6.通りすがり
グロリアとの別れは名残惜しいものとなった。もう二度と会えないかもしれないのだから当然だ。しかし、その一方で、何処かすっきりしたものを感じていることに気付き、我ながら衝撃を受けた。
いつまでもグロリアの存在を感じていれば、きっと私は躊躇い続けただろう。だが、彼女に降りかかった最悪の任務と、それに立ち向かおうとする彼女自身の姿が、私の背中を一つ押してくれた。そういうことなのかもしれない。
ならば、あとひと押しだ。気がかりなのは一つだけ。帰路を急ぎつつ、私はその気配が近くにないか探り続けた。
しかし、現れたのは期待していた気配ではなかった。まるで偶然通りがかった者のように、彼は私の前に現れた。幽霊のような存在感はいつものことだ。クリケット。虫けらと呼ばれ、たまにそれを自称する彼は突然現れた。
「クリケットか。悪いが今は急いでいるんだ」
「お急ぎですか。最愛のお人の事でしょうか?」
「いや、カリスを待つつもりだ。今度こそ、彼女と話を付けなければなるまい」
「ならば、お急ぎになる必要はありませんよ。いくら影道を通ったとしても、カエルムとこちらは遠すぎる。我々のように風を読む力のない人狼は意外に遅いのですよ。急いで帰って待っても今夜中には現れないでしょう」
「……そうか」
ならば、急ぐ理由はないか。そんなことを考えていると、クリケットが目を輝かせながら私に訊ねてきた。
「よろしければ、私と世間話でもなさいませんか」
「また金か。そんなに必要なのか?」
「大金などはいりませんよ。私はただ、酒代程度をいただければ結構なのです。たとえば、全部このお値段でいかがですか?」
そう言いながら指示された額は、イグニスの酒代よりも安い。しかし、必要な情報ならばともかく、金を払ってまで雑談するほどの男かと言われれば疑問しかない。通貨を投げてやるより先に、私はクリケットに訊ねた。
「内容次第だな。単なる世間話というのなら、金を払ってまで付き合うべきものか疑問だ」
「おやおや、疑い深い御方だ。長いお付き合いですのに、私の話す内容がそこらの人間どもの世間話と同じだとでも? 私がお話しするのは、とりとめのない身の上話などではありませんとも。私がこの目で見た、聖女さまの日常ですよ」
そう言って、彼は妖しげに笑った。世間話など回りくどい。聖女の情報ならば、それがどんなにさり気ないものであろうと、私とソロルの役に立つものに違いない。歩む道が定まりかけている今だからこそ、聞いておくべきだ。
「話してくれ」
そう言って指定されたよりも少し多い額の硬貨を投げてやれば、クリケットはその全てをきっちりと受け取った。
「釣り銭はいらない。酒につまみでもつければいい」
「ありがとうございます、旦那様」
クリケットは丁寧に礼をしてから、表情を変えた。
「ではお話しましょう。私の目で見たカエルムの聖女さまのご様子を」
そして、語りだした。
「相変わらず聖女さまはリリウム教会に留まるように説得され続けております。その答えを先延ばしにしながらも、彼女の愛玩奴隷である〈金の卵〉の娘はすっかり学園に通える日々を夢見ております。聖女さまにとって隷従は己の命に等しい存在。それを教会も分かっているのでしょう。主従の魔術に縛られた魔女は、その相手の命こそが弱点となりますからね。もはや話し合いは不可能。教会は間違いなく〈赤い花〉の血を手に入れた。しかし、聖女さまを取り巻くのは絶望だけではありません。聖女さまにとって心の癒しとなっているのは〈金の卵〉の存在です。かの少女はいまや聖女さまの生きる意味に等しい。彼女の未来がかかっているからこそ、聖女さまは戦えるのです」
主従の魔術については、カンパニュラでも触れたことがある。
魔女を討伐するとなれば、注目すべき情報がこの部分だ。主従の魔術を使っているかどうか。もしもその魔術に縛られているとすれば、討伐の難易度はぐっと下がる。相手を捕獲し、脅すことが出来れば、たいていの魔女や魔人は降伏するのだ。降伏しなければ殺してしまえばいい。そうすれば、たちまちのうちに精神は壊れ、勝負にならなくなるだろう。
アマリリスには分かりやすい弱点がある。リリウム教会も危なっかしい魔女を聖女に仕立て上げたものだ。ソロルを恐れさせていても、弱点さえ分かれば怖くはない。
「〈金の卵〉の隷従か。聖油になるだけが哀れな彼らの運命だと思っていたよ」
「もちろん、大半の〈金の卵〉はそうでしょう。運よく愛玩用に可愛がられている子たちだって、聖女さまの愛玩のように教育を受けられる立場にありません。それほどまでに愛され、その思いは一方的なものでもない。隷従の娘もまた、聖女さまの役に立とうと必死なのです。変身して悪と戦う姿に憧れている。もしも、聖女さまに危害を加える者が現れれば、躊躇いなく戦乱に飛び込んでしまいそうだ」
想い想われの関係。このまま敵対し、刃を交えることとなれば、勝敗のカギとなるのはその〈金の卵〉なのかもしれない。それは覚えておこう。
「そういえば、〈金の卵〉が癒しているのは飼い主の聖女さまだけではないようです。旦那様に片思いをしているあの忌々しい女人狼めもその一人。いつ切り捨てられてもおかしくない孤独な立場にいて、屈託のない笑みと親しみをこめて話すのは、人を疑えぬ〈金の卵〉だけなのです。たびたび彼女たちが話しているところを目撃しました。それだけ、かの〈金の卵〉は重要な存在となっている。その意味を、旦那様がどう捉えるのか、私は少し興味があります」
「迷惑な興味だ。どう捉えようとお前には関係ない。……それに、私はまだ聖女さまともその奴隷とも会ったことがないものでね」
「ああ、そうでした。ご伴侶様は必死にあなたと聖女さまが会わないように裏で気を配っていらっしゃった。今のままでは戦ってもあなたの方が不利。〈金の卵〉に触れることも出来ぬまま、聖なる指輪の前に敗北するだけでしょう」
「相手は聖女だ。当然のことだ」
だが、その力差を埋める方法がある。ソロルの指示に大人しく従えば、聖女など恐れずに聖地を荒らすことが可能なのだという。夢物語なのか、本当なのかは分からない。ソロルを信じるならば、私はやがて聖女と対等以上に戦える機会を得られる。その先に待っているのが、偉大過ぎる魔女の盗伐と、願望の成就である。
「ご伴侶様の仰る奇跡の力が本当のものなのか、もしも旦那様がそれに縋るのでしたら、ぜひとも注目させていただきたいものです」
好きになれない笑みを浮かべながら、クリケットはそう言った。
そろそろ塵が降り出しそうだ。そんな予感に気づき始めた頃、クリケットは紳士のように礼をした。
「雲行きが怪しくなってまいりましたね。今日はこの辺でお暇しましょう。そろそろご伴侶様も戻られるはずですよ」
そうしてこちらが返答するよりも先に、彼の姿は消え去ってしまった。




