人類解放宣言
「良い眺めで御座いますな」
唐突に声をかけられ、レナエルは暗がりの中で細く目を開ける。
レナエルが転がっているのは、聖堂会の敷地内にある地下牢だ。計画に賛同した遠征隊の生き残りたちもここに収容されている。
「あら、これはこれは教区長どの。重たいお腹を揺らして、ご苦労様ね」
普段ならアズガルドも苛立ちを覚える場面だが、相手が牢の中では嫌味も心地好いそよ風だ。アズガルドは余裕たっぷりに微笑み、「おお、神よ」とわざとらしくレナエルを憐れんで見せた。
〝どうか御武運を――〟
リズがレナエルにそう言葉を捧げたのは三日前だ。顔役から〝火薬〟と呼ばれる黒い粉を受け取り、下準備を終え、竜の遺骸を引いてランダルマに帰還したレナエルと遠征隊の生き残りたちを迎えたのは、槍の穂先を突き付ける聖堂騎士たちの厳しい視線だった。
レナエルと遠征隊の生き残りたちは連行され、遅れてランダルマに入ったアベルたちは身を隠した。
「毛布の一枚でも頂けないかしら。底冷えして野宿よりも酷いわ」
「神の国には老いも病もありません。お気にされる事はないでしょう」
レナエルは鼻を鳴らす。要するに〝どうせ処刑されるのだから、体調を崩そうが関係ない〟と言っているのだ。まったく、神の慈悲とやらはどこへ消えたのだろう。
「しかし驚きましたよ。禁足地を穢す竜を、まさかあなたが打ち倒してしまうとは。鮮血王女の異名は、伊達ではないという事ですか」
「私はあまり、活躍できなかったけれどね……」レナエルが口の中で小さく呟く。
「なんですか?」
「いえ、別に」レナエルは首を横に振る。「それにしたって、竜殺しの英雄を牢に放り込むなんて、どういう了見かしら」
殊更に顎を上げてアズガルドが嗤う。泥が沸き立つような声を上げる丸い身体は、本当に直立する豚のようだ。
「貴方が野営地で倒れていれば、このような面倒をしなくても済んだのですがね」
「やっぱり、火傷の暗殺者はあんたの差し金だったのね。いつからライエルと繋がっていたの?」
兄王といえど、もはや敬称を付ける必要も無い。レナエルの瞳が刃のように輝いた。
「農夫が無能では雑草が蔓延り、麦も育たないでしょう。人の世も同じことです。資質無き者が導き手となれば、民が迷ってしまう。私は民の健やかなる繁栄の為に――」
どうやら、アズガルドはまともに応えるつもりはないようだ。
「お為ごかしは聞きたくないわ。あんたは紙とペンで人を吊るす。薬で人々を惑わし、邪魔者は濡れ衣と汚名を着せて消す。あんたがしているのはただそれだけだわ。なんて卑劣なの」
レナエルの奥歯が鳴る。
アズガルドの言う事は間違いではない。人は簡単に迷う。そして立ち止まる。
だがそれは、あくまで間違ってはいないというだけだ。そこに人の尊厳は無い。そして、決定的に間違っている事が一つある。テランス王子は、決して無能などでは無かった。
「誰もが必死に生きている。泣いて、笑って、時に理不尽に見舞われながらも、必死に明日に向かって手を伸ばしている。それを、人を陥れる事しか考えていないあんたに、他人を利用する事しかできないあんたに! 人の営みをどうこう言う資格は無い! 人生は誰かに管理されるような物じゃない! 人間を馬鹿にするな!!」
地下牢にレナエルの怒号が響き渡る。石壁に反響した声が波のように耳朶を揺らす。
「薬――。なるほど、天使の角を……」アズガルドの顔から笑みが消える。「ふん……。まぁいいでしょう。真に賢き者の考えなど、野蛮人には到底理解できぬ話でありますからな。死人と議論をするつもりはありません」
事ここに至っては、レナエルの死はもはや決定的。アズガルドは打ち捨てられた犬の死骸でも見るような眼つきで、レナエルを見下ろす。その口元が再び緩んだ。
「しかし、礼を言わなければなりませんね。竜の遺骸――、素晴らしい土産です。竜の翼に乗せて、私の名声は神の国にまで轟くでしょう。お陰様で、次期総主教の座に指がかかりました」
アズガルドは肩を揺らす。
「その丸い指で、きちんと掴めれば良いわね」
「ご心配には及びませんよ」
樽のような体型をした男は、もう話すことは無いと言わんばかりに踵を返す。
「そうね。あんたが心配するべきなのは、もっと別の事だわ」
遠ざかる背中に、そうレナエルが言葉を投げる。
神の加護は、豚の頭上にも降り注ぐのだろうか――。
広場は大勢の人々で埋め尽くされていた。伝説の竜の姿を一目見ようと、通りにまで人がはみ出している。
広間には白い布で覆われた、即席の舞台が設置されていた。太い柱がいくつも組み合わされ、それらを色とりどりの花で飾り、中々見栄えのする仕上がりになっている。舞台の上には木で作られた絞首台の様な物があり、それも布で覆われていた。
人の海を挟んだ広場の反対側には、高く組み上げられた観覧席が設けられていた。そこに腰かけるのは当然、イマルタル聖堂会の総主教だ。痩せこけた細い体を、金糸の刺繍が施された豪奢な白い法衣で包んでいる。
人々のざわめきと、逞しく稼ごうとする売り子の声に空までが埋め尽くされている。イマルタル聖堂会ランダルマ教区の教区長こと、アズガルドが舞台に上がると熱気は最高潮に達した。
アズガルドが両手を広げる。期待と興奮と少しの不安に人々は息をのみ、次第にざわめきは鎮まった。立ち昇る熱気の渦で、今にも雲が溶けて落ちてきそうだ。
舞台の上に、聖堂騎士に両脇を抱えられたレナエルが姿を現すと、再び空が震えた。粗末な服を着せられたレナエルは柱に両腕と足を括り付けられ、衆目に晒される。
――支持する兄王が、権力争いに敗れて討たれた。レオノーラ・リンスティール第八王女は復讐の為に竜を召喚し、国ごと焼き払おうとした。しかし女神イマルタルがそのような暴挙を見過ごすはずも無く、神罰によって竜は打ち倒され、邪悪なる王女はこうして捕えられた――。
レナエルは〝よくもまぁ、つらつらと嘘がつける物だ〟といっそ感心した。アズガルドは声高らかにレナエルの〝罪状〟を読み上げていく。一粒の真実を底に置いて嘘を積み上げるのは、権力者の常套手段だ。民衆は自ら物を考えるという事をしない。そして雑食だ。甘美で刺激的であれば、真実かどうかは、どうでも良いのだ。
退屈な茶番だ、とレナエルは目立たないように欠伸をする。
それにしても、人が多い。予想以上だ。これでは万が一計画が失敗した場合、かなりの人数を巻き込むことになるかもしれない。
レナエルは今更栓なき事だ、と首を振る。彼らは刺激を求めてここまでやってきた。ならばどうぞ、心ゆくまで痺れて欲しい。
アズガルドが手を上げると、絞首台から布が取り払われた。
悲鳴と歓声が爆発する。
絞首台には、竜の遺骸が吊るされていた。
切り分けた各部は、縄のような太い糸で縫い付けられている。ランダルマに持ち込む前に、アベルや遠征隊の生き残りたちが仕上げたものだ。
計画通りであった。イマルタル聖堂会において、竜は神の力を盗んだ邪悪の象徴とされている。触れる事すら拒むだろう。遺骸を検めるような事は無いと踏んでいた。結果、アベルによって施された仕掛けが露見することなく、遺骸はこうして吊るされている。
アズガルドは、絞首台の前に組まれた足場を登る。竜の鳩尾辺りに到達すると、神への大仰な祈りの言葉を響かせた。そして竜の遺骸と向き合い、剣を突き立てる。
アズガルドの剣は竜をいとも簡単に切り裂いた――、ように民衆には見えたのだろう。一際大きな歓声が轟いた。だが実際には、竜の鳩尾は雑に縫い合わされているだけだ。
頭から外套を被った二人の聖堂騎士が、傷を両側から引いて広げる。その奥に、深い紅に輝く結晶が姿を現した。
すえた腐敗臭が風のように吹き抜ける。アズガルドは顔を顰めるが、今更止めるわけにはいかない。覚悟を決めて剣を突き立てようとした時、横合いから別の聖堂騎士が声をかけた。
「お待ちを。総主教より剣を賜っております。どうぞ、こちらで魔霊星を」
幼い少女のような声だった。口元を隠し、外套の隙間からは黒髪と琥珀のような瞳が覗いている。見ない顔だな、とアズガルドは訝しむが、今はそれどころではない。
「総主教が、剣を?」
「はい。邪悪なる竜に神罰を下すは、神剣こそが相応しいとのお言葉です」
アズガルドは見覚えの無い騎士の手元に目を向ける。刃渡りは短く、剣というよりは短剣に近い。だが、この見事な装飾はどうだ。黒塗りの鞘には金や銀がふんだんにあしらわれ、更には宝石が散りばめられて、まるで星空のようだ。晴れの舞台に相応しい。
剣を受けとり、鞘を払う。曇りの無い美しい刃が姿を現した。光を反射させるように剣先を天に向け、民衆の期待を煽る。
再び竜の遺骸に向き直り、剣を魔霊星の横に突き立てた。アズガルドは、竜の遺骸から魔霊星を取り出そうとしていたのだった。
竜殺しの英雄を描いた絵画は、その頭部や魔霊星を掲げているという構図がお決まりだ。見栄を張る事に余念がないアズガルドが、それを真似ようとするのは当然と言えた。しかし頭部は重すぎる。となれば、魔霊星だ。
「むっ。ぬう……!?」
法衣と頬を腐液で汚しながら、アズガルドが唸る。刃が通らないのだ。それもそのはず、魔霊星は仕掛けを施した後、残した肉と膠でがちがちに接着してあるのだ。加えてアズガルドが手にした剣は刃が軽く潰してある。それらに気が付けないアズガルドは、腐肉の暗がりで一人悪戦苦闘していた。
「アズガルド様。柄頭に手を当てて、強く押し込んでくださいませ」琥珀色の瞳をした聖堂騎士が言う。
「こ、こうか?」アズガルドは言われるままに柄頭を強く押す。ガチン、と何かが噛みあうような手ごたえが手首へ抜けた。「ぬっ――!? うわあ!?」
突然剣先から噴き出した炎に、アズガルドは悲鳴をあげた。
短剣には、火薬と水晶を組み合わせた仕掛けが施されていた。〝圧電効果〟というものを利用した仕掛けらしい。
炎は魔霊星を包み込み、そして消えた。魔霊星に吸収されたのだ。
弾きだれたように尻もちをつくアズガルドを、民衆はのんびりと眺めていた。笑い声さえ聞こえてくる。だがそれらの笑い声は、重く響く唸り声にかき消された。広場は水を打ったように静まり返る。
唸り声は舞台の上から。いや、竜の喉から響いていた。胸に残された心臓がどくんと波打ち、腐りかけた橙色の瞳がギョロリと動き、青い顔をしてへたり込むアズガルドの顔を映し出した。
竜の指が動く。翼が震える。繋ぎ合わされた各部位へ神経が繋がり、削ぎ落された筋肉がゆっくりと再生していく。竜の遺骸〝だったもの〟に力が満ちていく。
誰もが身動き一つできなかった。これは悪い夢だと、悪魔の見せる幻影なのだと自分に言い聞かせているかのようだった。本当にそうであったなら、どれだけ良かっただろう。しかし神が姿を現さないように、悪魔もまた耳元で囁いたりはしない。
竜の身体を吊るしていた縄が燃え上がり、焼け落ちた。降ろされた四肢の重みで舞台が悲鳴を上げ、巻き込まれた足場も崩れ落ちた。投げ出されたアズガルドが、悲鳴を上げながら情けなく転げまわる。
「ひっ――!?」
元の姿を取り戻しつつある竜の瞳が、顔を上げた神の子豚を捉える。竜は殆ど食事をしないが、十分な熱量を得られない場合はその限りではない。あれしきの炎では、竜の空腹は満たされていなかった。
「やっ、止めっ! かっ、神よ、ど、どうかおたす――。あっあっ、ひぃぃああぁぁぁ!!」
救いを乞いながら後退るアズガルドの丸い体を、無情にも竜の咢が捕える。杭のような牙がその身体に食い込むたびに、濁った悲鳴が響いた。その様子を、レナエルは冷たい無表情で眺めていた。
「豚は食卓に上るのが道理よ。似合いの最後ね、アズガルド」
竜の喉が震え、食事が終わる。神の僕の命を燃やして、竜の身体から小さく炎が湧き上がった。
鉄塊を無理やり引き裂いたような咆哮が轟く。悲惨な光景と魂を打ち砕くその衝撃に人々は畏れ慄き、広場は混乱の坩堝と化した。
人々は我先にと駆けだそうとする。しかし通りにまで人であふれた広場では、思うように身動きが取れない。
悲鳴。怒号。絶叫。
泣き喚く声。救いを乞う叫び声。
神の威光を示す為の広場には、地獄が出現していた。
竜が尾を振るい、舞台の上で剣を構えていた聖堂騎士たちを薙ぎ払う。琥珀色の瞳の聖堂騎士は、いつの間にか姿を消していた。
「姫様」
柱に括り付けられたままのレナエルの両脇に、二人の聖堂騎士が立つ。片方は大剣を、もう片方は突撃槍と大盾をそれぞれ背負っている。どちらも見た目は聖堂騎士のそれだが、武器は全く異なっている。
「竜の再生が予想以上に早い。危険です」
大剣を背負った聖堂騎士が言う。しかしレナエルは首を横に振る。
「危険は百も承知よ。二人とも、下がりなさい」
「しかし――」突撃層と大盾の聖堂騎士が声を上げる。
「リズ」竜を真っ直ぐ見据えたまま、レナエルが言う。「ありがとう。……下がりなさい」
そう言われてしまっては、もう返す言葉も無い。リズは小さく頷き、レナエルに銀色に鋭く輝く剣を握らせて、ギリアムと共に舞台から降りた。
長い首を巡らし、竜の濁った瞳がレナエルに向けられる。その瞳がすっ、と細められた。懐かしむような、あるいは標的を見つけて喜ぶような仕草だった。
竜の動きは鈍い。まだ熱量が足りていないのだ。だが確実に、一歩ずつレナエルへ近づいていく。
咢が開かれる。灼熱の吐息がレナエルの金髪を跳ね上げた。
胃が締め上げられ、胸が詰まる。いくら常に戦場に身を置くレナエルといえど、竜の咢に身を晒しては緊張せざるを得ない。それを恐怖と呼ばないのは、せめてもの矜持だ。
まだなの――!?
レナエルは待っていた。仕掛けが発動するその瞬間を。奇跡が噴き出すその時を――。
不意にレナエルの頬を、あり得るはずのない物が撫でる。冷気だ。杭のような牙の隙間から、死の闇が蟠る咢の奥から、白く細い冷気が流れ出ていた。
「トニス! アーリィ!」
どこからか飛来したナイフと矢が、レナエルの手足を縛っていた縄を断ち切った。自由になった手首をかえして、レナエルがくるりと剣を回す。
「目覚めよ(アウェイクン)!」
眼前に真っ直ぐに立てた剣身から光が溢れ、目を眩まされた竜が唸りながら後退る。いつの間にか炎は消え、その身体には仄かに白い霜が降りていた。
目覚めたばかりの竜は気が付けない。自分が今、どのような状況にあるのかを。
「汝は光の園。捕縛する鎖。輝ける死の苗床。煌めき、閃き、崩落する涙の山岳」
奇跡には派手な演出が必要だ。それこそ、神すらも騙してしまうような演出が。
全ては整った。
悪夢よ、凍り付け。
「満ちよ天光。凄烈なる汝が力を以って、我らの敵を那由多に熔かせ――。グリントソーン!!」
光が炸裂し、全てが白く塗りつぶされた。天から降り注いだ光の鎖が竜を打ち据え、突き抜けた。拡散した雷は、舞台を飾る布や花々を一瞬で消し炭にした。
やがて色を取り戻した世界の中で人々が目にしたものは、グリントソーンを天高く掲げるレナエルと――、氷の彫像と化した竜の姿だった。
〝フルーレラットの氷結薬〟。それが竜の遺骸の各部に忍ばせた、魔法薬の名だ。
竜が身体を動かすとガラス管が割れ、氷結薬はその体内で徐々に混ざり合った。そして光と共に爆発的に熱を奪い去ったのだ。外界の草原でバング・ウルフの群れを葬り去ったように。
レナエルは氷結薬が竜の熱を奪い去るその刹那に、グリントソーンの閃光を重ねた。レナエルがその奇跡を呼び寄せたのだと、人々に錯覚させるために。
しかし、氷結薬の反応は一瞬だ。蚊の目玉を掘るような難しいタイミングだったが、一度見た事があるのが幸いしたのだろう。見事、レナエルの指は奇跡を手繰り寄せた。
アベルたちが竜の遺骸に仕込んだのはフルーレラットの氷結薬だけではない。手足や翼の先には剣を埋め込んでいた。金属がグリントソーンの雷を逃すという事は既に知っていた。金属を遺骸の末端に仕込む事によって雷の逃げ道を作り、雷撃が生み出す熱で氷結薬の反応が阻害される事を防いだのだ。
かくして奇跡は成った。
悪夢は去り、後に残るは凍りついた光の粒が煌めく、眩しい世界。
人々はそこに神の姿を見た。
高潔で、慈悲深く、力強き奇跡の担い手。
光に包まれて剣を掲げるレナエルの姿は、まさに神の御使いに見えたに違いない。
「奇跡だ――」
不意に誰かが口を開いた。言葉は波となり、全く間に広がっていく。その様子を見下ろし、わなわなと震える人影があった。
「何が起きた。なぜ、氷漬けになど」
「神の奇跡、と言えば信じて頂けますか?」
観覧席の上で呆然とする総主教へ、背後から声が掛けられる。振り向こうとする総主教の動きを、喉元に当てられた短剣の刃が縫い付けた。
「何者だ。などと、問うても仕方が無かろうな」
野良犬め、と総主教は小さく鼻を鳴らす。
「護衛の騎士たちはどうした。まさか噛みついてはおるまいな」
「彼らなら、夢を見ている最中ですよ」
観覧席の警護をしていた聖堂騎士たちは何かに怯えるように蹲っていたり、殴り合いをしている者まで居た。総主教の護衛の聖堂騎士たちは、ファンタズマによる恐怖の幻惑に捕らわれているのだ。
「魔術の類か。して、どのような要件だ、無礼な犬よ。餌をねだりに来たわけではあるまい」
「簡単なお願いです。どうか、このままお帰りください」
総主教は片眉を上げ、ほう、小さく声を漏らす。
神の加護をその身に受けているはずのアズガルドが竜に喰われ、レナエルがそれを神の奇跡によって打ち倒した。その様子を間近で見ていたはずのイマルタル聖堂会の総主教が何も言わずにこの場から立ち去れば、民衆の目には、総主教が竜に恐れをなして逃げ出したように映るだろう。
そうなればランダルマにおける聖堂会の権威は大きく失墜し、たとえレナエルがランダルマを実効支配したとしても、先に逃げ出した聖堂会が後から異を唱えることは難しくなる。
ランダルマは、レナエルの手に陥ちるのだ。
「この街を簒奪しようと言うのか。神の御力の象徴たる、人界線を抱えるこの街を」
そうだ。この街には人界線がある。それは女神イマルタルが人類を救うために作り上げた最高にして最大の奇跡である。そのランダルマを奪われてしまっては、イマルタル聖堂会は宙に放り出された魚も当然だ。
総主教は沈黙する。慌てる事も無く、静かに黙考する。
護衛を無力化され、首に短剣を当てられて、どうしてそこまで冷静でいられるのか。それは決して殺されることは無いと解っているからだ。立ち去ったのと暗殺されたのでは、話がまるで違ってくる。総主教の血は、氷結の奇跡に影を落とす事になるだろう。
その時、どこからか一際大きな声が響いた。それはレナエルを〝聖女〟と讃える賛美だった。
「ふむ、聖女……か」総主教が呟く。「野良犬。私がこのような小さな刃一つで言いなりになると、本当に思っているのか」
「思いませんね。しかし貴方は、頷かざるを得ない」
アベルは一枚の羊皮紙を取り出す。それを総主教の目の前で開く前に、不意に声が上がる。
「天使の角、か?」
刃がびくりと震える。
「……ご存知だったのですか」
苦い顔をするアベルとは対照的に、総主教はくつくつと喉を揺らす。
「聖堂会は魔霊星などという、戦争の種にしかならぬ代物の専売権利を狙い続けるような組織だぞ? 我々がパンと葡萄酒だけで生きていると思っていたのか」
迂闊だった。アベルは読み違えていた。神の威光の上に寝転がるのは、アズガルドだけだと思い込んでいた。しかし、そうではなかったらしい。
総主教の態度から察するに、アズガルドの行っていた〝薬物を使用した奇跡の偽造〟程度は、聖堂会にとっては日常茶飯事なのだろう。聖堂会が酒樽に泥水を混ぜるような行為をしている事を告発したとしても、彼らは〝それは悪魔の仕業だ〟と言い張るに違いない。そしてそれは、容易にまかり通る事を知っている。
「神の威光とは、麦畑のようなものだ。実る景色は美しいが、そのままでは腹を満たすことはできぬ」総主教が言う。「アズガルドは、あれで優秀な男だったのだ。境界都市、人類の最前線というこの街で、あやつは上手く立ち回っていた」
「悪魔の技で、人々を惑わせていただけだ」
「なにが違う。貴様らも今まさに、謀ろうとしているではないか。神の奇跡を騙って、な」
違う。そう言おうとして、アベルは言葉を詰まらせた。
「だが、そうだな。アズガルドはやり過ぎた。私腹を肥やす程度で満足しておれば良いものを、あやつはあちこちの貴族にまで天使の角を売りつけ始めた。麦粉に砂を混ぜる行為は、大罪だ」
そう言うと、総主教はアベルの腕を押しのけて一歩踏み出した。観覧席の淵に立ち、人々に姿を晒す。
「何を――」
「貴様らには感謝せねばならんな。手間が省けた」
総主教がゆっくりと腕を広げる。すると、どうだろう。ただの一言も発していないというのに、レナエルへ向いていた人々の視線が、徐々に総主教へ集まり始めた。
誰もが振り返り、枯れ木のような身体を法衣に包んだ総主教を食い入るように見つめている。まるで、次なる奇跡を期待するように。
「今ここに、裁きは下された」
高らかに声が響く。張り上げている訳でもないのに、総主教の声は太陽が引っ張り上げているかのように天高く伸び、耳と心に染みこんでくる。
まずい――。
予感に背筋が震えた。
全てをひっくり返される。
アベルは踏み出そうとして、動けなかった。姿を晒してどうする。今更どうすると言うのだ。
奇跡を操る事に関しては、あちらの方が一枚も二枚も上手だったという事だ。
「教区長アズガルドは、悪魔に心を操られていた。邪悪なる術で貴方たちを誑かし、地獄の門をくぐらせようとしていた」
どよめきが広がる。神の代理人と謳われたアズガルドが、総主教直々に異端認定されてしまったのだ。動揺しないはずはない。
「私はアズガルドが、どれだけ神を愛しているかを知っていた。彼は素晴らしき神の僕であり、そして貴方たちの良き父であった。必ずや悪魔の誘惑を振りほどき、再び光の元へ戻ってくると信じていた。故に、私は彼の裁きを神に託すことにした」
総主教は広げていた両腕を、ゆっくりと前に差し出す。
「かくして裁きは下された。憐れにも、アズガルドの魂はどうしようもなく穢されていたのだ。神の奇跡はアズガルドでは無く、彼が魔女とした少女をお救いになった。我らが女神イマルタルはあの少女、リンスティール王国第八王女、レオノーラ・リンスティールに力を与え、御座へ迎え入れたのだ」
人々が感嘆の声を上げる。奇跡を目の当たりにし、総主教がそれを真に神の力によってもたらされた物であると認定した。その場に居合わせる事ができるなど、途方もない幸運だ。
「我らイマルタル聖堂会は彼女の聖性を認め、聖者の列に名を刻む。イマルタル聖堂会第五十六代総主教トーレ・ベッティオの名において、レオノーラ・リンスティールを、聖女と認定する!!」
アベルは、大地が爆発したのかと思った。
人々の興奮が炸裂し、神と総主教、そしてレナエルを賛美する言葉を叫んでいる。
「やられた――」
アベルは愕然としていた。
アズガルドの不正の全ては、悪魔という実態の無い第三者に擦り付けられた。もはや追求は難しい。総主教がこうまであっさりと、アズガルドの名誉と尊厳を足蹴にするとは考えてもいなかった。
そして、レナエルの聖女認定だ。
聖女。それは総主教のみが認定する事のできる神の現身、奇跡の担い手だ。聖堂会内の通常の序列とは別枠になるが、その一挙手一投足に神の権威が纏わりつき、その姿に皆は等しく首を垂れる。神の現身、または神の化身とも謳われる聖女の影響力は大きく、総主教に匹敵するとまでいわれている。その聖女が審問会も無しに総主教の一存だけで認定される事は、大変に稀であった。アズガルド亡き今、ランダルマの信仰の象徴は、聖女たるレナエルに移ったのだ。
探索者組合は竜を打ち倒し、ランダルマを救ったレナエルに対して頭が上がらない。その上でランダルマから聖堂会を追い出せば、この街はレナエル〝個人〟の手に陥ちるはずだった。
だがレナエルが聖女にされてしまっては、話が違ってくる。ランダルマを聖堂会の支配から脱却させることは不可能だ。レナエルが聖堂会に取り込まれてしまっては、まるで意味が無い。
この状況を、レナエルはどうするのか。
「――謹んで」
涼風のような声が響く。
どうもこうも無いのだ。聖女の認定を辞すれば、レナエルはとたんに異端となり、魔女とされてしまう。総主教の言葉を受けいれるしかないのだ。聖堂会と敵対することは構わないのだが、それでは民衆の心が離れてしまう。
「謹んで総主教どの。このレオノーラ・リンスティール。聖女の名に恥じぬよう、女神イマルタルの威光を世に示し、人々を正しく神の国へ導く事を、ここに誓います」
再び歓声が上がる。総主教はアベルへ向き直り、救いを振りまくような笑みを見せた。
「良き働きであった、聖女の犬よ。竜の魔霊星は後で回収させる。汚い手で触れるでないぞ」
アベルは総主教を睨み返す。奥歯がギシリと音を立てた。
細い足を踏みだし、総主教がアベルの隣を通り過ぎようとする。
その足が、背後で上がった声に凍りついた。
「聞け、神の子らよ! 女神イマルタルの言葉を伝える!!」
「……はっ!?」
総主教が弾かれた様に振り返る。あまりに勢いよく振り返る物だから、身体が折れるのではないかとアベルは思った。
「人よ! 人界線を越えよ!!」
瞬間、何もかもが凍りついた。
神の言葉というレナエルの魔法薬に、誰の心も捕らわれていた。
「はっ――。はぁぁぁぁ!?」
呪縛を真っ先に振り払ったのは総主教だった。駆け出し、観覧席の淵から飛び降りんばかりに身を乗り出す。
「魔獣どもとの戦いから数百年、我らは神が創りし人界線に守られ、育まれ、歴史と文明を紡いできた。しかし、今の我々はどうだ!? 小さな土地を奪い合い、僅かな金貨を巡って刃を突き立てあう!!」
レナエルの声が響く。
「なぜ我々は共食いを繰り返す獣に成り果ててしまったのか!? それは神の威光が薄れてしまったからではない! 我々が強くなり過ぎたのだ、自身の力を持て余す程に! 見よ!!」
腕を振り上げ、レナエルは背後に佇む竜の氷像を示す。
「伝説の中の伝説。魔獣の中の魔獣。邪悪の化身たる竜ですら、神の祝福を受けし我らに敵うものではない! もはや何を恐れる事があろう。木立の陰に潜む者に、怯える日々は去ったのだ。人よ、人界線を越えよ! 旅立ちの時は来た。まだ見ぬ大地に足跡を残せ。新たな世界を切り開け!! 進め! 進め! 突き進め!!」
「や、やめろ。それ以上は――!!」
総主教は身体を震えさせている。今、何もかもが打ち壊されようとしている。
だが、もう止められない。今しがた奇跡を認めたその口で、レナエルの発する神の言葉を否定する事などできない。
アベルもまた震わせていた。身体では無く、心をだ。
新たな時代の幕開けを感じていた。
「人類の限界点は、我々人類こそが決める物。神の箱庭で惰眠を貪る時代はもはや過ぎた。この世に生きる全ての人類に告げる! 目を開け! 明日へ踏み出せ! 思うように扉を開き、未知なる世界に我らの旗を打ち立てよ! 我々が、我々こそが新たな人界線を築きあげるのだ! イマルタル聖堂会は女神イマルタルの意志に基づき人界線、人界門に関する全ての権利、及びランダルマにおける全権を放棄する! 今、ここに!!」
レナエルが剣を高く掲げ、天を刺す。
「人類の解放を宣言する!!」




