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AMARYLLIS  作者: ねこじゃ・じぇねこ
6章 ジズ

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7.カエルムの風

 ソロルに呼び出された死霊たちの通った後には、新しい骸が転がっていた。そのほとんどが人の血を引く者たちだったが、鳥人や〈金の鶏〉もいた。また、別の魔物たちも犠牲となっていた。

 どうやら、現れた死霊たちの強さは規格外のものだったらしい。空巫女を得たソロルの影響を受けているためなのか、それだけカエルムの者達が混乱しているのか。どちらが正しいにせよ、残された者達が目指すべきはとにかく生存することと、大聖堂から脱出するということばかりだった。

 しかし、私の隣を歩むこのソロルは甘くない。都に逃げようとも、カエルムの者達の安寧は訪れないのだ。彼女が望むのは出来るだけ多くの仲間と、同調する世界だ。カエルムを手に入れるためにも、都もまた死で埋め尽くさねばならなかった。


 いつの間にか、警鐘も鳴らなくなった。鐘撞が死んだのか、逃げたのか、それは分からないけれど、不気味なほど静かで、それでいて時折、悲鳴や絶叫が響いた。怒声はだいぶ前に聞こえたきりだ。勇ましく戦える者たちは根こそぎ殺されてしまったのだろう。


 カエルムが落ちていく。吹き荒れる風には血の臭いが混ざっている。いつもは厭う悪臭も、今は好意的に受け止められる。思い通りに染まっていくこの世界に、私は心地よさを覚えていた。


「強い人の気配を感じる。空巫女が好意を抱いている御方よ」


 ずっと黙っていたソロルが、ふと呟いた。サファイアの目を一方に向けて、そっと指をさした。


「あっちだわ。血の臭いが強い。可哀想に。空巫女はこんなに会いたがっているのに、向こうはあたし達を恐れているのね」

「ジブリールか」


 空巫女が好意を抱いているというのならば、その可能性が高い。あれほど斬っていながら、死霊のはびこる場所で生き延びているのは意外だが、それでも花嫁守りとして生まれた鳥人戦士だと考えると不思議ではない。


「そうかもね。確かめてみましょうか」


 ジブリールだとすれば今度は確実に殺さなければ。ジブリールだけではない。このカエルムにいる鳥人戦士全員の翼を奪わなくては。いや、鳥人戦士だけでは不十分だ。リリウムの世界を影から支える魔族や魔物連中もまた、このことをイグニスやシルワ、イムベルに伝えようとするかもしれない。あまりよろしくないことだ。


「怯えているの?」


 ソロルがふと甘い声で訊ねてきた。


「何故そう思った?」

「震えているわ」

「別に怖いわけではない。ひと暴れする前の興奮だろう……それに、ここは少し寒すぎるのでね」


 囁いた先から、カエルム特有の冷たい風が何処からか吹いてきた。

 ジズを失い、空巫女も失ったこの聖地の風は、心なしかとても寒々しい。血の臭いを含んだ空気は充満し、何処かで生き残っている者たちを怯えさせているのだろう。一方こちらは、人の血を継ぐ者を殺すたびに、仲間候補は増えていく。殺戮が、安心を産む世界があるとは知らなかった。


「そう……確かにそのようね。あんなに悩んでいたのが嘘のよう。楽しそうに他者の命を奪うあなたも、あたしは好きよ」


 飾らずに愛を囁き、ソロルは前方を見つめた。


「居たわ。正面」


 その言葉を聞くと同時に、私は走り出した。ソロルを待つ必要はない。彼女は死霊なのだ。まだ本物のサファイアになれていない以上、どうにかしてついてくるだろう。それよりも、彼女が見つけ出した人物を逃がしてはならない。

 走り始めて間もなく、その姿は見えた。廊下の先、開放された扉の向こう。鳥人戦士など空を飛べる者向けの出入り口だ。その付近に、真っ白な人影が見えた。数名の鳥人戦士に何かを告げながら、そのうちの一名を飛ばそうとしている。血に染まった羽毛は拭えていない。それでも、痛みが引いたのだろう。語り口はしっかりとしているように見えた。


「ジブリール!」


 覚えたその名を呼べば、彼女は引っ張られるようにこちらを振り返った。

 鳥人戦士たちも同様だった。動揺を露わにする鳥人戦士の中で、ジブリールだけは無表情に近かった。だが、私の影からソロルが現れると、その眼の輝きに陰りが現れた。


「これが伝承にあった悪夢か」


 そう言って彼女は武器を抜いた。一度戦った時よりもその動きはだいぶ頼りない。勝てるはずがないということは、彼女の部下であるはずの鳥人戦士たちにもよく伝わっているだろう。


「ジブリール様、ここは我らに……」


 鳥人戦士の一人がそう言ったが、ジブリールは首を振った。


「誰かがシルワに伝えねばならない。お前たちは行ってくれ。私はここを止める」

「ですが……」

「残らせてくれ。花嫁を失った花嫁守りなんて生きている意味がない」


 手負いのジブリールに、無傷の鳥人戦士。どちらが伝令に向いているかは明らかだろう。しかし、残せばジブリールの運命は決まってしまう。その迷いが部下たちには露わになっていた。それに、ソロルの眼光は伝令そのものを許さなかった。


「無駄よ」


 そう言って、ジブリール達のすぐ傍より新たな死霊を呼び出したのだ。

 通常ならば死霊になど負ける種族ではない。私を導くソロルが特別であるだけで、本当の死霊たちは故人と遺族の情を利用して生存を狙う非常に弱い生き物なのだ。したがって、数が増えたとしても魔物や魔族と戦える戦士を名乗る者たちが怯える必要などないはずだ。

 ましてや、彼らは古代には神鳥の一族とまで呼ばれた怪鳥たちだ。世界のほとんどの者を相手に有利をとれる数少ない種族の戦士にとって、数が多いだけの死霊など相手にならないはずなのだ。

 だが、今は異常事態だ。ここにいる私がここで重ねた罪の内容と同じく、これまでの常識では何一つ語れないだろう。


 ソロルは言った。私たちの行動が、世界に虐げられていた死霊たちの世界を救うのだと。巫女と聖獣の力を利用すれば、力関係を変えることも出来るのだろう。まるで個々が誰かに認められたかのように、呼び出された死霊たちは非常に強かったらしい。


「……そんな、まさか!」


 鳥人戦士の誰かが絶望的な悲鳴をあげた。

 一人、また一人と名も分からぬ鳥人戦士たちが羽毛と体液を散らしていく。魔物の肉は不味いのだろう。命を奪うに留められた遺体は、かつて目にしたことのあるジャンヌの無残な姿とは違って綺麗なものだった。

 死んだ者の血肉に執着しないこともまた、死霊と戦わねばならない鳥人戦士たちを追い詰めていった。一体潰すだけでやっとという状況。流れているのが鳥の血なのか、亡者の血なのか分からないほどの混乱を前に、ソロルは恍惚な笑みを浮かべていた。その姿は、すでに女王に君臨したかと納得できるほど。


「……もういい!」


 やがて、喧騒の空気をどうにか割るように、ジブリールが叫んだ。


「戦うな、逃げろ! 空を飛ぶんだ!」


 しかし、彼女の命令を守れる者は何処にもいなかった。

 ジブリールの周囲では、致命傷を負って土塊に戻った亡者たちが並んでいた。手負いだというのにたいしたものだ。魂は解放されたのだろうか。それでも、数は少ない。まだまだこちらには立って戦える味方がいる。その上、ソロルは言った。


「死霊に支配されたこの地で死霊によって人が死に、その人がまた死霊となる。何人潰そうと無駄よ。この先はあなたも見知った人が呼ばれることだってあるかもね」


 白い体を血に染めて、ジブリールは周囲を眺めた。

 猛禽特有の強者の目にも、さすがに弱気が出ている。鳥人戦士の中にもまだ生きている者がいるようだが、それこそ残酷なことだろう。そのくらい、勝敗は決まり切っていた。後はジブリールだけだ。深手を負わせてはいるが、只者でない死霊を数名滅ぼせるだけの力が残っているということを、我がソロルは重く見るだろう。


「ジブリール」


 優しく幼子を諭すかのような声で、彼女は追い詰めた獲物に語り掛けた。


「花嫁を失った花嫁守りに生きている意味なんてないのだったかしら」


 揶揄うようなその眼差しに、ジブリールは険しい表情で返した。


「ああ……だが、たった今、意味を見つけた。お前だけは連れて行かなくては。それが、守れなかったあの子に対するせめてもの償いだ」

「あらまあ、噂通り義理堅いのね。出来るものならいいわ、試させてあげる。一対一ならあなたにも希望があるものね」


 そう言って一歩踏み出そうとするソロルを、やや制止した。


「待て。あまり自分の力に溺れるんじゃない」


 今までになく命令口調でそう言うと、ソロルは少しだけ不満そうな表情を見せつつも、立ち止まってくれた。


「そう心配しなくても結構よ。恐れずとも、私の勝利は約束されている。だって、そうでしょう、ジブリール。あたしを殺すということの意味、あなたはちゃんと分かっていらして?」


 彼女の言っている意味がいまいち分からずにいる私とは違い、ジブリールは闘志を鈍らすような目をしていた。そんな彼女の真っすぐな反応が面白いのか、ソロルはくすりと笑いながら胸に手を当ててみせる。


「〈金の鶏〉だけではなく、怪獣たちの生贄を律儀に捧げ続けた一族たちって、どれもこれも平和主義のお人よしで有名らしいけれど、ネグラというこの子もその通りの方のようね。自分が犠牲になろうとも、目の前の誰かを救いたい。その中に、自分を守るべき存在のはずのあなたも含まれている」


 空巫女を抱きしめたその手でソロルは自分自身を抱きしめた。


「あの子の感情が流れてくるわ。けれど、心というものはたった一つの信念や感情で出来ているわけではない。あらゆるものが混ざり合いながら、一つの形を維持しているに過ぎない。表面では強がっていたあの子でも、本当は消滅が恐ろしい。ジブリール、あなたには分かるでしょう? ネグラは死んでいないの。肉体は滅んでしまったけれど、魂はあたしの中で、籠の中にしまわれているだけ。あたしを殺せば、今度こそネグラも死ぬ」


 理解はしていたのだろう。ジブリールは何も言わず、苦虫をかみつぶしたような表情で武器を握る手に力を込めていた。


「それとも、世界はそれをお望みかしら。肉体を失った巫女なんて、誰もいらないものね。利用価値のある魂は、人間たちが管理しやすいお人よしの器に入っていなければ」

「黙れ!」

「誰もネグラをネグラという一人の女性として見てこなかった。事故死ならば次の巫女を守るだけ。彼女は空巫女であり、それ以外の何者でもない。他の〈金の鶏〉たちが認められている生活なんて、ほとんどさせて貰えなかった。贅沢な装飾品で飾られながら、豪勢で狭い鳥籠の中で、ただあなたと守護者であるジズの気配に縋っていることしか出来なかった。でも、どうしてそんな生活をしなくてはならなかったの? あなたはネグラを見守りながら、何も感じなかったの?」

「何が言いたい!」


 苛立ち気味に唸るジブリールを、ソロルは真っすぐ見つめた。


「よく考えて、ジブリール。ネグラのいないリリウムの世界を守る意味はある?」


 ソロルの意図がここでようやくわかった。見たところ、堅物といった印象しかない鳥人戦士だ。女性戦士にやや多い印象の、真面目で戒律に厳しい人物。しかし、かつては私だってそうだった。価値観をぐるりと変えてしまうほどの衝撃は、受けてから時間をおかなければ置かないだけ人の心を不安定にするものだ。

 ジブリールはしばし黙り込んでしまった。呆れているのではない。その眼は明らかに動揺していた。その証拠に聖武器を握る手が震えている。そこへソロルは容赦なく言葉をかけるのだった。


「あたし達は不可能を可能に出来る。あなたが味方になると誓い、その上で望むのならば、ネグラを生き返らせてあげてもいい」

「……なに?」


 ジブリールの眼には明らかに期待があった。


「ただし、このままでは無理ね。いくら死霊でも生死に対して万能でないもの。三人の巫女の力を使えば、死んだ者を蘇らせることが出来るわ。生も死もあたしの思うまま。たとえその本性が魔物であっても不可能ではない。今は寂しい別れだけれど、あなたが望めば、全てが終わった後の世界で再会させてあげる。愛しくて可愛い〈金の鶏〉の娘に」


 ソロルが瞬くと、異様な空気が広がった。ジブリールの迷いがこちらにも伝わってくる。表情の端々に戸惑いが現れている。


「いや、騙されない」


 だが、ジブリールは必死になって首を振った。


「生と死を操るだと? 必死になって神に祈っても覆らないものはあるのだ。仮にお前がネグラ様を蘇らせたとしよう。しかしそれは、偽物だ。ネグラ様の姿をしているだけ。お前たちが人の血を継ぐ死者を捕獲し、その姿で現れるのと同じだ。本物などではない」

「いいえ、本物よ」


 頭を抱えるジブリールに対して、透かさずソロルは噛みついた。


「たしかに違いはあるでしょうね。ネグラが蘇っても巫女としての力は渡さない。だから、生まれ変わるのは、ただの魔物としてのネグラだけ。空巫女ではない当たり前の娘として現れるはずよ」

「空巫女ではない……」


 奇妙なまでに言葉に憑かれるジブリールに対し、ソロルは頷いた。


「これまで空巫女としての生き方しか出来なかった彼女がやっと、ただの生き物として暮らすことを許されるの。どう、素敵でしょう? 空巫女でなくなったってきっと心も体も綺麗なままよ。あなたは守りながら心を惹かれていたのでしょう? それとも、それはただのお役目? あなたにとって、ネグラは空巫女としての価値しかなかったの?」


 そうではなかったのだという答えは、その目に現れていた。

 言葉の攻撃は鏃のように鋭く、天使のような戦士の胸を大きく貫いていた。この人物を落とすには絶好の機会だったのだ。

 ジブリールは放置されたままの鳥人戦士たちの遺体を眺めた。先程まで息があった者たちも、いつの間にか息絶えている。彼らの姿。その無残な光景を眺めてから、嘴を少しだけ開けて、震えながら呟いた。


「ああ……ネグラ様……」


 絶望と希望を同時に与えるソロルは、まさに悪魔のようだろう。それでも、私はソロルに付き添って後悔はしていない。神は我々を救ってくれないのだ。

 死後の救済を素直に信じられる者はいいだろう。だが、そうでない者はどう生きればいい。ひたむきに、教えを守って、生きている間に報われなければ意味がない。そう、意味がないと本心では思っていたのだ。

 ジブリールはどうだ。ただのアルカ聖戦士であった私とは違い、立場ある人物だ。その上、ただの人間ではなく魔物。それでも一皮むけば同じような仕組みで出来た心を隠し持っているものだ。知性ある生き物ならば、多少の違いはあっても基本は同じ。


「……お前も」


 弱々しい猛禽の目が、ふいに私を見つめてきた。


「お前もそうなのか?」


 詰問にならないほど怯えていた。


「この世界を守る意味はないと、本気でそう思っているのか?」

「ああ、その通りだ」

「こんな方法に手を染めてまで? お前はアルカ聖戦士だったのだろう?」

「聖剣は何度もおれを守ってくれた。しかし、信仰は自分よりも大切な人たちを守ってはくれなかった。リリウムの教えに何の価値がある。全てを一度壊し、蘇らせたい。このソロルならばそれが出来る。これは、その為の代償だ」


 自分でも意外なくらい、強い思いがこもった言葉となった。

 自覚すればするほど、胸は熱くなっていく。

 このソロルを女王として、全てをこの手で作り変えよう。歯向かう者がいれば、聖獣の力で守ってやろう。今度は間違えない。今度は失敗しない。理想の世界を作るのだ。


「……信仰は大切な人を守ってくれなかった、か」


 ジブリールは力なく繰り返した。項垂れる彼女に戦う意思は感じられない。それでも、ソロルの表情はすぐれなかった。


「あら、残念ね。戦う気がないのに、こちらに来る気もないなんて」


 元から心が読めたのか、空巫女の力を使ったのか、当然のようにソロルはそう言って、腕を組んだ。その様子はまるで友人が誘いに乗らなかったことにへそを曲げているかのようだ。しかし、その口から漏れ出す言葉は攻撃的なものだった。


「戦う気がなくたって、味方にならないのなら見逃してあげるわけにはいかないわ。そう、傷が癒える前にその真っ白な体を完全なる赤に染めてあげましょうか」


 脅されたジブリールだが、飛び掛かりはしない。そういう戦法なのか、本当に抗う意思が削られてしまったのか、そのどちらであってもすぐに飛び出せるように私は身構えていた。死霊たちを下がらせて、ソロルは少しずつジブリールに近づいていく。そして、その手がゆっくりと伸ばされた。


 これで、カエルムは終わるのだろう。そう思いかけた時だった。ふと稲妻の走るような気配を察知して、反射的に私は飛び出した。ジズの影響を受けた指輪の力によるものだろう。野獣のような勢いで走ることが出来た。だが、その驚きよりも、やらねばならぬことで私の頭は精いっぱいだった。ソロルとジブリールの間に割り込み、すばやく〈シニストラ〉をぶつけた。何もいないはずだったその空間にて、歯切れのいい音が響く。強い衝撃のためだろう。魔術で姿を隠していたとみられる一人の人物の姿が、くっきりと表れた。

 予想していた通りの顔に、苛立ちが強まった。かつて死人のものを拝借したという聖剣を手に私の攻撃を受け止めたのは、逃げたはずのカリスであった。だが、現れた術は人狼の習得するものではない。よく見れば、その傍にいつか見た翅人の顔があった。


「ごきげんよう、コックローチさん」


 ソロルの冷ややかな声に、コックローチは短く「ひっ」と悲鳴をあげた。

 どうやら無理やり駆り出されたらしい。影道を通るよりも不意打ちが狙えると踏んだのだろう。だが、見切れた。いつもと違う気配に、体が敏感になったおかげだ。


「……カリス」


 ジブリールがその名を呟くと、カリスは声を絞り出した。


「飛ぶんだ、ジブリール! 飛べ!」


 荒々しい命令口調。それも、アルカ語ではなくラヴェンデル語であった。けれど、その意味を分かったようで、ジブリールは首を振った。


「無理だ。翼を傷めた」

「その程度で傷めただと?」


 今度はアルカ語で、カリスは呆れたように言った。


「それでも神鳥ジズの息女なのか? この辺りを収め、神鳥を崇めた鳥王の末裔……カエルムでたった一人のレグルス聖戦士なのだろう? 私にはあの程度の傷でと鞭打ったくせによく言うものだ。今だって――この体で戦っているのだぞ」

「お前のしぶとさには感心するよ。それに、私だってまだまだ戦えるとも。だが、飛ぶとなれば話が変わるのだ。今すぐには無理だ。翼の力が戻るまで、もう少し時間を置く必要がある。その時間をそこにいるお客様がくださるとは到底思えない」


 カリスは黙り込み、私の目を見つめた。ジズの力があっても、まともにぶつかり合うのはなかなか骨が折れる。深手を負わせたはずの人狼一匹にこんなにも苦戦するとは。……それとも、私にまだカリスに対して躊躇いがあるのだろうか。いや、そんなはずはない。今ここでこの女を殺したっていいはずだ。私は選んだのだから。


「説得は通用しない。そのことはもう十分理解したからね……」


 カリスはそう言って、突然、身をひるがえした。反動で床を強く叩きつけ転びかける私を尻目に、狼の姿で高く跳躍してジブリールの傍へと逃れていった。体勢を戻そうとする私を前に、コックローチが慌てたように姿を消した。しかし、逃げてはいないらしい。その証拠に、カリスが彼の姿を迷いなく見据えていた。


「コックローチ」


 部下でも呼びつけるように彼女は彼の名を呼ぶ。


「再び飛べるまでジブリールを頼む。逃亡術に長けたお前になら出来るだろう? 狙いの花を摘むのならば、私を敵に回すのは賢いとは言えないと思うぞ」

「やれやれ、人使いの荒い狼さんだ。命令されずともそのつもりですよ。長い目で見れば、この窮地でリリウムに少しでも恩を売ることは私の将来に繋がること。それに大事に見守ってきた〈赤い花〉をこの野蛮なお方々に詰まれるのは勘弁願いたいですからね」


 彼の言葉にソロルがにこりと笑う。


「いいわ、行きなさい。適度に抗われる方が面白いもの」


 そしてその笑みに含みをもたせた。


「せいぜい夢見るがいい。ぎりぎりまで期待させてあげる。あなたが欠かさず見守り、年頃まで育つのを楽しみに待っていた花を、いつの日かあたし達の手で台無しにしてあげる。このまま聖女ごっこを続けさせるのなら、間違いなく、ね」


 コックローチは再び現れ、眉を顰めた。そして、じりじりとジブリールに近づこうと身動ぎをする。見逃すとソロルは言ったが、それを見て私は動いた。彼女は自信があるようだが、私としては少しの可能性も見逃したくない。実際に走り出しても、ソロルに止められるわけでも、咎められるわけでもなかった。むしろ、私がそうすると知っていたように見送ってくれただけだった。

 慌てたのがコックローチとカリスだ。カリスの動きは最低限の注意に留め、コックローチの命を奪う事だけを考えた。しかし、彼は翅人。それも、情報屋と花売りを兼業するもっとも危険な身分の者だ。特別とクリケットが言ったあのソロルが仕留めようとしても何度も逃げ切っただけの才能ある逃亡者だ。ジズの力と指輪の力、そして愛する人の姿を借りたソロルの恩恵を受けていても、コックローチの逃亡には敵わなかった。剣で虚しく空を切りながら彼の逃げたはずの方向をすばやく確認したが、その姿はそこになかった。あろうことか、ジブリールも、だ。


「くそ……」


 自然と唸り声の出る私の視界の端で、カリスの動きが見えた。飛び掛かってきている。逃した失敗に気を取られている暇はなさそうだ。いくら攻撃しようと無駄だ。そのことを分からせるために、躊躇いの文字が一切含まれていない一撃をお見舞いしてやった。手応えを感じ、くぐもった悲鳴が聞こえた。それでも、殺すことは出来なかったらしい。

 すぐさま私から距離を離すと、カリスは狼の姿のままこちらを見つめてきた。睨みつけるような表情でもない。傷を庇い、痛みをこらえるような表情にはなっているけれど、攻撃性に満ちた怒りの感情を産む余裕すらないらしい。


「お前の本質は誠実な男のはずだった」


 カリスはかすれた声で言った。


「だが、もう遅い。あの時、あの場所で、この手で止められなかったことを、私は一生後悔するだろう。……だが、いつの日か、お前の命はこの私が貰ってやるよ」


 その恨み節は何処か頼りないものだった。ぎりぎりだと確か彼女自らが言っていた。三回は大きな傷を負わせている。その上に、この新たな傷だ。カリスの表情は一気に険しくなっていった。ふらついているその様子は、明らかにこれまでの疲労と傷の影響を感じられた。我が剣を磨く聖油も効いてくる頃だろう。魔女や魔人の時のように一撃で倒す力こそないが、魔の血を引く者にとって強弱の差はあれども毒となるのは変わりない。


 逃げる機会はたくさんあったはずだ。全てを見捨てて危険から遠ざかってしまえば、私だって見逃してやっただろう。せめてもの情けだ。味方になるというのならば拒絶しないし、邪魔をしないというのならわざわざ追いかけたりはしない。それなのに、彼女は邪魔ばかりした。逃げる機会はいっぱいあったはずなのに、どうしてここまで邪魔をしてきたのだろうか。

 それが彼女の正義だからなのか。

 私とソロルの邪魔をし、空巫女を守ろうとし、アズライルたちに助言をし、コックローチを使ってジブリールを逃がした。私と共に未来を歩みたいと言いながら、私の誘いではなく仇であったはずのアマリリスを選んだ。

 正義とするものが異なるのならば、そしてそれがぶつかり合うものならば、共存は絶望的なものだ。私とこの女は最初から道が違った。住む世界が違ったのだろう。


 歩み寄る私をカリスは見つめた。もうその眼に悲しそうな感情は殆ど残っていない。いつもの、人間を騙すときのような空笑いをしながら、彼女は言った。


「ここでお前の喉笛を噛み切る力が残っていれば、そうしていただろうな」


 剣を振り上げ、傷だらけの身体に向かって振り落とす。

 そこで、カリスは両目をカッと見開いた。


「だからと言って、今ここで殺されるわけにはいかない。カエルムよ、許せ」


 そして、あっという間に影道へと逃げ込んでしまった。

 すぐさま周囲を確認してみたが、居場所はなんとなく伝わるも剣が当たる様子はない。ソロルの方はさらに正確にカリスの位置が分かっていたようだが、興味なさげに目で追うだけだった。


「逃がしたか……」


 焦りと悔しさの入り混じる感情と共にそう呟くと、ソロルは微笑と共に返してくれた。


「いいのよ。逃がしたってどうせ同じ。シルワまでは遠いの。影道を使ったとしても、そこにたどり着くまでの消耗を甘く見ては駄目。空を飛ぶのだって同じ。あの翅人が律儀にシルワまで運んでくれるわけがないでしょう。カリスも、ジブリールも、シルワにたどり着く前に死ぬ可能性の方が高い。もしくは、たどり着いたとしても瀕死の状態でしょうね」


 そして身をひるがえし、周囲で静かに見守っていた死霊たちに告げた。


「あなた達、恐れることはないわ。カエルムは今日よりあたし達の場所となる。あらゆる場所に赴き、仲間を増やしなさい。そして力を合わせ、哀れにも仲間になれない魔物たちを減らしていきなさい。必要以上に鳥人を怖がらなくていい。彼らを守っていたジズの気配はもうないの。一人一人は強くとも、集団でかかれば確実に仕留められる。味は悪いかもしれないけれど、あたし達の世界を広げるためにも戦いなさい」


 その言葉に死霊たちは目を輝かせた。そして一言も物を言わずに次々に地面に吸い込まれていった。一人残さずいなくなってから、私はそっとソロルに訊ねた。


「何処へ行ったんだ?」

「色々な場所よ」


 ソロルはやや素っ気なく答えた。


「ここを中心として、カエルムを少しずつあたし達の空気に馴染ませていくの。都もすぐに落ちるでしょう。けれど、過信は禁物よ。カエルムの混乱を深めるためならば、あたし達が足を運んで目に付く鳥人戦士を片っ端から殺していった方が確実ね」

「鳥人戦士を片っ端から殺す、か、ずいぶんと簡単に言うものだ」

「あら、今のあなたなら容易く出来るのではなくて? ジズの力があるのだもの。これまで鳥人という種族全体を守ってきた力が、あなた一人だけのものになっているのよ。簡単に勝てて当然よ」


 確かに、言われてみれば、ジズを殺して以降は一般的な鳥人相手ならば、さほど苦戦していない。殺さずとも、翼を斬りつけて飛べなくするくらいは容易いものだろう。


「この際、鳥人を絶滅に追い込んだっていいくらいなものだけれど、それは嫌だとあたしの中のネグラが言っているの。可哀想だから、雛や卵は見逃してあげましょうか。代わりに彼らには教育を施せばいい。その他は一緒よ。戦士もそれ以外も関係ない。飛べる者を中心にその剣で斬り殺しなさい」


 いつもの魅惑的な表情に圧倒的な雰囲気が合わさり、神々しさが生まれる。そんな彼女の傍により、私はそっとその手を取った。跪いて手の甲にキスをすると、周囲の血生臭さも少しは忘れられた。

 見上げる彼女の目は美しい青だった。サファイアのように、いや、サファイアそのものと言えるほどに。彼女こそ本物のサファイアとなる者。そして、死霊の女王のみならず、新しい世界の支配者となるべき者だ。


「仰せのままに、女王陛下」


 そう言って笑いかければ、かつて見たものによく似た笑みが返された。

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