5.思い出
桃花は私と同じ種類の心臓を持っている魔女だった。
その性は吸血。まるで吸血鬼のように彼女は他人の血を欲した。特徴的なのは、女性の血でなければいけないという点だ。
その性の目覚めにいち早く気付いたのは養母ニューラであり、しばらくはニューラの血を定期的に吸うことで桃花の精神は落ち着いていたらしい。
だが、私も家族に加わるようになると、桃花の興味は私の体液へと向いた。同じ年頃で、同じ種類の心臓を持つ血に惹かれたのだろう。
桃花はニューラの目を盗んでは、私に懇願してきた。私としては吸われ損だ。しかし、私はある条件と引き換えに、桃花の好きにさせたのだ。
その条件とは、一緒にニューラの元を去ること。
「どうして去ったの?」
話を聞いていたルーナが不思議そうに訊ねてきた。
子猫の姿に飽きたのか、少女の姿で身を寄せていた。こうして近くでまじまじと見ると、髪が伸びてきたような気がする。そんな髪を手で梳きながら、私は答えた。
「支配されたくなかったから」
「支配?」
「私はニューラのお金で買われた子どもだったから」
「お金?」
「ええ、そうよ。九歳か十歳の頃、この〈赤い花〉の心臓にまつわる迷信のせいで人間たちによって母と引き離され、幼かった私はマグノリア王国の地下街で競りに出されたの。そこに参加して、決して安くない額になった私を見事に競り落としたのがニューラだったのよ」
「迷信って?」
「有名なのは、〈赤い花〉を食べれば不老不死になれるというもの。他にも、不治の病が治るだとか、美しくなれるだとか、魔物向けには並々ならぬ魔力が宿るというものもあるわね。でも何より単純に多く噂されていたのは、きちんと処理して食べると美味しいっていうもの。おかげで、珍味扱いよ」
自分で言っていて不思議な気持ちになった。
十歳という年頃は、世の中のことをある程度理解していると思っているが、それにしても当時の私には分からないことが多かった。
ただ母と引き離されて混乱している日々の中で、薄暗くて殺伐とした豪華な雰囲気の場所で立たされ、大声と共に手を挙げる人々の姿に怯えていたことしか覚えていない。その後、ニューラに引き渡されるまでの記憶はいつ思い出そうとしても曖昧だ。
「……そのニューラって人も、アマリリスたちを食べるつもりだったの?」
魔女の性次第では、そういう可能性もあっただろう。だが、これだけは、はっきりとしておく。
「違うわ。ニューラはそういう人じゃない」
ニューラだって魔女だ。性から解放されているというわけではない。しかし、彼女の性は私や桃花の命を脅かすようなものではなかった。
地元であるチューチェロの人間たちともそれなりに良好な関係を築いており、資金も十分あった。そのため、食べるつもりで競り落とそうとする獣たちから私を救い出せる力があったのだ。
それでも、ニューラが単なる善意で自分を助けたのだとは思えなかった。
なぜなら、私が競りにかけられた場所はマグノリア王国だったからだ。ローザ大国からは遠く、異国であるラヴェンデルやシトロニエに一度入ったうえで海を渡らねばならない。何かのついでにたまたま立ち寄ったわけでもなく、初めから私を競り落とすためだけにマグノリア王国まで来たと聞けば、不審に思うのも当然だ。そして、その答えが分かるまでには、そう時間もかからなかった。
ニューラだって魔女なのだ。
何故、一方的に守らねばならないほど幼い〈赤い花〉の子を二人も養っていたのか、何故、盗人を異様なまでに警戒していたのか、そして何故、すでに魔女の性も目覚めていた桃花とニューラがたびたび同じ部屋で二人きりになっていたのか、解放された後の桃花が私に対してよそよそしかったのか、私は次第に理解していった。
彼女の性は、成熟した〈赤い花〉の全てを支配すること。それをはっきりと知った時、反発心は治まらなかった。助け出されたという恩よりも、此処から逃げ出したいという願望の方が強かった。
そうしているうちに、私もまた魔女の性に目覚めたのだ。本能に従って森へと向かい、ニューラに教わった魔術を駆使して生まれて初めてこの手で人狼の命を奪った時、私は自分の力に酔いしれた。
――この力があれば、なにも支配されることはない。
けれど、当時の私に、ひとりで逃げ出すという考えはなかった。
きっと幼かったからだろう。魔女の性の開花は大人になった証だと当時は思っていたが、所詮、十五、六歳の小娘に過ぎなかった。
「資金はいくらでも稼げた。私が人狼を狩れば、いつでも手に入ったもの」
世間知らずの私たち。特にニューラの元で赤ん坊のころから育った桃花は外の世界の実際を殆ど知らなかった。頼りは十歳のころまでに見た私の知識だ。
人狼殺しのついでに手に入れた資金で、私たちは少しずつ旅と生活に慣れていった。
「慣れてくるとふたりでローザ大国やお隣のヴィオレッテ王国を好きなだけ巡ったわ。その後は、南も気になって、クロコ帝国、シトロニエやラヴェンデル、あとはエーデルワイスにトゥルプ王国、マルグレーテにもいったわね。カシュカーシュ帝国領も訪れたし、今目指しているディエンテ・デ・レオン、海を渡った先のマグノリア王国にも行ったわ。……でも、そんな日も永遠には続かなかったの。私たちの旅は、ラウルスで終わってしまった」
思い出すだけで胃が痛くなる。ラウルスはリリウム教皇領のすぐ隣の地域であり、西側の玄関口とも呼ばれている。
リリウム教皇領には古の多神教の時代より伝わる聖域があり、たくさんの人が巡礼に訪れる。
聖域は三つ。空のジズ、陸のベヒモス、海のリヴァイアサンと呼ばれる聖獣たちが祀られる社があり、そこにはそれぞれ巫女と呼ばれる女が住んでいるのは有名な話だ。
リヴァイアサンのいる海の社の巫女は不在だが、そのほかの社にはそれぞれの巫女がいて、運が良ければその姿を見ることも出来るかもしれないということで、桃花が興味を持ち、行くことになった。
今でこそ、三聖獣たちはリリウム教皇の言葉により、尊ぶべき存在とされている。
だが、かつては先の教皇の言葉によって、悪魔の一種とされた時代もあったらしい。もともとは聖獣でもなんでもなく違う名前の異教の神々であり、生贄を欲する邪神とも言われていた。
聖地が教皇領の支配下に置かれた際、野蛮な時代の野蛮な因習として廃止されそうになったのだが、その信仰心自体を罪とされるのは人々が納得できなかったらしい。
その結果、かつての神獣と巫女の関係はリリウム教会の教義に整えられ、人々もまた当然のように礼拝に向かうことが出来るようになった。
ニューラの元にあった本にはそう書かれていた。
だが、ニューラの元にいては一生行けなかっただろう。
せっかく自由になったのだから、今を逃す理由もない。かつては異端とされながらも復活してしまうほど人々の心を捉え続けている風習。多くの人々の心を掴むのは何なのかが知りたかった。だから、私たちは教皇領の三つの聖地に向かうことを夢見て、わくわくしながらラウルスに滞在していたのだ。
しかし、私たちが巡礼の旅に足を踏み出すことはなかった。
それは、突然のことだった。
明日、巡礼の旅に向かうという日の午後、桃花は魔女の性により吸血をしようとラウルスの町を放浪していた。私の血で満足していればいいのに、その日に限って別の血を飲みたいと言ったのだ。私は特に何も思わず送り出した。送り出してしまった。送り出さなければよかった。
しばらく後、なかなか戻ってこない桃花を探すために私も宿を出た。気配はすぐに辿れたから苦労はしなかった。だが、見つけた先で、桃花はとある人物に拘束されており、言ったのだ。
――来ては駄目。逃げて。
相手は見覚えのない大人の女だった。魔女に見えるが、何か違う。友人を返してほしければおいでと手を差し伸べるその女の目が怖くて、私はその場に立ち尽くしてしまったのだ。
「その女は死霊だったの」
「死霊?」
すぐそばで話を聞くルーナが首をかしげる。素直な表情が可愛かった。
「死んだ者の魂を捕まえて、悪用する魔物のこと」
男性ならフラーテル。女性ならソロルと呼ばれる魔物だ。標的は人間の血を引くものすべて。魔族も人間の血を多少なりとも引くので、例外ではない。
死霊は死者の魂を捕まえて、その魂に惹かれ合う場所や人物の前に現れる。その女性が何者なのかは分からない。その場所にまつわる人だったのかもしれないし、もしかしたら桃花の縁者……実の母だったのかもしれない。
ともかく、その女に桃花は捕まってしまったのだ。
「どうして捕まえちゃうの?」
「……私が人狼を追いかけるのと同じ」
その説明で、ルーナは理解したらしく、黙ってしまった。
「私が駆けつけた時点ではまだ桃花も生きていた。きっと、私をおびき出すつもりだったのでしょう。人間と変わらない姿をしていたけれど、中身は死霊。桃花のことを食べ物としか思っていなかった。助けなければと思ったけれど、足が竦んで見ていることしかできなかったの」
「見ていたの?」
「ええ、全部見た。最初から、最後まで。怯えて動けない私を見ると、ソロルはさっさと誘い込むのを諦めて、私の目の前で桃花を食べ始めた。忘れられない光景よ。桃花を食べ終わると満足したのか、ソロルはゆっくりと歩き出した。私のすぐそばまで来て、じっと私の目を見て、言い残したの。『やっぱり見逃してあげる。聖戦士の気配がするから』って」
――運がいい子ね、あなた。
今もたまに思い出す悪魔のような声である。ソロル自身の声なのかどうかは分からないが、忘れてしまいたい存在に違いなかった。もしも聖戦士の気配がなかったら、私はその女に手を引かれていただろう。そして空腹になれば、桃花のように食い殺されたのだろう。今思い返しても恐ろしかった。
「あの日から、私は一人だった。ニューラの元に戻るわけにもいかない。たった一人で残されて、塵が降っていなくても灰色にしか見えない世界を歩いて、ただ淡々と人狼を狩って暮らしていたの」
その時の感覚は思い出せない。前を見ることに必死だったのは、後ろを振り返るのがあまりにも恐ろしかったからだ。孤独に身が震え、頭はしっかりとしているという時に限って、私は罪悪感により息苦しさを覚えていた。
桃花が死んだのは私のせいだ。
美しかった彼女が、あのように残酷に貪り尽くされたのは、外に出ようと誘った私のせいだと思った。ニューラに合わせる顔がない。桃花になんと詫びればいいのだろう。
すべてから逃れたい一心で、私はただ自分が生きていくことばかりを考えていた。仇を取ることも出来ず、死霊の影におびえながら過ごさねばならない現実からの逃避。その鬱憤は全て人狼へと向けられ、私の狩りはより残忍なものになったのだ。狩れない日も続き、その度に少しずつ年を取りながら、今日の日まで生き延びてきた。
今ではあの時の感覚もうまく思い出せない。ルーナと共にいると、心が癒されて紛らわされるからだ。
「……ソロルはまた現れるのかな」
黙って聞いていたルーナがぽつりと呟いた。不安そうなその顔。私の手をそっと掴み、窺ってくる。
「アマリリスのことも食べてしまうつもりなの?」
「あまり気にしないでいいわ。死霊を避ける方法はいくらでもある。桃花も私も、その時は魔女として未熟だったから狙われただけよ」
「……でも、絶対に現れないってことはないのでしょう?」
訊ねられ、私はしぶしぶ頷いた。
確かにその通り、死霊の危険が全く及ばないなんてことはない。死霊は人の血を引く者の前に平等に現れる。とくに、親しい誰かと死別した者はターゲットにされやすい。私の場合は、桃花だろう。桃花は死霊によって殺されたのだから、いつかまた彼女の姿をした死霊が現れてもおかしくはない。
しかし、大丈夫だという自信はあった。桃花がいくら恋しくても、目の前に現れるのは死霊であると分かっている。また、全く接点の無い死人の姿をした死霊も、無警戒で居てはいけないものだが、これについても対策はある。要は、知らない人間や魔族とは距離を取り、二人きりになる場合もいつでも魔術を使えるように警戒するといい。
そう、気を付けることは出来る。無抵抗のまま嘆くしかないというわけではないのだ。
「わたし、強くならなきゃ」
それでも、ルーナは強くそう言った。
「見せかけだけじゃ駄目なんだね。ソロルやフラーテルがやってきても、わたしがアマリリスを守ってあげる。だから、強くならなきゃ……」
その気持ちだけでもありがたいものだと受け取っておこう。
確かにルーナは魔物だ。死霊にとって同じ魔物として生きている存在は恐れるべきものであるし、相手が人狼や吸血鬼のように強すぎる場合は、その目を盗み、いないものとして振る舞う隠蔽の魔術を使うことで身を守るらしい。
しかし、ルーナのような〈金の卵〉は死霊以下の力しか持っていない。体内にため込んだ魔力は羨ましいほどのものなのに、それを使う術を封じられているせいだ。〈金の卵〉は変身することしかできない。変身によって得られる身体能力も、本物の猛獣にも劣ると言われている。それが、人間が人間の為に生みだした魔物の悲しさでもあるのだ。
ルーナに必要なのは物理的な力ではない。だが、そんな事実をわざわざ言葉にして心を傷つけることもないだろう。
わたしはただルーナを抱きしめて、その気持ちを尊重したのだった。




