表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/28

遭遇戦①

 人界門の向こうは、岩山をくりぬいた長いトンネルになっている。幅は荷馬車がすれ違えるほどに広く、無数に吊り下げられたカンテラのおかげで意外に明るい。アベルたちは岩肌をブーツの底で削りながら歩いていく。足もとの岩は無数の人々が行きかったせいで、茹でた卵のように滑らかだ。

 しかしそんなトンネルでも、遠征隊の通過となれば手狭に感じる。十数台の荷馬車が上げる騒音がトンネル内に反響して、まるで音の洪水のようだ。


 やがてトンネルを抜けたアベルたちの視界に映ったのは、薄絹のような闇だった。

 トンネルの出口、あるいは入り口には行き来を円滑に行うための広場があり、その向こうにはいまだ目覚めを迎えぬ、黒々とした深い森が広がっている。

 遠征隊はその広場で、改めて隊列を組み直す。

 先頭で号令が上がり、遠征隊はぞろぞろと暗がりの中を歩き出す。広場から伸びる、開かれた道を一匹の蛇のように歩いていく。


 しばらく行くと、闇が陽の光に溶かされ始めた。名も知らぬ鳥の囁きがそこかしこで響き、ときおり獣の鳴き声が遠くで上がる。周囲は様々な生き物の気配で満ち溢れていた。

 やがていくらか緊張が(ほぐ)れたのか、あちこちで声が上がり始めた。遠征隊の面々は取り留めもない雑談で旅の暇を紛らわす。これが軍隊の行軍中であれば上官の鉄拳が飛んできそうなものだが、幸か不幸か、今はそれを(いさ)める者もいない。


「外界って何と言うか、もっとこう、おとぎ話の世界だと思っていたけれど」だしぬけにレナエルが言う。

「悪魔を生み出すのは、いつだって人間の想像力だって事だ。いたって普通の森林地帯だよ、外界は。魔獣さえいなければ、な」

 魔獣さえいなければ。遠征隊もそれは十分に承知している。雑談に華を咲かせようとも、周囲への警戒は怠っていない。いつ太い木の影から死が振り下ろされるかも知れないのだ。


 それにしても、とアベルは思う。レナエルの機嫌が妙に良いように見える。危険にあふれた外界に怯える事もなく上機嫌でいる人間を見るのは、初めての事だった。

「随分と楽しそうじゃないか。残念だが、外界はおとぎ話のような楽園とは違うぞ」

「解っているわよ。でも、未知にあふれた世界というのはやっぱり心が躍るわね」

「隣で笑っていた奴が、次の瞬間には魔獣の餌になっている事も珍しくない場所だ。夢を見過ぎると、いずれ目覚めることもできなくなる」

「それでも、よ」

 レナエルは呆れたようにため息をつく。

「今の世の中はつまらないわ。少し手を伸ばせば未知の世界が広がっているのに、聖堂会が人界門を閉じているせいで、人々は狭い土地を奪い合って争ってばかり。まるで檻の中の獣ね」


 魔獣を人界線の外に追い出して以来、天敵を打ち破った人々はいくつもの国を興して文明を築き上げてきた。やがて国家として成熟し、人口が増え始めると別の問題が浮かび上がった。食料問題だ。

 人界線の内側。つまり人の領域は限られている。果ての無い大地が広がる外界には魔獣が跋扈し、人界門も聖堂会によって閉ざされている。人々は豊かな土地を求めて、あるいは資源を求めて土地を奪い合った。狭くなってしまった世界の中で少しでも良い居場所を確保しようと、互いに刃を突き立てあった。

 隣人こそが、人類の新たな天敵となったのだ。


「何百年か前は全人類が手を取り合って魔獣を相手に戦っていたのに、今では隣の村の奴らが自分たちより上物の酒を飲んでいただけで戦争になる世の中だ。確かに狂っているとは思うよ。しかしだからと言って、外界に打って出るなんて馬鹿げているだろう」

「あら、そうかしら。人は強くなったわ。自らの力を持て余してしまう程に。昔とは違うのよ」

 確かに人類の歴史は、戦いの歴史でもある。効率よく相手を殺す為の兵器や戦術、そして新たな魔術は日々生み出されている。絶え間ない戦争の賜物だ。(おぞ)ましいが、頼もしくもある。もし再び人類と魔獣が戦火を交える事があれば、数百年前よりは余程うまく戦えるだろう。


「人は外界へ旅立つべきだわ。狭苦しい檻を打ち破って、新たな世界を自分たちで創り上げるの。素敵じゃない?」

「とんでもない事を言うものだな。女神イマルタルが降臨して人界線を打ち壊しでもしない限りは、不可能な話だ」

「いいえ。新しい世界は、人の手でこそ切り開かれるべきだわ。お飾りの神様なんかに任せられるもんですか」

 アベルは片眉を上げる。レナエルの言動は少しも聖堂騎士らしくないとは思っていたが、この発言は極め付けだ。神に唾する、異端審問に掛けられてもおかしくない暴言である。

「異端者が俺とお前の二人に増えたな。俺は聞かなかった事にするべきか?」

「いえ、むしろよく覚えておきなさい。いずれ私が人類を外の世界へ連れ出す。何年かかってでも、絶対に。人類は解放されるべきだわ」


 人類の解放。

 馬鹿な事を、と一笑に付すのは簡単だ。実際にその願いを耳にすれば、不可能だと誰もが笑い飛ばすだろう。しかし、心の奥底では解っているのだ。このままではいずれ人類は行き詰まる。狭い世界の中で互いの首を絞め合いながら、諦観の中で死んでゆくことになるだろう。百年先か二百年先か、あるいはそれは、明日かも知れない。

 人類の解放。新天地の獲得。それは人類共通の夢なのだ。


 いったいレナエルは何者なのだろうか、と改めてアベルは思う。誇大妄想的な発言も、レナエルが口にすれば真実になってしまいそうに思えた。どう表現して良いのか解らないが、レナエルは〝こういう人間〟だと、すっと胸に落ちるのだ。まるで、ずっと昔から知っていたような感覚だった。

 もう一つ不思議だったのは、自分がとてもリラックスしているという事だった。初対面で剣を交え、脅されて無謀な作戦に連れ出された。普通ならばレナエルに対して憎しみまでとはいかなくとも、良くない感情の一つも持ちそうなものだ。しかし、アベルはレナエルの隣に居るという事が、とても当たり前の事のように思えていた。


 いや、むしろ、こうなる事を心のどこかで望んでいたような――。


「やぁ、君らは二人組かい。俺なんて一人ぼっちだぜ。なぁ、どこから来たんだ? 俺はリッキアードのモリスンって田舎町から出稼ぎに来たのさ。俺の剣捌きは地元じゃ有名で――」

 不意にアベルたちに男が声を掛ける。幼さを顔に残した、少年から片足を突きだしたばかりの年頃だ。男は聞いてもいない事をべらべらとまくし立てる。なんとも早口で聞き取りにくい。

 レナエルが男に視線を向け、口を開きかけたのをアベルが制する。その様子に〝コミュニケーション不可〟と感じとったのか、男は聞こえよがしに舌打ちをして去っていく。


「ちょっと冷たかったんじゃない?」

別の人間に声を掛ける男の様子を横目で見ながら、レナエルが言う。

「あんなのに構ってやる必要はない。生き残る自信が無いから、誰かに守って欲しいだけだ」

 どこの世界にも少なからずいるものだ。力のある者に媚びへつらい、労せずに安全と利益だけを得ようとする類の輩だ。そして、その礼は去り際に後ろ足で引っかける砂だけ。恐らくはレナエルの上等な装備品と、アベルの堂々とした居住まいから、寄生するには丁度良いと判断されたのだろう。

「足の引っ張り合いって訳ね。所詮は烏合の衆って事かしら」

「それにしても、意外と体力があるんだな。さっさと()を上げるかと思っていたが」

「この程度、大したことないわ」

 外界へ出てから休憩も無く、一行は歩きっぱなしだった。素人の中には早くも隊列に付いていけない者も出始めている。しかし、レナエルの表情は実に涼しい物だ。

「そりゃよかった。この後、更に数時間は歩きっぱなしだからな。おぶってくれって言われるんじゃないかと思ってた」

「ふん。引きこもりの薬師さんこそ、さっさと泣きついてくれて良いのよ? 首根っこを掴んで引きずってあげるわ」

 まったくもって頼もしい。その言動や聖堂会での門番や教区長の対応から、レナエルはそれなりに名の通った貴族の出だと思われた。だというのに、その身に似合うのは豪奢なドレスなどでは無い。剣捌きは壮麗かつ苛烈。剣術の大会にでも出場すれば〝地元で有名〟程度では済まないだろう。全く、つくづく謎な女だ、とアベルは心中で呟いた。


「なぁ知ってるか」不意にアベルたちの前方で声が上がる。「〝鮮血王女〟がランダルマに来ているそうだぜ」

「リンスティール王国のおてんば姫様か。どうしてまた」

 二人の男が交わす言葉に、アベルは聞くともなしに耳を傾けた。

「野盗狩りがご趣味であらせられるからな。大方、治安が悪化し始めたランダルマに血の匂いでも感じたんだろうよ」

 鮮血王女。その二つ名にはアベルにも少しは聞き覚えがある。〝リンスティール王国〟の第八王女、〝レオノーラ・リンスティール〟が畏怖と尊敬、そして侮蔑と憎悪を込めてそう呼ばれている。ランダルマでも、時折その武勇伝が酒の当てにされるくらいには有名人だ。

 その血生臭い二つ名を頂戴する事になったのには、当然理由がある。レオノーラ王女は私設騎兵隊を率い、国内中の野盗の(たぐい)を狩って回ったのだ。


 リンスティール王国は次期国王の座を争って内部抗争が激化しており、地方の治安維持にまでは意識が向いていなかった。小さな村落は常に死と略奪の恐怖に晒されており、理不尽を味わった人々はまた新たな野盗となる。その連鎖をレオノーラ王女の剣が断ち切った。レオノーラ王女の野盗狩りは徹底しており、抵抗する者には決して容赦をしなかった。

 反面、呼びかけに応じて投降した者には寛大な処置を与えた。公平な裁判によって決められた刑期を終えた後に、平民として生活ができるように取り計らったのだ。それは苛烈な身分制度を敷くリンスティールにおいては、考えられないような恩赦だった。

 レオノーラ王女とその私設騎兵隊〝サンクション〟は正義と暴力の象徴となったのだ。


 なぜレオノーラ王女が、自らそんな事をし始めたのかは解らない。しかし民衆はその正義を歓迎した。一部の貴族からは、身勝手な自己満足だと激しい非難の声が上がったが。

 ともあれ、レオノーラ王女が剣を掲げて以来絶えず血が流れ、彼女とサンクションらの外套は紅く染まり続けた。その様子から、レオノーラ王女に捧げられた二つ名こそが〝鮮血王女〟というものだった。


「でもなぁ、あいつらの活動はリンスティール国内限定だろ。ランダルマにサンクションが入ったって話は聞かなかったぞ」

 男の一人が言葉を返す。確かに、いくら人の流れが激しいランダルマでもそんな者たちがやってくれば、もう少し騒がれそうなものだ。であればその噂自体がガセであるか、レオノーラ王女はサンクションを率いずに、彼女の〝正義〟とは別の目的でランダルマにやって来たかのどちらかだ。


「荒くれどもから相当な恨みをかっているからな、あの王女は。目立つ行動は避けてんじゃねぇのか?」

「はっ、そんなタマかよ。一人でも盗賊団を壊滅させられるほどの剣の腕前だって聞いたぜ。それによ、〝魔装具〟持ちなんだろ? そこらのゴロツキが敵う者かよ」

「魔装具、ねぇ。一振りで一軍に匹敵するっていうが、本当かねぇ? そうだ、それよりもお前、酒でも持ってねぇか。ただ歩くだけとか退屈で仕方がねぇや」


 それから男たちの話題は鮮血王女から逸れていく。レナエルはどこかほっとした様子でフードを整え、何やら思案顔でいるアベルの様子に気が付いた。

「どうかした?」

「いや、妙に懐かしい響きだと思ってな。鮮血王女、レオノーラ・リンスティールか……」

「あんたと王女様にどんな繋がりがあるって? 聞かせなさいよ」

 口端を歪めて嬉しそうに、あるいはからかうようにレナエルが言う。

「それがな、よく覚えていないんだ」

 予想していなかった答えに、レナエルはポカンと口を開ける。

「……え、なにそれ。どういう事?」

「ランダルマに流れ着いて、師匠に拾われる前の記憶は断片的にしか残っていないんだ」


 アベルに残っている記憶はごく僅かだ。以前は誰かを守るような仕事をしていた事。大勢の人間に追い立てられたこと。手傷を負い、崖から川に転落した事。そして、血の海に沈む一人の少女。しかしその顔は闇の奥に隠れている。

 失われた記憶には何か、とても大切な何かがあったように思う。だが、それを思い出す事は叶わなかった。果たして、失われたのは記憶だけだったのだろうか。アベルにはそれを知るすべはない。

 困惑した様子でアベルの表情を覗き込んでいたレナエルは、やがて溜息をついて頷いた。

「そう、記憶を……。それはちょっと、考えてなかったなぁ」

 レナエルはどこか悲しげにそう呟き、それきり俯いて物思いに耽ってしまった。時折、「どうりで……」などという言葉が漏れ聞こえてくる。


 それからしばらく、二人は黙ってただ足を前に進め続けた。いい加減話す事も尽きてきたのか、周囲の雑談も静まりつつあった。

 不意にレナエルが落ち着きなく辺りを見回し始める。小さく唸り、微かに肩を震わせている。


「なんだ、小便でもしたくなったか」

「しょっ――!? は、はぁっ!? そ、そんな。そ……。う、うぬ……」

 もごもごと口ごもり、レナエルの言葉は急速に勢いを失う。その様子にアベルは困ったように微笑んだ。恥ずかしがる気持ちも解らなくないが、それを人の意志で抑え込むには、どうしたって限界がある。


「荷物を預かってやるから、さっさと行って来い。蛇に噛まれないように気を付けろ」

「わっ、私は別に、だいじょ」

「良いから」

「……すぐ追いつくからね」

 背負った荷物を投げつける勢いでアベルに手渡し、レナエルは小走りで隊列を離れる。不意に、レナエルがちらりと振り向いた。

「すぐよ!」

「いいから早く行け! 待っていてやるから!」

 アベルはまったく、と息をついて後続の邪魔にならないように手近な木に寄りかかる。ふとレナエルの荷物を覗き込む。マナー違反という言葉が脳裏を掠めるが、仲間の装備を把握しておくことも大切だ。


「食い物ばっかじゃねぇか……」

 飴玉などの高級品もしれっと詰め込まれている辺り、流石は貴族様といった所だろうか。




「うぅ……。わ、私が外で、しかもこんな木陰でする事になるなんて……」

 複雑な表情でレナエルは森の中へ入り込む。たった数歩分を道から外れただけなのに、辺りはまるで人の世から隔離されたような、妙な静寂に包まれていた。

 剣先であたりの草を払い、脅威が潜んでいない事を確認する。更にたっぷりと辺りを見回し、覗きをする不埒者が居ないかを警戒する。もちろん、そんな輩が居るわけもないのだが。


 腰のベルトを外し、装備をずり降ろしてしゃがみ込む。迂闊であった。トイレの事は考えていなかった。騎兵隊を率いていた時は、お供に携帯トイレである不浄箱を持たせていたので、すっかりそれがあって当たり前の物だと思い込んでしまっていた。


「慣れるしかないのかしらねぇ……」

 たっぷりとした外套のおかげで隠せてはいるが、音ばかりはどうしようもない。自分でも驚きの速さで用を足し、使い捨ての布きれで拭って立ち上がり、装備をつけ直す。

 外套が何かに引っかかる感触があった。外套を低木の枝にでも引っかけたかと振り返る。


「……へっ?」

 視線の先には異様な存在があった。体長は小柄で一メートルも無く、肌は赤い。耳は鋭く尖り、黄色く濁った大きい瞳が爛々と輝いている。亜人種、ゴブリンだ。

 ゴブリンは探索者からの略奪品で武装していた。荒皮を胴に巻きつけ、鍋のような物を被り、錆びたナイフを握りしめている。そしてそのナイフで頭の鍋を叩き、黄色く汚れた牙をむき出しにして嗤う。その口は言外にこう語っていた。「見ちゃった」と。


「こっ――、このぉ!!」

 レナエルは顔を真っ赤にし、剣を振るう。しかし払うだけの剣は容易に躱され、ゴブリンはけたたましい笑い声を上げながら森の奥へと逃げ去ってしまう。

「待てこらー! 目ん玉おいていけー!!」

 声を張り上げ、レナエルはゴブリンを追いかけようと踏み出す。しかし、その足は一歩踏み出したままで凍り付いてしまった。

 無数の黄色い瞳が、暗がりの中からレナエルを見つめていた。




 獣が騒がしく喚いている。あちこちから野鳥が飛び立つ羽音が響き、外界の森がにわかに色めき立つ。その様子にアベルは眉を顰め、周囲の気配を探る。


「ア、アベル―!! も、森の中に……!!」

 慌てた様子でレナエルが駆けてくる。来たか、とアベルが腰の短剣に手を回した所で、隊列の遥か前方から声が上がった。


「敵襲――!!」


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ