禁足地へ①
翌日の早朝、アベルたちは隠れ里へと続く洞窟の入り口に立っていた。朝靄に包まれた、ひんやりとした空気の中でアベルは大きく息をつく。ここを発てば、もう後には戻れない。
たった六人で竜を倒す。実際に言葉にしてみると、なんと馬鹿げた話だろうと自分でも思う。
だが、竜の討伐はいずれ、通らなければならない道だ。夢の為に命を張る、その機会に恵まれただけでも望外の幸運と呼ぶべきか。一生のうちに竜と巡り合える人間が、果たしてどれだけいるだろう。
「辛気臭い顔をするな。こちらの気分まで滅入ってくる」リズがアベルへ声をかける。「お前が言い出したことだろう。ならばせめて、堂々としていたらどうだ」
返す言葉も無い。
「自分の目的の為にあんた達を利用している、という自覚はある。それについては、申し訳ないと思っている」
アベルは謝罪の言葉を口にするが、リズは呆れたようにため息をついた。
「お前の目的など知らん。お前はこの状況を打破する案を示し、姫様はそれに頷いた。それだけだ」
「リズは否定的だったじゃないか」
「私の意見など、それこそどうでも良い。姫様がやると言った、ならばそれに従うだけだ」
「しかし、分の悪い賭けだ」
「……お前は本当に解っていないな」リズは半目でアベルを睨みつける。「勝てそうだから戦うとか、負けそうだから逃げるとか、騎士とはそういうものではないのだ。人々を脅かす敵が居て、主がそれを倒せと言えば、たとえ相手が神であろうともこの槍を振るう。騎士とはそうあるべきだし、私はそう覚悟をして生きてきた。気遣いは、むしろ無礼というものだ」
アベルはまたも返す言葉を見失う。発案者のくせに、覚悟が足りなかったのは自分の方だった。自身の不安を他人に擦り付けていただけだ。ばつの悪さを通り越して恥ずかしくなった。
表情を曇らせるアベルを見て、リズは慌てたように言う。
「しょ、しょげる事は無いだろう。お前は騎士ではない、考え方が違って当たり前だ。責めているつもりはない」
リズはまくし立てるようにそう言い、踵を返して荷物の点検をしているギリアムたちの元へ歩いていく。途中で不意に振り返り、アベルへ指を突きだす。
「今度また辛気臭い面をしていたら、張り倒すからな」
そう言い放つと、リズは今度こそ立ち去った。どうやら彼女なりの激励であったらしい。不器用な優しさになんだか可笑しくなって、アベルは小さく噴き出す。緊張と不安が、薄れゆく朝靄と共に消えていった。
荷物の確認も済み、そろそろという所で背後から「お前たち」と声をかけられた。見れば洞窟から顔役が出てくるところだった。隣にはトモキとリンコも居る。
「悪いな、アベル。本当は俺も付いていきたい所なんだが」トモキが眉根を寄せる。
「気にするなよ。竜の討伐はこちらにとっても必要な事だし、トモキはここを守らないといけないだろ。しっかり頼んだぞ」
「……ふん、言われるまでもねぇや」そう言って二人は笑いあった。
「顔役さん」レナエルが一歩進み出て、深々と頭を下げる。「旅装の手配、本当にありがとうございます。そちらも色々と物が不足しているのに……」
レナエルに続いて頭を下げる面々に、顔役は鼻を鳴らす。
「およしよ。命を張って貰うんだ、全然足りないくらいさ」
アベルたちの荷物は、端材を組み合わせた急ごしらえの荷車に積まれている。積荷の内容は防寒用の毛皮や食料品などだ。荷物が減れば荷車は火にくべて夜を過ごす為の燃料とする。
それでは、とアベルたちは森へと向かっていく。その背中に「アベル」と、ずっと思いつめた様な表情をしていたリンコの声がかかる。
アベルが振り返ると、リンコは何かを言いかけてやめる仕草を何度か繰り返しながら、そして考え込むように黙り込む。やがて「死ぬんじゃ、ないわよ」と、絞り出すような声で言った。
アベルは片手をあげて応えながら、朝霧の中へと消えていく。
その背中を、リンコの黒い瞳がじっと見つめていた。
一行は森の中の道を進んでいく。過去に聖堂会が禁足地へ繋がる道を整備したものだ。おそらくは収穫した天使の角を運搬するために、アズガルドが造らせた道路であるのだろう。先頭にリズとトニス、後ろにレナエル。更に後ろではギリアムが荷車を引き、殿はアーリィが務めている。
そしてアベルはというと、隊列の真ん中でレナエルの隣を歩きながら、とある書物を読みふけっていた。顔役から借り受けた、竜の情報を記した例の書物だ。
警戒を他人に任せて移動中に本を読むなど、とリズは反発していた。しかし竜はいつ隠れ里やランダルマへ牙を向けるか知れない。行動を起こすのは隠れ里でのんびりと書物を読み終えてから、などという時間は無い。
書物は〝日本語〟と言う言語で書かれており、一行の中でその書物を読み解けるのはアベルのみであった。
アベルや顔役のいう所によれば、日本語は異世界の言葉の中でも異質な存在なのだという。
まず基本的に、全く形の異なる三つの文字が入り混じる。そして同じ発音であるのに前後の文によって意味の変わる単語が無数にあり、時には文中に、平然と別種の言葉を用いる事もある。
アベルたちの普段使う言葉とは根本的に考え方が異なる、実に難解で複雑な言語であった。アルケミストたちの遺す書物の多くはこの日本語で書かれており、それが知識の拡散を防いでいる一因でもある。
かく言うアベルも、初めてこの言語を目にした時は眩暈を覚えたものだ。
こちらの言語の習得が遅れた為に、転生者というアドバンテージを丸ごとふいにしたアルケミストの話を聞いた時は「馬鹿な。言葉一つ覚えるのにそんなに手間がかかる物か」と思った。
しかし、初めて〝日本語〟という言語を目にした時に、その考えはひっくり返った。なるほど、自分が逆の立場であったら絶望するしかない。しかもその転生者のもとには辞書も無ければ教師も居なかったのだ。数年も努力すれば日常会話くらいは何とかなるかも知れないが、それを活用して知識のやり取りをするという作業には、その言語に対する深い理解を必要とする。言語というものは、そう簡単に習得できるものではない。
「どう? 有用な情報はあるかしら」レナエルが首を伸ばして手元を覗き込んでくる。
「とりあえず、読んでいて面白い。竜の骨格、筋肉の付き方、内臓と各器官。毛の一本に至るまで調べつくしたって感じだ」
英雄伝でしか語られていなかった竜の全てが、この書物に収まっている。そう考えただけでアベルの胸は躍った。新たな知識はいつも彼を酔わせる。
レナエルは開かれたページに目を走らせ、苦い顔をして頭を振った。無理も無い。綴られているのは正真正銘、異世界の言語だ。一瞥しただけでも、戦闘一辺倒で生きて来た彼女の頭脳に、それなりのダメージを与えたに違いなかった。
「アベルが楽しいなら、それでいいわ……」レナエルが眉間を指で揉みながらぼやく。「それで、伝説に風穴を開ける手かがりは見つかりそう?」
「そうだな」アベルは素早くページを捲る。「まず骨格だ。翼竜系の骨は他の飛行性の魔獣と同じく、中が空洞だという事だ。つまり、衝撃に弱い」
「でもでも、竜は硬い鱗に守られているじゃないですか」
背後でアーリィが声を上げる。アベルは「ああ」と頷いた。
「鋼鉄の鑢で傷を付けられなかった、と記載されている。種族によって多少の差はあるらしいが、生半可な攻撃は通用しないだろう」
「問題ないな」今度は前方でリズが鼻を鳴らす。「どれだけ硬かろうと関係ない。砕けるまで叩くだけだ。アーリィの矢は鱗の隙間も正確に射貫くし、姫様のグリントソーンの前ではどんな鎧も意味を成さない」
「俺は俺は?」トニスが自分を指で示して言う。
「お前は……」リズはトニスを一瞥し、そして視線を泳がせる。「うん。期待しているよ」
「うーわ。冷てぇなぁ」と、トニスは乾いた笑い声を零しながら片眉を上げる。
「お前ら、重要な事を忘れてやしないか」ギリアムが無精髭の生えた顎を撫でる。「傷を負わせたところで、竜は再生するんだろう?」
アベルは唸る。ギリアムの言う通りだった。
竜だけが持つ、伝説を伝説たらしめる能力、再生。傷が早く治るなどと言うレベルの話ではない。頭を砕こうが、心臓を抉ろうが即座に蘇ってしまうのだ。そこをどうにかしない限りは、アベルたちに勝機は無い。
「確かに竜は不死だ。しかし不滅という訳では無い」アベルは手に持った書物に視線を落とす。
「英雄譚じゃあ、魔霊星を砕いて倒すのがお決まりだよな」トニスが言う。
「いやいや、それじゃあ駄目なんですって」そう反論するのはアーリィだ。「それじゃ〝計画〟が破綻しちゃいますって。そもそも、現段階じゃサラマンダーの魔霊星が、あの巨体のどこにあるのかも解らないんですから」
「その通りだ。だからこうして色々と調べている」書物をかざしながらアベルが言う。
「よろしく頼むわね。魔霊星に傷を付けずにサラマンダーを倒す方法を見つけないと、この計画そのものが成り立たないんだから」
アベルは頷いた。レナエルの言う通りだ。
アベルの立てた計画では〝二度〟竜を倒す必要がある。しかも、一度目では〝魔霊星を見つけ出して砕く〟という、英雄譚ではお決まりの手段を使う訳にはいかなかった。となれば、サラマンダーを倒すには魔霊星を砕かずしてその再生能力を奪う必要がある。比較的現実的と思えるのは魔霊星をサラマンダーの身体から切り離すというものだが、肝心の魔霊星が身体のどこにあるのか解らない。しかも魔霊星は硬い鱗と強靭な筋肉に守られているだろう。一筋縄ではいかないはずだ。
長期戦は望ましくない。アベルたちには何か別の手段が必要だった。魔霊星を傷つけずに、サラマンダーの再生能力を奪うという何かが。とりあえずは、手元の書物に望みを託すしか無かった。もし何も見つからなかったら、という思いが頭をもたげる。アベルは必死にその考えを振り払った。その時は正面から挑むだけだ。
覚悟は、決めたはずだ。
「それにしても、なんだこれは」
リズが眉根を寄せて自身の腰へ視線を向ける。そこには薄い金属で造られた筒があり、そこから白い煙が立ち昇っている。
「虫除けの香だよ。言っただろう?」アベルが応える。
「いやしかし、凄い匂いだぞ。魔獣に嗅ぎ付けられるのではないか?」
「向こうがその気なら、とっくに襲われているさ。むしろ、こちらから存在を主張することで、野生動物や敵対意志のない魔獣との遭遇が避けられる。かえって安全が増すくらいさ」
「解らんな。獣や魔獣より、虫を恐れるとは」
ぼやくリズの視線の先には、ギリアムの引く荷車がある。そこにはアベルが顔役に頼んで都合して貰った虫除けの香が大量に積まれていた。食料に匂いが移ったりしたら、たまったものでは無い。
不意に、アベルが手にする書物に小さな染みが生まれた。空をふり仰ぐと、アベルの頬を水滴が濡らす。
思わず舌打ちをする。「雨か……」
レナエルたちは外套のフードを目深に被る。アベルも大切な書物を濡らすわけには行かない、と書物をバックパックに押し込み、荷車へ視線を向ける。
雨を凌ぐために何か羽織りたいところだが、防寒具は一度荷解きをしないと取り出せない。用意をしておくべきだった、とアベルは心の中でもう一度舌打ちをした。
「良かったら入れてあげましょうかー? アベルンー」
笑いながら外套の裾をはためかせ、アーリィが妙なあだ名を口にする。アーリィたちが身に着ける外套は丈が長く、足首辺りまである。それを見たアベルに妙案が浮かぶ。
「じゃあ、お邪魔しようかな」
「……へっ? え、ちょ、わわわぁ!?」
アベルはアーリィに近づき、突然その身体を持ち上げた。小柄なアーリィは予想以上に軽く、簡単に抱え上げる事ができた。アベルはそのままアーリィを担ぎ、太腿の間から頭を出す。いわゆる肩車と言うやつだ。
「えっ、えぇ!? ア、アベルン!?」
「これなら、上半身は濡れないで済むだろ」
「そ、そういう問題じゃ……」アーリィは気恥ずかしそうに身をよじらせる。「アベルンがその気なら、私は別に良いですけど……」
「ん? すまん、良く聞こえん」
「なっ、何でもないですっ!」アーリィの褐色の頬にさっ、と赤みが差した。
ふとレナエルたちへ視線を向けると、絶句したような様子でアベルを見つめていた。アベルは「なんだ?」と首を傾げる。
「……知らない。勝手にすれば良いわ」
つい、と顔をそむけるレナエルの態度に、頭に浮かんだ疑問符は更に大きくなる。
酒でも飲みたい気分だった。そういえば、この数日はまともに口にしていない。野営地で数口飲んだ葡萄酒だけだ。これほど酒から遠ざかっていたのは、久しぶりの事だった。




