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外界の王

 穏やかな朝、柔らかな陽光の差し込む礼拝堂は静かな熱気に包まれていた。詰めかけた信徒の誰もが神を讃える言葉を口にし、恍惚の表情を浮かべて神の気配に酔いしれている。ある者は涙を流し、ある者は胸を抱えながら跪く。神の慈愛と祝福をその身に受け、毛羽立った魂の表面を女神の手の平が優しく撫でる。

 その様子を演壇の上で満足そうに眺める人影がある。教区長、アズガルドだ。恰幅の良い身体を白い法衣で包み、精緻かつ荘厳なステンドグラスが作り出す美を背に映すその姿は、まるで我こそが神の代行人であると語っているかのようだ。


 ゆっくりと、翼を広げる様にアズガルドが腕を開く。信徒たちから驚きとも感嘆ともつかぬどよめきが湧きあがった。彼らの目には恐らく、アズガルドが本当に翼を広げた様に見えているのだろう。


「偉大なる神。人類の守り手たる母なる女神イマルタルよ。願わくは、我らがあなたを愛するように我らを愛し給え。我らが信仰の光を持ってあなたを照らすように、我らの道を照らし給え。我らに迫る魔を払い、試みにあわせず、日ごとの糧を与え給え。あなたの慈愛と栄光が、常に我らと共にあらんことを」


 信徒たちから地鳴りのように歓声が上がる。我を忘れ、神の威光に酔い、剥き出しの魂を震わせる。壮麗たる礼拝堂に、狂信の光が満ち溢れていた。


          ■


「で、お前はどうしてうちでモーニングティーを飲んでいるんだ」

 清々しい朝日の差し込む室内で、頬杖を突いたアベルが不機嫌そうに言う。

「朝は一杯の紅茶から、でしょう? アベルはミルク派なのかしら」

「言葉は通じても会話はできないタイプなのか? 帰って飲めば良いだろうと言っている」

「早朝から壁の修理を手配して疲れているの。少しくらいゆっくりさせなさいよ。減るもんじゃ無し」

「減るよ。俺の平穏がガリゴリ削れてるんだよ。それに壁は自業自得だろうが」

 そう言って、アベルはすっかり修理された壁を見遣る。真新しい木材の色合いに違和感を覚えるが、そこは致し方なしというものだろう。ちなみにティーセットはレナエルの持参だ。のんびりしていく気満々である。

「うっさいわね。じゃあ次からアベルの分も持ってくるわよ」

「……嫌がらせなら、もう少し解りやすくやってくれ」


 大口を開けた壁にシーツを掛け、忍び込む夜風に眠れぬ一夜を過ごした翌日。日も登りきらぬ早朝にレナエルが数人の大工を引きつれて再びアベルの店へ顔を出した。壁の大穴を放置されるのももちろん困るが、このように早朝から押しかけられてもやはり困る。レナエルの取り留めもない唐突さに、アベルはただ辟易するのみだった。


「そんな事より、遠征隊の出立は五日後に決まったらしいわよ」

「急な話だな」

「中核のメンバーには、組合が事前に話を付けているわ。五日間は希望参加者枠の募集期間ね」


 外界への調査隊、または遠征隊が組まれる場合、まずは組合が直属の探索者を編成、または有力な探索者に声を掛け、雇い入れる。そしてある程度の準備ができた段階で情報を開示し、一般の参加者を募るのだ。

外界探索に慣れぬ新人探索者にとって、熟練探索者と行動を共にする利点は多い。その知識や技術を間近で目の当たりにする事ができるのだ。それに、共に行動する人数が増えればそれだけ生存確率も上がる。一方で組合は希望参加者から参加費を徴収し、部隊の運営に充てるという仕組みだ。だが、募集期間が五日間では短すぎる。


「まぁ今回は目的が目的だ。採算度外視なんだろう」

「今のランダルマに、この遠征に参加しようなんて骨のある探索者はそういないでしょうしね」

「貴族どもが、物見遊山で護衛を引きつれて参加したりもする事もないだろうしな。形だけの開示って事か」

 アベルは薄く笑うと、さて、と腰を上げる。その様子にレナエルは視線を上げた。


「お出かけかしら?」

「当然だろう。準備はしっかりしないとな」

「参加費用と旅支度は、騎士団で準備させるわよ」

「馬鹿言うな。参加費用はともかく、旅装を他人に任せる訳が無いだろう」

 それもそうね、とレナエルが頷く。外界で起こる事の全ては自己責任だ。ならば、外界へ向かう準備も自己の責任において行われるべきだろう。


「ほら、お前は帰ったらどうだ。留守番は必要ないぞ」

「私も行くわよ」

 当然と言わんばかりのレナエルに、アベルは眉をひそめる。

「どっか遠くに逃げられたら、その、困るもの」

 制圧、監視、抑止。いかにも騎士らしい物の考え方だ。

「お好きになさいませ、お嬢様。良い子にしていたら飴玉を買ってやろう」




 市場には人が溢れていた。街の経済が滞ろうと、生活は止まらない。今日を生きるにはパンとぶどう酒が必要だ。

 しかし、ゆく人の表情はどれも晴れやかとは言えなかった。物価は日々上昇し、逆に質は下がっていく。外界資源という唯一の強みを失いつつあるランダルマから、商人たちの足と関心が遠のいた為だ。

そして街の商店は確実に高騰する商品を出し惜しみ、その行為が値上がりに更なる拍車をかけるという悪循環に落ちいっていた。


 アベルは市民向けの市場を抜け、探索者たちが旅支度をするための商店が立ち並ぶ一角に入る。こちらには人通りがほとんど無かった。店番の小僧たちも暇を持て余して欠伸などをしている。親方に見つかればどやされるだろう。ちらほら居る店先を覗く者も、あからさまな冷やかしだ。


「陰気くさいわねぇ」

 フードを目深に被り、アベルの少し後ろについて歩くレナエルが呟く。

「半分以上の工房が火を落としているな。これは思っていた以上に深刻そうだ」


 数か月前までの、血気盛んな探索者たちで溢れていた光景がまるで嘘のようだ。

探索者たちはランダルマの経済を動かす血液だ。その血液たちは恐らく、昼間から酒場で飲んだくれているのだろう。だが、やがて酒場にも居られなくなる。酒の価格も日々高騰し、しかし彼らには収入が無いからだ。

 後は坂を転がり落ちるような物だ。食い詰めた探索者たちは傭兵稼業でも始めるか、野盗にでも身をやつして日銭を稼ぐしかない。外界資源の供給源として栄えたランダルマは、混沌の坩堝に成り果てる。


「どれも高いな……」

 呻くようにアベルは言う。質の悪い干し肉ですら結構なお値段だ。渋い表情のアベルに、店主は「嫌なら他をあたってくれ」と言わんばかりに鼻を鳴らす。あちらとて困窮しているだろうに、欠片も弱みを見せない辺りは、流石は商人と言った所か。


 唸るアベルに、レナエルが小声で囁く。

「値段なら気にする必要はないわ。必要な分だけ経費で通る。ただ、直接聖堂会にツケるような真似だけはよしてね」

 聖堂会の人間が外界探索用の旅支度をしているとなれば、もちろん噂が立つだろう。そしてそう言った類の噂は、間違いなく面倒事を引き起す。


「あんたら、遠征隊に参加するのかい。悪いが、とても戦えそうには見えんがな」

 店主がそんな事を言い出す。そう言えば情報は開示されていたのだな、とアベルは思い出した。耳と脚の早さは商人の命だ。

「俺は薬師でね。探索者が腹を壊した時に、ケツから悪魔を追い出してやる人間は必要だろう?」

「違いねぇ」

 店主は気のいい笑い声を上げる。アベルは買い物ついでに、少し情報を集めてみる事にした。

「例の禁足地の魔獣について、探索者たちはどう思っているんだ?」

「あんた、この街の人間じゃないのか?」

「俺は薬師であって、薬種商じゃない。普段は調合と新薬の研究ばかりでね。耳は外に向いていないんだ」

 店主は片眉を上げ、「ふぅん?」と訝しむようにアベルを見つめる。


「ちょっと」

 レナエルがアベルを肘で突く。余計な事をするな、と言いたいのだろう。

「少しくらい良いだろう。俺に片足で踊れと言うのか?」

 情報とは多方面から集めるべきだ。居場所や立場によって集まる内容は偏るし、事態は常に変化している。都合の悪い事は隠されるし、提供者自身が勘違いをしていたり、騙されている場合だってある。

 レナエルにもそれが解っているようで、しばらくフードの下からアベルを睨みつけていたかと思うと、好きにしろと言わんばかりにそっぽを向いた。


「別に隠すような事じゃないんだが、どこに聖堂会の人間が居るか解った物じゃないからな」

 店主が言う。口は災いの元、という事を良く知っているようだった。だが、全く話す気が無いという事ではないらしい。店主は腰から下げた売上台帳を撫でながら、わざとらしく咳払いなどをして見せる。

「俺は書き物をしている時に、独り言を言う癖があってな。それがたまたま会話のようになったとしても、誰に咎められることも無いだろう」

 駆け引きも何もない。しかし、アベルはこの解りやすさを好ましく思った。

「ニンニクと玉葱、芥子の実と堅焼きの黒パン、蒸留酒に油と……、そこの干し肉にドライソーセージも貰おうか」


 土の下に成る食物は、下賤な代物として扱われがちだ。ニンニクや玉葱などといった匂いの強い食物は特にそのような傾向が強く、貴族や騎士などは見向きもしないだろう。

 だが、旅装に用いる食料に求められるのは、とにかく〝食えるかどうか〟だ。新鮮な葉野菜などは確かにみずみずしくて美味いが、高温多湿な外界ではあっという間に腐ってしまう。その点、ニンニクや玉葱は日持ちもするし、何より滋養がある。味だって悪くない。食物の美味さとは、舌だけではなく身体でも味わうものだ。

 芥子の実も滋養に優れ、かさ張らず、日持ちもする。焼いたニンニクや玉葱に振り掛けても良い。堅焼きの黒パンも同様だ。白くてふわふわのパンは確かに美味いが、腐ってしまっては意味がない。無理に食えば、ケツからそれ以上の物をひり出すことになるだろう。下手をすれば、命にかかわる。

 蒸留酒は少量で身体を温める事ができる。油は防寒用の毛皮に塗れば雨を弾いてくれる上に、食い物が無くなれば、飲めばそれだけで滋養がある。

 干し肉やドライソーセージはそのまま食っても良いし、塩気が強いので、煮れば即席のスープになる。余裕があればニンニクや玉葱を入れても良い。水だけは、外界では比較的容易に手に入る。

 ……と、こんな発想は常に大人数で隊列を組み、補給部隊をぞろぞろと引き連れている騎士連中などには到底できないだろう。奴らは少しでも行軍が長引くとすぐに食料不足になり、道中の村々から無理やり接収したり、時には略奪行為に走ったりもする。しかしそのどれもが、外界では不可能な行為だ。そんな奴らに命の綱である旅装の準備を任せるなど、ぞっとしない話なのだ。


「蒸留酒ね」店主が言う。「希望の銘柄はあるか?」

 安ければなんでも良い、と普段ならば言う所だ。身体を温める為の酒に味など求めていない。しかし、美味いならそれに越したことはない。この際だ、アベルは少々値段の張る酒を頂こうと考えた。これくらいの役得は、あっても良いだろう。割られた酒の件もある。早めの弁償と思えば良い。

「エルドラドか、クレッセントがあれば」

 そういうと、店主がぴくり、と方眉を上げた。

「このご時世に、随分太い買い物をしてくれるじゃないか」すると、店主は口の横に手をかざし、秘密を囁くように言う。「実はな、ブラティドールを数本残してあるんだ。……どうだ?」

 酒好きどうしの、妙な気の繋がりでも感じたのだろう。アベルは口端を歪め、悪戯を企む小僧のように「良いね」と嗤った。

 店主が手を振ると、店の奥で待機していた小僧が慌ただしく商品を包んでいく。


「ちょっと。人のお金だからって、好き勝手にやりすぎじゃない?」レナエルが言う。

「外界では、一切れの肉が金貨に勝る事もある。大目に用意しておいて損は無い。背中は重くなるがな」

 深い森の中で金貨を握りしめていても、命は繋げない。貨幣の通用しない場所では、取引は物々交換が基本だ。その中でも食料と薬は特に重宝される。

「言っている事は解るけれど、どうせ万事そんな買い物の仕方なんでしょう。お店も傾くわけだわ」レナエルが呆れたように呟く。


「で、だ。探索者が例の噂をどう見ているか、だったか」

 店主の言葉に、アベルが頷く。

「もちろんこれも噂の範疇を越えないが、外界の王が没したのではないか、と言われているな」

「外界の王が?」

 アベルは顎に手を当てて考え込む。確かにそれならば、魔獣の異常行動にも説明がつくかもしれない。

 外界には数多の、人知の及ばぬ圧倒的な力を持つ魔獣が居る。それぞれに縄張りをもち、互いの肉と領地を喰らいあっている。それでも外界の森が焼け野原にならないのは、一定の秩序が存在するからだ。それが崩れたとなれば……。


 しかし、とアベルは呟く。

「結局の所、はっきりしたことは何も解らないと言う訳か」

「まぁな。しかし魔獣たちを狂わせる何かが起きているのは間違いないし、不死の魔獣ってのも、本当に居るんじゃないかと俺は思うね」

 噂よりも実利を重んじる商人の口からそんな言葉が出てしまうほど、外界に起きた異変は際立っている。最初から何かがあると警戒して向かった熟練の探索者パーティーが、悉く全滅の憂き目に遭うなど、尋常ではない。


「不死の魔獣についての情報は?」

「さてね。幻惑系の能力を持つのでは、と言われているが」

「やられた奴らは、恐怖で気が狂っただけじゃないのか」

「それにしちゃ様子がおかしいって事らしい。特に、最初の生存者がアズガルド教区長に呼ばれて聖堂に向かった時は大変だったらしいぜ。ずっと死人みたいな(つら)をしていたくせに、礼拝堂の前に来たとたん、狂ったように駆けだしてな。女神像の前で涎を垂らしながらのたうち回ったらしい。悪魔が身体から抜け出そうとしていたようだ、なんて言う奴もいる」

 確かに不可解だ。神に救いを求めたと思えなくもないが、それにしては行動が不審だ。

「まぁ、もうそいつも処刑されて、真実は誰にも解らんがね」


 店の小僧が店主とアベルに小さく頭を下げる。どうやら、準備ができたらしい。

「荷物は、そこの小僧が運ぶのか? 言っちゃ悪いが、女みてぇに細っこいじゃねぇか。大丈夫なのか?」

「……は、はぁ!? 小僧だと? この私がか!?」

 店主に顎を向けられたレナエルが、憤然と声を上げる。

「なんだ、違うのか」

「当然だ! 良く聞け、私は――」

アベルはレナエルの肩を掴み、続く言葉を遮る。

「配達を頼む。一区のリリオ通りにある酒場に預けておいてくれ。薬師のアベルと言えば解る。領収書も付けておいてくれ」

 そう言って店主に代金を、商店の小僧に小銭を握らせる。


「離しなさいアベル! この不敬者に――」

「はいはい。次の店に行きますよお嬢様」

 店主たちの奇術でも見せられたかのような表情に見送られ、アベルはレナエルの腕を引き摺りながら店先を後にした。




 その後、二人は薬種商で必要な薬草類を買い揃え、昼食の為にとある飲食店の個室でテーブルについた。


「いつまでむくれている」

 テーブルを挟んだ向こうで未だに下唇を突き出しているレナエルに、アベルはため息交じりの声をかける。旅装商店から向こう、ずっとこんな調子なのだ。


「だって小僧よ? 小僧。この可憐なレディーに向かって、小僧は無いでしょう」

「そう思われたいなら、フードを脱いで歩くべきだな」

「それはいけないわ。こっちにも事情ってものがあるのよ」

 身分を隠すための行為なのだろうが、そうであるなら小僧と呼ばれた事を喜ばなければならない。目論見通りに人目を欺けているという事だ。しかし、アベルがそれを口にする事は無い。


 注文した料理が全てテーブルに並び、さぁ食べようという段階になってようやくレナエルはフードを払う。わざわざ追加料金を支払って個室を用意させたりと、随分な徹底ぶりだ。

「祈りを捧げたりしなくていいのか?」

 さっそく骨付き肉に豪快にかぶり付くレナエルの姿を見て、アベルは意外そうに声を上げる。

「祈りの言葉で料理が美味しくなるなら、それも良いわね」

「聖堂会に属する人間の物とは思えない発言だ」

 レナエルは小さく笑い、再び目の前の料理に集中し始める。どんな組織にも変わり者というのは居る物だ。それ以上気にする事も無く、アベルもまた食事に意識を傾ける。


 やがて食事もひと段落し、口直しの薄いぶどう酒を飲みながら、レナエルは籠に放り込まれた薬草の数々に目を向ける。

「一言に薬草って言っても、随分と種類があるのね」

「アニス、アンジェリカ、エルダー、セイボリー、タラゴン。他にも色々買ったな。痛みや熱を抑えたり、胃の動きを良くしたり、料理の香り付けとして使ったりもする。今食った物にも使われていたぞ」

「へぇ? じゃあ沢山食べれば病気にならないのかしら」

「そんな単純な話じゃ無い。薬草の効能を存分に引き出すには、それにあった加工をしなくちゃならない」


 油につけて薬効を引き出したり、乾燥させたものを砕いてそのまま飲む物もある。圧搾や蒸留で精油を得たり、その精油も飲用や傷に直接塗る物、火で炙って初めて薬効が発せられる物など、実に様々だ。更には複数の薬草を調合することにより、単体では得られない薬効を発揮することもある。薬草の世界は実に奥が深い。

 他にも薬には牛の胆嚢に鹿の角、干した蛇やミミズなども用いる事もあるが、レナエルに気味悪がられるのがオチであるので、アベルは後で調達するつもりだった。


「あの白いドライフラワーも薬草なの? 随分と大量ね」レナエルが籠の一つを指で示す。

「花の部分を粉にして炭と混ぜ、水と油を加えて練り、乾燥させると虫除けの香になる。匂いは結構きついが、外界探索には欠かせない」

 探索と虫除けが上手く繋がらないのか、レナエルは首を傾げる。

「外界に潜む脅威は魔獣だけじゃない。毒を持つ蛇以外に、虫も大変な脅威だ」

「虫が? 聞いたことないわね」

「危険を危険と判断できない奴は、死ぬだけだ」


 探索者が外界の森の中で、毒蛇に噛まれた訳でもないのに突然高熱を発する事がある。熱が一時的に収まっても油断はできず、数日おきに発熱と嘔吐を繰り返し、意識は混濁し、最終的には死に至る。

この原因不明の病を探索者は〝森の死神〟と呼ぶが、アベルの師匠はその原因が小さな羽虫にあると理解していた。外界の森では毒を持たぬ小さな羽虫でも、病と死を運んでくることがあるのだ。


「師匠は死神を遠ざける方法を伝えて回ったが、探索者たちは一向に聞き入れなかった。そのせいで、未だに死神の鎌に魂を切り裂かれる奴が後を断たん」

「理解できない物は、受け入れがたいからね」

「だが、人は神などという曖昧な物を信じる。不思議なもんだな」

 聖堂会への反意を抱いているとも思える発言に、神の使徒たる聖堂騎士であるはずのレナエルは怒りもせずに、困ったような笑顔を浮かべるのみだった。


 アベルの脳裏に一つの疑問が過る。レナエルは本当に聖堂会の人間なのだろうか。

 レナエルの立ち振る舞いは、およそ聖堂会の人間とは思えない。装備も一般的な聖堂騎士の物とは異なるようだ。上級騎士という事でなんとなく納得していたが、提示された証拠と言えば聖堂上級騎士の紋章だけだ。偽装すれば死罪は免れない代物だが、死を恐れないのであれは不可能という訳では無い。


 だがアベルのそんな疑念は、突然手を叩き合わせたレナエルの言葉で霧散した。


「そうだ、神で思い出したわ。アズガルド教区長がアベルの顔を見ておきたいそうよ」

「……教区長、が?」

 思わず顎を引いた。しがない場末の薬師に、神の栄光を頂く司祭様が何の用事があるのだろう。神の祝福と共にいくらかの施しを与えてくれるというなら、有難い話だが。


「なんにせよ、無視できる相手ではないか」

 気乗りはしないが、今回の件をややこしくしている張本人でもある。何か話を聞けるなら望むべくもない。


 さっさと身支度を整えて急かすレナエルの言葉に、アベルは腰を上げた。


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