第二話 『黄色』のクレヨン
――似ていると思っていたのは俺だけだった。
俺は知らなかったのだ。
周囲があいつへ向ける悪意がどれだけ強いのか。
それがあいつにどれほどの心の闇を生み出したかを――
あれ?わたしはなにをしてたんだっけ?
そうだ!
ママがお兄ちゃんがいなくなったっていって。
それで……住んでるって聞いた森の奥の屋敷に行ったのにお兄ちゃんはいなくて。
代わりに猫が道案内してくれて、その通りに進んだらクローゼットを見つけて。
それから先に行ったら天井からシャンデリアが落ちてきたんだ!
「お兄ちゃん!」
仁奈は目を開けて飛び上がる。
しかし体のどこにも痛みを感じなかった。
ただまだ少し頭がぼんやりしているようだ。
なぜなら、腰辺りまで伸びた黒に近い紅色の髪、人間にあるはずのない額に生えた一対の角、さっき見た夢に似たモノが仁奈の隣にいるのだから。
「あなたは“ナニ”?」
仁奈の言葉に男は目を見開く。
まるで夢の中と同じ反応だ。
「お前も俺が見えるのか?」
「お前もって他にも見える人がいるの?」
「……ああ、そうだ。それよりお前はどうやってここに来た?ここは人間の来る場所ではない」
人間の来る場所ではないってどういうことだろうか。
「行方不明の兄を探してクローゼットを開けて気づいたらここにいたのよ」
「なぜクローゼットの中なんて場所を調べた?お前の兄はそんな場所に隠れるようなやつなのか?」
男はやや呆れたような顔で見下ろしてきた。
いくら臆病な兄でもそんなところに入らない。
「違う!猫がクローゼットの中に入ったからついていったの!」
仁奈は眉を寄せ、名も知らぬ男を睨みつけた。
「猫?それはどんな猫だ?」
「黒い猫で鈴のついた首輪をしていたの」
男は考えこむように黙ってしまう。
しばらくして男が「いいか。落ち着いて聞け」と前置きをして話し始めた。
「ここは洋館で死んだ悪霊が人間を襲うために作り出した世界だ」
仁奈の目が真ん丸に見開かれた。
「だから森の奥の古びた洋館がそいつの住処で住む人間をこの世界に誘い魂を食らう」
男はにやりと意地悪に笑う。
「お前も誘いこまれた奴の一人ってことだな」
一回りは年上に見える男から見下されるのは怖い。
仁奈の小さな体はわずかに震えていた。
しかし仁奈は両手を強く握りしめ、男をまっすぐに見上げて口を開く。
「どうやったらここから出られるの?」
「おそらくだが来た時と同じようにクローゼットを見つけて扉を開けばいい。
たがこの世界は悪霊の思うままだ。現実世界と同じようにクローゼットがあるのかわからない」
さっきもお前を殺そうとしていたしな。
続いた男の言葉で、仁奈はシャンデリアが天井から落ちてきたことをもう一度思い出した。
それを裏づけるように、クレヨンを拾った場所に落ちたシャンデリアが壊れていた。
わたし、本当に死ぬところだったんだ……。
じわじわと恐怖が浮かんできて、さらに仁奈は震える。
こんなところに1秒もいたくない。
でも、もし兄が仁奈と同じようにここへ誘いまれていたら、殺されるのも時間の問題だ。
見つけられるのは“今”ここにいる仁奈だけだ。
だからは仁奈は決意した。
「…………いや」
「今なんていった?」
「このまま帰るなんてぜったいにいや!わたしは必ずお兄ちゃんを見つけて家へ一緒に帰るの!」
兄が誰よりも大切な家族だからこそ、仁奈はここから1人で帰るわけにはいかない。
仁奈は男に背を向けて走り出す。
後ろから男が何かをいう声が聞こえたが、一度も振り返らなかった。
男と別れた仁奈は宛もなく廊下を歩いていた。
床には玄関と同じ毛足の赤い絨毯が敷かれ、壁には等間隔に窓とカーテンがある。
窓の外は真っ暗で夜景とは違って、どれだけ目を凝らしても何も見えなかった。
窓には鍵すらない。
あの男のいっていたことは本当だったようだ。
似たような景色が続く廊下は終わりのないような気さえする。
「つい持ってきたけどこれどうしたらいいのかな……」
仁奈は手の中の白色クレヨンを見下ろす。
シャンデリアが落ちる前からずっと握ったままだったらしい。
「ちょっと不気味だけどなにかの役に立つかもしれないから持っておこう」
仁奈はクレヨンをハンカチに包んでポシェットに入れる。
それから何度目かになる角を曲がったところで、よく知る後ろ姿が見えた。
「待って!お兄ちゃん!」
距離があったせいか、兄は振り返らずにそのままどこかへ歩き続ける。
太陽の光のような金髪が動きに合わせて揺れた。
「ねえ待ってよ、お兄ちゃん!もうわたしをおいて行かないで!」
仁奈は兄を追いかけるために必死に後を追った。
兄は十字路を左に曲がり、仁奈が後に続く。
しかしその先にあったのは兄の姿ではなく、扉だった。
玄関の扉とは違い、装飾のない質素な扉だ。
「この先にお兄ちゃんがいるの?」
仁奈はごくりと唾を飲んで、ドアノブを引いた。
中はベットが5つ並んでいる。
壁際に大きな箪笥、入り口には鬼灯が生けられた花瓶の乗った小さな机があった。
部屋の奥は薄暗くてよくわからない。
扉を開けたまま、恐る恐る中に足を踏み入れる。
足元に何か小さな物が落ちていたようで、靴先で蹴ってしまった。
目を凝らしながらかがむと、黄色のクレヨンが落ちていた。
「また……落ちてる」
もう一度あの記憶を見ることになると思うと、怖かった。
夢というよりは誰かの記憶を覗いているような現実感と罪悪感があるからだ。
でもどうして見えるのか気になって仕方なかった。
見続けていればわかるような気もした。
仁奈は大きく息を吸って、黄色のクレヨンを拾った。
次の瞬間、目の前が黄色に塗りつぶされた。
◆ ◆
場所はまた森の中だった。
頭の上に清々しい緑色が広がり、蝉の声が聞こえる。
『鬼さーん!どこにいるのー?遊びに来たよー!』
幼い少年の声が蝉に負けじと森に広がる。
『……また来たのか』
木の上から呆れてるような、不機嫌なそうな声が降ってきた。
顔を上げると、あの黒に近い赤髪の少年、いや鬼と呼ばれたモノが木によりかかるように座っている。
『うん!だって鬼さんと遊ぶの楽しいんだもん!』
鬼へ笑顔を向ける。
嬉しくて楽しくてしかたないみたいだ。
『俺の他に遊び相手はいないのか?』
『そんな人いないよ。ぼくと遊んでくれるのは鬼さんだけだよ』
よいしょと小さな声でつぶやきながら、木を登り、鬼の隣に座る。
足を地面へ向かって下ろし、ぷらぷらと振って遊ぶ。
『そうか』
鬼はそれ以上詳しいことは聞かなかった。
ただそっと手を伸ばし、頭を撫でてくれた。
一瞬だけビクリと体が固くなる。
『お前の髪は猫の毛よりも柔らかく、太陽の光ように輝いている』
真面目な顔で鬼がいった。
『そんなこといわれたの初めてだよ。すごく嬉しいなあ』
嬉しい気持ちが乾いた湖を潤す湧き水みたいに次々に生まれる。
そしてもう一度、目の前が黄色に塗りつぶされた。
今度はわたしがいる部屋と同じ場所にいた。
5人の若い女使用人達が冷たく見下ろしてくる。
『あ、ご、ごめん、なさっ!』
頭を下げていたら、乱暴に髪の毛を掴まれて、無理やり上を向かされた。
『妾の子のくせになんて態度が大きいの!』
頬を打たれると同時に手を離され、床を転がされた。
『ごめんなさい。もう2度と部屋を間違えませんから……』
『目ざわりだから一歩も部屋から出ないで!』
『あんたを見ると気分が悪くなるわ』
『そうだわ!その目につく髪を切ってしまいましょう!』
『変な髪型になれば部屋から出る気もなくなるでしょうし、いい考えね』
使用人達に4人がかりで椅子に座らさせられて、両手足と頭を押さえつけられた。
残る一人が鋏を片手にゆっくりと近づいてくる。
『い、やだ……やめて、やめて、ください』
懇願も虚しく、鬼に褒められた髪は無慈悲に切り落とされた。
髪が散っていく中、視界が黄色に塗りつぶされた。
◆ ◆
ゆっくりと目を開けると、部屋はクレヨンを拾う前と、なにも変わったところはなかった。
「やっぱりさっき玄関ホールで会ったのは人間じゃなかったんだ。なんで鬼がここにいるの?」
鬼は人や獣を食らうといわれている妖怪だ。
しかし実際に会った鬼は仁奈を襲う気配は一切なかった。
それどころか命の心配や忠告をしてくれた。
彼は物語や妖怪図鑑に載ってる鬼とは違うようだ。
それはさておき。
兄は見える場所にはいないようだ。
ならいるのはクローゼットの中だろうか?
「ん?何かが足に……っ!?」
仁奈の悲鳴は喉の奥に絡まり、声にならなかった。
彼女の足首に一筋の金髪が絡まっていた。
慌てて振り払えば、髪の毛のちぎれる嫌な感触がして離れた。
「に、逃げなきゃ!」
しかし奥にはさらに大量の髪の毛が生き物のようにうごめいている。
慌てて部屋の外へ向かうも、また足首を捕らえられた。
今度は量が多すぎて振り払えない。
髪の毛は仁奈の足首から上へと這い上がってくる。
部屋の外まであと数歩というところで、大きく転ばされてしまった。
髪は仁奈を部屋の奥へと引きずりこもうとしてきた。
痛みに顔をしかめながら、手を伸ばして届いたのは机の脚だ。
奥へと引きづられないように両手で掴む。
机が固定されていなかったせいか、倒れはしなかったがぐらりと大きくバランスを崩し、花瓶が床へ落ちた。
陶器製のそれは砕け散り、鬼灯が飛び出る。
落ちた先は髪の上だった。
するとなぜか髪が油のように激しく燃え始めた。
髪は火を消そうとのたうち回るが、逆効果だ。
仁奈は足の拘束が緩んだ隙に抜き、部屋の外へ逃げた。
髪は燃えながらも、仁奈を追いかけてきた。
慌ててドアノブを掴み、扉を閉める。
どんと扉が押される。
あの髪が仁奈を捕らえ、部屋の奥へ引きずりこもうとようとしているのだろう。
仁奈は必死に扉を押さえた。
どれくらいたっただろう。
気がつくと扉を押す音が止んでいた。
仁奈は慎重に扉を開く。
部屋の床には何かが焦げた跡が残っていた。
鬼灯と割れた花瓶はそのまま床に転がっている。
クローゼットを開けてみた。
だがそこには何もない。
箪笥も開けてみたが同じだった。
ベットの下など部屋中を調べても兄の姿はなかった。
「お兄ちゃん、どこに行ったの?あの廊下の先は何もなかったのに」
扉の外から猫の声が聞こえた。
外に出てみると、あの黒猫が仁奈を見上げていた。
「あなたもここに来てたんだね」
猫は返事をするように鳴いた。
仁奈は少しだけ安心する。
けれど猫はまたすぐに歩き出した。
仁奈は置いて行かれないように慌てて後を追った。
黒猫と再会しました。




