3.聖獣の悲鳴
力に身を任せてどのくらいの時間が経っただろうか。時の経過は決して不利などではなく、私たちの二人の有利さをより際立たせた。かすり傷程度しか負っていない私に対して、周囲では腸をさらして倒れ込む者ばかりだ。ソロルに至っては傷一つないようだ。敵の放つ異臭漂う中、それでも、私にも疲労は蓄積していた。扉を守る植物を相手にする暇は与えられず、かの化け物は次第に蔓を伸ばしてその領域を広げている。気づけば、先程までは安全だった場所より首をもたげて襲ってくることが度々起こった。そこへ角人戦士が突っ込んでくるとさすがに辛かった。
指輪の力だけに頼るのは限界だ。ジズの力をもっと解放させるべきだろう。しかし、何故だか抵抗感がそこで邪魔をしてきた。まだ私の中に残っている当たり前の生き物としての感覚なのだろうか。理性なのか本能なのかは分からないが、はたまた、この地を制するベヒモスの気配におののいているのか。ジズの力に身を預けることに恐怖のようなものを抱いていたのだ。
「そろそろ決着をつけなくては」
傍に立ちながら、死にゆく者たちを見つめるソロルが呟いた。彼女の優しげな囁きに背中を押される。命落とした者たちもいれば、深手を負ったまま死ねないでいる者もいるし、戦意を完全に喪失した者もいる。そのいずれも〈果樹の子馬〉たちであった。彼らが出来た事と言えば、植物の化け物が移動する時間稼ぎと私にかすり傷を負うきっかけを作ったことくらいだろう。それだけでも私としては厄介者に違いなかった。
けれど、もう間もなく終わる。〈果樹の子馬〉たちは殆ど戦えない。あとは角人戦士たちだ。一人は上手く足を潰せたが、他の者達はまだまだ戦える。自分たちの守るべき弱き者たちがこれだけ傷つき、死んでいった事実に責任を感じているのだろう。戦いが長引くほど、彼らの攻撃は増していった。
鳥人戦士たちとの戦いでも学んだことだが、単純な持久戦ではこちらが不利だ。指輪の力に頼り、ジズの力があったとしても、限界はある。一瞬の切れ、一瞬の隙を狙って勝敗を決めなくては勝ち目がない。そのことは角人戦士たちもよく分かっているようだ。ソロルや私の仕掛けに対して、そう簡単に食いついたりしない。あちらもあちらで機会を窺っている。〈果樹の子馬〉たちが翻弄していた先程までと、彼らのほとんどが倒れてしまった今とでは明らかに戦い方が変わっていた。
まだ我々は目的を一つも果たしていない。ベヒモスも地巫女も手に入れていないというのに、どうしたものか。
「恐れないで。死の力があなたを守るから」
少し離れた場所より呟くソロルの声がやけに近く感じた。指輪のはまる手が熱く、剣を持っているだけで体が震えそうになる。カエルムで聞いた鳥の声が頭の中で響き、翼でも生えたかのような衝動が我が身を包み込んだ。力を感じ、さらなる欲求が私の身体を突き動かす。対面する角人戦士たちの命の煌きが目に見えるようだった。先程までたくさんいた〈果樹の子馬〉たちの一人一人の命が散っていく感触を思い出すと、たまらなくなった。
もっと欲しい。あの感触が欲しい。
「今よ」
ソロルの短い指令に、体が勝手に動き出した。
剣も指輪もまるで私の身体の一部のようだ。人間でなくなったかのように走り、狭い通路を飛び回り、植物の化け物の攻撃や接触をかわしながら角人戦士の一人に襲い掛かる。私の動きに怯えたのか、彼は大きく目を見開いた。そこまで見たら十分だ。次の獲物を決めるべく、視線を動かした。後に任せるのは腕の感覚だけ。やるべきことを指輪と剣に委ねて、悲鳴と生暖かい返り血を浴びながら次の相手を選び抜いた。何処を狙うかは具体的に決めない。敵が戦いを続行できるかどうかでいい。顔であろうと、首であろうと、心臓であろうと、足であろうと、何処でもいい。刺した感触が伝われば、次なる獲物を狩りに向かった。
確実に殺せたのだろうか。異様に体が軽かった。次なる相手は避ける暇も、受け止める暇もなかったらしく、あっさりと攻撃を受けた。深く刺さりすぎた剣を力任せに抜き取って、その場を離れる。直後、植物の化け物の蔓がさっきまで私の立っていた床を抉った。間を置かずに怒れる角人戦士の激しい攻撃が加えられる。その形相は、猛牛や暴れ馬と呼ぶに相応しい。それでも、心底恐れる気にはならなかった。相手の感情を揺さぶることは、決して不利なことではない。怒りは力にもなるが、冷静さを欠くことにも繋がる。失敗はそこから生まれるのだ。そのわずかな綻びを突けば、勝敗はあっという間に決まる。
想像するだけならば指輪を受け取る前でも出来た。しかし、その通りに人間の身体を動かせるはずがない。魔の血を引く者と引かない者の現実を思い知らされるだけだっただろう。それでも、今は違う。弾と火薬が必要な銃などもいらない。剣一つでこんなにも鮮やかに化け物たちに打ち勝つ力を手に入れてしまったのだ。
聖獣の子孫たちは〈果樹の子馬〉たちに比べてかなり強力だ。それでも、私は戦うたびに気分が高揚していた。冷静さを欠く心配はない。飛び回ることはひたすら楽しく、あれほど恐れていたはずの角人戦士たちが困惑した顔で私にやられていくのが爽快だった。
罪悪感などそこにはなかった。やがて最後の一人の足を切り落としたとき、その手ごたえが名残惜しいくらいだった。
これで道は開ける。
あとはただ一つだけ。聖ティエラ礼拝堂を守る植物の化け物を見上げながら、私は剣を握りなおす。
「……待て」
そんな私に声をかけてきたのは、足を二本斬られてただ死ぬのを待つしかないだろう四本足の角人戦士だった。この場にいる誰よりも年長を想われる彼は、大きな馬の身体を横たえ、痛みをこらえながら私を見つめていた。
「お前の罪は消えぬ。だが、己の身が少しでも可愛いのであれば、その女に従うのをやめるがいい」
「死に損ないが何を言い出すのやら」
即座にソロルが煽るが、彼はその声を無視して私だけを見つめていた。
「カエルムで何があったかを我々は知っている。この地で何をするつもりなのかも知っている。だが、悪いことは言わない。この大罪を三度重ねる前に、考え直すのだ。お前の歩む道に安らぎは与えられない」
話を止めない彼に向ってソロルが歩みだした。生き残った者達が固唾を飲んでそれを見守る。誰も、立ち上がれない。この場でソロルの接近から彼を守れる者はいないだろう。それでも、彼はソロルを見なかった。ただ私だけを見つめている。煌々と輝く瞳がこちらの脳裏にも焼き付きそうだ。そんな彼に私は答えた。
「ならば、私の安らぎは私自身が生み出そう」
その直後、ソロルが彼の前でしゃがみ込んだ。その額に手を当てると、彼は目を見開いたまま体を硬直させた。おそらく足の痛みとは比べ物にならぬ苦痛に見舞われただろう。だがそれも束の間の事だった。大きな体を横たえるその光景を、生きている者達が黙って見守っていた。そんな中で、ソロルは立ち上がり、私を振り返る。
「やりなさい」
何を、と聞くまでもない。話しかけてくる者は皆無だった。植物の化け物だけが戦意を失わずに私と向き合っている。それを枯らしてしまうことは、気が抜けるほど簡単だった。
こうして聖ティエラ礼拝堂を守るものはなくなった。すすり泣く声が聞こえてくる中、私とソロルは並んで皆が守ろうとした祠のある場所を開け広げた。美しい緑の空気が迎え入れ、己の身の血生臭さを思い出させる。足を踏み入れ、扉を固く閉ざすと、空間が揺らぐのを感じた。いや、揺らいでいるのは私の感覚だ。体が震えているのだ。指輪がここにいる者を望んでおり、ジズがここにいる者と出会うことを恐れている。
「緊張しているようだ」
呟くと、ソロルがすぐに応えてくれた。
「きっとジズのせいよ。背徳的な期待に戸惑っているのかもしれないわね」
確かに、この拒みは期待の反動にも思えた。二つの想いに身を裂かれそうになりながら、私は剣と共に祠の間へと歩み寄った。ジズの時と同じだ。指輪がすべてを導いてくれる。聖壇に立つと、途端に心が晴れやかになった。ようやくその姿が拝めるのだと思うだけで、心が震えた。そしてさらにその怪物をどうするのかを考えると、待ちきれなかった。
剣を掲げて間もなく、蹄の音が聞こえた。嘶くような声は馬を思わせるが、何処からともなく現れたその生き物の姿は、馬よりも犀に似た姿をしていた。蹄は馬のものだが、体は太く大きく、皮膚は堅そうだ。眼差しにどう猛さは感じられないが、無表情のまま私を見つめるその姿は、油断ならない気配が漂っている。
それがベヒモスをこの目で見た感想だった。
呼吸が荒くなった。体の中で小鳥でも暴れているようだ。ベヒモスが見つめているものは私の姿だろうか。それとも、私の中で慌てふためく別の存在だろうか。どちらにせよ、この古代よりシルワを支配する大地の覇者は、言い伝えられてきた邪神の印象とはだいぶ違う優しげな雰囲気すらあった。
カエルムの時とは違い、ベヒモスは怒りを露わにしなかった。扉を閉ざしているせいか、その愛する子どもたちが屠られている事実に気づいていないらしい。ただ呼び出されたことへの驚きと、目の前の私たちの存在への疑問で呆然としているだけだった。
それならばあとは簡単だ。大地が、植物たちが、ベヒモスに真実を伝えるより先に、手を打つしかない。
飛び掛かる私の一撃を、ベヒモスは避けられなかった。予想していた通り、皮膚はとても硬かった。だが、ジズと指輪の力の為か、傷を負わせるのは可能だった。さほど深くは切り込めなかったが、ベヒモスの悲痛な声が響き渡った。その痛みは体のものか、心のものか分からない。涙が流れ落ち、傷つけた私をじっと見つめてきた。まだ何が起こっているのか理解していないらしい。
哀れな化け物だ。しかし、その純朴さは好都合だった。
さらに斬りつけて、ようやくベヒモスが応戦し始めた。巨体を震わせ、礼拝堂の床を踏みつける。地響きが私の足を奪おうとする。その一瞬の怯みに合わせて、ベヒモスは大きな角を払って私を突き飛ばそうとした。だが、それが失策だった。こちらとしては好機である。剣を手に有りっ丈の力を込めて飛び掛かり、間もなくしてベヒモスの悲鳴があがる。確かな手ごたえが快感だった。音を立てて床に転がり落ちたのは、ベヒモスの象徴とも呼ぶべき一角。血を流しながら、古代の怪物は己の身に起こったことに混乱していた。
硬い皮膚も、厚い筋肉も、その命を完全に守り切ることは出来ない。一度、斬り込んでしまえば、あとはのめり込む一方だった。抵抗も、悲鳴も、だんだんと弱まっていく。ごく当たり前の生き物のように衰弱していくベヒモスを前に、私が感じたことは何だっただろう。ただ黙々と私は目的を遂行した。
「もういいわ」
愛しい女性の声が聞こえるまで、私の視界は狭まっていく一方だった。終わりに気づいて身を引いて、むせるような臭いに包まれながら、私は聖ティエラ礼拝堂を見渡した。世界が鮮やかさを失ったような気がする。灰色の、塵の、時間が訪れた時のようだ。
「ありがとう、愛しい人。そろそろ行きましょう」
見守ってくれていた者を振り返り、そのまま見惚れてしまった。色を失ったかのようなこの世界の中にあって、彼女の目だけが青く輝いているように見えた。




