遭遇戦③ -ムーンドリップー
「ま、まてあんたら! 正気なのか!?」
近くにいた男が、青ざめた表情で二人に向かって言う。
「撤退が叶わないなら勝つしかないでしょ。あんたこそ正気なのかしら。亜人の捕虜は酷い目に遭わされるって話よ」
「だ、だからってあんな化け物に勝てるはずが」
レナエルは大いに呆れ、溜息をつく。この遠征隊は禁足地の魔獣を倒すために編成されたのではなかったのか。これではまるでピクニックだ。
まごつくばかりの男どもを捨て置いて、レナエルは腕を組む。
「さて、どう攻めた物かしらね」
相手はこちらを見下ろせる高台に陣取っている。亜人王に肉迫するには包囲を突破し、眼前の森を抜け、護衛のゴブリンどもを蹴散らす必要がある。控えめに言っても、かなり厳しい。
だが、アベルの答えは単純明快であった。
「シンプルに行こう。森を抜けて丘を駆け上がり、亜人王を狩る。それだけだ」
亜人の部隊は広く散開して遠征隊を取り囲んでいる。つまり、一辺の壁は薄いのだ。アベルとレナエルであれば突破すること自体は可能だろう。しかし問題はその後だ。首尾よく亜人王に肉迫しても、仕留めそこなえば再包囲されて嬲り殺しにされるのは明白。一発勝負で決めなければならない。
眩暈がしそうな極限の状況で、それでもレナエルは春風のように微笑む。
一発勝負。結構ではないか。元より人生など一度限りの大道芸だ。一筋でも希望があるだけで十分過ぎると言うものだろう。
「乗ったわ、やってやろうじゃない。ちょっと本気を見せてあげましょうかね。あんたも出し惜しみは無しよ?」
レナエルはそう言うと、アベルの肩を拳で突いた。アルケミストの秘術、魔法薬を使えという事だろう。しかしこんな衆人環視の中で派手な物は使えない。アベルは魔法薬を使うにしても、それと解らないような地味な物を使おうと考えた。
「後はタイミングだが……」
その時、隊列の前方から一本の矢が亜人王に向かって放たれた。矢は王に届く事なく森に呑み込まれるが、それを切っ掛けにして遠征隊の最後の抵抗が始まる。
無数の矢が放たれ、しかしそのどれもが森に落ちていく。亜人王は喉と腹を揺らしながら悠然と眺めていた。身体を包む装飾品がカチカチと音を鳴らす。
「ちっ、面倒な。背中から射られるのは勘弁だ」
「いや……これはチャンスね」
「うん?」
「準備なさい。じきに大きな隙ができるわ」
瞬間、突風が吹き抜けた。一本の矢が大気を纏い、真っ直ぐに突き進む風牙となって木の葉を巻き上げる。風牙は亜人王の隣に控えていたトロールの腹を穿ち、大穴を作り上げた。トロールは自らの腹に手をかざして不思議そうな表情のまま事切れ、前のめりに倒れる。
小さな地鳴りが響き、驚愕の表情でそれを見つめていた亜人王が叫ぶ。
とても言葉には聞こえなかったが、それは号令だったのだろう。血相を変えたゴブリンとトロールが丘を駆け降り、包囲網が急激に狭まる。
「いっ、今のは……!?」
「ほら、行くわよ!!」
駆け出すレナエルにアベルも続く。眼前のゴブリンを切り裂き、丘を下ってくるゴブリンたちを避けるように緩く迂回して森を駆ける。亜人王の横合いから強襲を仕掛ける腹づもりであった。
再び始まった戦闘の音色に、アベルは後方に置いてきた遠征隊の隊列に視線を向ける。
すぐに押し潰されてしまうだろうと思っていたが、果たしてそうはならなかった。白い外套を纏った一人が大盾で振り下ろされたトロールの攻撃を真正面から受け止め、お返しにその膝を突撃槍で突き折る。倒れこんだトロールの後頭部へ、つり下げ式の城門を降ろすように大盾を叩きつけ、その頸椎をへし折った。
別の白外套が背中から妙な形状の大剣を抜き放ち、一瞬にして十匹ほどのゴブリンの胸から上が切り離される。背後から迫るトロールの棍棒を振り向きざまに手首ごと斬り飛ばし、返す刀でトロールの巨体を両断してしまう。
「なんだ、あいつら……」
アベルは思わず呻いた。人界線の街、境界都市ランダルマという土地の特性上、強者と言われるような熟練の探索者は何人も目にしてきた。だがあいつらは違う。あれは〝別の何か〟だ。
もしや、先ほどの風の牙もあいつらの仕業だろうか。いや、あれは弓の名手などと言う次元の話ではない。恐らくは魔術であるのだろう。しかし、魔術を行使するには大量の触媒と多数の魔術師、そして長い儀式の時間が必要だ。そのような気配は無かった。
「アベル! お出迎えが出て来たわよ!」
レナエルの言葉に我に返る。眼前に多数のゴブリンが殺到し、木々の隙間にはトロールの姿も見える。どうやら奇襲に感づかれたらしい。
アベルは襲い来るゴブリンを迎え撃とうと二本の短剣を構えるが、その必要は無かった。背後から鋭く飛来したナイフに首や頭部を貫かれ、次々にゴブリンが倒れていく。軌跡を見るに、樹上からの投擲と思われた。
トロールの太い腕がレナエルに迫る。しかし、何故かレナエルはそれに気が付かないかのように真っ直ぐに進み続けた。その拳が細い身体を捉えようかという刹那、一陣の風がトロールの胸を貫く。先程の風牙と同じものだ。
アベルはナイフと矢が飛んできた方向へ目を向ける。そこには木々の枝を飛び伝ってこちらに追い縋ってくる、白い外套を纏った二人の人影があった。
「露払い……というわけか?」
しかし、友好的な気配などは微塵も感じない。それどころか警戒の視線を痛いほどに感じる。
こいつらはなんだ。一体、どういうつもりなのだ。気になる事はいくらもあるが、援護してくれると言うなら喜んでお任せしよう。油断だけはしないように。
ふと、小柄な白外套が手にする弓に目が留まる。木材や金属でできたものでは無い。何かしらの生物の骨をそのまま加工したような荒々しいフォルム。そして立ち昇る、獣の咆哮の様な胸の詰まる気配。もしや……。
「魔装具……!?」
アベルは思わず呟いた。魔装具とその適性者が一組居れば一軍に匹敵すると言われるほどの代物が、なぜこんな場所に。
魔装具。それは伝説級の魔獣の素材から造られる、人知を超える力を秘めた魔性の武具。存在そのものが天災とされた魔獣の魂を封じ込め、その力を世に現す。
もちろん、誰にでも扱えるような気軽な代物ではない。適性を持たぬ者が扱おうとすれば、瞬く間にその命を吸い尽くすとされている。だがその力は強大だ。武器としての性能はもちろんだが、魔装具の素材となった魔獣の操る力を、ごく短い詠唱だけで呼び出す事ができるのだ。
扱いこそ難しいが、魔装具は重要な戦術兵器だ。通常は所有する国家によって魔装具とその適性者は、厳重に管理されているはずだが……。
「アベル。……ちょっと、アベル?」
いつの間にか横に並んでいたレナエルの声に意識を引き戻された。アベルは気を取り直して「ああ」と言葉を返す。
「亜人王を一撃で仕留めるにはどうしたら良いかしら。頭が二つあるって事は、心臓も二つあったりするのかしらね」
「狙う急所は一つだ」アベルが言う。「双頭巨人種は二つの首の付け根、鎖骨の辺りに〝魔霊星〟があるはずだ。それを砕けば炎を制御できなくなって、奴は勝手に燃え尽きる」
魔霊星。それは神の落し物。純然たる力の結晶。
獣と魔獣を区別する定義は知能の程度や脅威度など様々あるが、その一つとして身体に魔霊星を宿しているかというものがある。
魔霊星を持つ魔獣は詠唱も無しに固有の魔術を操る。その力は強大に過ぎ、長らく人類を遠ざけてきた。だが、その超常の力も要たる魔霊星が無ければ制御はできない。魔霊星さえ破壊してしまえば、小さき者の身に余る力はその身体を呑み込んでしまうはずだ。
レナエルが頷き、手首を回して剣をくるりと閃かせる。
「解り易くて良いわね。好きよ、そういうの」レナエルが口元を歪める。「私が動きを止める。締めは任せたわよ」
「止めるって一体……あ、おい!」
アベルの言葉も聞かず、「少し離れていて」と言い残してレナエルは速度を上げる。やがて木々が途切れ、開けた丘の頂点に辿りついた。亜人王の護衛たちがぎゃあぎゃあと喚き声を上げる。
取り巻きを押しのけて前に出た亜人王の二つの咢が開き、レナエルに向かって火球を放とうとしている。それを避けようともせずにレナエルは足を止め、白銀の剣を掲げる。
「目覚めよ(アウェイクン)!!」
強烈な力の気配にアベルは思わず息をのむ。レナエルの剣を中心に、空気が爆発するように膨れ上がる。
「それも魔装具かよ……!?」
あの剣は何度も目にしてきたのに、アベルは全く気が付かなかった。国宝級の代物がそこらに転がっているなど、誰に予想できるだろうか。
「汝は光の園。捕縛する鎖。輝ける死の苗床。煌めき、閃き、崩落する涙の山岳」
レナエルの高らかな詠唱と共に、周囲に仄かな光が広がっていく。生木が折れるような破裂音があちこちで鳴り響いた。
「満ちよ天光。凄烈なる汝が力を以って、我らの敵を那由多に熔かせ――。グリントソーン!!」
瞬間、天が裂けた。
網膜を焼く暴力的な光の奔流。耳を劈く轟音。
一筋の光が天上から真っ直ぐに亜人王を貫いた。強大な衝撃に大地は震え、一帯が光に呑み込まれる。放たれようとしていた亜人王の火球が炸裂し、光と火球の熱波で取り巻き達は消し炭と化してしまった。
アベルは光の正体に気が付いていた。あれは紛れも無く〝雷〟だ。
目にした時にはもう遅い。避けることの叶わぬ最速の力。防ぐことなど到底不可能。万一即死を免れたとしても、撃たれた身体に自由は無い。
薄れゆく光のヴェールの奥に蠢く者があった。黒い肌を更に焦がした亜人王だ。口や身体から白煙を上げ、しかしその目には憎悪と闘志の炎が消えずに残っている。
何という頑丈さだろう。〝王〟と呼ばれるだけはあるという事か。――いや、装備の差か。身体を包む金属の装飾品が雷撃を逃がしたのだろう。もしかしたら頭蓋の装飾品も雷を散らしたのかもしれない。それらも今はもう見る影もないが。
だが、レナエルの言うとおり動きは止まった。天の鎖に絡まれて自由を奪われない生物など存在しえないのだ。
「じゃ、よろしく」
「鬼かお前は!?」
亜人王の周囲は炎と雷撃の余波で地獄のような有様だ。そんな中へ、レナエルはアベルへ料理の仕上げを頼むような気軽さで〝突っ込め〟と命じてくる。
「もう一撃ぶち込めば終わるんじゃないのか?」
「そう都合良くは行かないのよ。連発は効かないし、私もしばらく動けないのよね。早くしないとアイツも動き出すわよ」
蒼い瞳に色濃い疲労を滲ませてレナエルが言う。天の鎖はその持ち主をも縛るらしい。神の力はいつも中途半端だ。
「……あぁ解ったよ、ちくしょうめ!」
アベルは腰のポーチから薄い金属板と分厚いコルクに守られた一本のガラス管を抜き出し、蓋を捻り、振り混ぜる。中身の液体が仄かに発光するのを確認して、一息に呑み込んだ。
「……苦っげ……」
死人も飛び起きるほどに苦い。おまけに青臭い。お世辞にも良いとは言えない味にアベルは存分に顔を顰める。
苦みが引くと同時に、身体に力が漲るのを感じた。
その力の源は言うまでも無く魔法薬である。強靭な肉体と硬質の皮膚を持つアグルライカンの魔霊星、〝鉄眼〟を精製した強壮魔法薬、〝ムーンドリップ〟。
左の短剣を鞘に納め、右の短剣を逆手に持ち直し、アベルが大地を蹴る。地面が爆破したように飛び散り、全ての景色を置き去りにして亜人王へと肉迫する。
「アベル!!」
悲鳴のようなレナエルの声が背後で響く。亜人王の口から炎が溢れ、渦巻きながら見る間に巨大な火球へと変じていく。座して死を受け入れるつもりはないらしい。それは王としての誇りか。
地上に現れた太陽のような火球が放たれ、アベルの視界を紅で埋め尽くす。その業火を前にして、しかしアベルは真っ直ぐに飛び込んだ。
灼熱が容赦なくアベルを呑み込んだ。だが、炎がその身を焼くことは無い。人狼の崇める月神の、絶対的な対火の加護に包まれているのだから。
視界が開ける。青い空と焼けた大地、そして驚愕を二つの顔に張り付けた亜人王の姿が目に飛び込んできた。
アベルは飛び上がり、短剣を両手で構える。狙いは首下に秘められた魔霊星、ただ一点。
「シッ――!!」
鷹が空中から獲物を捕らえるように、アベルの短剣が亜人王の首下に突き立てられる。
刃を捻る。硬質な物を砕く感触が刃から伝わって来た。アベルは亜人王の腹を蹴って後ろに跳ぶ。次の瞬間、炎の柱が立ち昇る。亜人王の腹で制御できなくなった炎が暴れだし、主を呑み込んで天へ還ろうとするように舞い上がる。
「グォォォォアァォォォァァォォォ!!」
亜人王の断末魔が轟く。魂を焦がすその叫びは大気を震わし、亜人たちの戦意を根こそぎ削ぎ落とす。
やがて事切れた亜人王が崩れ落ち、地面が鳴いた。
王を失ったゴブリンとトロールが、蜘蛛の子を散らす様に逃げ去っていく。
遠征隊の面々は呆然とアベルの姿を見つめていた。天恵のように訪れた勝利を未だに信じられないようだった。
「ほら、最後まで締めなさいよ。こうやるのよ」
いつの間にか隣にやってきたレナエルがアベルの手を取り、二人は高々と拳を掲げて見せた。
「「「おおおおぉぉぉぉぉ!!」」」
隊列から爆発するように歓声が上がる。携えた武器を天高く掲げ、救世主を讃えて声を張り上げる。
「ほーう。中々やるようじゃないか」
白い外套に身を包み、大剣を肩に担いだ男が熊の様な声で呟く。
「ふん。姫様のグリントソーンがあってこそだ。大した事は無い」大盾を翻して背負い、もう一人の白外套が言葉を返す。そちらは凛とした女性の声だった。「――とはいえ、あの力は一体……?」
大盾の白外套はフードの中で目を細め、訝しむようにアベルを睨みつける。
「ねぇアベル」
ふとレナエルが言う。
「亜人の肉って食べられるのかしら。魔獣肉、一度食べてみたいんだけど」
「いや、流石に人型は止めておけよ」
「えー? なんでよ」
「なんでって、常識的にというか……」
不意に背後で物音が上がる。振り向くと、そこには一匹のゴブリンが居た。錆びたナイフを握り、荒皮を胴に巻きつけ、鍋を頭に被っている。
おそらくは伝令役なのだろう。異変を感じて王の元へ馳せ参じたのか、あるいは逃げ遅れたのか。いずれにせよ間が悪く、愚かで――。
「あらあら、ずっと探していたのよ? 覗きのお礼をたぁっぷりとさせて貰わなくちゃね――って、こらー! 逃げんなー!!」
どうしようもなく、不運な奴だった。