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対火竜戦 ②

 初めに見えたのは炎だった。ゆらゆらと揺らめく赤い炎。木の枝が音を立てて爆ぜ、火の粉がちらりと舞った。洞窟の岩壁は炎が揺れるたびに影が躍り、まるで生き物の内臓が蠕動しているかのようだ。


 眼を開いていないのに景色が見えるような不確かな感覚。身体を包むふわりとした浮遊感。これは夢だ、とアベルは思った。

 焚火の向こうで人影が蠢く。服は泥と、(にかわ)のように固まった赤黒い血液で(けが)れている。左目を覆うように巻きつけられた布には、滲みだした血液が斑模様を作り出していた。一見すれば傷病兵のようだが、その人影はまだ幼い少女のものだった。

 あれは、そうだ。子供の頃のレナエルだ。

 なぜそうだと思えるのかは、アベル自身にも解らない。だが焚火の前で力なく横たわる少女は間違いなくレナエル・ルクレールこと、リンスティール王国の第八王女レオノーラ・リンスティールその人であった。


 瞬間、不意に理解した。そうだ、自分は知っているのだ。この光景を知っている。

 これは夢ではない――。これは、過去の記憶だ。


 失われていた過去の記憶を思い出すというのは、とても奇妙な感覚だった。他人の頭の中を覗き見ているようだ。間違いなく、自分の物であるはずなのに。

 少女はうなされていた。傷が痛むのだろう。左目はもはや機能を失っていた。そのまま放っておいても眼球が腐るだけなので取り出さなければならないが、何の道具も無いこの状況では、それも叶わない。

 せめて、薬があれば。ほんの少しで良い。痛み止めの薬があれば、彼女の苦しみを和らげることができるのに。


「寒い……」

 レナエルがか細く呟く。追手から身を隠すために身を潜めた洞穴に夜風は入ってこない。それでも彼女が震えるのは、血液が足りていないためか。

 記憶の中の自分が外套を脱ぎ、汚れていますが、と一言添えてレナエルの身体に被せた。その手首をレナエルが掴む。

 何事かと視線を向けると、レナエルは不満そうに眼を細めて「足りない」と言ってアベルの胸に頭を乗せた。

 彼女の頬に指を乗せて驚いた。まるで氷の様だったのだ。初めは恐る恐る、そしてこれは必要な事なのだと自分に言い聞かせ、細い身体を抱きよせた。レナエルへ、体温が伝わっていくのが解る。


 襲撃を受けたレナエルの元へたどり着いたアベルが見た物は、地獄そのものだった。

 護衛の騎士は全滅し、裂かれた喉が大口を開けていた。凌辱されたと思わしき全裸の侍女は胸に短剣を突き立て、神に祈るように身体を丸めて事切れていた。自害したのだろう。

 他にも、辺りには焼け焦げた死体が散乱していた。衣服ごと焼け焦げ、性別の判断もつかない。馬車は焼崩れ、端に炎を灯した木片が散乱している。一体ここで何が起こったのだ。得体の知れない恐怖に、アベルは喉に石を詰められたような気がした。


 刃のぶつかり合う音を聞いたのはその時だった。向かったアベルの目に、全身を刻まれたレナエルの真っ赤な姿が映る。黒衣の男が、漆黒に塗られた二本の短剣で斬りかかっている。

不利は明らかだった。レナエルは左目を深く裂かれ、多量の出血で足元もおぼつかない。対する黒衣の男は薄ら笑いを浮かべていた。

 アベルは横合いから割って入り、男の前に立ちはだかる。激しい打ち合いの末、レナエルの手にした剣により呼び出された天の鎖に打ち据えられた男は、炎に呑まれて川に落ちた。

 ここで何があったのか。その剣は何なのか。聞きたい事は山ほどあったが、とにかくここを離れなければならない。アベルは動けないレナエルの肩を抱え、転がるようにしてこの洞穴に身を隠したのだ。

 最低限の装備は常に身に着けている。だが、高価な薬品などは望むべくも無かった。地を這う最低階級のアベルには、どう転んでも手の届く物では無い。


「おなか」不意にレナエルが口を開く。「お腹すいた」

「……こんな物しか、ないけれど」

 そう言って、アベルは木の板のように堅焼きしたパンを割って差し出す。しかしレナエルは受け取らず、雛鳥のように口を開くばかりだ。アベルは板パンを更に小さく割って、口に放り込んでやる。

「……水」レナエルが言う。

 水筒を口に付けてやる。レナエルの喉が動いた。パンを水でふやかし、ようやく飲み込めたようだ。まずいな、と思った。かなり弱っている。

「……大丈夫なのか」

「全然大丈夫じゃねーわよ。痛くて吐きそうだし、気を失いそうなくらい眠いのに、眠れる気配もないし」

 レナエルはおどけた様に言うが、傷は相当に深い。治療を急がなければならない。しかし、どこへ向かえばいいのか解らない。


 あの黒衣の男は明らかに殺しを生業とする類の人間だった。つまり、雇った人間がいるはずだ。頼る先を間違えれば、行き着く先は冷たい土の下だ。

 街に向かうのが早いが、恐らくは待ち伏せをされているだろう。来た道を引き返すのが良いだろうか。屋敷でもとりあえずの治療はできるはずだ。少なくとも、こんな洞穴よりはずっと良い。しかし動きを先読みして、待ち伏せでもされていたら――。

 口の中に鉄の味が広がった。唇を噛み破ってしまったのだった。それで初めて、自分が悔しがっている事に気が付いた。

 一度気が付くと止まらない。身を焼くような後悔と情けなさに震えてきた。

 なぜ、無理やりにでも付いていかなかったのか。たるんでいた。油断していた。不意に与えられた平穏があまりに心地よくて、自分の存在価値を忘れていたのだ。

いや、勘違いしていたといった方が正しい。自分はあくまで、一枚の使い捨ての盾のはずだったのに。盾は無傷で、主だけが傷ついた。そんな事が許されて良いはずがない。


「しょんぼりしてんじゃねーわよ。この程度で死んだりしないわ」

 アベルの感情を察したのか、レナエルが微笑む。痛み歪んだ、無理やり引きずり出したような笑顔だった。

レナエルがアベルの胸に顔を埋め、「神様って、本当に居るのかしらね」と呟いた。

「……さあな。少なくとも、ここにはいない」

「やっぱり、外界に居るんじゃないかと思うのよ」

「どうして」

「だって、人界線は神がお作りになったのでしょう? こちらではないのなら、あちらに居ると思うのが普通じゃない?」

 何の根拠も無い、とアベルは思ったが、否定する事もできない。手の届かない存在は手の届かない場所に居る、というのは良くある考え方だ。大抵の場合、神は空の向こうに置かれるものだが、なるほど、人界線の向こう側だって手が届かないという点では一緒だ。


「もしかしたら神様は近くにいて、俺達がそれと気が付かないだけかも知れないぞ。神が像と同じ姿をしているとは限らない」

「そうだとしたら、余計に性質が悪いわね。救いもせず、赦しもせず、崇めるだけ崇めさせて後は放置。なんにせよ、一発殴ってやらないと気が済まないわ」

 思わず口元が歪む。どれだけ弱っていても、やはりレナエルはレナエルだ。この世の全ては手のひらに収まると信じて疑わない。手を伸ばせば、何でも掴めるのだと信じている。彼女にとっては、神様もいけ好かない小役人も変わりはしない。

「……私、行ってみたいのよね」

「うん?」

「外界よ。何があるのか解らない未知の世界。憧れるわ」

「そんなに良い物じゃないと思うがね。危険ばかりだ」

 アベルの言葉に、呆れた様にレナエルが笑う。

「なら、問題ないわ。自由があるだけ、外界の方がマシかも知れないわね」

 魔獣が人間を襲う理由は単純だが、人が人を害する理由は複雑極まる。どちらの方が危険であるか、などという事は考えるだけ無駄だ。そもそも、レナエルは狭い箱の中で大人しくして居られる性質ではない。未知なる外界に憧れるのは当然と思えた。


「テランス兄様とね、よくお話しをするの。いつか、外界を旅してみようって」

「神様を殴るためにか」

「それも良いわね」レナエルの肩が小刻みに揺れる。「その時は、アベルも一緒に来なさい」

「そうしたい所だがな、多分無理だ。レナエルを屋敷に送り届けた後、俺は処刑されるだろう」

 主を守れない盾に価値は無い。斬首か吊るし首か、酌量の余地は万が一にもない。

「逃げれば良いわ。仕事が見つかれなければ、野盗でも何でも良いわよ」

「本気か?」

王女の口から野盗になれ、などという言葉を聞く日が来るとは思わなかった。流石に冗談と思い、アベルは笑い声を零す。

「リンスティールで元暗殺者が就ける仕事なんて、裏側しかないでしょ」

「それは、そうだけど……」

 主を狙う暗殺者を殺す為の暗殺者。もとより裏の世界に生きる人間が行き着く先は、闇の中か土の下くらいしかない。

「生きてさえいてくれればそれで良い。全ての賊を狩りつくしてでも見つけ出してあげるわ。安心なさい。他の誰かの手に落ちる前に、私がとっ捕まえてあげるから」

 言葉を失った。恐らくレナエルは本気だろうと思えたからだ。どれだけ馬鹿げていようとも、この王女様は実行して見せるに違いない。

「そこまで言われたら、断れないな」

「約束よ? 忘れていたら承知しないからね」

「ああ、約束だ。お迎えをお待ちしておりますよ、俺のナイト様」


 ――そうだ、思い出した。


 他人事のようだった過去の記憶が、胸に綺麗に収まっていくのを感じた。

 アベルはその後、レナエルを送り届け、そして牢に投獄された。処刑寸前という所でレナエルの計らいで脱獄し、追手から逃げている最中に崖から転落。この時の怪我が原因で記憶と生殖機能を失ったのだと思われた。アベルは記憶を失いながらも、外界という言葉に強い何かを感じて境界都市ランダルマを目指した。そしてアルケミストである師匠に拾われ、魔法薬を扱う修行を積んだのだ。薬という物に惹かれたのも、この時の経験を頭のどこかで覚えていたせいかもしれない。

 そう。約束だ。

 遠い日に交わした二人の約束。レナエルはその為に鮮血王女となり、アベルは記憶を失いながらも外界を目指した。

 二人は徹底的にすれ違った。無理もない、アベルはリンスティールを離れていたのだ。一向に見つからないアベルに、レナエルは相当に気を揉んだに違いない。そして恐らくは国外にまで目と耳を向けて、ランダルマにアベルの影を見つけたのだ。


 瞼の裏に光を感じた。薄く瞳を開ける。砕けた石の天井から陽光が細く差し込んでいた。

「――約束、か」

 リンスティール王国の第八王女様は破天荒で、奔放で、そして人並み以上に律儀だ。まったく笑えてくる。何年たっても、レナエルはあの幼き頃と何も変わっていない。それが何より有難かった。嬉しかった。自分には何も無いと思っていた。覚えていたのは名前だけ。他の物などありはしないのだと諦めていた。だが、違った。

 こんなにも。こんなにも自分を求めてくれる人が居たのだ。アベルにはその事が嬉しくてたまらなかった。


 不思議な気分だ。竜の一撃で奈落の底に落とされ、絶望してもおかしくない状況。だというのに、身体の底から力が湧いて溢れ出しそうだ。これほど冴えた気分はいつ以来だろう。生まれて初めてかも知れない。文字通り、生まれ変わった気持だった。

「しっかし、追手に追い落とされて記憶を失い、竜に落とされて記憶を取り戻すって……」

 我ながら数奇な人生だ。レナエルなら「退屈よりはよっぽど良いわ」と笑い飛ばすだろうが。


 手に草の感触があった。気が付けば、身体にシダ植物が豪快に絡み付いている。対陰性の植物という奴だろうか。ともあれ、アベルはその植物に助けられたらしかった。おかげでどこかに打ち付けたらしい後頭部が痛む以外には、目立った外傷もない。

 これを神の御加護だと喜びはしない。神はレナエルと一発殴る約束だ。

 草のベッドに身体を預けたまま、これからどうするかを考える。


 竜は神ではない。殺せば死ぬ、ただの生物だ。付け入る隙はあるはずだ。

 そう考えると、腑に落ちない点が出てくる。竜が纏う熱量だ。あれはどこから生み出されている? あれほどの熱量が理由も無く現れるわけがない。

 奇跡のような魔法も、発動には詠唱と触媒、そして魔霊星という燃料が必要になる。では、竜が体現する炎と再生の奇跡に用いられる燃料はなんだ。

 普通に考えれば、食事から得ているという事になるだろうか。しかし竜は殆ど食事をしない。


「……食事程度では、賄えないとしたら?」

 思いつきをそのまま口にする。思考の欠片が一つの形を作り始める予感があった。

 あの熱量を発する為に必要な獲物の数はどれほどだ? あれほどの翼を持ちながら、領土拡大という野望を持ちながら、なぜ竜は火山を離れない? 簡単だ、離れられないのだ。常識を軽く凌駕した竜の生命活動には、火山の発する熱量が必要不可欠なのではないか?

 そうだ、竜の炎と再生は無限ではない。松明がいつか燃え尽きるように、竜も決して不滅ではない。あれ程の力を持ちながらこの世の頂きに竜が君臨していないのは、その生息条件が余りにも限定的な為ではないのか。

 何とかして竜を地上に釘づけにして熱を奪い切れば、あるいは。――いや、違う。まだ足りない。まだ自分は物事を正しく認識できていない。


 この世の全てはこの手に収まるのだ。アルケミストの遺した偉業を見るが良い。魔術、魔装具、魔法薬。途方もないと思えるそれらも、仕組みを知ってしまえばただの技術だ。

 不可能と思えるような事も、見方や手段を変えれば、意外と簡単にこなせたりするものだ。それは竜の討伐も変わらないはずだ。

 書物や過去の英雄伝から竜を倒す方法を探しているから、見つからないのだ。誰も考えた事の無いような、それでいて一度気が付いてしまえば「ああ、なんだそんな事か」と思えるような手段があるはずなのだ。


 竜はただの生物だ。生物を殺すにはどうすれば良い? 斬殺、刺殺、射殺、殴殺……。

 不意に、レナエルの言葉が脳裏に響く。魔霊星に手を出さずに生命活動を停止させる、何か。

 アベルは顔を跳ね上げる。そうだ。極端に乱暴な言い方をすれば、竜もただのデカいトカゲだ。人はどうしても直面した問題を大きく見すぎる。人を恐怖させるのは、いつだって人間自身の想像力だ。

 どこまで通用するかは解らない。しかし試してみる価値はありそうだ。アベルは腰に下げた荷物の一つに指を這わせた。


 その時、瓦礫の崩れる音がした。そちらに目を向けると、開いた隙間から一人の男が顔を覗かせていた。

「居たぞ! こっちも無事みたいだ!」

 おや、と思う。アベルにはその顔に見覚えがあった。そうだ、あれは確か遠征隊の〝地元じゃ有名〟君じゃないのか。

 更に数人の男たちが現れ、瓦礫が次々に取り払われていく。人ごみの中からトニスが現れ、アベルの手を引いて地面に立たせる。

「俺を迎えに来るのは、レナエルだと思っていた」

「逆じゃねぇの、それ」

 苦労して見つけだしたのに礼も無しかよ、とトニスが唇を尖らせる。帰ったら一杯奢らせて貰うよ、と言ったらとある高級酒の名前が出てきた。残念ながら、それはレナエルに割られて床の染みになった。


「レナエルたちは無事なのか」

「ああ、この先に開けた場所がある。そこでこいつらに傷の手当てをして貰っている」トニスは遠征隊の生き残りたちに目を向ける。「ただ、アーリィは……」

 トニスが顔を顰め、目を背ける。

「おい、冗談だろ」血の気が引いた。あの殺しても死ななそうな悪戯猫が?


「あっれぇー? アベルン、もしかして心配してくれているんですかぁー?」

 背後から首筋を撫でられ、アベルは思わず飛び上がった。

「人一倍元気だ。どういう訳か、こいつだけ無傷でな。うるさくて堪んねぇぜ」トニスが吐き捨てるように言う。

 くすくすと笑いながら上目づかいで見つめてくるアーリィを見て、〝金輪際こいつの心配なぞするものか〟と、アベルは胸に誓った。


「んで、どうするよアルケミストの末裔さん。勝てるのか、あんな化け物に」

 トニスの言葉に、アベルは嗤って見せる。

「この世の全ては手に収まる。まずは合流しよう。話したい事がある」

「なんだそりゃ。どういう――」


「決まっているだろ。反撃開始だ」

 

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