8.聖地の崩壊
終わってみれば呆気ないものだった。
誰にもできることではないことを成し遂げたという達成感はあまりなかった。
カエルムの風は完全に荒廃した。聖鳥の止まり木も、今や木屑すら残っていない。
澄んだ空気と青空までもが穢れてしまったかのように感じるのは気のせいなどではないだろう。
血生臭い空気に混じって人の気配は残っている。だが、好戦的な者はもう何処にもいない。残っているのは皆、逃げ隠れするしかない弱々しい者ばかりだった。大聖堂は勿論、聖山の参道も、そしてカエルムで一番栄えているはずの都も、今や死霊たちの冷たい吐息の音と囁きしか聞こえてこない。
まるで空の聖地全体が死んでしまったかのようだ。
壊れてしまえばあっという間だ。長年繰り返された営みも、秩序も、人情も、何もかもが私の剣とソロルの力、そして死霊の集団を前に崩されてしまったのだ。
壊したいだけ壊して、もう誰も挑んでこないと判断してから、私たちは都を死霊たちに任せて去った。向かうはシルワ。その道中に潜んでいた鳥人や魔物、魔族もまた、戦士かどうかを判断する前に命を奪っていった。
殺せば殺すほど、苦しみから解放されるかのようだった。指輪に力が宿り、息が楽になるようだった。だが、何故、私は泣いているのだろう。ふと、そんな瞬間があることに気づいたりもした。シルワに向かう足取りは何故か重く、自分が人外の何かにでもなってしまったかのように唸り声が漏れ出した。そんな私が歩むのをやめれば、いつの間にかソロルは現れ、私を抱きしめてくれた。
「怖くないわ、大丈夫よ」
そう囁く声はサファイアのものによく似ている。だが、それだけではない魅惑が含まれていた。体の内部が熱い。これはジズの意識だろうか。目を閉じれば、自分が大きな怪鳥になり、一人の美しい娘に宥められているかのような妄想に陥った。
だが、ソロルとの安らぎの時間はいつまでも続くわけではなかった。時折、彼女は私の元から離れていった。どうやら、敵対する情報屋コックローチを仕留めるので忙しいらしい。生と死をかけた鬼ごっこが始まってからはもう長い。それでも、かの情報屋はその仮名の通りのしぶとさを見せてくる。
シルワまでの旅路にて、一人きりにされた私は木陰にただ座ってソロルの帰りを待っていた。ほとんど変わらない光景を眺め続け、時折、生き物の声を空しく耳にする。そうしているうちに、視界が灰色に染まるのを感じた。
塵だ。
見上げながら、私はぼんやりと考えた。
今日の塵は悪臭がやや弱いように思う。それでも、不快なのは変わらない。こういう時にソロルの癒しがないのは不満なものだった。
コックローチもさっさと降参してくれればいいのに等と、非現実な願いを頭に浮かべていると、さらに機嫌を損ねてきそうな人影がすっと現れた。
「旦那様」
クリケットだ。胸に手を当て、丁寧にお辞儀をする。しばらく見ていなかった気もするが、どうだっただろうか。カエルムでの出来事が濃密すぎたせいで時間の感覚が狂ってしまっているらしい。
そんな私を前に、クリケットは目を細めて話しかけてきた。
「お疲れのようですね。当然です。カエルムでのあなたの雄姿、この目でしかと見届けさせていただきました」
薄っすらと笑いながら彼は私を見つめてくる。
「やはり、私の目は間違って等いなかった。まさか、本当にソロルの願いを一つ叶えてやるなんて思いませんでしたよ」
「それで、今日来たのは何のためだ。シルワの情報でも売りに来たのか?」
「それもあります。ですが、それだけじゃありません。旦那様にご確認いただきたくて参ったのです。以前より申し上げた通り、私はあなた方の味方となる者です。あなたが歩みを止めぬ限り、私はそれを見つめていきたい」
「気持ちの悪い男だ。だが、私とソロルの邪魔をしないというのなら大目に見てやろう。お前の価値は情報屋という点だけだ。それ以外の働きは期待していない」
「相変わらず釣れない御方ですね。でもいいのです。あなたの働きで、これまでの強弱関係が揺らいでいる。この世界を当然のように支配していた種族の者達が怯えている姿は滑稽なものでした。きっと、私のようにせいせいしている者はいるはず。ですが、死霊はおっかない。あなたの傍を離れすぎれば、死霊の群れに私も滅ぼされるかもしれないですからね。それでも、これまでよりも呼吸は楽になりそうなのです。コックローチなど、花売りなんぞをやっている連中は困りだすでしょうけれどね」
翅人はこれまで亡霊のようにしか存在できなかったとクリケットは言った。その通りであり、他にも似たような種族がいるならば、今までの秩序が乱れてしまうことで喜ぶ者たちも意外と多いのかもしれない。
「シルワでのご活躍も期待していますよ。カエルムをあれほど傷つけたのですから。その為にも、私の漁ってきた情報を“お譲り”しましょうか」
「譲る? 売るのではないのか」
「ええ、旦那様はもはやアルカ聖戦士様ではありません。それに、あなた様がうまくやればやるほど、この世界の通貨は意味のないものになっていくでしょう。それまでに私が貰いたいものはあなたとの縁です。あなたに有利な情報を回し続ければ、嫌でも私を頼りになさるでしょう。だから、お譲りするのです」
媚びを売るというわけだ。はっきりと言うものだが、その分かりやすさがかえって不気味でもある。有益な情報を回してくれるにせよ、無償というものには罠があるものだ。だから、彼の訴えなど全く聞かずに、私は懐に入っていた適当な硬貨を投げてやった。
「旦那様?」
「お前の言う通りの未来が来るのならば、これは私にとっても不要なものとなるだろう」
理由を述べれば、クリケットはあっさりとそれを拾う。いずれの国の、いくらぐらいのものだったかは把握していない。だが、拾った彼はその額を確認し、まんざらでもないといった様子でそれをしっかりと懐に入れた。
「こうしてお金をいただいたのですから、それだけ有益な情報をお伝えせねばなりませんね」
そう断ってから、彼は述べた。語る内容はどうだっていい。ただ私が目的を達成するために有益と思われることが聞ければいい。
まず、クリケットはシルワについて語った。シルワを構成する角人戦士と彼らに守られる〈果樹の子馬〉と呼ばれる無力な民族について教えてくれた。〈果樹の子馬〉は木霊という魔族の亜種だ。木霊もまた戦闘にはあまり向いていないが、〈果樹の子馬〉はそのさらに上をいく。〈金の鶏〉よりも小柄な者が多く、暴力を前に逃げ惑うことしか出来ない。力も弱いため、角人戦士に頼らねばならない状況だ。
角人戦士については、これまで飽きるほど殺害していった鳥人戦士とあまり変わらない。むしろ、空を飛びまわれないだけ戦いやすい。ただし、その腕力は鳥人戦士よりも上であることを忘れてはならないそうだ。
しかし、負ける気がしなかった。不意打ちが見事に決まり、カエルムを壊滅に追いやり、ジズと空巫女の力はこちらのものだ。彼らの力があれば、シルワに迎え撃つ隙を与えたとしても十分立ち回れるだろう。
自信はクリケットにも伝わったのだろう。話がひと段落つくと、彼はにやりといやらしく笑いながら言った。
「旦那様でしたら、きっと勝利の女神も微笑むことでしょう。しかし、あなたの取り逃がした者たちがきっちりと向こうに情報を与えている可能性についてもお忘れなく。あなた方がたどり着く頃には聖女様はとっくにイムベルに向かっているでしょうけれども」
「情報が伝わっていようが、聖女がそこに居ようが、負ける気はしない」
素直にそう告げた時、塵の影より別の者の気配が現れた。怯える必要も警戒する必要もない相手だ。ソロル。愛しいサファイアの姿がはっきりと見えると、心にちょっとした癒しがもたらされる。
「それに〈果樹の子馬〉たちは魔族ですもの」
ソロルはそう言った。
「魔族は人の血を継いでいる。人の血さえ継いでいれば、殺してすみやかに仲間にすることが出来るわ。〈果樹の子馬〉も同じ。殺せば殺すほどこちらの駒は増えていく一方よ」
「いやはや恐ろしい。ですが、戦いに向かない種族が仲間になったところで利点はあるのでしょうか?」
クリケットが訊ねると、ソロルは軽く首をかしげた。
「さあ、どうでしょうね」
曖昧に応えるのは相手が情報屋だからだろうか。
「ただ、壁は多い方がいいでしょう? 力の弱い蟻だって集まれば人を殺しかねない。一人増えるだけでも十分ありがたいものよ。あら、クリケットさん。そういえば翅人も人の血を継ぐ者たちだったわね」
にこりと笑うソロルを前に、クリケットは震えだした。
「はは、は、冗談のきつい御方だ。少々、長居をしすぎてしまったようですね。私はこの辺で失礼します。旦那様方のお邪魔虫になってはいけませんからね」
そうして、私たちが止める間もなく彼は塵の向こうに消えていった。ほぼ同時に塵は止み、わずかな悪臭は去って澄み渡った空気が広がった。
「死霊になってしまえば、あなたに媚びを売る必要もないのにね」
彼の消えた場所を見つめながら、ソロルは呟いた。そして、今度は私をじっと見つめてきた。
「それよりもゲネシス。聖女を甘く見てはいけないわ」
「甘く見ているつもりはないよ」
「いいえ、強く見積もって鳥人戦士たちのように見ているでしょう? それがいけないの」
「そんなに強いのか、聖女というのは」
興味をひかれて訊ねてみたが、意外にもソロルはそれに対しても首を横に振った。
「あたしの見たところ、強いとは言えないわね。ただ、聖女は特殊な存在よ。指輪があるからというだけではない。聖女になった者には他者の心を揺さぶる何かがある。単なる力と力のぶつかり合いなら百回やって百回あなたが勝てるでしょう。けれど、聖女の持つ力があれば、その強弱関係も乱されかねない。だから、念を入れるの」
「念を入れる?」
「彼女と戦うまでに出来るだけのことをしておきましょう。何が彼女の弱点なのか。何があたし達にとって有利なことになるのか。手に入れた力を考え無しに振り回すだけではいけないわ。イムベルにつくまでに、もっと具体的な計画をたてましょう」
そう言って、ソロルは私に身を寄せてきた。心地よい香りに包まれ、私もまたソロルに身体を預けた。相手が偽物であることは分かっている。
――本物ではない。
真っ白な鳥の姿をふと思い出した。傷だらけの身体で逃れたはいいが、本当に傷は癒え、シルワまで飛びたてただろうか。そんなことはどうでもいい。本物ではない。あんなことを言って、誘いの手を拒むとは。
このソロルは本物になれる。本物のサファイアになる。私が本物にするのだ。そのために突き進まねば。聖剣を、この体を、心を、さらに血に染めなければ。




