3.聖鳥の悲鳴
進めば進むほど、ジズの気配は強くなっていった。
指輪と惹かれ合っているのだろう。まるで私が生まれてこの方ずっと求めてきたかのような嬉しさと共に、焦りが生じた。礼拝堂の扉には誰も待ち構えてなどいなかったが、固く閉ざされている。その中に人の気配がした。
扉に手をかけてしばし制止する。今更、躊躇うのは何故だろうか。すんなりと行動することが出来なかった。しかし、そんな私の恐れや不安から守るような温もりが突如現れた。ソロルだ。愛しいサファイアの姿をして、彼女は急に現れた。姿は見えずともずっと傍にいる。声が聞こえるからそれは分かっているが、やはりその姿を見ることが出来ると嬉しかった。サファイアの笑みだ。今は偽物かもしれないけれど、本物にすることが出来る。そのためならば、聖域を喜んで侵そう。
固いと思われた扉はすんなりと開いた。ソロルが共に手を添えてくれたからだろうか。中に隠れていた者達は、開いた扉を見て、そして開けた我々を見て、一気に蒼ざめた。その中の一人に自然と目が向いた。豪華な装飾で彩られた礼服を着ているからというだけではない。その魔物の女には、人を惹きつけるものがあった。
あれが、空巫女だ。
彼女の姿を目にするなり、ソロルが怪しげに目を細めた。欲しくてたまらないのだろう。ならば、私が与えてやらねばなるまい。その前に、彼女を守護しているという大きな気配を消し去ってしまわねば。この礼拝堂に漂っている。姿を見る方法は、指輪が教えてくれるというが。
「来るな!」
その前に、邪魔者たちを片付けるのが先だろう。吠えるように威嚇し、武器を構えているのは鳥人の戦士たちだ。そのうちの一人、真っ白な鳥人の女性戦士が大事そうに空巫女を抱きしめ、後退する。我が子を守る母親のようだ。あの様子からして彼女が巫女にもっとも近しい存在だろう。花嫁守りだとか相談役だとか呼ばれているレグルス聖戦士……古の鳥王の末裔だ。だが、警戒すべきは彼女だけではない。彼女たちを守るように身を乗り出す鳥人の男性戦士をどうにかしなければなるまい。逞しい体つきに相応しい武器。先ほど相手した連中よりもさらに高位の者だということはよく分かった。
「ミケーレ……」
弱々しく空巫女は呟いた。彼女は〈金の鶏〉という種族である。〈金の卵〉の祖先でもある彼らは戦いには不向きな種族であり、何かに守ってもらうか、惑わして逃げることに特化していると聞く。そんな彼女にとって、力と力のぶつかり合う光景は恐ろしいものなのだろう。
しかし、だからといって同情はしない。むしろ好都合と喜ぶだけの事だ。自分を守るために盾になろうとする戦士の未来に不安するその甘さは、守られている場所にいながら我が伴侶であるソロルの手が届く隙を産んでしまうはずだ。
鳥人戦士たちが、ただの人間である私の侵入に半信半疑な今が絶好の機会だ。
「……迷っている場合ではないぞ」
だが、そんな私の機会を奪う声は響いた。
「そいつは異常な人間だ。迷えばその隙に巫女を奪われる」
苦しそうにしながらも、はっきりとそう伝えるその声。カリスだ。動けなくするにはすこし当たりが足りなかったのだろうか。
「こっちだ」
そう言って、白い鳥人戦士を誘導する。逃がそうというらしい。私にはその姿は見えないが、ジズの子孫の目には見えるらしい。白い鳥人戦士は巫女を抱きしめたまま走り出した。その姿を目で追うと、いかつい鳥人戦士が武器を手にまたしても威嚇してきた。ミケーレ。先ほど、その名は聞いた。彼こそが、カエルムのクルクス聖戦士を取りまとめる存在。
「通すわけにはいかない」
勇ましい声が響く。これまで切り倒してきたどの鳥人よりも、ジズの血が濃いように思う。鳥人は天使に例えられることが多いが、彼もまたその通りの印象だった。戦いの天使。善なる心と神への忠誠心で悪を切り裂こうというのだろう。私にはもはや裁かれぬ理由などない。彼の鋭い目に貫かれるべき存在だと自覚している。
だが、だからといって、切り裂かれてやるつもりは毛頭ない。これまで倒してきた命ある者たちの恨みと嘆き、そして恐怖と返り血が、指輪と共鳴している。通常ならば、作戦もなしに勝てるはずのない相手だろうと、怖気づくということは一切なかった。
「あなたを信じているわ」
背後より愛しい囁きが聞こえてくる。まるで本物の妻がそこにいるかのよう。彼女ともう一度共に歩めるのならば、それがたとえ大勢にとっての悪の道であろうと突き進もう。
――だから、導いてくれ。〈シニストラ〉!
強い思いを胸に走り出せば、ミケーレ隊長もまた身構える。迎え撃つつもりだ。動きが少ない分、読みづらい。翻弄するべきか。それとも、様子を窺いつつ傷を負わせるべきか。私は人間であり、相手は鳥人だ。体力も腕力も持久力も集中力すらも相手の方が上だろう。そうであるならば、戦いを長引かせてはならない。
指輪が力を与えてくれて五分五分というところだ。それでも、私の動きは私が思っているよりも異様なのだろう。ミケーレ隊長もまたこれまで戦ってきた鳥人たちと同じように心のどこかに戸惑いが感じられた。
戦士としては失格だ。いかなる状況においても戸惑いなど感じてはいけない。純血の人間の戦士ならば戦士にすらなり得なかっただろう。聖獣と讃えられる者の子孫として生まれ持った能力に甘んじているのかもしれない。そこが鳥人戦士――いや、魔物や魔族といった生き物全ての弱みだ。
異様な指輪と死霊に守られた人間の私を前に、ミケーレ隊長は次第に余裕を失っていった。そして、私の守護者でもあり、抜け目のないソロルがそんな彼の様子を見逃すはずもない。影に隠れながら隙を伺う死霊の動きが屈強な鳥人戦士を惑わし始める。彼の動きに隙が生まれ始めた。持久力と集中力では負けているだろう。しかし、素の力はそうであっても、ささいなことで戦況は変わるものなのだ。
「く……死霊め!」
翻弄されるたびに苛立ちを募らせていく彼の注意を、ソロルが一手に引き受ける。その一瞬でよかった。ほんのわずかな時間があれば、私には十分だった。獣にでもなったかのように駆け抜けて、その喉笛を狙う。ソロルの動きに惑わされたせいか、ミケーレ隊長の動きは酷く鈍かった。
「ネグラ様……!」
剣を突き立てる直前、彼はそう呟いた。
きっと腕の確かな戦士であったのだろう。その地位は生まれでも馴れ合いでもなく、実力で認められていたことはよく分かった。けれど、死んでしまえばそれまでだ。命を落としてしまえば、もうどうにもならない。美しい羽根も、逞しい顔つきも、鋭い眼光も、死を賜れれば瞬く間に消え去ってしまう。
死ねば等しく無力と化す。死霊に囚われもしない魔物たちならば、本当にそれっきりなのだろう。ならば、もう二度とミケーレ隊長の活き活きとした姿は見ることが出来ない。私がそれを禁じてしまった。返り血を浴び、体中が熱くなった。気持ちが高ぶり、吠えてしまいたくなるほどだ。鳥人の血の臭気に喜ぶ私はどれほど醜いのだろう。
床に倒れ伏す躯などに用はない。興奮冷めやらぬ中、指輪がさらに私の気を荒くした。引っ張られるように見つめる先は、礼拝堂の正面にある聖壇だった。ここが神殿であった時代から変わらず守られてきた場所。神としてのジズを祀っていた名残はあるそうだが、現在は飽く迄も神の使いとしての聖鳥ジズを讃える場所と捉えられている。
古くより人々の願いを託されてきた聖地。かつては血塗られた方法で大勢の安定を求められた。リリウム教会の息がかかって以降は、穏やかな方法となったが託される願いは同じだ。全ての命が健やかであるように。
しかし、その願いは無視され続けている。ジズ、ベヒモス、リヴァイアサン。はたして彼らは有能なのか。彼らは本当に命あるものを愛する神とつながりのある者なのか。そうであったとしても、その救いの手からサファイアとミールが漏れてしまったというのならば、私にとって彼らは無能に他ならない。
神が、聖獣が、我らを救ってくれないのならば、私は大勢の祈りを踏み躙ろう。
この地を守ろうとした者たちの屍を越えて、愛する人の姿で導く人ならざる者の力を借りて、養父が、そして仲間たちが望まなかった道を突き進んでやろう。
「ゲネシス」
愛する人の声でソロルが私に囁いてくる。その眼差しの先で、祠が輝いている。指輪と惹かれ合っている。何をすればいいのか、どうすればその姿を望めるのか、教えてくれたのはソロルではなく、指輪であった。
頭に、心に、刻まれたかのように体は動いた。震えが止まらない。涙が出そうだった。感極まった状態のまま聖壇の前に立ち、いまだ血の滴る剣〈シニストラ〉を天に向かって掲げてみせた。
声が聞こえる。人の声ではない。高い、高い声だ。私の行く手を阻み、そのたびに斬り殺されていった哀れな鳥人戦士たちの断末魔にも似ている。人の声ではない。鳥の声だ。怪鳥の声。かつてこのカエルムの地にて国を築き、生贄を要求してきたという噂のある野蛮な魔物の声だ。
そうだ。聖鳥という肩書に惑わされてはいけない。
古くよりこの存在に知性ある人々は縋ってきた。多くの願いを古代では生贄に、現代では花嫁に託し、祈りを捧げてきた。
かつて、ここでは〈金の鶏〉の生娘の血と肉が捧げられた。今の空巫女の家系より選ばれ、魔物たちの繁栄を願って命を奪われた。
この聖鳥は聖典にあるような生き物ではない。ただそこにあったものを理解するためにそのような逸話がつけられただけのこと。無駄に恵まれた魔力をわけてもらいたいと目論む力なき者たちが、ここの縛り付けただけのこと。
「ジズ」
その名を唱え、天上を見上げる。
圧倒的な存在感と羽ばたく音。強い視線の先より、魔物の父と称される生き物は舞い降りてきた。全ての鳥人戦士の父であり、全ての魔の血を引く者たちを見守る守護者。羽根を舞い散らしながら降りてくるその姿は、語り継がれてきた神話にあるような鋭い印象のものではなかった。私が思い描いていたような魔物の禍々しさもない。
猛禽のような目をしているが、呼び出した私を捉えるその眼差しは、獲物を見つめる猛禽のものではなかった。ただ何者かを問うだけのもの。指輪の光に惹かれたそのままの状態で、ジズは地に足をつけた。
甲高い声で何かを語る。ただ意味もなく鳴いているわけではない。彼の言葉で、何かを私に問いかけているのだろう。だが、その意味を理解する必要性は感じられなかった。それに、我々には分かり合うための機会など端から存在しなかった。
その目が礼拝堂の中で横たわる躯に向いた瞬間、ジズより感じる気配がすぐさま変化してしまったからだ。
「行きなさい」
ソロルの声を号令に、私は飛び掛かった。
我が子を殺されたジズの衝撃が怒りに、あるいは恐怖に結びつくより先に、〈シニストラ〉と心を通わせてその翼を狙った。自由に空を飛び回る鳥であっても、翼に傷を負えば痛手となる。逃げ道を塞ぐ意味でも、戦う力を削ぐ意味でも、翼はジズの分かりやすい弱点であった。
躊躇いはなかった。
カリスを斬りつけたあの時から、私に躊躇いなどなかった。
頭では分かっている。とんでもない罪を犯しているのだと。ジズという存在が、多くの人の願いとなっていることも分かっている。かつてのような禍々しい祈りではなく、ただ平和に、穏やかに、存在しているだけであることも分かっている。
悪は私だ。だが、それがなんだというのだ。善であろうとすれば、私はミールの仇はうてない。善なる道を歩み続ければ、私はサファイアに再会できない。
理解できない世界を理解できるものに変えるためには力が必要だ。私を導くソロルを女王にしなければ。そして愛する人にしなければ。
だから、私に躊躇いなどあり得なかった。
剣を払った直後、鮮血と共に鳥の悲鳴が響き渡った。逃げようとするも、翼に頼ってきた彼は満足に動けない。思いもしなかったのだろうか。かつても殺されたことはあると聞いていたが、長き平穏の間にその恐怖を忘れてしまったのかもしれない。ならば、好都合だ。古き時分にフラーテルに導かれたという女の末路は哀れなものだったが、彼女の分まで私は成し遂げてみせよう。
きっと私なら出来る。誰もが放置してきたヴァシリーサを倒し、サファイアを取り戻し、思い通りの世界を築くのだ。
この鳥は、そのための生贄だ。
ソロルのために、私のために、この命を残らず我が聖剣に吸い取らせなくては。全てを求めている。左手の指輪が欲しがっている。今はその悲鳴すら心地よい。私の手で、私の力で、魔物たちが湛えた気高い存在が踏みにじられている。その感触、その音声、その臭気が私の心を乱し続けていた。
何度斬りつけただろう。手応えがなくなっていった頃になって、ソロルの冷静な声が耳に届いた。
「もういいわ、ゲネシス」
我に返ってみれば、当たりは血と羽根が散乱していた。
「十分よ。あなたにも分かるでしょう? ジズはもう何処にもいない。彼の力は指輪に宿り、貴方にとってのさらなる力となるでしょう」
「この手に……」
指輪のはまる手の平を呆然と見つめる。血だらけの汚らしい手だ。しかし、その内側にて、強い気配を感じることが出来た。鎖をされながら決まった聖地で飛んでいた聖鳥の魂は、肉体を壊され、今は私という狭すぎる鳥籠に閉じ込められているようだ。
さぞ、苦痛なことだろう。
「これでもう空巫女は手に入ったようなもの」
ソロルはくすりと笑った。
「さっそく鬼ごっこをしましょうか」
彼らの消えた方向を見つめながら、ソロルは言った。
カエルム大聖堂の構造にはさほど明るくない私だが、空巫女の姿を思い出してみれば、胸が熱くなった。たった今、私の中に閉じ込められたというジズの魂が彼女のことを想っているためだろうか。しかし、その愛情が、かえって花嫁の命を危険にさらしているとは皮肉なものだ。
見逃すつもりは一切なかった。空巫女を手に入れる事もまたサファイアを取り戻すために必要なのだ。ジズが私の中に消えた今、花嫁といわれる彼女だって居場所を壊されたようなもの。生き永らえてジズを恋しがるのが幸せか、ソロルに囚われて私と共に歩むのが幸せか。いずれにせよ、私がやることはただ一つ。
ソロルを守らねば。それだけだった。




