8.告白
ソロルは言った。もう行かなければならない。
聖女たちがカエルムを発ち、リリウム教会の者達がまだ私の身元を特定できていない時期こそが狙い目なのだと。ならば、今こそ発たねばならないのだと。
しかし、指輪は貰えていなかった。受け取りたいと申し出たのにも関わらず、である。
ソロルが言ったのだ。覚悟を決めた根拠を見せて欲しいと。
イグニスからカエルムまでの道のりはそう厳しくはない。それでも、巡礼する者が病弱であれば周囲に止められるほどの距離はある。イグニスを発ったのは昼過ぎの事だ。そこからソロルと共に歩いて日没となっても、イグニスの青い光がまだ近く感じられる地点だった。
そんな頼りない足の私たちに対して、人狼という生き物の移動はとても早い。いかに翅人よりも遅くとも、私たちからすればあっという間だ。思っていた通り、イグニスを発ったその日にカリスは現れた。
ソロルは傍にいなかった。共に歩んでいたはずなのに、いつの間にかいなくなっていた。まだコックローチとやらと鬼ごっこをしているか、いずれ食べる予定の巫女たちの様子を見ているのか。
――はたまた、気配を殺して我々の様子をみているのか。
いずれにせよ、彼女がいないということはカリスにとって絶好の機会である。突然、暗闇からその姿が現れても、もはや驚くこともなかった。
「まだイグニスにいると思っていたのに」
開口一番、彼女はそう言った。焚火にあたりながら私は答えた。
「時間がないと言われたのでね」
すると、カリスは狼の姿のまま焚火の傍へと這い寄ってきた。共に炎の温かさを感じていると、ヴィア・ラッテア大渓谷のことを思い出した。あの頃が懐かしい。こんなに重たい気持ちにも、勇ましい気持ちにもならなかった。ただこの先の時間を消費しているだけの日々であったはずだが、今となっては平和なものだとも思えた。
「お前は、そうまでしてミールの仇を討ちたいのか?」
狼の姿のまま訊ねてくる。明らかに人間ではないその姿を見つめながら、私は肯いた。
「ああ、そうだ」
「……この先にいらっしゃる空巫女様を犠牲にしてまでなのか?」
「だからこそ、おれはここにいる」
断言してみれば、カリスはやや怯えたような目で見つめてきた。
「ゲネシス。お前は巫女様たちのことを知らないからそう言えるのだ。彼女たちは純粋な心で聖獣たちと寄り添っている。彼女たちに害を与えれば、とんでもない罪となるだろう。その姿を見てもなお、お前はソロルの味方になれるだろうか。……なれるというのなら、もはや私たちとは違う生き物なのだろうね」
元人食いらしからぬ言い草だ。だが、どうだっていい。カリスと私が違うなど、これまで散々思ってきたことだ。
「ゲネシス。こちらも、もう時間がないんだ。時間がない。ここでお前が諦めてくれれば、お前の罪はなかったことになる。アルカ聖戦士としてこれまで通り生きることが出来るし、お前さえよければ、この私がローザ大国までお供しよう。……時間がないんだ。ここを逃せば、お前は世界の敵になってしまう。進み続けるだけでも罪深い。あのソロルを認めた状態で、聖地に足を踏み入れるのはやめてくれ……今ならまだ間に合うんだ」
悲痛な声にすら、もう心が痛まなかった。
一度決めてしまえば、吹っ切れてしまえば、そういうものなのだろうか。必死に私を止めようとするカリスの姿がもはや滑稽だった。そこまで私にこだわらなければいいのに。哀れなものだった。
「カリス、お前は誤解している」
私はそっと彼女に告げた。
「おれは、お前が思っているような人物ではない。お前が信じているような善人ではない。アルカ聖戦士としての魂はすでに朽ち果てている。もうすでに遅いんだ。おれはイグニスを発った。カエルムへ向かっている。それが全てだ」
「まだ……やり直せる……」
震えた声で彼女は言った。だが、私は首を振った。
「もう無理だ。友も死地へと赴き、お前とは未来を歩めない。諦めてくれ。そして遠くへ逃げるがいい」
「何故だ……何故、私とは歩めないのだ」
カリスは俯いたまま嘆く。
「私が人食いだったからか。殺した以上に救えばいいとお前は言った。でも、救ったところで私が殺した人間は蘇らない。そういうことなのか」
「違うよ。お前が仮に人食いでなかったとしても、答えはきっとこうなっていただろう」
「……どうして」
狼の眼差しがこちらを見つめてくる。忌み嫌ったこともあるし、好ましいと思ったこともある。これまで関わった大勢の人狼に比べれば、カリスは特別だったかもしれない。分かりやすい好意を向け、ぎりぎりまでこうして庇ってもくれた。善人とは言えないが、根っからの悪ではなかっただろう。
そんな彼女の心を傷つける覚悟はできているか。今まで悩み続け、揺さぶられ続けていたのは、正義と悪の選択の迷いなんかではない。とても単純な理由だったのだ。目の前でこちらを見つめてくる一匹の雌狼の心を踏みにじられるか。それだけだったのだ。
そして、その方法もまたとても単純なものだった。
「お前が……」
その顔を正面から見つめ、私は告げた。
「お前が、人狼だからだよ」
翡翠のような目が見開かれる。思ってもみなかった答えだろう。体が小刻みに震え、逞しい体にも関わらず、弱々しい印象が生まれた。
「……人狼だから?」
一度感情を突き刺してしまえば、あとは簡単だった。あれほど躊躇っていたのが嘘のように、言葉を続けられたのだ。
「おれは人狼を憎んでいる。アルカ聖戦士として、改心するものは許せと言われてきた。だからお前を救ったのだ。目の前で人を殺さない限り、そして、人を食わない生活を望む限り、教会に引き渡した。それは義務でしかない。本心は、お前も人狼のひとりとして見ていたのだ。お前が人狼で、おれが人間である限り、おれ達は共に歩めない」
「なぜ……憎んでいるんだ」
震えた声と共に見上げてくる彼女に、私は事実を突き付けた。
「愛するサファイアを殺した奴の仲間だからだよ」
ずっと黙ってきたことを、彼女に話さないでおいたことを、私は打ち明けた。カリスの反応は、私がかつて恐れていた通りのものだった。狼のくせに絶望的な表情を浮かべ、純粋な獣の目で私をじっと見つめている。痛々しい姿だが、私は容赦しなかった。
「お前は妻を殺した男の同胞だ。同じ力を悪用し、人間を食ってきたのだろう。改心したならば、それでいい。その力でこれからの人間たちを救うならばそれでいい。だが、おれと共に歩むのは許せない。サファイアを食い殺した男がいまだに許せないように、お前たち人狼全体を恨む心はどうしても消えないのだ」
「……あ、ああ」
震えたままカリスはその場に崩れ落ちた。犬のように地べたに寝ころび、そのまま地面を見つめている。よほど衝撃的だったのだろう。だが、そんな反応を見ても、これまで恐れていたような罪悪感は生まれなかった。
これでいい。これでよかったのだ。これで、彼女は私を諦める。別々の道を歩むことができるはずだ。
「そんな……そんなことって……」
いつもの勇ましさは何処にもない女々しい姿でカリスは狼狽えていた。そんな彼女を私はさらに突き放した。
「分かったか、人狼女」
その言葉が止めとなった。
「もう二度と、顔を見せるな」
よろよろと立ち上がるカリスの姿に、自然と〈シニストラ〉へと手が伸びる。怒って襲い掛かってくるだろうかと思い、身構えたが、カリスの反応は非常に弱々しいものだった。呆然とこちらを見つめ、そして私の背後へと視線を移す。いつの間にかそこには、第三者がいた。炎の明かりを受けて青い目を輝かせるソロルであった。
「残念だったわね、カリス」
サファイアの声でそう言った。
「これでよく分かったでしょう。あなたが求めるべき幸せはここにはない。これ以上、彼を惑わすならば、あたしも彼も容赦しないわ」
妙に心身に馴染むその言葉と一緒に、哀れな人狼へと視線を移す。どうやら襲い掛かってくる気配はないらしい。ただ絶望的な表情でこちらを見つめ、そして俯いた。
「もう、時間がない」
幾度となく繰り返してきたその言葉を再び口にする。
「ゲネシス……」
むせながら、後退していく。
震えながら、こちらを見つめてくる。
そして彼女は、月の輝く夜空に向かって遠吠えをした。
私の恨む人狼としての姿を躊躇いなく見せつけると、さり気なく動き出したソロルの気配を察知して、吠え終えると同時に影道の中へと逃げ込んだ。
ソロルに目で追われながらも、カリスの気配はしばし留まる。闇夜の何処かより私たちを見つめ、かすれ気味の悲痛な声で囁くように言った。
「お前と一緒に……未来を歩みたかった」
それっきりだった。
今度こそ遠くへ逃れていったのだろう。
これでよかった。これでよかったのだ。よかったはずなのだ。何度も自分に言い聞かせながら、私はヴィア・ラッテア大渓谷での夜を思い出した。親しそうに笑う狼は、悪い奴ではなかった。
けれど、これで終わりだ。今度こそ、もう二度と現れはしないだろう。分かれ道だらけだった私の道も一本にまとめられた。
これで、終わりだ。




