9.永遠の誓い
月光を浴びながら、遠ざかり続ける過去を振り返った。
かつて何度も傍に寄り添おうとしてくれた狼はもう何処にもいない。最後に伸ばされた手を残酷に振り払ってしまった私に用意されているのは、ただ一つの道だけだ。だが、孤独な道ではない。手招きながら先導してくれる者がいる。失ったはずの愛する妻に似ているその者は、月夜の中で向かい合っていると震えてしまうほど神秘的だった。今宵は真っ青な目がよく見える。美しく、そして、愛らしい。
サファイア。偽物でもいい。これから彼女は本物になるのだ。後戻りはできない。後戻りなんてしなくていい。人として、まともな道を拒んでしまったのだ。世界に生まれ落ちた全ての怪物たちよりも、ずっと怪物らしい生き物になろうじゃないか。
「もっと悲しそうな顔をするのかと思ったわ」
ソロルに言われて気づいた。どうやら私は笑みを浮かべていたらしい。そんな私を憐れむように見つめつつ、彼女は早々と手のひらを広げた。その中にあるのは、たった一つの指輪だ。異様な雰囲気の漂うその指輪を受け取るかどうかでずっと悩んできたのだ。しかしもう、悩む理由もなかった。
「……いいのね?」
ソロルは確認してきた。私が拒むなどと端から思っていない言葉だった。そんな彼女の慎重さを見ていると、滑稽に思えて仕方ない。決めてしまえば、飛び込んでしまえば、もうどうでもよくなった。あんなに悩んでいたのが嘘のように、今の私には迷いがない。むしろ、迷っているのはソロルに見えてしまうほどだ。そんな錯覚に、私は一人笑った。
「もちろん」
答えて、そのまま跪いた。
亡きサファイアと同じ姿をした女が手を差し伸べる。その手を取って、指輪を受け取った。月の輝く下で見つめ合えば、記憶の片隅にすっかりしまわれてしまったサファイアを思い出す。何処にもいないならば取り戻せばいい。その術があるのなら、諦めずに試せばいい。手の甲に口づけをすると、ソロルはサファイアの目で私をじっと見つめてきた。本物でない死霊の彼女は魂の宿らぬ石像のようだ。しかし、この石像を本物に出来る力がすぐそこにある。ならば、目指すしかない。進むしかない。
私の手で、この人を本物のサファイアにしなければ。
決意をはっきりとさせてみれば、異様なほどの解放感に包み込まれた。これまでずっと堰き止められていた感情が、氾濫する川のように溢れていく。今はまだ本物ではない、本物になりたがっている亡者の手はとても美しく、そして温かいものに感じられた。
全てが夢のようだ。しかし、夢であったのはこれまでの方なのかもしれない。とても不思議な夢だった。狼の姿をした女に諭される夢。しかし、あの夢はもう去ってしまった。これからが現実なのだ。これから先が、向かい合うべき戦いの現実なのだ。
「指輪に口づけを」
短く言われ、その通りにした。それを間違いなく見つめると、ソロルは表情を一変させた。何処か距離のある余所余所しい表情から、かなり距離の近い家族の見せる安心した表情へと変わった気がした。
そして間もなく、跪く私と目線を同じにした。地べたに膝をつき、私の肩に手を添えて、艶っぽく彼女は言った。
「立って。指輪を貸して」
言われるままに立ち上がり、受け取った指輪を返すと、ソロルは私の左手を包み込むように握り、手の甲に口づけをした。その感触に内心悶えていると、上目遣いにこちらを見つめ、そして囁いた。
「ゲネシス」
撫でられるままに手のひらを広げると、左手の薬指に指輪を通された。女性らしい繊細な手つきが何処までもなまめかしかった。私の見降ろす前で、ソロルは指輪のはまった手に再度口づけをした。
「これであたし達には絆が生まれた。あたしは貴方の為に存在し、貴方もあたしの為に存在する。愛しい人、どうかあたしを貴方の隣に相応しい存在にしてほしい。二人でやり遂げましょう。貴方を幸せに出来るのはこのあたしよ」
指輪のはまる手にソロルは頬ずりをする。その感触が妙に愛おしく感じられるのは絆とやらのせいだろうか。一つになるべきものが無事に合わさったような安心感を得ながら、私はソロルを立たせた。手を繋いだまま向かい合い、サファイアにそっくりなその顔をじっと見つめた。失ったものがこの手に戻ってくるのだと思えば、切ない別れなど忘れられる。甘えてくるようなソロルの表情を見つめていれば、その本質が偽物であろうと、神に背く存在であろうと構わなかった。
取り戻せるのなら。取り戻したい。理想の世界をこの剣で作ろう。サファイアの情が与えてくれた守りの力と、ソロルとの誓いで得られた破壊の力を使ってやろうじゃないか。この世界の平和のために苦しんでいる者たちを解放するのだ。
のさばる悪に鉄槌を。苦しむ者に安楽を。
私のやることは決して正義ではないだろう。何の罪もないものがたくさん死ぬだろう。それでも、進むしかない。ソロルを本物にするためならば、煩わしいリリウムの柵から抜け出して、矛盾だらけのこの世界を切り裂いてやろう。
「誓おう」
短く語り掛ければ、ソロルは縋りつくような視線をこちらに向けてきた。その切ない表情の頬に私は手を添えた。
「あなたの為ならば、聖獣と祀り上げられた存在も、聖女として担がれた者達も、この剣で切り裂いてやろう。二人で、いや、三人で暮らそう。人形となったミールを取り戻して、共に暮らしてほしいんだ」
「……嬉しい」
ソロルは涙を滲ませた。その顔を見ていると、この手にあった愛が戻ってきたようで、それだけで幸せだった。ソロルは私に身を寄せてきた。サファイアはこういうことをしなかったが、彼女はまだサファイアではないのだ。ソロルとして甘えてきているのならば、それはそれで可愛いものだ。
「ずっとその言葉を待っていた」
震えた声で彼女は言う。
「貴方のような人に愛されることがあたしの夢だった。それが死霊としてのあたしでなかったとしても、あたしは幸せよ。不幸な女性と一つになって、貴方を愛し、愛されたい。共に暮らしましょう。その為ならば、あたしは全力で貴方を支えるわ」
そして抱き着いたまま、ぐっと力を込めた。
「まずはカエルムよ」
その声に強い闘志が含まれる。先ほどとは打って変わって、守ってやる必要性を感じさせないほどの逞しさだった。
決意のこもった表情で、彼女は私を見上げてきた。
「道はあたしが作る。貴方のすべきことは一つだけ。剣を手に取って突き進むこと」
「養父は、見ているだろうか」
口から出たのはただの疑問だ。迷いではない。そこに伴う感情は何一つなかった。しかし、ソロルは答えてくれた。
「見ているかもしれないわね。でもね、どんな人であろうと死霊になってしまえば一緒よ。皆が同じ夢を見ることが出来る。人の血を引いていれば、あたし達と一つになれる」
「……一つになれば、どうなるんだ?」
「もう誰も争う必要がなくなる。人の血を継ぐものと、あたし達とで理想の世界を築くことが出来るわ。人形にされたミールや、あなたのお友達のピーターのように死霊になった後に滅ぼされたひとは復活されられないけれど、それ以外のひとならば理想の世界の住人にしてあげられる」
ソロルは目を細めて、付け加える。
「あなたのお父様も、お友達も、皆、亡者にしてしまえばいい。そうすれば、あなたとあたしの手ですべてを守ることが出来るわ」
そうして、理想郷の女王に彼女はなるのだろうか。迷える者たちを導き、安寧の世界へと誘ってくれるだろう。その世界は穏やかなものだろうか。枯渇した心に潤いを与えてくれるだろうか。隣で微笑んでくれるのは、本物のサファイアなのだろうか。
その光景を想像した途端、全ての景色が一変したような気がした。これまでの世界のことも、カリスとの可能性も、全てが夢物語であったかのように曖昧なものへと変わってしまった。しかし、気持ちは清々しいものだった。
――〈シニストラ〉、お前はどう思っている?
これから、多くの血が流れるだろう。しかし、どんな光景が待っていようと、この剣は私の命を守ってくれるという。私と気持ちを一つにするのか、はたまた、いやいやながら力を貸してくれるのか。
どちらであろうと、私に出来ることはただ前へと突き進むだけだった。
これですべてを変えることが出来る。これまでの世界が正しかったならば、どうして虚しく死んでしまうものがいるのだ。ピーターは死んだ。誰よりも誠実だったのに、死んでしまった。そういう者ばかりが命を落としてしまうのならば、この世界は間違っている。グロリアも死地へ向かった。きっともう戻っては来ない。ならば、死霊として蘇らせればいい。ジャンヌもうろつくこの世界で、死霊と人の血を継ぐ者たちのための理想の世界を作るのだ。
そこではもう誰も使い捨てられたりはしない。ピーターのように命を落とすこともない。サファイアやミールのように不当な扱いを受けたりもしない。
そんな世界を私たちで作らなくては。
――見ているか、ピーター。お前が必死で守ろうとした世界を私は壊そうとしている。
だが、ただ壊すわけではない。純情なる戦士は利用されて死んだのだ。我らの友であるグロリアも、もう間もなく、そちらに向かうだろう。だが、あの世で落ち込むことはない。お前はもはや呼び戻せないかもしれないが、お前の望んだ平穏の世界は、この私が生み出してみせよう。
そのために、私は指輪を受け取った。死んだお前を、そして仲間たちを裏切ることになろうとも、私はこの誓いを守り続けよう。




