5.聖ベヒモス礼拝堂にて
ジブリールの死が影より全体に伝わったのか、私たちの進行を妨げるものは殆どいなかった。生き物の気配はしたが、皆が息を潜め、意識を研ぎ澄まさなければ誰もいないと思ってしまうほどだ。行く手を阻むのは植物のみ。剣で薙ぎ払えばすぐに振りほどける弱々しい抵抗だけだった。
警鐘は今も鳴っている。あの鐘の音を聞き続けてどのくらい経っているだろうか。大聖堂が守っているはずの地巫女はまだ見つからない。
もしや、とっくに巡礼者たちと都に逃れたのではないか。一瞬だけそう思ったが、それは違うと訴える者がいた。私の中に宿るベヒモスの心である。かの怪物は癒しを求め続けている。私がソロルに触れるたびに、ジズが空巫女に触れ合うのを間近で感じ、ますます地巫女を恋しがっているらしい。そのお陰で、私にもだいたいわかった。地巫女はまだ近くにいる。そして、隠れ場所としてもっと怪しい地点を見いだせた。
聖ベヒモス礼拝堂であった。扉は固く閉ざされている。中から鍵がかけられているあたり、可能性の高さをうかがわせる。鍵はとても頑丈で、さらに特殊なものだった。力任せに怖そうとしても無駄であり、扉を破壊するのは非現実的だ。ソロルであってもこの扉を破るのは容易ではない。別の入り口を探すべきか、はたまた鍵を持っていそうな聖職者を見つけだすか、扉の前で思考を巡らせていたその時だった。
「旦那様」
馴れ馴れしく声をかけてくる者は現れた。嫌味すら感じる笑顔は、想像していた通りのものだ。生き物のほとんどが何処かに隠れているこの状況下で、堂々と私に姿を見られているのは、緑の衣服を身にまとう翅人の男クリケットだった。
「どうやらお困りのようですね。もしや、その扉を開く方法をお探しでしょうか?」
「金ならないぞ」
拒絶の意を込めて即答した私だが、ソロルは違った。
「翅人さん。魔女ほどに性に縛られない貴方が使える素敵な魔法はどれだけあって? 弱い生き物ながらに世界を渡り歩き、いい味のする情報をかき集める貴方たちだもの。きっといい魔法が使えるのでしょうね」
優雅に訊ねるソロルに対し、クリケットは笑みを深めた。
「さすがはご伴侶様。お察しの通り、私は貴女ほどお強い御方々には不必要と思われる術をいくつか知っております。魔女ほどではありませんが、魔女が本能的に使えるさりげない魔術ならば、むしろ我々の方が使いこなしていると自負しております。固く閉ざされた扉を開けることなど、お安い御用です」
嫌らしく笑う彼に、無意識に剣を向けそうになる。私は猛る気持ちを必死に抑えながら、彼に訊ねた。
「それで、見返りは何だ」
「前にも申したはず。私が売りたいのは恩なのです。あなたにはぜひとも目的を果たしてほしい。シルワで全てが終わったならば、聖女に関するとっておきの情報をお話ししましょう」
「それは楽しみね。じゃ、さっさとお願い」
ソロルに冷たく促され、クリケットは即座に動いた。聖ベヒモス礼拝堂の扉に手のひらをかざし、そのまま取っ手に触れる。直後、かちりと音がした。さほど力を入れずに押したと見えるが、あれほどびくともしなかった扉があっけなく開いてしまった。
「では、私はこれで。ご武運を」
そう言い残して陽炎のように去っていくクリケット。その去り際を見守ろうにも、私は礼拝堂から目を逸らせずにいた。なぜなら、そこには表情の変わらぬ仮面の下よりこちらを睨みつける者がいたからだ。手に持っているのは、ジブリールが持っていたものよりもずっと立派な聖槍だった。特殊なものであることがよく分かる。〈金の卵〉を潰して得た聖油もたっぷり塗られていることだろう。
彼は角人戦士の中でも馬というよりも牛に似た印象のある人物だった。猛々しさをまとったその体を守る鎧には見覚えのある紋章がある。あの形はカエルムで殺したミケーレ隊長のものとほぼ同じだ。それだけで彼がどれだけ身分の高い者なのかがわかる。
「我が名はリル。お生憎だがここにはフィリップ様もグリス様もいらっしゃらない。終わりにしよう、兄弟」
グリスというのは地巫女のことだ。フィリップはおそらく花嫁守りのことだろう。だが、ここにはいないだと。いないものか。ベヒモスがこんなに嬉しそうにしているのに。
「いないかどうかはこの目で確かめる。終わるのは貴様の方だ、リル隊長」
剣を向けると、気持ちがさらに高揚した。ソロルは下がってくれているだろうか。心配だが彼女の安全を確認する余裕はなかった。目を逸らせば、リル隊長は迫ってくるだろう。自信はあっても角人を甘く見ない方がいい。とくに、私に対して人間という先入観を捨てたとみられるこの男に対しては。
「ならば来い。一度は共に神への忠誠を誓った者同士。その罪を見逃すことは出来ないが、兄弟として救済は与えてやろう」
そう言って、聖槍を構える彼をめがけて私は走り出した。絶望的な体格差であっても勝利できないわけではない。あの巨体は走る速度こそ速いだろうが、細やかな動きには対応できないはずだ。ならば、有利な方法で戦うだけの事。野生動物のように目の前の敵を視界にとらえて、私はただリル隊長の命を刈り取ることばかりを考えて突っ込んだ。
そして、〈シニストラ〉で猛牛のような彼の首を突き刺そうかという時に、離れた場所から爆音は聞こえてきた。
銃声だ。
そう思った直後、風が私の脇腹にぶつかった。耳が痛い高音とわずかな衝撃が伝わり、一瞬だけ気を盗られる。そこへリル隊長の攻撃が迫り、私は慌てて飛び退いた。床には何も落ちない。だが、風が何かを弾いた感覚は伝わった。弾丸は誤魔化せても火の臭いは誤魔化せない。リル隊長とは別の場所より感じる殺気もまた隠せていないものであった。聖銃、あるいは魔銃と呼ぶべきか。古きに渡る聖域にて、伝統的にあまり好ましく思われていない銃を使用するとは準備が良い。
――あたしに任せて。
何処からか冷たい声でソロルが言った。彼女には見えているのか。見えていたとして、姿を隠す聖戦士たちと戦えるのか。だが、どんなに心配であっても、リル隊長を前にソロルにばかり構ってはいられなかった。
「どうした、兄弟。お前の相手はこの俺だぞ」
低い声で笑いながらリル隊長は聖槍を突き出してくる。それをどうにか交わして距離を取れば、背負っている弓を手に構えてきた。矢と思わしきものは持っていないが、だからといって油断は出来ない。相手は魔物なのだから。思っていた通り、矢は見えずとも弓を引けば雷撃のようなものが飛んできた。剣で弾こうものなら大打撃だろう。避けるしかない私へ、さらなる銃声が響いた。奇跡的に魔弾は当たらず、ほぼ同時にうめき声が礼拝堂の端より聞こえてきた。リル隊長がわずかに動揺を見せる。
「シフレ……」
眉間にしわを寄せて呟く彼に、私は迫った。恐らく私の視界の外で彼の部下が殺されたのだろう。だが、その正誤を確認するよりも目の前の好機を逃すわけにはいかなかった。突撃する私にリル隊長が慌てて武器を構えなおす。わずかに反応が遅くなったが、それでも忌々しくも間に合った。聖槍をぶん回し、逞しい巨体で体当たりしてくる。少しぶつかるだけでも衝撃は強い。この何倍も大きかったベヒモスと戦った時よりも何故か迫力がある。まともに相手をすれば骨折してもおかしくない。力は貰えても私は不死ではないのだ。好機を活かせないまま再び距離を取る私に、リル隊長は吠えた。
「臆病者。もっとぶつかって来るがいい。勇ましくも散った我が部下シフレの無念を晴らしてやろう」
どうやらソロルは上手く立ち回れたらしい。安心するも束の間、鳥肌が立つような身の危険を感じて、私はその場を離れた。直後、またしても銃声は聞こえた。三発目だ。今度はどこだろう。一瞬、注意が逸れる私へリル隊長は突撃してきた。あと何発の魔弾が飛んでくるのか、次第に不安になる中、それでもソロルは私のために影の中を駆けまわっているようだった。離れた場所で別の者の叫喚が聞こえてきた。直後、大きな体の生き物が倒れ込む轟音が。リル隊長はもはや目を逸らさなかった。だが、仮面の下より雫が流れ落ちている。汗だろうか。いや、違うようにも見えた。
新しい悲鳴はまだあがっている。姿を消したソロルが隠れ潜む者達の命を奪い続けているのだ。奪われた亡骸は礼拝堂の床を穢している。いつの間にか床に広がっていた血の感触を足で感じ、死の気配を身近に感じた。ずっと見ているのはリル隊長だけだが、ようやく視界の端々に角人戦士の骸が確認できた。ソロルはまだいない。まだ誰かが潜んでいるのか。分からないが、リル隊長に傷一つ与えられていない今は、ソロルの健闘ばかりを確認してはいられない。
剣戟の響きと衝動に耐えて、私は今一度、リル隊長から距離をとった。向かい合えば、リル隊長は仮面をかぶったまま身を震わせていた。怒りか、恐れか、悲しみか、そのいずれもが融合した感情か、はっきりとわかるのは敵意だけだ。
「シフレ、フーフ、クリニエール……」
渋みのある声で、リル隊長は唸った。仲間を失った狼が遠吠えをしているかのようだ。猛牛のような太い脚で床を踏み鳴らし、高ぶる感情に身を任せる。
「待っていろ。お前たちの無念を、この俺が……」
「もうたくさんだ!」
そんな時だった。リル隊長と私の間へ、突然、別の者が割り込んできた。明るい麦色が目に入り、私は呆気にとられた。翡翠の目がこちらを見つめている。カリスだ。狼の姿をしたまま身構えてはいるが、今すぐに飛び掛かって来る様子はなかった。
「作戦は失敗だ。リル隊長、もう諦めて逃げよう」
だが、カリスの訴えにリル隊長は当然ながら首を振った。
「逃げるならお前だけ逃げるがいい、狼」
「ばかを言うな。部下を失ったとしても、お前にはやるべきことがいっぱいある。……ジブリールが死んだ。今はお前の力を失いたくない。フィリップも、地巫女様も同じ思いのはずだぞ。彼らの元へ逃げよう」
リル隊長の表情は分からないままだ。それでも、彼の気持ちが動かされていないことがよく分かる。それにしても、おかしなものだ。まるで地巫女がここに居ないかのような口ぶりではないか。ならば、この気配は何だというのだろう。
――あたしが確かめてみましょうか。
何処からかソロルがくすりと笑いながら言った。どう確かめるのかは分からないが、それっきり沈黙して何処かへと気配を隠し始める。カリスもリル隊長もソロルの存在には気づいているだろう。だが、構わずに二人は私のみを見つめていた。
「狼よ、ならばお前が俺の代わりとなってお二人を導くがいい」
「よくもそんな無茶なことを。こっちはただの人狼だぞ。神獣の御子息とは訳が違う!」
意見のまとまらぬ二人に対し、私は言った。
「ならば二人まとめて葬ってやろう」
飛び掛かると、異様なほど二人は迅速に対応してきた。カリスは影道に逃れ、リル隊長は迎え撃たんとばかりに走り出す。この違和感は何だろう。まだ含みがある気がする。いったい何を企んでいるのか。正体のつかめぬ不安とリル隊長の攻撃が、こちらの集中力をかき乱す。直後、声は聞こえた。
「ゲネシス、逃げて!」
ソロルの絶叫だった。だが、指示に従うより先に、衝撃は加わった。何が起こったのかを確認するより先に、伝わってきたのは激痛だった。久々の痛みの感触に混乱しかけた私へ、リル隊長が追撃を加えてくる。慌てて避けつつ、左肩に手をやれば、そこには一本の矢が突き刺さっていた。
「よくも……」
恨み声が聞こえた。ソロルのものと思われるが、これまで聞いたことがないほど怒りに満ちている。私の方は激痛に耐えながら、どうにかリル隊長を睨んだ。
「毒矢だ」
リル隊長が冷徹な声色で告げてきた。
「瞬く間に全身に回る。人間を死に至らしめるものだ。これで貴様も終わりだ」
その途端、死神が密着しているかのような気分になって朦朧としてしまった。視界の端でカリスがこちらを見ている。別に喜んではいない。ただ空しい目でこちらを見つめていた。私の終わりを予見しているような目だ。冗談じゃない。ここで死んでたまるか。毒が何だというのだ。私の中にはジズがいる。ベヒモスがいる。そして指輪がある。体は熱く、次第に息もあがっていく。それでも、信じることは不可能だ。
負けるわけにはいかない。ここで、倒れるわけにはいかない。
「まだやる気か」
リル隊長が意外そうに聖槍を構えた。勝敗はすでについているとでも思っているのか。いや、本当にそうなのか。そうであったとして、私はこれでいいのか。いや、よくない。いいわけがない。本物のサファイアをこの手で抱きしめるまでは、ヴァシリーサの首を獲るまでは、人形と化したミールを取り戻すまでは、神よ、私は死ぬわけにはいかないのだ。
痛みと苦しみで意識が朦朧とする中、私は無我夢中で走り出していた。冷静さ等そこにはない。傷つく恐れも、先を予見する力もない。ただ毒による死から逃れるように、私はリル隊長へと突撃していた。




