4.真夜中の訪問客
「サファイアか?」
物音がするなり、私はそう訊ねていた。
帰ってくる者がいるとすれば、それはサファイアではなくソロルだ。そうは分かっていても、半分寝ぼけた頭からはこの名前しか出てこなかった。しかし、暗闇からこちらを見つめてくる眼光は、サファイアどころかソロルですらない。次第に目が冴えてくると、軽い落胆と安心感という奇妙な組み合わせの感情が同時に生まれた。
「カリスか」
その名を呼ぶと、麦色の狼は暗闇よりはい出てきた。窓辺から月の光が差し込んできている。その明かりを避けるように座り込み、人間の姿へと変わる。こちらを見つめる表情には、切なさが込められていた。
「ソロルではなくてがっかりしたか」
「まだ帰ってきていないようだからね。出かけてからしばらく経っている」
「あのソロルなら、深夜のイグニスで翅人情報屋を追いかけるのに夢中だ。今度こそ潰したいのだろう。奴の逃亡術もだんだん見破られるようになってきている」
「助けなくていいのか。役に立つ男なんだろう?」
「心配はない。奴の方もあのソロルの危険度をもうすっかり理解しているようだからね。むしろ、ソロルの注意を引いてくれている今は、お前と話すのにぴったりな時間だ」
親しげな笑みを向けてくるカリス。彼女が人狼であるという怒りは薄れてきている。今のところ、彼女に対して持つのは別の疑問だけだ。そろそろ逃げて欲しい。私の決意を揺るがすのをやめて欲しい。
「相変わらず浮かない顔だな。でも、聞いてほしいんだ。お前の事は伝えていないが、ソロルの近親者を説得しているという話は皆が知っている。カルロス隊長も、そろそろ覚悟を決めるようにと言ってきた。アマリリスにも待ってもらっている。本当に、時間がなくなってきている」
「ならばそろそろ諦めてくれ。お前と共に見る夢は辛い」
「諦めきれないんだ。だって、ここで退けば、お前はきっと殺される。あの規格外のソロルを弱体化する方法を知っているか? 彼女に寄り添うお前の存在が邪魔になっている。お前が彼女を否定するだけで変わる。でも、そうして貰えなければ、お前の存在を消すしかないと教会の連中は言い始めている」
「そうだろうとも。人々の平和を乱す者は悪だ。悪は聖なる武器で切り捨てられる存在。容赦してくれないだろうことは、おれにだってわかっている」
カリスの誘いに乗ることは、すなわちあのソロルを見捨てるということになる。サファイアの心を抱きしめた彼女を、放り出すことになる。世間的にそれが正しいことだとしても、私は後悔せずにいられるだろうか。
考え込んでいると、カリスが悲しそうに鼻を鳴らした。
「それはつまり、悪に徹するということか」
「……そういうことになるかな」
「私にこの環境を与えてくれたのはお前なのに? そんな方法で取り戻したって、ミールの魂は喜ばない。彼らの想いは、お前が悪になってまでの復讐だったのか? お前の懐かしむ様子からは、とてもそうは思えない」
カリスの言葉を否定する気はない。サファイアが、そして、ミールが、私の凶行を望んでいるものだろうか。いや、彼らは望んでいないかもしれない。ソロルが復活させたサファイアは悪魔に魂を売った私を見て、どんな顔をするだろう。人形となったミールは、人形の中からどんな気持ちで狂わされた世界を見つめるだろう。私の知っている生前のままの二人であったら、きっと悲しむはずだ。
ああ、そうだ。これは二人のための凶行ではない。私だけの、独りよがりの、欲望のためのものだ。蘇ったサファイアが、救い出したミールが、どう思うのかなんて何も考えちゃいない。
私は身勝手な獣と同じだ。カリスの方がずっと人間らしいだろう。
「お前は孤独なんかじゃない」
カリスはじっとこちらを見つめながらそう言った。
「友人だって、まだいるのだろう。グロリアだったか。会っているところを少しだけ見た。楽しそうにしていた。彼女と敵対してまで、復讐しなければならないのか?」
「……ヴァシリーサを倒さなくては」
「焦らなければ、倒す方法が見つかるかもしれない。その為ならば、私も力を貸す。悪くないことだろう? 私は……お前と一緒に頑張ってみたいんだ」
気付けば、愛妻を奪われたことによる人狼全体への憎しみは、ほとんど薄れてきている。時間の経過というものは確実に影響を及ぼすものなのだろう。それとも、カリスがそれだけ純粋な心を見せつけてくるせいだろうか。
今はもう、カリスを疑うことはしない。私に出来ることは、ただ良き友人以上のものになり得たかもしれない相手を気遣うだけだ。
「今の環境は、そんなに希望を持てるところなのだな」
訊ねてみれば、カリスの目つきが変わった。
「あ、ああ。癖のあるやつも多いが、よっぽどの不快はない。少なくとも盗賊なんぞをやっていた頃よりずっといい」
そう言って、その表情に笑みが含まれる。
「かつては敵対関係を貫くと思っていたアマリリスの伴侶たちとも話す機会が増えたんだ。アマリリスの愛玩動物とかね。彼女が〈金の卵〉泥棒をしたと前に言っただろう? その〈金の卵〉の少女と時々話すんだ。最近は、飼い主に内緒でこっそり歌の練習をしている。ああしてみていると、可愛いものだよ。盗む物品にしか思っていなかった頃が信じられないほどにね」
そう語る彼女の表情は、教会の片隅で出会う一般人のものとそう変わらない。
相当、平穏な時を過ごせているのだろう。
「そこにお前の居場所はありそうか? 人狼としての欲望を抑えるほどの確かなものはちゃんとあるのか?」
訊ねてみれば、カリスの笑みが少しだけ薄らぐ。
「前にお前も言ったよな。私の立場は不安定なものだって。その通り、洗礼も受けていない人狼など、表面上はよくても、心からは信頼はされないのだろうということがよく分かる。でも、あの場所にはアマリリスがいる。アネモネにすごく似ているが、中身はもっと違う何かに似ている。支えてやらなくては。会話をするたびにそう思ってきている。かつてのアネモネが多くの人を救ったように、私もアマリリスの力になりたいのだ」
「友人を殺した相手なのに、寄り添ってやるのか」
「指輪さえあれば、彼女はルーカス達を殺した魔女ではなくなる。記憶は共有しているが、心が別人のようだ。今のアマリリスを私は守りたい。アネモネに似ている彼女と敵対はしたくない。だから、窮屈であろうと教会に留まらせて、見守ってやりたいんだ」
似ているだけで、そのアマリリスはアネモネではないのにと思いかけたが、口を噤むしかなかった。それを言えば、ソロルとサファイアだってそうだ。今のソロルはサファイアの魂を利用して姿を借りているだけ。死後も遺る記憶と感情を使って、私に語り掛けてくるだけのことだ。
それでも、似ているということは大きな衝撃を与えてくるものなのだろう。その点では、私もカリスもあまり変わらない。
「そのために、教会に留まるというわけか」
「……ああ。だから、説得しているのだ。お前とアマリリスを戦わせたくない。彼女と敵対しているあのソロルを庇うのをやめて欲しいんだ」
静かではあるが、本心からの叫びだった。カリスにはカリスの信念があるということがよく分かる。私が思っていた以上に、彼女はリリウム教会に馴染めそうだ。人狼のくせに、私よりもずっと人間らしく、上手く生きていけそうではないか。
「カリス、お前の気持ちはよく分かった。希望も、意思も、かつてのお前にはないものだろう。だが、おれにだっておれの希望はある」
「お前の希望?」
「……ああ。お前は身勝手だと思うかもしれない。だが、サファイアを取り戻せるのならば、おれはそれに縋りたい。この気持ちはどうしようもない。あのソロルがいなくなってしまえば、二度と手に入らない希望だ」
「でも、それでは……サファイアの意思は」
「復活させた結果、恨まれたっていいんだ。おれはただ、サファイアが生きている姿をもう一度見たいだけなんだ」
いまさら綺麗事を言う気にはなれない。サファイアが蘇りたがっているなんてことは信じていない。ソロルが何を言おうと、関係ない。私はとても身勝手で強欲な男だ。それでいい。それでいいから、サファイアをもう一度、この手に抱きしめたかった。
「そんなにいい女だったのか、お前の妻は」
カリスは落胆しつつそう言った。そして、翡翠の双眸をこちらに向けてきた。
狼の姿をしていても、人間の姿をしていても、彼女から伝わってくる雰囲気はいつも一緒だ。人外でありながら何処か親しみを持てる雰囲気がある。騙されてはいけない。親しげな人狼ほど怖いものはない。そんな常識があったとしても、大抵の人は間違いなく味方だと分かればすぐに好きになってしまうだろう。
そんな雰囲気をカリスも持っている。恨み、憎しみ、距離を置いた人狼なのに、その過去の苦しみを乗り越えようとするほど、カリスが特別な狼であることは間違いない。そんな彼女が、端麗な顔をこちらに向けたまま、囁くような力のない声で言ったのだ。
「……私は、その代わりにはなれないのか」
それは、受け止める側も息が詰まりそうなほどの悲痛な言葉だった。すぐには答えられなかったのは何故だろう。冷たくあしらうことだって出来るはずなのに、それは出来なかった。私はカリスを傷つけるのを恐れている。それでも、彼女の求める応えなど与えられないのだから残酷なものだ。
サファイアを諦め、カリスと共に生きること。もしも、サファイアの死因が違うものだったら、私にもそんな希望を持てただろうか。だが、どちらにせよ、答えは一つだった。
「お前が何者であろうと、サファイアの代わりにはならないさ」
カリスはカリスだ。サファイアの代わりにすることは絶対に出来ない。共に歩むことになっても、おそらく私は永遠にサファイアの幻影に囚われ続けることになる。ソロルを見捨てることになれば、サファイアを二度死なせてしまったような気分にさせられるだろう。
人狼で死んでしまった彼女を、人狼によってもう一度冥界送りにする。皮肉なものだ。それに、あまり好ましくない。
「代わりにならなくとも、共に歩むことは……? それとも、私では駄目なのか。サファイアに似ている奴でないと、お前には寄り添えないのか?」
訊ねてくる女人狼を前に、私はただ黙り込むことしか出来なかった。
真実を話すのは簡単だ。どうしてカリスと共に歩めないのか。どうして彼女の誘いに乗れないのか。その理由を冷たく打ち明けることは簡単だ。しかし、私は真実を話せなかった。口から出るのは素っ気ない返事のみだ。
「お前がアマリリスの傍にいたいのなら、今のおれとは歩めない」
何度目になるかも分からない断りとなった。何度もめげずに現れては説得し、断られ続けるカリスも、そろそろ怒り狂っても仕方ない。いつか、私はカリスに引き裂かれて死ぬかもしれない。だが、それは今日の事ではないようだった。
「……残念だ」
冷静さを失わずに、カリスはそう呟いた。
「もっと話をしたかったが、どうやら奴が戻ってくるらしい。……忘れないでくれ。もう時間がない。本当に、このまま進むつもりなのか、真面目に考えてくれ」
そして彼女は消えてしまった。この光景もそろそろ見納めとなるのだろうか。いつまでも同じような時間が続くわけではない。いよいよ、私は人生を左右する決断に迫られる。
カリスの気配が遠ざかっていくのを感じながら、言葉にしづらいもやもやとした感情を抱えたまま、私はソロルの帰りを待ち続けた。




