翡翠と金の結びつき
事実は小説より奇なり。
その言葉こそ小説の世界だけの話だとばかり思ってた。
結局のところ、運命の出会いも、異世界への道も、文につづった淡い恋心だって、物語だからこそ映えるわけで。もしこれらが現実で起きようものなら、全世界が大混乱するし人々の心は、頭はすっかりお花畑だ。
そう。物語だからこそ楽しめたり、共感したり、ありもしない世界に憧れを抱くことができるのだ。
だけど万が一、小説のような出来事が起こったら、私は登場人物たちのようにできるのだろうか。
「……まぁ、怒らないことを考えるだけ無駄だってわかっているのですが」
本を閉じ、ため息を一つ。この本は何十州としている愛読書なのだが、何度見ても異なる感情を抱かせてくれる。いつ読んでも飽きることのない、面白い本だと思う。
突拍子もない展開。見えない伏線。そして、登場人物たちの運命の出会いとそのドラマ。
「せんせー」
「…………」
「せーんせー」
「……あぁ、もう授業の時間ですか?」
昼休み後の一コマは授業もないからと、研究室でまったりお茶を飲みながら本を読んでいたら、私のことを呼ぶ声が。ドアのあたりからの声に視線を向けると、そこには随分見知った顔。
学生にしてとても大人びた雰囲気を醸し出し、スタイルだって抜群。茶色のウェーブがかった髪は緩く巻いていて、メイクも濃すぎず薄すぎない絶妙な加減。きりりとした目元や整った鼻など、体のどのパーツをとっても美しいという表現が一番似合う彼女。
「せんせー、私の顔に何かついてます?」
「い、いえ。入ってきていいですよ妃さん」
ドア前で眉をひそめて私のことを不審な表情で見てくる彼女の誤解を解いてから、研究室に入るように促した。
白馬妃。彼女はその顔やスタイルだけに留まらず、名前まで美しい。どちらが先行しているのか分からないほど名前負けしていないスタイルは、そろそろ三十路になる私にはまぶしすぎるのかもしれない。
「また本、読まれてたんですか?」
私の周辺を見回して、半分以上呆れた表情でこちらを見てくる妃さん。おそらく他の学生が妃さんに同じように見つめられたら惚れて溶けてしまう、なんていう噂もあるけれど、さすがに私はそんなすぐ溶けるような体はしていない。
「うーん。暇、だったからね。天気もいいし」
「ここ地下じゃないですか。天気も何も関係ないでしょう」
「そういう雰囲気壊すようなことは言わなくていいの」
「それに読書日和なんて言うの、せんせーくらいなもんですよ」
「そうなの?」
「はい」
天気がいいと読書日和だと思うのは、どうやら私だけらしい。
「まぁそれは今に始まった話じゃないですけど。それより授業遅れると大変ですから、急いでください」
呆れた声で授業を促してくる妃さん。
彼女は学生なんだけれど、同時に私の授業補佐をしてもらっている。広子さんの知り合いで、私が学会と授業の準備でてんてこ舞いだった時に助けてもらったご縁でこうして補佐をしてくれる、とても優しい方なのです。専攻は天文学と私とは違うのですが、ここまでお世話をしてくれるとは思っていなくて、教授でありながら彼女には頭が上がりません。
「早くしてください。今日は何か必要な資料はありますか?」
「そうですね……今日はこちらの資料をお願いできますか? 大切な詩たちなので」
「しっかり持ちますよ。せんせーの専門の、大好きな和歌なんでしょう?」
まだ学生補佐として一年目とは思えに理解力は、広子さん譲りかしら。なんて馬鹿なことを考えながら、荷物を持った妃さんとともに教室の方へと足を向ける。
嗚呼、今日は話しすぎないようにしないといけませんね。
……大変申し遅れました。私、百式女子大学教授、東堂美空と申します。
専門は文学。特に古典文学を行っております。
今日は少し、私の不思議な出会いの話を聞いていただきたいのです。
***
「はふぅ……」
それはある日の夕刻のことです。通い慣れた喫茶店の窓から差し込む夕日にうとうとしながら飲む珈琲というのは、何とも言えない至福の時間です。
「いつもありがとうございます」
「いえ、今日の珈琲もおいしくて、ため息が出てしまいます」
いつの間にか喫茶店のマスターにも顔を覚えられてしまい、さらには私好みの味を出してくれるようになってしまいました。それはなんだか嬉しいようで、恥ずかしいのですが。
今座っているこの席も、初めて来たときに気に入ったのを察していただいて、今日のように決まった時間に行けばこの席を用意してくれているのです。
「今日は何かあったんですか?」
「……どうしてそう思うんですか?」
にこにこと笑みを絶やさないマスターから出てきた言葉に、思わず私も首をかしげてしまいます。だってまだ珈琲しか飲んでないし、それまでの間だって何らいつもと変わらない風にしていたのですから。
マスターは目じりの皺を増やして笑いながら、いえ、と一言。
「いつもより少しだけ、悲しげに見えたもので」
何を思ってマスターはそんなことを言ったのでしょう。彼の表情からは何も読み取ることができません。彼の後ろにモノローグや字の分が出てきてくれれば分かるのですが、現実にそんなことはもちろん起こりません。
「何もなければいいのですよ。何もないことはいいことなのですから」
そういって珈琲のお供のビスケットを数枚渡してくれる。私の好みの珈琲はもちろん、そのお供まで好きなものを渡してくれるなんてと、私は驚くことしかできない。だけど、美味しいビスケットを前にして、珈琲と交互に見つめ――あえなく屈服した。
「……何もないんですが、何かあったと言われればあながち嘘ではないんですよ」
「ほう。どうされたんですか?」
珈琲とビスケットに打ち負けて、ぽろぽろと思いのたけをぶつけていく。大したことない話かもしれないと思いつつ、一度開いた言葉は、止まることはなく。
「学生に、合コンに来ないかと誘われまして」
「へぇ。学生さんにお誘いされたんですか。あまり聞かない話ですな」
「私の婚期が遅れているからということで」
「先生思いの良い学生さんではありませんか。それでどうしてそんな浮かない顔を?」
傍から見れば素敵なお誘い。断る理由もなければ、私の年で独身ならば焦って婚活をする人だって少なくはない。
それでもなお、マスターにそう言わせてしまうほど浮かない顔をしている理由。
「……笑わない、と約束してくれますか?」
「もちろんですとも。東堂さんはご贔屓様ですから」
誰もいない室内。BGMに流れていた音楽もピタリとやんで、珈琲を沸かす音もなく、外の世界の音さえも静まった。
生唾を飲んで、決意して。
「……運命の出会い、って信じてるんです」
「…………ほう?」
あっ、今頬角が上がった。間違いなく笑いそうなのを我慢してる。
「そ、その……合コンで出会った人って、あまり好きではなくて……。べ、別に合コン自体がいけないことだとか、そういうわけじゃないんですけど……でもそこで出会った人たちとのつながりって、いまいち信用がなくて。それなら、それこそこういうところで知り合った人の方がよっぽど信用できるというかなんというか……。あ、あとあまりお酒の席が得意ではないんです。お酒よりも珈琲の方が好きだし、あの空気がどうも苦手で」
人が楽しむ分には何も問題はない。だけど私も一緒に楽しめるかと聞かれれば、それは全く別物なわけで。むしろ私がいることで浮いてしまって、空気が悪くなることなんて何年も経験してきた。
……悲しきかな、そこで出会った人で運命の人のような人にはもちろん出会えるわけもなく。
「……もういっそ、婚期逃してもいいかなって。それよりも研究していた方が気楽で」
「僕は東堂さん、とても魅力的で素敵な方だと思っていますけれども」
「そんなこというの、マスターくらいだと――」
もういっそ、マスター(既婚者)が運命の人だったらよかったのに。
そんな邪なことを考えた、その時。
――カランコロン
私の言葉をさえぎって、店のベルが鳴る。人影も見え、それが新たなお客さんの到来だというのを告げる。
私たちの視線が音のする方へと向いて、その瞬間。
――雷が、落っこちてきた。
「いらっしゃいませ。お一人様でしょうか」
「はい」
「お煙草は」
「お願いします」
淡々とマスターと話を進めていく中、私だけが視線を逸らせず、固まってしまった。目線だけでなく、体も、指先まで全く動かない。
金色の髪はとても柔らかそうで、一度触れたら離したくなくなってしまいそうだと思わせるほどふわふわとしている。短髪だが毛先が癖毛なのか、頭が揺れるたびにぴょこぴょこと揺れている。
翡翠の瞳はまさにエメラルドの宝石のように輝いていて、見るものすべてを魅了してしまいそうな、そんな魅惑の瞳。
スーツ姿だから背筋も伸びていてすらりとした印象。座っていても自分よりもずっと身長が高くて、モデルさん並み。
――そう。私がいま目を離せないでいるのは、とてもきれいな女性。
「東堂さん?」
「……へぁ?」
今までで生きてきた中で、一番間抜けな声が出たと思う。というか、した。してしまった。
これにはさすがのマスターも驚いていたのか、一瞬だけ目を丸くして再び私を見つめる視線が少しだけ優しくなった。……気がした。
「……珍しいですね。東堂さんがぼんやりするなんて」
「そ、んなこと、ないです。本を読んでる時なんて、割といつもで」
「そんなことないと思いますよ。ふふっ、なるほど」
にこにことこちらにいつもとは種類の違う笑顔で見つめるマスター。
その意味が分からず、困惑することしかできない私。
そんな私などお構いなしに喫煙席に着いて外を眺めながら煙草を咥えて火をつけた彼女。
表情、心情、行動は誰も同じではない。
その中で私は一人、どくんどくんと鳴り響く心臓の音に困惑していた。こんなこと、今までなかったから。
「……珈琲、お持ちしてくれますか?」
「冗談はやめてください」
「ははは。厳しいなぁ」
マスターの冗談に冗談で返せないまま、目をそらそうとしても逸らせない金色の彼女の背中を、私はずっと見つめることしかできなかった。
運命の出会いの定義とは、なんなのでしょう。
これは、そんな私と彼女のお話です。