告げた。
「どうやらあなたは愛しいゲネシスにとって大切なお友達のようね」
青い目を細めて、獣の子を可愛がるように髪を撫でていく。
「それなら、あたしだって考えてあげてもいい。ねえ、カリス。賢いあなたはもう十分、理解したでしょう。こんなバカな真似はやめて、遠くへ行けばいい。何なら、あのお気に入りの〈赤い花〉と一緒にね。リリウム教会に媚びを売る必要なんてなくなる。聖女ごと指輪を持ち逃げしてしまえば、こんなつらい思いはしなくて済むでしょう?」
優しい問いかけに、カリスが顔を上げた。その表情にはいつもの荒々しさの欠片も残ってはいない。幼子のように、窺うように、ソロルの顔を見つめていた。
「アマリリスを指輪ごと攫ったとしても、お前は私たちを見つけ出して殺すつもりだろう?」
やけにたどたどしいアルカ語でそう訊ねるカリスに、ソロルは首を振った。
「いいえ」
諭すようなその声に、カリスはますます虜になっていた。
「あなたがあたし達の邪魔をしないと約束してくれるのなら。あたしもあなたをもう傷つけないと約束するわ。でも、気をつけなさい。この約束は早い者勝ちよ。あなたと協力するあのゴキブリさんも、こんな負け試合にいつまでも付き合うほど愚か者ではない。早いところ大事な商売道具は隠してしまった方がいいわとあたしが伝えれば、あっさりとそうするでしょうからね」
「コックローチが……」
半信半疑の声だが、いつものように一蹴する冷静さはない。そもそも、ソロルが行っていることもあながち間違いではないはずだ。翅人という者たちがどういう人物なのかは私もよく知っている。彼らはいつだって自分を第一に考える。弱い種族だからこそそうやって生き延びてきたのだ。クリケットのことをよく知っているからこそ、コックローチとかいうあの男についても想像がついた。
そして、恐らくそれはカリスも同じ思いなのだろう。
「……本当に」
カリスは震えながらソロルを見つめていた。
「本当にアマリリスを攫えば、お前たちは見逃してくれるのか」
それほどまでに失意は大きかったのだろうか。もはや彼女の心は、すべての希望が砕け散っているのかもしれない。そんな心境の彼女に対し、ソロルはまるで女神のように微笑みかけた。死の力の片鱗も見せず、ただの優しい生き物のように、カリスのことを一切傷つけずに慰め続ける。
「本当よ」
いまだ傷の治らない場所に触れられかけて、カリスはびくりと身を強張らせた。
「見逃してあげる。だから、あたしに誓いなさい」
「誓う?」
「何語でもいい。あなたの言葉で、この先どうするつもりなのかを誓うの。イムベルでどう動くつもりなのか、シルワで目撃したことをどうしまい込むのか、出来る限り明瞭に約束してほしいの。そうすれば言葉はあたしの力で鎖となって、あなたの行動を縛るわ。決して裏切ることの出来ない誓いを、あたしに捧げなさい」
上下関係はすでに決していた。あれほど人狼としての誇りを大事にしてきたカリスも、度重なる絶望の光景に降参するしかないだろう。カリスが我々にとって脅威ではなくなる。それは、私が何度か口にした提案でもあった。味方となるならば、殺す必要はない。命だけは助けてやれる。そう思うと、意外なまでに私は安心した。殺せると何度も確認したはずだったのに、それだけ情は残っていたのだろうか。
「私は……」
再び俯きながら、カリスが呟く。ラヴェンデル語だ。
「もっと心を乗せて」
ソロルの導く声に、カリスは身を震わせた。
「私は、イムベルに行って……」
顔を上げてはっきりと口にしたその言葉は、アルカ語でもラヴェンデル語でもなく、子どもっぽいイリス語だった。涙目になっているその表情も、少女どころか幼女のようだ。憶えていたのはカリスという名前だけ。その身の上にわずかに残る本来の言語が、ソロルによって引き出されているのかもしれない。そんなカリスの様子に少しも動じずに、ソロルはさらに誘った。
「イムベルで、何をするの?」
しかし、そこで空気ががらりと変わった。異変に気付いた私は、とっさに身をひるがえして剣を抜いた。ソロルの傍によって剣を構えると、すぐに手ごたえがあった。床に落ちたのは簡素な造りの矢であった。聖矢のようなきちんとしたものではない。有り合わせのもので作ったような頼りないものだった。それでも、刺されば痛手は免れない。そんなものがソロルを真っすぐ狙って放たれたのだ。飛んできた方向を睨むが、何も見えない。だが、カリスがわずかに反応した。我に返ったように見える。
「全く、次から次に迷惑なことね」
そう言ってソロルは立ち上がった。ぐるりと見渡すと、眉を顰める。
「ゲネシス。あたしが追い立てるわ。いつでも斬れるように身構えて。出てきたらすぐに斬っていい。それはあたしではなく敵よ」
そう言い残して、再び姿を消した。言われた通りに剣を構えて神経を研ぎ澄ます。耳を澄ませていると、僅かな物音にも敏感になれるものだ。
「わ……」
明らかにソロルのものではない声が聞こえ、すぐにそちらに身を向けた。突き飛ばされるようにして姿を現したのは、〈果樹の子馬〉の一人だった。少年のような姿をしていたとしても、ソロルを狙った罪は消えない。容赦なく斬りつけた。だが、刃は彼を捕らえられなかった。別の場所から全く違う〈果樹の子馬〉が飛び出してきて、私の足に体当たりしてきたためだ。転びそうになり、なんとか耐えて、二人まとめて斬りつけようとしたその時、背後から嘶く声が聞こえた。
「カリスさん、お逃げ下さい!」
振り返ればそこにはいつの間にか見慣れぬ角人戦士がいた。
「まだ……居たのか」
カリスが呟くと、彼らは答えた。
「とある翅人情報屋に言われてきたのです。こいつらは規格外の恐ろしい敵だが、対処法がないわけではないのだと」
情報屋。恐らくあの忌々しいゴキブリ、コックローチの方だろう。だが、気になる。対処法とは何だ。私とソロルに弱点なんてものがあっただろうか。あのゴキブリは何を目にしたのだ。
「絶望するにはまだ早いはずです。あなたは聖女様をよく知っておられる方。このことを急いで都へ、そしてイムベルへお伝えください」
――腹立たしいわね。全員殺さなくては。
ソロルの過激な呪詛が聞こえてくる。私もまた剣を手に名も知らぬその角人戦士を睨みつけた。角人はこの男だけか。いや、まだいるかもしれない。姿の見えぬ場所から重圧を感じずにはいられない。また何処からか飛び道具を使ってくるかもしれないと思うと、気が気でなかった。
さらに厄介なことに、カリスの表情に変化が表れている。幼子のように泣いていた彼女も、今はもう泣いていない。少しずつ我に返っているその姿に、焦りを見せたのはソロルであった。
――ゲネシス。あたしを恨んだっていいわ。
そう言って彼女は風のように移動する。だが、その力が死をもたらすより先に、カリスは動き出していた。命を奪う風を避けて影道に逃げ込み、そしていつものあの荒々しい口調で礼拝堂全体に向けて怒鳴り散らした。
「お前たちも適度に切り上げろ。命を粗末にするな」
――逃がさないわ。
影道を走り去ろうとするカリスを、ソロルは風になったまま追いかけようとする。
「待て」
その両者に向かって私は咎めたが、聞いてくれるはずもない。姿の見えぬ二人をどうにか追いかけようとするも、この場にいる角人戦士と〈果樹の子馬〉たちが黙って通してくれるはずもない。対処法とはこのことだろうか。数で不利なのはわかっていた。それでも力でカバーできると信じていたが、カエルムで上手くいったのは、奴らが私とソロルを舐めていたにすぎないのだろう。ならば、肉壁が対処法ということだろうか。行く手を阻む者を乱暴に蹴散らし、あわよくば命を奪おうと斬りつけるも、この度現れた奴らは深追いせずに、ただ私の歩みを妨げることしかしてこなかった。
面倒くさい。このままではカリスも、ソロルも、見失ってしまうのではないか。それが非常に怖かった。
――ソロル、何処にいる。
体の中のジズの力を、そしてベヒモスの力を意識しながら、私は頭の中で問いかけた。これで通じるとは思っていない。だが、彼女の中に宿る二人の巫女の気配は察知できそうだ。思っていた通り、ソロルのいる場所はすぐに分かった。追いかけてみれば、彼女はシルワ大聖堂の入り口付近にいた。ここへ来た時とは打って変わって、人の数はなく、がらりとしている。いつの間にか、私の足止めをしてきていた角人や〈果樹の子馬〉たちもいなかった。神聖なこの場所にて存在しているのは私とソロルだけのように思えた。
ソロルは大聖堂より聖森を見つめていた。巡礼者たちの行き来を支える道を眺め、静かに不満を抱えた様子で立ち尽くしていた。
「逃がした」
一言だけ呟くと、私に身を寄せてきた。
「きっとすぐに都中に伝える気でしょうね。ねえ、あなた。かの忌々しい狼と、汚らしいゴキブリは、思っていたよりも正義感の強い人たちだったようよ。このまま力任せに都を襲って分からせてやるのも一興。あなたはどうしたい?」
「おれは……」
しばし考え、その横顔を眺める。
「君をあまり危険な場所にやりたくない」
素直にそう答えると、ソロルは私を振り返った。そのさり気ない仕草がサファイアそっくりで思い出が頭をかすめていった。私はどんな表情をしているだろう。思考がまとまらず、ただただソロルを見ていることしか出来なかった。そんな私を見て、ソロルは力なく微笑んだ。戦っていた時に見せた敵への嘲笑や、憐れみの微笑みではない。切ないものの含まれる、安堵の笑みだった。
「分かったわ」
そう言って片手をあげると、即座に大地より現れる者たちがいた。死霊だ。カエルムの時よりも多い。それもそのはず、ここは魔族たちの場所だ。魔族は人の血を継いでいるため、死霊にもなり得る。現に、現れている中には〈果樹の子馬〉たちも含まれていた。
圧倒的数に驚く私の横で、ソロルは冷静に死霊たちへと向き合った。
「皆、どうかあたしの指示に従って」
魅力あふれる声でそう願うと、呼び出された死霊たちの目が一斉に光りだした。次々に跪く彼らの姿は異様だ。それを見守るソロルはまさに彼らの女王に相応しい。配下たちがすべて跪くのを待ってから、ソロルは指示を送った。
「まずは仲間を増やしなさい。大聖堂にはまだ人の血を継ぐ者たちが隠れているわ。そうして、十分に集まったら都を襲いなさい。決して無理をせず、その体を大事にするのよ」
優しい指示に死霊たちが一斉に頷いた。逃げ遅れた者達はどのくらいいるだろう。少なくとも、先程まで私たちの足を引っ張った者たちはまだ近くにいるはずだ。それに、非戦闘員や巡礼者たちも例外ではない。仲間になる資格があるのならば、仲間にするために殺すのがソロルの方針である限り、彼女の呼び出した死霊たちは手を休めないだろう。これが、私の罪である。ソロルに手を貸した時点で、私は正義になどなり得ない。欲望のためにすべての人々を裏切った悪人でしかないのだ。
――だが、それも仕方がない。
今より起こる大聖堂の悲劇の予感を覚えつつも、私はただぼんやりとしていた。何も関係のない人々の命が消費されていく。以前ならば怒りや悲しみを感じたはずなのに、今は何も感じることが出来なかった。




