2.亡き人たち
久しぶりに間近で感じる友人との空気に、思考がさらにぼんやりとする。強い酒でも飲まされたかのような気分だ。そんな中、イグニスの街並みを共に見つめていると、所々にある揺らめく灯りの向こうに、失われた友人たちの面影が見えてくるようだった。
ピーター、そして、ジャンヌ。いなくなってしまった二人の面影を、隣にいるグロリアも感じているだろうか。マルの里で再会した偽物のジャンヌはどうしているだろう。獲物を探して彷徨っているのだろうか。そうであるならば、生前のジャンヌとは大違いだ。彼女の志を侵害するものに違いない。それなのに、私は心のどこかでまたあのジャンヌと再会出来ることを期待しているのは何故だろう。
それはきっと、サファイアの姿をしたソロルと共に歩むことをやめられないでいる心境と関係があるのだろう。
日が沈んできた。もうじき夜になる。
他国や他の市街地と違って、イグニスの夜は少しだけ明るい。イグニスの名前の由来になった魔人の炎の残りかす――力をだいぶ失い、明かりを放つことしか出来なくなった弱火が、街のあちこちに固定されたファクスと呼ばれる巨大な松明につけられている。昼も夜も燃え盛っているそれは、力をほとんど失っていても神聖な炎であるのは間違いないとして、誰かが消してしまわないように常に見張りがついている。おかげで、イグニスの夜は妙に明るい。夕暮れ時を過ぎれば、だんだんと神秘的な青白い街並みになっていく。
そんな光景を眺めながら、隣に立つグロリアはため息混じりに呟いた。
「ピーターか……」
その眼は何処か遠くを眺めたままだ。やけに光って見えるが、魔の血は一滴も引いていない。私と同じ純血の人間である。にもかかわらず、女性にしてはいつも鋭い。ジャンヌと大きく違うのはそこだった。
「ジャンヌはピーターのことをよく懐かしんでいた。その自然な心が……死霊を呼んでしまったのだろうか」
「いかに死霊が悪だと言われても、親しい者の姿をしていれば誰だって躊躇いが出るものだ。元気な頃の姿をしていれば尚更の事」
「……でも、貴方は斬ることが出来た。ジャンヌは死んでしまったけれど、それは立派なことだと思うよ」
そう言われ、口籠ってしまった。
ピーターの死霊を目撃し、冥界に返したのは私ではなくカリスだ。私は一目も友の姿を見ていない。もしもその場に居合わせたら、私はピーターを斬れていただろうか。そう思うと後ろめたさが生まれた。カリスを守るためとはいえ、私は皆に嘘を吐いているのだから。それも、共に育ち誓い合った学友にまで。
「ゲネシス?」
グロリアがふとこちらを見つめてきた。
「すまない。……ピーターとジャンヌのことを思い出していた」
ピーターの死の衝撃はすさまじかったが、いろんなことが積み重なって、少しだけ薄れてしまった気がする。初めて迎えた親しい者の殉教。任務先の事故だから仕方がないと生家の者達まで諦める姿にやるせなさを覚えた。怒りをぶつけようにも、ピーターを殺した相手は死んでいる。
ああ、ジャンヌの死はあの時の感情に少し似ていた。友は死んだ。殺した者は別の者が仇を討った。カリスの手で、全てが葬られてしまった。もうそこには私の入る余地がない。ジャンヌを殺した者がいないならば、忘れるしかないのだろうか。
あの時、カリスを疑い、死霊の言葉すら信じそうになったことも、誰かを恨んで心をすっきりさせたかったからかもしれない。間違っている。それは分かっている。分かった上で、私は悩んでいた。人を平気で騙す死霊と、人を騙して生きろという世界にあらがう人狼。欲望と、理性との間で引き裂かれそうになっていた。
「ピーターが死霊になってしまうなんて」
グロリアは言った。
「昔、彼は言っていたんだ。死霊たちの犯した罪の記録を読んで、かなり憤っていた。大勢の人が亡くなるような事件をたびたび起こしていることを嘆いていた。彼は正義感の強い人だったからね」
「ああ、覚えている。彼はなるべくしてアルカ聖戦士になった男だった」
経緯はどうあれ、そうだった。
ピーターの実家もまたマグノリアの名家であった。海を隔てた向こうの事について、私はそこまで詳しくない。ただ、爵位を持つ家であるのは確かだ。しかし、ピーターはその家の四男。継ぐことのできるものはなく、幼い頃よりカンパニュラに送られた。才知に恵まれたのが、幸運だったのだろう。しかし、その幸運は後の悲劇の序章となってしまった。
ピーターはアルカ聖戦士に相応しい男だった。私とは違う。語り継がれてきた神の言葉を丸呑みするのではなく、自分の頭で考えて噛み砕き、判断できる男だった。その才能こそが、彼のもとに死を引き寄せてしまったのだ。
「相応しかったのには同意するよ」
グロリアはため息交じりにそう言った。
「何故か生き延びている私なんかよりも、真心のある男だった。……それはジャンヌも一緒だったはずなのに……死霊だなんて」
「人の血を継ぐ者は、誰だって死霊に囚われる可能性があるものだ。生前どういう人間だったかなんて関係ない」
「……そうだね。冥界でどんな経緯があったにせよ、ピーターは復活し、ジャンヌを襲ってしまった。ジャンヌは……躊躇ってしまったのかな」
「死霊は言葉で人を惑わすからね。どんなに優秀でも、おれたちが感情ある人間である以上、隙が生まれてしまう可能性もあるものだ」
もしも、サファイアの姿をしたあのソロルが、初めから私を食い殺すために来ていたのだとすれば。とっくの昔に私は死んでいただろう。ジャンヌより先に食い殺されていたかもしれない。そのくらい、死霊は人間の心に忍び寄る天才だ。
「ジャンヌも……いつか死霊になって現れる日が来るのかな」
グロリアがぽつりとそんなことを言った。
もうすでに現れているという言葉を飲み込み、私は口を噤んだ。あのジャンヌが現れる先は、私や家族だけではないだろう。グロリアだって友人だった。彼女の前に現れ、言葉で惑わそうとする日が来るかもしれない。それでも、ジャンヌを目撃したという話は、グロリアから隠さねばと思ってしまった。代わりに口から出たのは、確認だった。
「もし現れたら、どうする?」
問いかける先の眼差しは何処か遠くを見つめたままだった。イグニスの果てを見つめながら思考に耽り、やがて彼女は答えをくれた。
「剣を向けるしかない」
模範解答だった。だが、何も知らない答えでもある。
彼女は知らないのだろう。死んだはずの者がそこにいる本当の恐怖を知らない。食い殺されるかもしれないと分かっているはずなのに、会話をしてしまう。我々が心ある人間である限り、楽しい思い出は足枷となるだろう。
ジャンヌ自身もそうやって死んでしまったのだ。グロリアだって例外ではないはず。いざ、目の前に友の姿が現れた時、グロリアは生き延びることが出来るのか。
近い将来起こるかもしれない未来を想定すれば、今、まさに隣にいる生き残った貴重な友人の行く末に不安が生じた。
「戦うのは推奨しない」
短くそう言うと、グロリアは不思議そうに此方を見つめてきた。
「何故そう言うの」
「知った顔をした死霊は恐ろしいぞ。聖剣を向けて滅ぼすという単純なことが出来なくなるものだ」
「でも……ゲネシス、あなたはピーターの姿をした死霊を滅ぼしたのでしょう?」
睨むように問いかけてくる友人へ、私は静かに告白した。
「本当は私じゃない。ピーターの姿をした死霊は私の知り合いの女人狼が殺したんだ」
「女人狼?」
「ああ。元人食いだが、救済を求めてきた。人間を食わなくていい暮らしがしたいのだと」
グロリアは口を噤み、ただこちらを見つめるに留めた。促すようなその眼差しに、私は懺悔を続けた。
「旅の道中に拾ったものの、事情があって、その女人狼のことを最後まで引き受けられないと判断してね。だから、別の任務で来ていたジャンヌに託したんだ。あの事件はそんな時だった。ジャンヌを助けようと、ピーターの姿をした死霊を滅ぼしたのだと。けれど……おれは、真っ先に女人狼を疑った。やっていないと必死に訴える彼女を疑い続けた。その疑いは、彼女をマルの里の同志に預けた後も続いた。……情報屋から裏付けをとるまで、疑い続けたんだ」
「その人狼の女性に負い目を感じているの?」
訊ねてくる言葉にそっと頷くと、グロリアは視線を外した。
「元人食いの人狼か。確かに同じ状況なら、私も疑ってしまうかもしれない」
グロリアは静かな声でそう言った。
「その人狼の女性はどうなったの?」
「リリウム教会の一員になった。洗礼は受けていないようだが、過去を捨て、密偵をしながら影で海巫女様ご一行を支えている。時折、おれのところに雑談に来るんだ」
「そっか、懐かれたんだね。人狼の同志は友好的なひとが多いものね。恩義を感じているのかな。彼女があなたに怒っているわけじゃないのなら、疑っていたことは、もういいんじゃないかな」
静かにそう言い、そして思い出したように呟いた。
「ああ……でも、密偵か」
グロリアは眉を寄せた。
お互いにアルカ聖戦士として過ごすようになって長い。人間の聖戦士や人間のふりをした聖戦士に比べて、存在そのものを隠されたまま暗躍する魔物や魔族の戦士たちの現実を嫌というほど知っていた。
人狼の中には身分ある人間として扱われる者もいるが、そういったものは名家の出身であることが多い。影道を走れる力を利用して影ながら教会を支える者たちは、彼らほど確立した地位を築けるものではないのが現実だった。
中には、使い捨てにされたのではないかと思うような形で殉職する者もいる。カリスが危険な目にあったとしても、助けてもらえるとは限らない。カリス自身も他者と協力する姿勢をとらないとなれば、多くのための犠牲者となる可能性は極めて高い。
「そっか。輿入れの儀の真っ最中だったね」
グロリアは言った。
「もう少し早く来ていれば、海巫女様にもお会いできたのかな。今回も色々な不安がまとわりついた旅だと聞いている。不審者に、狂信者に、死霊……」
「〈赤い花〉の聖女さまが一緒だから今後も安泰だろう。指輪をしているというし、彼女を支えるために、その件の女人狼などの密偵がいるわけだし」
その安泰を崩そうとしているのがソロルで、そのソロルに味方をしているのが私だ。そんなことをグロリアは夢にも思わないだろう。選ばなくとも、すでに私は友との誓いを裏切っている。その罪悪感もだんだんと薄れていくものなのかもしれない。
「聖女さま、か。いつの時代も教会には表と裏があったのかな。多くの人は〈赤い花〉や私たちのような聖戦士を敬うけれど、その人みたいに陰で活躍する人たちも大勢いたのかもしれないね」
そう言って、彼女は一息ついてからこちらを見つめた。鳶色の目は優しげであっても鋭さを失わず、見つめられた方は微かに緊張してしまう。この印象は幼い頃から少しも変わらないようだ。
「海巫女を狙っている者がいるとは聞いている。その密偵の人狼もそいつを見張らされているのだろうか」
「ああ、そうだろうね」
まさかそれが隣にいる私に深く関わる事だとは思っていないだろう。いかに聡い戦士であっても、きっとぎりぎりまで気づかない。グロリアは私の顔を見つめ、訊ねてきた。
「その人のことが心配?」
「心配かどうかはさておき、そこまで教会に尽くさなくてもいいのにと思っているよ。彼女がやるべき任務でもない。優秀な人狼戦士なんて他にいくらでもいるはずだからね」
「心配なんだね」
軽く笑ってグロリアは言った。
「輿入れの儀は珍しいから、あまり例は知らないのだけれど、いつの時代も巡礼でこっそり犠牲になっている人たちがいるっていう話を聞いたことがある。巫女様方がそれをご存知かは分からないけれど、彼女たちを守るために影ながら動いて、安全な旅を守るための犠牲となっているんだって。カンパニュラの図書館にそんな本があった」
巡礼の旅は長い。この度のように特別なソロルが睨みつけている状況でなくとも、危険は多かっただろう。特別でなくたって死霊は脅威なのだ。陰ながら支え、消えていく者がいたとしても不思議ではなかった。
「そこまでして、どうして巡礼しなくてはならないのだろう」
純粋に疑問を述べると、グロリアが不思議そうに此方を見つめてきた。
「巡礼の意味はなんだ。何のために巫女たちは捧げられ、見えない聖獣たちを奉っているのだろう。その意味と価値とは何だろう」
「昔から彼女たちは多くの人の希望だった。それだけだろう。いつだって心のよりどころは大事なものだから」
「――そのために、多少の犠牲は仕方ないとグロリアは思うか?」
「それは分からない。出来れば犠牲はない方がいいだろうね。ただ、教会が必要と判断しているのなら、巡礼自体に私は何も言わない」
私もそうだった。グロリアと同じように考えていた。
これがピーターだったらどう答えただろうか。多くのために犠牲となる者がいれば、その犠牲となる者を救う方法を考えるのが彼だった。
「あなたはどうなの、ゲネシス」
グロリアは訊ねてきた。
「その人狼の女性が危ない目に遭っているのが嫌なの? それとも、教会のやり方が気に入らない?」
辺りはすっかり暗くなっている。イグニスの炎が灯る街並みの中で、グロリアの眼差しはややきつく感じられた。真意という獲物を鷲掴みにする猛禽のような眼差しに、こちらもやや身構えてしまう。
「さあ、どうだろうね」
虚ろな気持ちと共に、私は答えた。
「自分の気持ちを理解するのが一番難しいようだ」
グロリアのきつい印象の視界から逃れるように、そのまま町を眺めた。
幼い日を共に凄し、思い出を共有した。そんな懐かしさと共に彼女から伝わってくるのは優しさと強さだ。そのどちらも、正しく清い印象があった。
親しいはずなのに、それとも、親しいからこそなのか。結局、心も開けぬまま、打ち明けることも出来ぬまま、グロリアとの時間は過ぎ去ってしまった。
イグニスの炎の輝きが目に焼き付いている。決めなければ。選ばなければ。
時間だけが過ぎていく。




