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第四話  『緑色』のクレヨン

――あいつはずっと1人で耐えていた。


  傷がない日はなかったし、痩せこけていた時期もあった。

気づいていたくせに俺は何もしてやれなかった。

  

  あいつはそんな俺とどんな気持ちで一緒にいたんだろうか――

 仁奈は鬼と初めて出会った玄関ホールへ戻るため、廊下を引き返していた。


 長い長い廊下は仁奈の心を折るためにあるかのように終わりが見えない。


 変わらない景色に、実は同じ場所を何度も回っているんじゃないかとすら思えてくる。


 早く鬼を見つけないと猫が死んてしまう!


 焦りがつのり、体力も限界に近づく。


 足を止めたくないと前に動かすもすぐに進めなくなった。


 仁奈は膝に手をつき肩で息をしながら、目の前に伸びる廊下を睨みつける。


 ただ前へ走るだけじゃどこにもたどり着かない。


 じゃあどうしたら先に進めるんだろ?


「お前はそこで何をしてる?」

  

 後ろから聞こえた声に、仁奈は疲れを忘れて勢いよく振り返った。

 

 そこには仁奈が探していた鬼が怪訝そうな顔をして立っていた。


「あなたを探していたの!」


 仁奈が叫ぶようにいえば、鬼はさらに眉を寄せた。


「俺を探していただと……?」


 なぜこんなに疑われるような視線を感じるんだろう?


 私がなにかしたの?


 仁奈はそこまで考え、鬼へ命を助けてくれたお礼をいっていなかったことに気づいた。


 お礼をいわず、お願いごとをするなんて図々しく思えた。

 

「助けてくれたのにまだお礼をいってなかったね。あの時はありがとう」

  

 仁奈は鬼と目を合わせて深く頭を下げた。


「わざわざ礼をいうために俺を探していたのか?」


 鬼は驚きに目を見開いた。


「それだけじゃないの。猫がわたしをかばって本棚の下敷きになったの。でもわたしじゃ助けられなくて……だから助けるのを手伝ってほしいの」


 すると鬼はすっと目を細めた。


「俺は忙しい。お前のために使う時間はない」


「あなたの時間をうばってしまうのは悪いと思う。でもこのままじゃ猫が本棚につぶされちゃうの!」


 だからお願いと仁奈はもう一度深く頭を下げた。


「……お前は自分が危ない目に遭うとしてもその猫を助けたいか?」


 鬼はしばらく考えてから、仁奈へ試すような視線を向けた。


「助けたいよ」


 仁奈は視線をそらさず、まっすぐに受け止めた。


 彼女は兄と出口を探すために屋敷に来た。


 でも助けてくれた猫を見殺しにして先に進むなんてできない。


「わかった。助けてやる。ただし俺の用件が先だ」


「要件って?」


「食堂に探しものがある。それを見つけることだ」


 鬼はそれだけいい放つと、先へ進んだ。


「探しものってなに?どんなもの?」

 

 鬼は何も答えずに早足で仁奈を置いていく。

 

 仁奈はムッとしながらも素直に追いかけた。


 しばらく歩くと玄関ホールよりは控えめなだけれど同じくらい大きくて立派な両手扉の前に辿りついた。


 警戒する仁奈を他所に、鬼はためらいなく扉を開けて部屋の中に入って行ってしまった。


 食堂は二十人は座れる長いテーブルが中央に置かれ、左右にそれぞれ椅子が並んでいた。


 テーブルには真っ白なクロスが敷かれ、等間隔に火のついていない蝋燭が並んでいる。


 入口側の席に一つだけ皿が置かれていた。


 仁奈は近づいて皿の中を覗きこむ。


 中には緑色のクレヨンがぽつりと乗っていた。


「あなたが探していたのはこれ?」


 仁奈は振り返り、鬼へと問うた。


「そうだ」


 仁奈は鬼へ渡そうと思い、そっとそれを手に取ると、目の前が緑色に塗りつぶされた。



     ◆     ◆     



 調子はずれの鼻歌を歌いながら、足取り軽く森の中を進む。


 視界は前より少し高くなっている。 


 上を見れば濃い緑色の葉が空を覆い隠すように広がっていた。


『お前は歌が下手だな』


 上から降ってきた声に顔をあげると見知った彼が木の枝に座っていた。

 

 やや呆れたような顔をしている。


『教えてくれたのは鬼さんだよ』


 笑ってそういえば、鬼は言葉に詰まった。


 けれど気にせず、慣れたように木を登って隣に座る。


 やや葉が揺れるが木はしっかりと二人分の体重を支えてくれた。


『今日は何を教えてくれるの?』


 ワクワクしながら尋ねた。


 鬼はめんどくさそうな顔をしながらも今日は歌を教えてくれる。


 教えてくれることはなんだっていい。


 赤い茸には毒があるとか。


 緑色の実はまだ熟してないから、黄色になるまで待つとか。


 そんな些細なことでもいい。

 

 ただこの鬼との穏やかな時間が少しでも長く続けばいいと心から思う。


 怖くて寂しくて辛いあの家のことを少しでも忘れたくて、いい子のふりをして鬼にねだった。


 でも楽しい時間ほどあっという間に過ぎていく。


『……もう夕方か。さっさと帰れ』


 鬼はあっさりと帰るように勧める。


『まだ帰りたくない。もっと鬼さんと話したい』


 まだまだ話し足りなくて、家に帰りたくなくて、鬼の袖にすがった。


『ダメだ。もうすぐ逢魔おうまが時が来る。お前みたいなやつはすぐに食われるぞ』


 鬼は眉をしかめて、腕を振り払った。


 胸が強く締めつけられて顔が強張る。


 ―—――鬼さんは僕ほど一緒にいたいと思ってないんだ。


『……わかった。じゃあまたね!』


 無理やり笑顔を作って鬼に背を向ける。


 振り返ることなんてできなくて前だけ見て走った。



 また視界が緑色に塗りつぶされて、景色が変わる。


 そこは仁奈がいた食堂によく似ていた。


 座っている席の近くには誰も座っていない。


 豪華な服を着た男と女が二人と同じ年くらいの男の子がいくつも席を離れて座り、嫌悪感を隠そうともせずに睨みつけてくる。


 それだけでも辛いのに壁際に待機している使用人達でさえ、同じように睨んできた。


 息が苦しくて、今すぐここから離れたい。


 目の前にお皿が乱暴に置かれた。


 せっかく綺麗に盛りつけられていたのに崩れてしまう。


 上からかかっていたソースもお皿からこぼれ、テーブルクロスを汚す。


 横目で他の人を見れば綺麗に盛りつけられたままだった。

 

 正面に視線を戻し、フォークとナイフを握る。


 震える両手でどうにか音を立てないように静かにナイフで一口大に切り分け、フォークで口元に運ぶ。


 舌先から広がる苦味と刺すような痛みに反射的に吐き出した。


 それでも痛みは広がり、痺れへと変わっていく。


 全身から力が抜け、水を飲むことすら出来ず机に突っ伏した。


 座っていてよかった。

 立っていたならその場に全身をうちつけていた。


 こんなにも苦しんでいるのに誰一人助ける素振りはない。


 男はちらりと一瞥してこういった。


『子どもならあの量でここまで効くか』


 そこで意識が緑色に塗りつぶされた。



     ◆     ◆



 目を開けると食堂だった。


 さっきまでの苦しみはもうどこにもない。


「やはり人間は愚かだ」


 氷よりも冷たい声が仁奈の耳に届いた。


 深い霧が晴れたように、鬼の髪が赤から醒めるような青へと変わっていく。


 波打つ髪は美しいが、表情は仁奈への嫌悪で歪んでいる。


 この鬼は赤鬼でなく、変装した青鬼で、仁奈は騙されていた。


「どうして……?」


「俺はかつて人間の勝手な都合で俺の家族を、仲間を殺された。だから復讐すると決めた。ただ殺すだけじゃ俺の気がすまない」


 青鬼の瞳の奥で、憎しみと怒りと殺意が混ざり合い、轟々と激しく燃えていた。


「人間の無力さを呪い、絶望しながら死ね」


 その言葉を合図に、仁奈の足元がぐずぐずに腐った木のように床が抜けた。


 とっさに床の端をつかんでぶら下がる。

 

 たがまるで彼女を飲みこもうとするかのように穴が大きくなっていく。


 不安定に揺れるつま先に見えたのはなんの光のない暗闇だった。


「やだっ!お願い!お兄ちゃん!だれか!だれか助けて!」


 暗闇に飲まれながら仁奈は叫んだ。


 青鬼は表情を変えないまま、仁奈へ背を向けてどこかへと立ち去っていった。


 大人でさえ、2本の腕だけで自力で体を持ちあげることが難しい。


 まして鍛えていない子どもならばぶら下がり続けていることすら長くは持たない。


 青鬼はそれを知っているのだ。


 あの本に書かれていた赤鬼は多分青鬼が化けた赤鬼だった。


 いったい何人が彼に復讐されたのだろうか。

 

 関係のない仁奈(子ども)でさえ殺すほどの激情は冬場の焚き火のように、治まるどころか、轟々と強くなっているように見える。


 滑るように指先から力が抜けていき、ついに落ちた。


 死ぬ間際だからか、やけに景色がゆっくりと過ぎていく。


 わたしはこのままお兄ちゃんに会えないまま死んじゃうの?


 そんなのいやだ!

 

 次々に浮かぶ涙が仁奈の視界を歪ませた。


「つかまれ!」

  

 光の向こうから伸ばされた手を仁奈は必死に掴んだ。


 ふわりと羽でもついたみたいに暗闇から光の中へと引き上げられた。

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