禁足地の魔獣
アベルはランプに明かりを灯し、レナエルへ椅子を勧める。本来ならすぐにでも追い出したいところだが、相手が聖堂騎士団の人間であるならば無下にもできない。
レナエルは席に着くなり、無遠慮に部屋を見回す。
「驚くほど物がないわね」
「贅沢ができるほど、繁盛はしていないからな。それに、殺風景は師匠の趣味だ」
アベルは金属製のカップに葡萄酒を注ぎ、レナエルに差し出す。
「師匠?」
「この街に流れ着いた俺を拾ってくれた。恩人と言えば、恩人だな」
「そう。今はどちらにいらっしゃるのかしら」
「二年前に素材を求めて外界に出て、それきり」
「悪い事を聞いたかしら」
アベルは軽く肩を竦めただけで、何も答えなかった。外界では軽い散歩のつもりが黄泉への旅路になる事もある。たとえどんなに街に近くとも、人界線を一歩でも超えればそこは魔獣の住む世界だ。とはいえ、アベルは師匠の安否などは気にしていなかった。そう簡単にくたばるような人物ではないのだ。
レナエルは差し出されたぶどう酒へ警戒も無しに口をつけ、眉根を寄せる。
「カップは上物なのに、中身は随分な安酒ね」
「とっておきは、誰かさんのせいで床の染みになった」
非難の視線を避けるように、レナエルはつい、と目を逸らす。
「で、上級騎士様がこんなうらびれた薬屋に、どんな御用ですかね」
アベルは自分のカップにもぶどう酒を注ぎ、テーブルを挟んでレナエルの向かいに座る。
「禁足地の魔獣の噂は、知っているわね?」
唐突に、秘密を囁くようにレナエルが言う。
「不死の魔獣か。ランダルマに住んでいるなら、その質問にはネズミだって頷くだろうさ」
二か月ほど前になる。とある探索者のパーティーが外界へ探索に向かい、未帰還となった。
特に珍しくも無い話ではあるが、問題なのはその先だった。全滅したと思われるパーティーの一人が帰還し、その口から発せられた言葉がランダルマを震撼させることになった。
話はこうだ。偶然に迷い込んだ土地で未知の魔獣と遭遇。瞬く間にパーティーは壊滅し、自分一人だけが何とか逃げ延びた。ここまでは、よくある話である。調査をし、危険なようであれば討伐隊を差し向ければ良いだけだ。
だが、続く生存者の一言が事態を混乱させる。
未知の魔獣は、不死であったというのだ。
あらゆる傷は瞬時に再生し、、次の瞬間には牙を剥いて向かって来た、と生存者はいう。だが探索者組合は当初、この言葉を妄言と捨て置いた。
生存者は酷く混乱していた。何もかもに怯え、小鳥のさえずり一つで飛び上がり、錯乱する。何かの病にでも侵されているようにも見えた。故に証言に信憑性なしと判断したのだ。しかし未帰還のパーティーが出たのも事実だ、無視もできない。探索者組合は調査隊を組織。〝不死の魔獣〟とやらとの遭遇場所は曖昧だが、証言から大まかな位置を予測することはできていた。
調査隊は、未帰還となった。
組合に所属する、熟練の探索者で組織された調査隊が未帰還となった。その事実に人々は騒然となった。
何か、得体の知れない魔獣が居る。その噂は一攫千金を夢見る若き探索者たちの心に火をつけた。誰もが我先にとパーティーを組み、意気揚々と外界へと繰り出し、そしてほとんどが帰ってこなかった。
「酷いありさまだ。命知らずで向う見ずな探索者連中が、叱られた子供みたいにしょぼくれてしまった。おかげでこちらは商売あがったりだ」安酒をあおりながらアベルが言う。
「無理もないわ。噂の発生とほぼ同時に、魔獣の異常行動が多数報告されるようになった。行動予測ができず、危険回避もままならない。今、外界に打って出るのは自殺と同義よ」
ランダルマは元々、外界へ赴く探索者の需要を狙って発展してきた街だ。探索には武器が必須であり、食糧も要る。足を守る丈夫なブーツは必需品だし、探索者が羽を伸ばす酒場も必要だ。そして外界からもたらされる数々の素材を求めて商人が集い、金と物と文化の香りを残してゆく。そうしてこの街は発展してきた。
つまり、探索者が思うように外界に出られないこの状況は、ランダルマにとっては首を絞められているという事と等しかった。この状況が長引くようであれば、いずれ致命的となるだろう。
「確かに外界は危険だ。いつも通りにな。探索者が外界に出られない一番の理由は――、あんたら聖堂会が睨みを利かせているからだろう」
アベルは言う。そしてそれは事実だ。
探索者たちの勇気は決して無駄ではなかった。〝不死の魔獣〟が生息していると思わしき地域を特定したのだ。だが、その成果こそがランダルマを窒息させることになってしまった。
その地域とは、人界門から約七日という近場にあるグァイネア山。イマルタル聖堂会が禁足地と定めている聖地であった。
この報告に対する聖堂会の反応は苛烈だった。特に教区長、アズガルドの対応は迅速かつ徹底していた。報告をもたらした探索者たちを投獄し、この件の切っ掛けとなった生存者は女神に仇なす神敵として処刑してしまった。更には〝流言には神罰を〟という言葉を人々に突き付け、喉に綿を詰めたのだ。
「不死不滅の存在は、人類を見守り導いてくださる女神イマルタルのみ。他の存在を疑うだけでも不信心だと言うのに、更には聖地に魔獣? ふざけているわね」
「聖堂会がそんな態度だからこの街は――」
「と、いうのが表向き。さて、ここからが本題よ」
テーブルの上で指を組み、レナエルは静かに息を吐く。階下から昇ってくる酒場の喧騒が遠のいていくのを感じた。部屋には緊張が染み出す様に広がり、壁に開いた穴から平穏が逃げていく気配がした。
「アズガルド教区長は、禁足地の魔獣に関する調査を行う事を決定したわ。アベル・リング、貴方にはその調査に同行してもらう」
アベルは息を呑んだ。魔獣の調査をする。それは教区長が女神イマルタル以外に不死の存在が実在する事を疑っているという事だ。人々の口を無理やりに閉ざした、張本人が。
「不死の魔獣は実在するっていうのか?」
もし不死なる存在が本当に存在するとすればそれこそ神か、神敵の代表格である悪魔や、邪悪なる竜種くらいのものだ。どちらにしても、神話や英雄伝に語られるような存在である。
「さてどうかしら。噂を封じ込めたのも、禁足地を土足で踏み荒らされては堪らないって理由かもしれないわ。少なくとも確証は無いのでしょう。そのための調査よ」
街の経済が窒息している現状を、一刻も早く打破したいのは聖堂会も同じだ。しかし公に女神以外の不死の存在を疑う事はできず、更に場所が禁足地とあっては探索者たちに好きなように動かれては聖堂会の沽券に係わる。懐事情と張るべき見栄を天秤にかけた結果の行動なのだろう。
「しかし、聖堂騎士団で調査を行うのか?」
「馬鹿な事を言ってんじゃないわよ。存在を否定した聖堂会が堂々と調査に出られる訳ないでしょ。それに万が一、未帰還にでもなってみなさい。聖堂会の栄誉は地に落ちるわ」
「ではどうやって」
「近く、探索者組合が大規模な遠征隊を組織するわ。医者や鍛冶職人まで同行するくらいの大きな奴よ。そこに紛れ込む」
探索者のパーティーは、大きなものでも二十名を超えないのが常だ。外界は殆どが深い森に覆われており、大人数では行動がしにくいためである。
聖堂会が睨みを利かせている以上、おいそれと外界に調査隊を派遣する事はできない。探索者組合はこの遠征で不死の魔獣に関する一件を終わらせるつもりなのだろう。教区長はそれに便乗しようというのだ。
「どの程度の人数が紛れ込むんだ。全員、聖堂騎士か?」
「私と貴方の二人だけよ」
口元へカップを近づけていた手が止まる。アベルは呆気にとられ、呟いた。
「何の冗談だ」
「冗談でこんなことは言わないわ。遠征隊に紛れ込むのは二人だけ。もし本当に不死なる魔獣が存在するなら、これを討ち取れと教区長は仰せよ」
事もなげにレナエルは言い、アベルは大きく溜息をついた。
「お断りだ。そんな酔狂に付き合えるか」
「どうしても?」
「どうしても、だ」
にべもないアベルの態度に、レナエルは「そう」と息をつき、そして華のような笑顔でこう言った。
「ではアベル・リング。貴方を魔法薬精製の容疑で連行します」
「――――はっ?」
ごとり、とアベルの手からカップが落ち、木製にテーブルに紫色の染みが広がっていく。
「わからないかしら。貴方はアルケミストである、と疑いを掛けられているのよ」
アルケミスト。神の秘術を盗み、模倣し、人々を混乱に陥れる狂気の隠者。特に魔獣素材を用いて精製されるインスタント・マジック〝魔法薬〟は、扱えば年端のいかぬ子供でも破滅的な破壊をもたらすことができる悪魔の秘術として、聖堂会から封印指定を受けている。
故にアルケミストは世を乱す悪魔の使いとして、聖堂会に捕らわれれば吊るし首になる運命であった。例外は無い。一応形だけの裁判は行われるが、疑われた時点で絶望的だ。
「ふ、ふざけるな!!」アベルは勢いよく立ち上がり、椅子が音を立てて倒れた。「何を証拠にそんな――」
「アグルライカンの鉄眼。フルーレラットの氷結線液。メイジマンティスの風切鎌。ムスペルバットの紅火翼、他にも色々。貴方が組合を通さずに直接探索者から買い付け、あるいはこっそり外界から持ち帰ったこれらの素材。一体、何に使うのかしら」
「それは、治療薬の研究に……」
「どう使ったのかしら。研究であるなら記録があるはずよね。見せて貰えるかしら、今ここで」
レナエルはアベルを睨み上げ、問い詰める。
「アベル・リング。薬師にして探索者。腕も錆びついていないようだし、これほど便利……じゃなくて、適任な人材は他に居ないわ。黙って頷きなさい」
確かに、レナエルの言うとおり医術の知識を持った者は必要だ。外界では小さな傷から壊死が広がり、死に至る事も少なくない。いくら備えをしていても、突発的な事態に対処するにはやはり専門的な知識が物を言う。薬師でありながら探索者でもあるアベルは、旅の供としてまさに最適な人材と言えるだろう。
「そう悪い話では無いはずよ」レナエルは意地悪く口元を歪める。「貴方に対する疑いは私の個人的な物よ。今のところは、ね。それに、お店の経営、上手く行っていないんでしょ?」
ぐっ、とアベルは喉を詰まらせる。「なぜそれを……」と呻くアベルに、レナエルは意味ありげな微笑みを向けた。
質の良い魔獣の素材は強力な魔術の触媒となるため、大変に高価だ。アベルはとある目的の為に魔法薬研究に傾倒しており、その為の費用が店の経営状況を著しく圧迫していた。そしてアベルの先天的な金銭感覚の欠如も相まって、店は深刻な経営難に陥っていた。店の売り上げも赤字を補填するには到底至らず、レナエルに言われるまでも無く、行き着く先は見えていた。
もし店を失い、この街での居場所を失えば、魔獣素材の入手はより困難になる。アベルは思うように魔法薬の研究を行う事ができなくなるだろう。
「あと、さ。あちこちの酒場のツケも重なって、ちょっと笑えない額になっているわよね」レナエルの口端がいやらしい角度に吊り上がる。「助けてあげられなくも無いわよ? 色々と」
アベルは力なく頭を振り、倒れた椅子を直して腰かけた。ただでさえ〝不死の魔獣〟騒ぎで客足は遠のいている。ランダルマの今後の趨勢は、アベルにとっても決して他人事などでは無い。
黙っているだけで事が解決するのであればそれに越したことは無いが、そう都合よくは行かないのが世の中という物だ。アベル一人の小さな力で何がどうできる訳でも無いだろうが、アベルとしても座して破滅を受け入れるつもりは無かった。大変に不本意な形ではあるが――、レナエルの提案は、アベルにとっても渡りに船といえるのだった。情けないとは思いつつも、アベルはレナエルの話に喰いつかざるを得ない。
「――話を、聞かせてくれ」
溜息をつくアベルの胸に、「お金と酒にだらしない男って、どうなのかしらね」というレナエルの言葉が突き刺さる。