4.白い天使との戦い
一歩、一歩と踏み出すたびにこの大地が震えている気がした。
体の中で何かに寄生されたかのような動きを感じ、それが異なる二つの気配によるものだと気づく。ジズとベヒモス。二体は互いを恐れるように震え、それでいて私の意識に従順だった。何故か。彼らが己の存在の意味を思い出そうとするたびに、指輪が熱くなるのだ。きっと、ここに意味がある。だが、からくりを知ったところでどうなるというのだ。どうでもいい。私にとって大事なことは、新たに加わったベヒモスの力を使って、こそこそと隠れる地巫女を見つけ出すことだった。
愛するサファイアと共に。
そんな思いで私は歩んだ。亡き妻の姿をしたソロルはとても賢く、空巫女の不思議な力を我が物にしている。それでも、彼女自身は滅びに対して無抵抗なのだ。予期せぬ暴力に必ずしも勝てるわけではなく、一人きりで歩ませるのはそれだけ危険に違いない。私の頭は彼女を守る事でいっぱいだった。
そんな私の気持ちを煽るように、時折、聖戦士や戦士として認められていないような〈果樹の子馬〉たちの奇襲を受けた。また、植物の蔓が突如として蛇のように襲い掛かって来ることも何度かあった。そのたびに私はソロルを下がらせて切り落とした。
もう二度と、サファイアを失いたくない。だから、私は戦い続けた。いくら暴れても、奇襲は止まない。私の力を認めず行く手を阻もうとしてきた。植物の気持ちは理解する気にもならない。だが、人々の気持ちには多少の興味があった。ここを守る者としての意地か、怒りと混乱で冷静さを欠いたのか。気になりながらも足を止め、切り捨てていく。その数はカエルムの時よりも少ないはずだが、段々とその生死に心が動かされなくなっていくのを感じた。
斬った者たちがどういう人物だったか、どういう背景があったか、これまでは少しでも興味を持とうとしたはずだったのに、斬り殺し、死の力が蓄積すればするほど、私は人間として大切なものを失い続けた。
後悔はない。人間であり続けるのに何の意味がある。
今するべきことはサファイアを守り、彼女が心より望む地巫女を見つけ出すことだけ。
ベヒモスが滅び、角人戦士たちも無残に死んでいってしばらく経つが、地巫女の気配はなかなか見つけ出せなかった。ベヒモスは望んでいるはずだ。何も分からなくなったまま、癒しの巫女の気配を求めているはずだ。地巫女の力を魂ごとサファイアに宿らせれば、もうこんな窮屈な世界から出してやることが出来るのだ。
それを望んでいる。望んでいるに違いない。だから探さなくては。
しかし、地巫女と思しき人物の気配はなかなか見つからなかった。
シルワ大聖堂に隣接するインシグネ御殿を隈なく探しても見つからない。地巫女が普段過ごしているだろう寝室をも踏み荒らし、恐れて逃げ惑う〈果樹の子馬〉たちを蹴散らし、あるいは力任せの無礼に怒った猛牛のような角人たちを戦士であろうとなかろうと切り伏せていった。
インシグネ御殿にはいないのか。
――戻った方がいいわ。
愛する人の声に導かれ、私はシルワ大聖堂の回廊へと足を踏み入れた。そこにはカエルムにはなかった最大の特徴がある。魔物と人の混血たちを守護するこの聖地に置いて、〈赤い花〉の聖女はより特別視されるものなのだ。彼らの犠牲は尊ばれ、人々に語り継がれていく。その末路が残忍な殺人鬼であったとしても、聖女であった頃に残した栄光は消えたりしない。その栄光の形である石碑が、シルワ大聖堂の回廊には築かれているのだ。
ちょうどその碑の目の前でのことだった。哀れで醜い大勢の魔女たちがリリウム教会の聖具と化した歴史。その罪の数が刻まれている前で、私は真っ白な天使を目撃した。見覚えのある天使だった。彼女は私の行く手を阻むように立ち尽くし、角人戦士の一部が使っているような真新しい聖槍を携えていた。
――ジブリール。やはり生きていたわね。
だが、だいぶ無理をしているらしい。今も体は包帯だらけだ。戦って勝てるとは思っていないだろう。それでも、その先へは行かせないつもりらしい。何故か。分かりきったことだ。彼女の後ろはシルワ大聖堂の内部に繋がっている。聖ティエラ礼拝堂――ベヒモスの亡骸の遺されたかの墓場の近くでもある。どうしてその地点を阻むのか、明確な答えは分からずとも想像はついた。
恐れずに足を踏み出す私に対し、ジブリールは聖槍を向けて威嚇してきた。だが、その姿はかつて感じたような神々しさに欠ける。何処にでもいる異形でしかない。理由は私たちがよく分かっている。彼女がこのベヒモスの聖地に踏み込める原因でもある。
――可哀想に。聖鳥の息女としての威厳まで失って。
その煽りはおそらくジブリールには聞こえない。ソロルは私の影の中に身を潜めている。それでも、ジブリールは私の傍にいる者の気配を感じているのか、睨む視線を私だけではなく影にも向けていた。どちらへも明確な敵意が込められている。奇跡が起こるのならば、絶対に私とソロルを滅ぼすつもりだろう。
「その体でここまで飛びきれたのか」
声をかけてみるも、その表情は変わらない。
「おれを殺すつもりか」
「殺せるものならばね。私の出来ることは十分やったつもりだ。これでもう、いつ死んでもいい。だがその前に、お前か、ソロル、どちらかは貫いて見せよう」
「大した自信だ。父祖の魂に逆らうとは」
ジズの力を感じながら剣を握ると、ジブリールは心底嫌悪感を滲ませた表情で嘴を大きく開いた。
「貴様に父祖の名を騙られてたまるか」
その眼は異様なまでに冷たい印象だった。死に対する恐れすらも感じさせない。ただ、輝いてもいなかった。未来に関するすべての希望を失った者の目をしていた。彼女がどういうつもりなのか、私にはよく分かった。そしておそらく、直前まで彼女と関わったすべてのものが薄々ながらも感じ取ったはずだ。誰も止めなかった。あるいは、止められなかった。だからここに居る。ここに立ちはだかり、命を無駄にしようとしている。
そんな彼女の痛々しい勇気を前に、慈悲を見せてやるつもりもない。私はもちろん、私を導くソロルだってしない。今はおそらく目の前の化け鳥をいかに手際よく捌くかということしか考えていないだろう。
「ならば来るがいい。怪鳥の末裔よ」
唸るように煽るも、ジブリールは動かない。安い挑発には乗らないのだろう。この場でカエルムを、そしてカエルムに住まう鳥人や〈金の鶏〉たちに対していかに下品な言葉で侮辱したとしても、彼女は動かないだろう。ただ塞ぐべき通路を塞ぎ、迎え撃つ姿勢でいる。それは少しだけ厄介な事だった。
「来ないならこちらから行くわ」
そう言って、ソロルが影の中より現れた。
「サファイア!」
愛する妻の姿をした彼女の大胆な行動に、私の方が動揺してしまった。だが呼び止めるこの声だけではソロルの動きは止められない。彼女は風の精霊のようにジブリールに飛び掛かった。そして、死霊としては奇妙な術を使った。歌声をまとったのだ。美しく鳴くそれは、七色の鳥の印象に重なった。その光景を目にした途端、私の体の中がカッと熱くなった。中に宿る何者かが感動している。好ましく思っている。間違いない。あの技は特別なものだ。空巫女の力。死を覚悟して立ちふさがる哀れな戦士の敬愛した生贄の力。そのもっとも純粋な魔力を操っているのだ。
「これは……」
ジブリールの動揺は声にも表れていた。だが、衝撃は怒りにも転じる。こうしてソロルが見せびらかせることにより、こちらが奪ったのだという事実を強調する形になったらしい。成り行きでそうなったのか、わざとそうしているのかは分からない。だが、私の方は気が気でなかった。
「待て、ソロル!」
ようやく駆け寄る頃には、すでに両者の力はぶつかり合っていた。
適度に距離を取りつつ、攻撃しながら隙を伺うソロルと、持ち場を極力離れずにソロルの動きを睨み続けるジブリール。風を味方につけ、音を味方につけ、ソロルはさりげない動作でジブリールに向かって力を放つ。利用しているのは罪によって得られた新たな力だが、ジブリールを襲うのはソロルの死霊としての本来の力だった。生者に死を賜る力は、あらゆる形となって獲物に襲い掛かる。ジブリールを狙っているのは火花や銃弾、電撃のようにも見えた。
だが、いかにソロルが空巫女の力を見せびらかしていても、ジブリールは動揺を殺して抵抗した。全ての攻撃が聖槍に塞がれ、さらに反撃を加えている。恐ろしい力を持っているのはソロルだが、体の頑丈さでいえばジブリールの方が上だろう。あれだけ負傷していても、ここまで動けるのだから。聖鳥の末裔という栄光を失ったとしても、化け物特有の力までは失っていないということだ。
ならばこの勝負、長引けば長引くほどソロルには不利と見た。割って入ると、ソロルは軽々と身を翻して影の中に消えていった。その動向に少しでも気を盗られるジブリールへ、聖剣を叩きつける。しかし、ジブリールの反応は非常によかった。取れると信じた一手を防がれ、心がさらに乱される。だが、冷静でないのはジブリールも一緒だった。
彼女は恐れていた。姿の見えなくなった死霊によって、心をかき乱されている。ならば怖くない。恐れることはない。相手は哀れな小鳥だ。人々に一方的に天使と敬われてきた種族。その正体は古代において生贄を要求してきた魔鳥の子孫。そして今は、深く傷ついている。包帯だらけの身体は傷口が開いて血を滲ませているが、彼女の真の痛みはそこではない。怯えた瞳の奥に感じる心を覗けば誰にだってわかる。
――そうだ。同情するがいい。
故郷を侵され、責任を果たせず、心の支えを失い、生きる意味を捨てた、そんな彼女にとって何が救いになるのか。
――答えは聖剣〈シニストラ〉が知っている。
指輪が熱い。そして体も熱い。私自身が火になったかのようだ。衝動が体の内部からこみ上げてくる。抑えているだけで苦しいほどだった。一回、二回と剣戟の響きを産んでもなお、ジブリールの注意の半分ほどは姿の見えぬソロルの動きに囚われていた。援護しているつもりなのだろう。だが、必要性は感じなかった。
「ジブリール」
その注意をすべてこちらに向けてから、私は彼女に告げた。
「その苦しみから解放させてやろう」
勝敗はあっさりとついた。
今度は間違いない。いかに丈夫な鳥人戦士であったとしても、間違いなく深手となった。とっさに身構えてこなければ、もっと華麗に勝敗は決まったはずだ。だが、翼を切り落とされる痛みは相当なものだっただろう。膝より崩れるところへさらに切り込み、深く抉る。肉を斬る感触を覚えながら、淡々と私は考えた。
――たしかに私はカリスに甘かったかもしれない。
ソロルの言う通り、厄介な敵はこうして深く斬りつければいいだけなのに、何故そうできなかったのだろう。カリスを逃がし、何度も歯向かわせたのは私だ。傷だらけであっても、命を奪う機会を何度も逃したのは、他でもない私自身だ。
ならば何故。何故、私はカリスを殺せなかったのだろう。
「く……ネグラ様……」
足元で呻く声が聞こえてきた。真っ白だった体に赤色はとても目立つ。喘鳴は弱々しく、先程まで勇敢に戦おうとした姿からは想像できないほどだった。この哀れな生き物を追い詰めたのは私だ。しかし、全く罪悪感はわかなかった。ただぎりぎりのところで命をつなぎとめているその姿に目を奪われ、私は呆然と彼女を見ていた。これがカリスだったら、私はどう思うのだろう。サファイアだったら想像すら出来ないほど苦痛だ。では、これがカリスだったらどうなのか。答えが見えなかった。
ふと気づけばソロルが目の前にいた。倒れ込み、懸命に息をしているジブリールの傍でしゃがみ込むと、労わるようにその額を撫でてやる。そのまま傷口にわざと触れ、苦しみが強くなる彼女に対して告げた。
「ジブリール」
紛れもなく声はサファイアのもの。だが、印象はやや違った。ソロル本来のものとも違う。その声を聴くと、かつて主人の死に絶望して抗うのをやめた空巫女の姿を思い出した。
少しだけ覚えているネグラの声色によく似ている気がした。
「よく頑張ったわね。でも、もういいの。おいで、魔物の魂の至る場所へ。全てが終わって世界が変わるまで、どうかわたしの作った鳥籠の中にいて」
優しい口調だが、呪いのような言葉だった。ソロルがそのまま口づけをすると、ほどなくしてジブリールは咽かえり、そのまま息を引き取った。急速に熱を奪われていく鳥の亡骸から身を離すと、ソロルは行く手を見据えた。
「……行きましょうか」
その声には力がない。見れば、彼女は何故か涙を流していた。ソロルが泣いているのか。いや、どうやら違うようだ。
「お願い泣かないで」
幼子をあやすように、ソロルは囁く。
「泣かないで、ネグラ」
そして、自分自身を抱きしめる。
「これでいいの。これが正しい事なの。あたしが守ってあげるから。あなた達を再会させてあげるから。正しい世界を作ってみせるから。だから、もう泣かないで」
震えるその姿には、いつもの冷酷さがない。まるで、か弱き女性のようだった。見ていると、まるでサファイアが悪夢にうなされているようで、こちらまで悲しくなる。
だから、私は寄り添った。その心を慰めるために、一抹の不安を覚えた自分を誤魔化すために、その涙が止まるまで、愛しい妻の姿をしたソロルを静かに抱きしめた。




