1.聖山にて
人間とは何処まで悪魔に魂を売れるのだろうか。私はこれまで自分の事をごく普通の人間だと思ってきた。他の誰かと同じように目の前の事柄を哀しみ、喜ぶのだと。それは、信仰によって守られた善良な魂によるものなのだと。
しかし、剣を手に持って歩む今の私はどうだろう。
カエルムという地は、人で溢れかえっていた。リリウムの教えを乞う者ばかりではなく、ハダスやカシュカーシュの民と思しき人間もいた。また、そもそも人間なのか疑わしい集団もおり、神ではないものを崇めているだろう輩も少なくないように見えた。
その誰もが、自分たちに都合のいい願いを胸に秘めて山を登ろうとしていた。
三聖獣が崇められるより前から、巡礼は珍しくないらしい。カエルムの聖山を登るのはいつだって人間だけとは限らない。そもそも、聖山に住まう聖鳥ジズが、天高き場所にあったという楽園を追放された魔物たちを連れてきたのだと聖典には書いてある。
ハダス、カシュカーシュ、そしてそれ以外の数多の信仰によって、解釈はそれぞれだろう。しかし、いずれにせよジズが他の魔獣や幻獣と呼ばれる存在とは違うことは共通していたし、その特殊性に縋るものが多いというのも確かだった。
誰もが自分たちだけの願いを抱えている。共に山を登る他人に対しての対応もまたそれぞれ違う。民族や信仰、異質さなどに怯えずに、自分の近くの者に接することが出来る者もいれば、自分たちの同胞としか喋りたがらない者もいた。そういったさまざまな巡礼者たちを点々と見守っているのが見るからに人間ではない戦士たちであった。
ジズの血を引く種族。単純に鳥人と呼ばれることもあるが、翼を広げて空を飛びながら戦う彼らは天使の一種だとも信じられている。顔は鳥に近く、嘴がある。目は鋭く、心まで見透かされそうだ。髪の毛のようなものは羽毛で、両肩から二の腕辺りは羽毛に覆われ、肘より下から人間のような手が伸びているが、それとは枝分かれする形で翼が分かれていた。しかし、混血の者もいるようで、嘴がない者や、翼をもたない者もいた。その一方で、人間らしい要素を感じられない者までいる。
いずれも生まれ持った荒々しい心を目に宿し、巡礼者たちを睨みつけていた。どう見ても人の血が薄い彼らだが、リリウム教会の同志である。このカエルムの地においては、支配者と呼んでもいいほどだろう。
そんな輩に見守られながら、私はまさに巡礼のための登山を始めるところだった。
「緊張しているの?」
隣からそっと訊ねてくるのは、防寒用の青いマントを頭から被ったソロルであった。マントよりも青い目で見つめられながら、静かに否定すると、ソロルは少しだけ笑って、一般巡礼者たちを見渡した。
「これだけ大勢いても、見つかる時は見つかるわ。それでも、あたしは全力であなたを守ってみせる。あなたはとにかくジズの元を目指しなさい」
「ジズは……何処にいる」
「この山の頂上よ。近づけば、指輪とジズが惹かれ合うはず。その導きに従って、遮るものを切り倒しながら進めばいい」
きっと多くの者が行く手を阻むだろう。しかし、その妨害に負けるようではいけない。どんな手を使ってでも必ずジズにたどり着き、その返り血を浴びなければ。
「大丈夫。〈赤い花〉の気配は遠い。あたしとあなたなら、全て上手くいくわ」
手を繋ぎ、ソロルは囁いてくる。その愛しさに身が震えそうになる中、山に登る時を待ちわびていた巡礼者たちに向かって、鳥人戦士の一人が手を挙げて鳴いた。それを合図に、もう何度も訪れていると思しき巡礼者たちが歩みだす。彼らに引っ張られるように、他の者達もぞろぞろと歩みだした。
踏みしめる大地は固く、空気は妙に冷たい。大勢の者達の吐息が雑音となって響き、生き物がひしめき合う気配は気持ち悪いほどだった。その中をソロルと共に歩む私は周囲からどのように見えているだろうか。時折、彼女に手を貸して、寄り添って歩く。そうしていると、どんなやましい事情もないただの夫婦のようだっただろう。しかし、そうではないのだ。
聖剣〈シニストラ〉が唸っている。多くの命を奪うことになったとしても、剣は私を裏切らない。そうなるようにソロルが仕込んでくれたのだから。むしろ、剣は暴れたがっているのではないか。そう思うほどの威圧感が身近に感じられた。
山登りは楽ではない。しかし、いつまでも終わらないわけではない。健康な若い大人だけで進む場合、麓から頂上までにかかる時間はさほど長くはない。休憩も疎かに進み続ければ、もっと早くジズの元に迎えるだろう。
登れば登るほど疲れは増したが歩みは早くなっていった。焦りが生まれてきたためだ。早くいかなくてはならないという気持ちが強まっていく。まるで誰かに呼ばれているようだ。もしくは、引き寄せられているのか。
「――あれがジズなのか」
逸る気持ちは何処から生まれるのだろうか。指輪を撫でながら呟く私に、ソロルもまた小声で答えた。
「呼ばれているの? それならきっとそうよ。でも、焦っては駄目。ほら見て、邪魔者が現れた」
ソロルの視線が厳しいものになる中、その者は唐突に表れた。
巡礼者たちの波の中で、一人の女性がぽつんと立っている。周囲の旅人とさほど変わらない姿をしているが、それが何者なのか分かる者には分かるだろう。だが、大多数の無力な人間は、きっと夢にも思わないことだ。
麦色の髪、翡翠の目。かつて、その特徴に対して、ある種の好意を感じていたこともあった。姿が見られることを心の何処かで喜んだこともあった。何度拒んでも、彼女は諦めなかった。サファイアを奪われた私にとって悪魔としか思えない種族の血が流れているにも関わらず、今となっては、彼女こそが神が差し伸べた手のようなものだったように思える。
だが、何もかも遅い。今更私の行く手を遮ろうと、我々の道は交わることはないのだ。
「とうとう此処まで来たか」
先に口を開いたのは、カリスの方だった。人混みの中で、がやがやとうるさいはずなのに、彼女の声は妙にはっきりと聞こえてきた。
「お前ひとりならばともかく、その女を連れてこの先に行くことは認められない」
そう言いながら、彼女はさりげなく近づいてきた。
あまりにも自然な動きに、普通の人間ならば何も感じなかっただろう。だが、私は何度も見てきた。人狼というものたちは、仲間であっても心を許しきってはならない。生まれ知った兄弟のような顔で近づいて来ても、瞬く間にその本性を現して噛みついてくることだってあるのだから。
それでも、私の表情を見て立ち止まり、寂しそうに微笑むカリスの顔には思うものもあった。彼女と過ごした晩もいくつかあった。子供のように夜通し話し、無邪気な顔で私の事をあれこれと聞いてきた。その時の彼女は、狼というよりも子犬のようだった。
あの時、私は彼女にどんな感情を抱いていただろう。
「私たちが一緒に歩めない理由、お前に教えられてから私なりに考えてきたんだ」
カリスが再び話し出す。さっきよりもまた距離が近い。ソロルが嫌悪感を示している。
「考えられるだけ、考えた。私はどうすればいい。どうすることが、正しいのか。後悔がないのか。……それで分かったんだ」
麦色の髪、翡翠の目。端麗な顔立ちよりも目に焼き付くのはそんな色だ。とくに野性味あふれる目の輝きは、我々とは明らかに違う。きっとこれまで彼女は純粋な動機で私に接してくれていたのだろう。だが、私だって、そんな過去にいつまでも囚われているつもりはなかった。
「すべてはずっと前に決まっていたんだ。それに私は気づいていないだけだったって」
カリスは悲しそうに微笑む。だが、次の瞬間、私は目の前にいたはずの彼女の姿を見失った。
「すまない、だが、これで最期だ」
声だけが聞こえた。
「ゲネシス……」
ソロルの警戒する声が隣で聞こえてくる。見えずとも、カリスはすぐ傍に居る。今にも飛び掛かってくるところなのだ。
人狼と戦ったことは何度もある。だが、ここまで距離を近づけたことはない。人を斬ったこともある。あるいは殺したことだって。だが、私の持つ〈シニストラ〉が滅ぼした相手は、いずれも何の情もわかない相手ばかりだった。
私はカリスを斬れるのか。これまで、頭をよぎったことはあった。ソロルに囁かれるたびに、疑問にすら思った。その答えが、この瞬間に判明するのだ。
たとえ愛着がなくとも、人狼は簡単に斬れるものではない。人狼の魔術を見抜くのは難しい。特に、光に愛される人間は、闇と共に生きる者たちの魔術と相性が悪い。彼らといつでもどこでも対等に戦うことは誰もが出来ることではない。そんな中で、これまで私はどうにか人狼を倒したものだった。
しかし、どういうわけか、この度は今までとは全く違った。瞬間、瞬間が、手に取るように分かる。カリスの匂い、吐息、動きが脳裏に刻まれ、姿は見えないのに何もかも見通しているかのようだった。
来る。その動きすら緩やかに思え、剣を抜くことも、構えることも、そして斬りつけることも、すべてに余裕が生まれた。
そして何よりも意外だったのは、そこに躊躇いが一切生まれなかったことだった。
鈍くて重たい感触が剣を握った片手にのしかかってきた。かなり強い圧力がかかったはずだが、容易く耐えることが出来た。体の軽さは異常なほどだ。生暖かい感触と、恍惚としたものが私の心を支配していた。聞こえてきたのは短い悲鳴と、うめく声、そしてほくそ笑むような愛らしい声と、やや遅れて聞こえてきた周囲からの悲鳴だった。
足元に転がり落ちるのは、立派な体格の狼の姿。苦しそうに呻きながら、信じられないといった様子で私を見上げていた。傷は与えたが、どうやら深く抉ることは出来なかったらしい。ただ、与えた衝撃は大きかった。周囲にも、彼女にも、そして私自身にも。
「お、狼……人狼だ……」
「人が食われた?」
「いや、返り討ちにしたらしい……ひどい流血だ……」
周囲が騒ぐ中、狼の姿のカリスが震えながら私を見上げ、呟いた。
「お前……」
それ以上は続かない。私の恍惚もそれまでだった。
異変に気付いたのか、はたまた、初めから待機していただけだったのか、目に見える鳥人戦士たちと、目に見えない戦士らしき何者かの気配が近づいてくるのを感じ取った。ソロルに促されるまでもない。何をすべきか。どう行動するべきか。視界にとらえるべきは足元で無様に転がっている狼女ではなかった。
――斬った。
これまで私を囲っていたもの。いわば、柵とも呼ぶべきもの。足元で苦しそうに呻くカリスは、その象徴のようだ。自らの手で切り捨てることに成功した今、迷っている暇なんてない。周囲のどよめきも、私に向けられる殺気も、次第に強くなっていく。そのことすら、追い風のように思えてならなかった。
「行こう、サファイア」
号令が下った。私自身の声で。
足元で苦しむ狼を飛び越して走れば、周囲の者達が驚いて道を開ける。邪魔にならない限り、狼の血で穢れた〈シニストラ〉をぶつける必要はない。だが、いつまでもそれでいいわけでもなかった。ジズを祀るカエルム大聖堂まであと少しという時に、突如、行く手を阻む者達が現れた。両脇から、そして、上空から、人の血を継がない――あるいはわずかにしか継いでいない者達が、リリウム教会ゆかりの武器を手に襲い掛かってきたのだ。
上空から襲い掛かってきたのは鳥人戦士だ。そちらはともかく、両脇から来たのはいずれもリリウム教の世界の多くで恐れられる魔物たちだ。吸血鬼や人狼などといった分かりやすい者達ではなく、あらゆる種族の混血児らしい。自然に生まれることもあるが、私は聞いたことがある。こういった種族も、錬金術師の一部が悦に浸りながら生み出しているのだと。彼らもそういう生まれの者だろうか。
ともあれ、いずれも私に対する目的は一つだった。問答無用で武器を向け、殺しにかかってきた。普通に食らえばひとたまりもないはずだ。これまでの私ならば、ここで生涯を閉じていただろう。しかし、今の私にはそうではなかった。
狼女一匹を切り伏せた時よりも容易かった。迷いがないせいだろうか。私の頭に浮かんだのはただ道を作らなくてはということばかりで、恐怖も、慈悲も、はたまた怒りも、悦びも感じる暇がなかった。
結果、複数の悲鳴があがり、羽毛と血が散乱して、道は開かれた。
周囲の者達がいよいよ悲鳴を上げだした。何を恐れるべきなのか、何が起こっているのか、次第に分かり始めたらしい。そこから先の感覚はさらに曖昧なものになった。〈シニストラ〉は道を開くために使った。道を塞いでいる障害物が、生きているものなのか、命宿らぬものなのかも分からない。ただ、そんな状況で、何度か血が流れたような気はした。ひたすら走り、ひたすら斬った。そうして作り出した道は間違いなくカエルム大聖堂まで続き、誰も私を阻むことは出来なかった。
時折、焦りを含む怒号が聞こえたが、向かい合う者たちのいずれも、私を見て困惑しているようだった。私もまた不思議だった。現実味がなかった。〈シニストラ〉は血まみれで、私も血だらけだ。私が通ってきた道がどうなっているのか、振り返るまでもなく想像がついた。そして、躊躇いも生じなかった。行く手を塞ぐのが命あるものだと分かっていても、今の私には障害物にしか感じられなかった。油断しているのならば、困惑しているのならば、好都合ではないか。
――進んで。
そんな声が聞こえた気がした。サファイアは――ソロルは、ちゃんとついて来ているだろうか。姿が見えない。だが、彼女を待つよりも大事なことは進むことだ。この場所が守っている存在を滅ぼすのが今の私の役目なのだから。
――立ち止まっては駄目よ。
茨の道を切り開くかのように、命ある者たちを切り分けて進んでいく。舞い散るのは羽毛だけではない。甲高い猛禽のような悲鳴があがり、人間と変わらぬ真っ赤な血で聖地を穢していく。相手が絶命したかどうかなんてどうでもいい。歩むべき道が開けばそれでよかった。
そうやって私は進み続けた。
今もなお、塞がりかける運命の道を自らの手で切り開き続けた。
手を伸ばせば、神が与えてくれなかった未来が待っているはずだ。そのために、まずはこの場所の大きな輝きを手に入れよう。
そのためだけに、進み続けた。




