2.扉を守る者達
巡礼者に混じり、おしゃべりな〈果樹の子馬〉の相手をしながら進んでいけば、大樹に呑まれかけた大聖堂まであっという間だった。平坦な道のりは長いはずだが、カエルムとシルワまでの道のりを考えたらとても早い。空気は清純そのものだった。
聖堂へと足を踏み入れる頃には、付きまとっていた青い〈果樹の子馬〉は離れていき、帰り道を歩む人々の中へと消えていった。どちらでもいいが、好都合だ。いつまでも付きまとわれていたら行動に移しにくい。お陰で大衆に紛れてソロルと二人して広大なコルヌ礼拝堂へと足を踏み入れることが出来た。豪奢な石像と装飾は、リリウム教化される前の者だったと聞いている。一時は破壊されるかと危ぶまれたとも聞く。そうならずに済んだのは、ここが聖女伝説の中心地として神に愛されているからだとか。
そう、ここは〈赤い花〉ゆかりの場所だ。聖ベヒモス礼拝堂では歴代の〈赤い花〉のための祈りがささげられる。世界各地で虐げられる〈赤い花〉たちの解放と、人々の為に散っていった聖花たちの鎮魂が祈られる。隣にいるソロルにとっては、おそらく忌々しい場所に違いない。
「見て」
順番に祈りを捧げる人々の列の中で、ソロルがそっと耳打ちしてきた。示されたのは、礼拝堂の奥。閉め切られた扉の前には見張りが誰もいない。その向こうが何処に繋がっているのか、私には察しがついた。三つの聖地の大聖堂の構造は、特徴や雰囲気こそ違えども、共通している部分がある。あの扉の向こうは、おそらく限定公開される聖ベヒモス礼拝堂や、絶対に一般には公開されない聖ティエラ礼拝堂に繋がっている。その聖ティエラ礼拝堂こそが、私の手にはまる指輪の求めるベヒモスが息を潜めている場所だ。
「行きましょう」
囁かれ、従った。剣は抜かぬまま、祈りを捧げる大勢の吐息を感じながら、並ぶ人々の波に逆らって、時折、悪態を吐かれながら、私は扉を目指した。いつの間にか手を繋いでいたはずのソロルは消えていた。だが、焦ることはない。気配は傍に感じられる。姿を消しているだけで、ちゃんとついて来ているのだ。
人の波を完全に抜けると、一気に呼吸が楽になった。一人くらい私の行動を怪しく思ってはいないかと不安になったが、見たところ誰もが祈ることに精いっぱいで、赤の他人のことなどに構っている暇はないようだった。見張りは何処にいるのだろう。聖森の道ではあんなに見かけた角人戦士たちも、今は見当たらなかった。
――さあ、行きましょう。
何処からかソロルに囁かれ、私は歩んだ。扉に手をかけ、そっと押してみる。鍵が掛かっているような手ごたえがあったが、それも束の間、あっさりと解除された。ソロルが何かしたのだろうか。ともあれ、扉の向こうへと入ることが出来た。薄暗い通路が続き、所々に木の根らしきものが見える。空気を吸い込むと水気を含んだ草木の匂いがした。聖職者の誰かがいてもおかしくないはずだが、誰もいなかった。
静かすぎる。
――怖がらなくていいわ。私がついている。
優しく宥められ、手懐けられた獣のように歩みだした。履き古した靴の音が耳障りだ。普段は気にならないはずなのに、今はそのくらい静かだった。何処へ向かうべきなのかはこの指輪が知っている。だが、指輪だけではない。体の芯より訴えかけてくるものがあった。死の指輪は求めているのに、こちらには拒まれているようだ。そんな、反発する力を感じたのだ。正体が何なのか、想像に容易い。私に宿る大きな力が交わることを恐れていたのだ。これが聖獣たちの子孫が他の聖域に踏み込めないという背景だろうか。いわば私はジズのようなもの。それでいて堂々と地の聖域を踏み荒らすことは、快感とも思えた。
それにしても、静かだ。
カエルムでも似たような通路を進んだ。だが、今のようにゆっくりとではなかった。行く手は幾度となく阻まれ、その度に指輪の力に頼った。死の力とソロルが呼ぶものを集め、そうしてジズを手に入れたのだ。今はどうだ。堂々と歩んでも、靴音が気になっても、阻む者は一向に現れない。
――確かに、静かすぎるわね。
怯えなど一切含まずにソロルは囁いた。歩みを止めるという選択肢はない。何が待ち受けていようと、私のやるべきことは決まっている。阻む者は誰であろうと同じ。カエルムの時のように、この聖地を血で穢すだけだ。
歩み続けてしばらく、ベヒモスの嘶きがかすかに聞こえた気がした。コルニ礼拝堂に繋がる扉を閉めてから、ようやく聞こえてきた第三者の物音であった。存在するのかしないのかも曖昧な音だが、私にとっては貴重な印に他ならない。
「あっちだ」
思わず言葉が漏れ出す。ソロルの姿は見えないが、まるで隣で歩いているかのような感覚だった。閉め切られた扉の前を幾つも通り過ぎていく。その多くに特徴を感じられない。ある扉などは草木に侵食され、隠されているかのようだった。そういった光景を次々に流し見て、ようやく足は一つの扉の前で止まった。
ここだ。
カンパニュラ等で得た知識を引っ張り出すならば、此処こそが聖ティエラ礼拝堂である。その証拠に、目に見えないことが不思議なくらいベヒモスの力の匂いがする。この手で損壊させなくてはならない聖獣が、怪物が、ここに居るのだ。そう思うと気が急いた。閉め切られた扉に自然と手が伸びる。だが、その取っ手に触れるか否かで、緊張感を伴う声が耳元より聞こえてきた。
――気を付けて。
穏やかな声だったが、私はとっさに反応した。取っ手から手を離し、そのまま扉全体から身を引くと、少し遅れて緑の物体が扉の周囲より一斉に吹き出し、猛獣のように口を開いて咆哮した。落ち着いてよく見れば、それはすべて植物だった。蔓が百足のように動き出し、一つにまとまっていく。その中央より大きな蕾が現れ、まるで大蛇の顔のように花開く。その中にあったのは無数の牙だった。
ベヒモスではない。だが、怪物には間違いない。こんなものを大聖堂で飼っているとは。それともこれは、大聖堂を飲み込む大樹の身体の一部だろうか。かつては地母神とされた聖樹の怒りがジズを連れてここを踏み荒らしに来た私に向いているのかもしれない。
しかし、そのなんと陳腐なことか。このような怪物ならば、ジズを手に入れる前、それこそ、指輪を手に入れる前であっても勝てただろう。
――油断は禁物よ。あなたは不死ではない。
それは十分理解しているつもりだ。どんなに偉大な人物であっても、小石につまずいたことが原因で死ぬことだってあるのだ。ジズやその子孫たちを楽しく屠ってきたからといって、このような子供騙しの怪物相手であろうと油断するつもりはさらさらなかった。
――それだけじゃないわ。
呆れたようにソロルが呟いた時、私はようやく彼女の言わんとすることに気づいた。素早く身をよじって剣を抜いて構えれば、瞬く間にその刀身が何かを弾く。落ちたものを目で追うことはしない。ただ放たれた位置を睨みつつ、植物の化け物の動きに気を配った。
誰かが傍に居る。ずっと気配を殺していたようだ。
――忌々しいわね。私たちが来ることを知っていたみたい。
勿論、私もソロルも想定はしていたことだ。この植物と騙し討ちでどうにかベヒモスを守ろうというのだろう。つまらないものだ。
――加勢するわ。まずは影に隠れた可愛い坊やたちを仲間にしてあげましょう。
そう言うからにはきっと魔族か何かなのだろう。ソロルの宣言通り、植物の化け物が次の手に移るより先に、何もないはずの空間に揺らぎが生まれた。悲鳴をあげながら突如現れたのは、〈果樹の子馬〉たちであった。戦闘民族ではないが、この非常時のために訓練してきた者たちなのだろう。男か女か判別のつかぬ彼らは、小さな吹き矢や弓、鉄砲といった得物を手に散り散りに逃げ出した。その直後、彼らの逃げだした場所が暗く濁り、血溜まりと哀れな姿になった〈果樹の子馬〉の亡骸が数体、そしてまだ生きている一頭の両足を捕まえ吊るしているソロルの姿が現れた。
「抵抗を止めなさい」
冷たい青い目で植物の化け物を見つめている。捕まっている〈果樹の子馬〉は、屠られる前の哀れな子羊のようだった。どうやら女性らしい。吹き矢を落として涙ぐむ彼女を見て、植物の化け物が興奮しだした。到底、言葉の通じる存在じゃない。すぐに斬るべきと判断し、身構えた時、ソロルの言葉が続いた。
「あなた達も、よ」
冷静なその言葉が通路中に響く。すでに離れた場所まで逃げている〈果樹の子馬〉たちが一斉に震え上がった。いまだに闘志を燃やそうと吹き矢を構えているが、もともとは非戦闘民族とだけあってその力は頼りない。だが、問題は彼らではなかった。ずっと機会を窺っていたらしき者たちがまだこの周辺にいるのだ。私たちが植物の化け物に気を盗られ、〈果樹の子馬〉たちに惑わされ、大きな隙を産むのを待っていたのだろう。
観念したように現れたのは、数名の角人戦士だった。
彼らは姿を消す魔術を持っていただろうか。それは分からない。だが、聖戦士には翅人だっている。彼らの力を借りているのだとすれば、やはり厄介だ。ここも死で覆いつくさねばならないだろう。
ソロルは現れた数名を見つめ、目を細めた。
「まあ、いいでしょう。まだ隠れている連中は後で始末するわ。それよりも、これを見なさい。あなた達、この子を犠牲に出来るの?」
静かなる威嚇に角人戦士たちが固唾を飲んだ。明らかに動揺していた。〈果樹の子馬〉たちを死地に向かわせておいて、とんだ反応だ。こちらを舐めていたに違いない。屈強な見た目の戦士たちが揃いも揃って動揺しているその様は滑稽なものだった。
そんな彼らに対して、震えながら抗議の声を上げたのは、他ならぬ人質であった。
「戦士様方!」
およそ子どもとしか思えない声で、彼女は叫ぶ。
「躊躇ってはなりません! わたしの事など気にせず、戦うのです!」
まるでその時を見計らったかのように、警鐘が鳴り始めた。何も知らずに礼拝している者達を逃がすためだろう。だが、その鐘の音に勇気づけられるかのように、〈果樹の子馬〉は叫び続けた。
「言ったでしょう。わたし達は守られるだけの存在じゃないって。わたしは死など恐れません! この時のために、覚悟を決めてきたのですよ!」
涙を流しつつも、その声は荒々しい。本気で命を捨てる気なのだろう。そんな彼女の声を聴き、逃げ惑っていた他の〈果樹の子馬〉たちが我に返った。得物を握り締め、私やソロルを真っすぐ見つめる。こちらを恐れていることがよく分かったが、それでも立ち向かおうというらしい。
彼らの目には敵意が宿っている。皆、私を拒む目をしている。憎しみに近いその激しい感情に触れると、こちらもぞくぞくするほど闘志がわいてきた。相手がいかに弱い種族であろうと、やる気があるのならば力を発揮するに相応しい。抑えていたジズの力が、そして指輪の力が、血脈を通して全身に巡るのがよく分かった。
それでも、なお、角人戦士たちは困惑していた。
「哀れな子ね。ベヒモスの倅がまだ生きているあなたを本当に見捨てられるはずがないわ。だって、その血に刻まれているのだもの。〈果樹の子馬〉の血筋を途絶えさせてはならないと。とくに、子を産む前の雌駒を潰すような真似なんて――!」
煽るようなソロルの言葉に、〈果樹の子馬〉たちの目つきが変わる。
「かかって!」
怒りと恐怖の混じった人質の絶叫があがった。それを合図に再び戦う意思を示した〈果樹の子馬〉たちが一斉に立ち向かった。どうやら彼らは人質の意思を尊重するらしい。ならば、私も躊躇わない。走り出して、ただただ弱い彼らに剣を向ける私を見て、ようやく角人戦士たちも動き出した。それを見届けてから行動に移ったのだろう。ソロルのいる背後より、悲痛なうめき声が聞こえた。命を賭して味方を奮い立たせた小さな女性戦士の最期の時が訪れたのだとすぐに分かった。彼女の死がさらに敵の闘志に火をつける。今や、角人戦士たちも躊躇う理由など何処にもなかった。
だが、こんなことに何の意味がある。本気で私たちを止められると信じているのか。
扉を守る植物の化け物まで邪魔をしに来ても、まったく負ける気がしなかった。何故、皆、ここまでして私を止めようとするのだろう。負け試合などせずに遠くへ逃げてしまえばいいものを。
一人、また一人と命を奪うたびに、私はただそう思った。




