1.何も知らぬ人々
シルワの都はいたって平穏だった。カエルムで聞き飽きた悲鳴が嘘のように、その大多数がいつもと変わらぬ日常を生きている。世界各地から集まったと思われる巡礼者たちも、カエルムの実情を知らないようだ。情報は滞っている。暴れた成果がここに現れていたのだろう。
ただ、少なくとも異変は感じているようだった。カエルムに送った手紙の返信がなかなか届かない。カエルムに行った人が帰ってこないなどといった話だ。その理由はもちろん分かっている。分かっているが、分からないふりをした。私も、そして、巡礼者の出で立ちで身を潜めるソロルも、無知な巡礼者に混じってシルワの空気を吸っていた。
馬や牛などの合いの子のような姿をした角人戦士たちが、巡礼者たちをはじめとした余所者を睨みつけている。その理由はカエルムの惨状にあるわけではない。いつものように部外者が〈果樹の子馬〉たちを営利目的で誘拐しないように見張っているだけだ。それだけ、ここはいつもと変わらなかった。
「――けれど、情報は風に乗ってくる。取り逃がしてしまった鳥人や人狼たちが今何処にいるかも分からないわ。すでに知っていて、平常を装っているのだとしたら」
ソロルが不安そうに呟く。
「この空気も罠の可能性があるというわけか」
「ええ、だから、今はジズの力は抑えた方がいいわ。カエルムの時と一緒。ぎりぎりまで抑えて、爆発させなさい。そうしてベヒモスの元を目指すの」
「ベヒモス……」
この地を守るという一角の聖獣。絵画や彫刻などでしかみたことのない姿を思い浮かべてみれば、大地が震えるような感触が足に伝わった。
目を閉じれば、犀のような生き物が馬のように嘶いている姿が思い浮かぶ。あれがベヒモスの声だろうか。呼ばれている、引き寄せられている。性別もよく分からぬあの生き物を、指輪は確かに欲しがっていた。
「哀れにも大地に縛られている猛獣を解き放ちましょう」
囁く声を聴くと、何故だか心が癒された。サファイアの姿をしているから、というだけではないだろう。私の中に宿る鳥の心が、空を崇め奉る純粋な巫女の気配に喜んでいるのだ。そこにつながりを感じた。ここではそんな繋がりがさらに増える。大地を支配するケモノと、大地を守る巫女の気配。手に入れた時、私はどのような感動を覚えるのだろうか。
そこまで考えて、ふと我に返る。前はもっと罪悪感があったように思う。何も知らずに笑っている人々、何も知らずに祈っている人々の日常をこれから壊そうとしていることが信じられなかった。かつての自分と、今の自分が重ならない。ソロルの手を取ってから、絶対に変わってはいけない根本的な心が変わってしまったように思えた。
ならば、今からでも引き返すか。いや、それは出来ない。歩みは止められない。戻るわけにはいかない。
角人戦士の怒号が聞こえた。青鹿毛の馬の身体を持つ四本足の戦士が、聖槍を腕に抱えたまま嘶いている。鬨の声のような合図とともに、大聖堂まで至る道は開かれた。今のところ、カエルムの時とほぼ同じだ。違うとすれば、開かれた先にあるものが岩肌ではなく緑豊かな道であることくらいだろう。
地巫女の一族でもある〈果樹の子馬〉たちは、無邪気に巡礼者たちを案内している。私とソロルのすぐ近くでも、赤い体毛をした年齢不詳の者が少年のような声で聖森について得意げに話していた。
此処には平穏がある。平和な世界がある。まるで、私の悲劇やサファイアたちの悲劇など嘘のように。ここに居る人々も同じだった。誰もが想像すらしていない。カエルムで起きた悲劇を、平穏が崩された者達がいることを、誰も知らない。
そして何よりも、この平穏が何かの犠牲の上に成り立っている等と本気で考えてもいないのだ。知っていたとしても、所詮は他人事。自分の身に降りかかって初めて、人は真面目に悲劇について考える。そして、ようやく憎むのだ。
「お兄様方は何処からいらしたのですか?」
不意に足元より声が掛かって我に返った。見れば、いつの間にか青色の〈果樹の子馬〉が私たちのすぐそばまで来ていた。好奇心旺盛であることが一目瞭然なキラキラとした眼差しが、こちらを見上げている。純粋な種族だという話は本当なのだろう。少年らしき声だが、少女のような愛らしい姿をしている。しかし、これでいて成人男性だとしてもおかしくないのが〈果樹の子馬〉である。戦いに不向きだという噂にも頷ける外見であった。子山羊のような小さな角も、子馬のような小さな蹄も、敵を一瞬だけ怯ませるのに成功すればそれだけで御の字だろう。
すぐに返答できなかった私の代わりに、ソロルが微笑みながら返答した。
「イグニスから来たの」
美しいアルカ語に、〈果樹の子馬〉が笑みを深めた。水色の巻き毛に木漏れ日が当たって輝いている。カエルムの〈金の鶏〉たちとはまた違う神秘的な姿ではある。
「カエルムにはもう行きました?」
「ええ」
「あちらとはずいぶん違うでしょう。シルワはたくさんの命がひしめき合っていて、僕たちはその命一つ一つとお話が出来るんですよ」
その命とは植物たちのことだろう。〈果樹の子馬〉だけではなく、木霊という種族は植物と話すことが出来ると聞いている。森全体と意思疎通することによって、外敵の情報や異変についてすぐに察知できるそうだ。弱い種族であるからこその特徴なのだろう。
「という事は、あなた達を見守っているのはベヒモスの御血筋方だけではないのね」
「そういうことです。シルワは世界各地の皆さんに植物の世界についても知ってもらうためにあるのです。この世界はあらゆる命が寄り添い合って出来ている。僕たちは地巫女様を中心にその声を皆さんにお届けする存在でもあります。ほら、草木がさざめいているでしょう?」
彼が言った通り、聖森の木々は風に揺られて音を立てていた。ざわざわという音は声のようにも聞こえなくない。巡礼者たちの喧騒に負けずに音を響かせている。一言でいえば異様だった。カエルムでさんざん聞いた警鐘の音と印象が重なった。
「おかしいな……どうしたのかな……」
ふと、傍に居た青い〈果樹の子馬〉が空を見上げたままそう呟いた。
「どうしたの?」
ソロルが訊ねると、彼は首をかしげる。
「草木が怯えているんです。何か良くない空気が流れ込んできたって。予感でしょうか。彼らはとても敏感ですから」
どうやら隠しているつもりの闘志も、物言わぬ命たちにはお見通しのようだ。それでも、傍に居る〈果樹の子馬〉の様子からすると、その原因が私たちにあるのだとは伝わっていないらしい。植物たちにもそこまでは分からないということだろうか。
「そういえば、カエルムはどんな様子でしたか?」
空を見上げたまま呆然としている青い〈果樹の子馬〉が、そんなことを訊ねてきた。返答する前に、彼は付け加える。
「なんでも、カエルムで大変なことが起こったのだって角人戦士たちが噂していたのです。大変な事って何だろう。何か、知りませんか?」
不安そうに訊ねる彼に、ソロルは静かに笑みを向けた。
「何もなかったわ」
宝石のような目が木漏れ日にあたって輝いている。
「少なくとも、あたし達がいた間は」
そう答える横顔は、嘘など感じさせぬものだった。




