星天燃ゆ
アベルたちは屋敷の二階へと案内された。女性人三人はそれぞれ個室を、男どもは広い物置に揃って雑魚寝だ。まずは部屋の掃除から始めなければならなかったが、不満をいう者は居なかった。夜風を凌げる安全な寝床というだけでも十分過ぎる。
「さて、これからどうするか、だが――」
リズが口を開く。男部屋に集まったアベルたちは今後の行動方針について話し合う事にした。アベルたちは簡素な作りの椅子に腰かけ、粗末な作りの四角いテーブルを囲んでいる。部屋には焼けた砂のような埃の匂いが漂っていた。調度品らしきものは見当たらない。
「リンスティールに帰る、というのは無理だな」ギリアムが言う。
「そうですかねぇ。むしろ無理やにでも帰って、テランス王子を暗殺したのはライエル王子だー! って声を上げるのも良いのではないでしょうか」
「何の意味がある。いたずらに国を乱すだけじゃねぇか」
トニスの言葉に、レナエルとリズが重く頷く。
「なぁ。そのテランス王子が襲撃を受けた時、あんた達は何をしていたんだ? アーリィの魔装具があれば、そう負けはしないだろう」アベルが言う。
魔装具の力はまさに一騎当千。それを覆されたと言う事は、相手にも魔装具使いが居たと言う事だろうか。アベルの疑問に応えたのはリズだった。
「……姫様がランダルマへ発たれた直後から賊による農村への略奪被害が急激に増えた。不自然な程にな」
「賊? 主だった奴らは、あらかた掃除したと思っていたけれど」
レナエルが眉根を寄せる。
「私たちも、最初はどこぞの残党だと思っていたんですけれどねぇ。ある農村の救援に向かった、クリス・ハル子爵のラエゴ軽騎兵隊の小隊が全滅しまして。これはおかしいという事で、テランス王子の要請を受けて、私たちが直接出向く事にしたんですよぉ」
「ライエル王子に目立った動きは無かったんでね、下手に戦力を小出しにして長引かせるよりは、俺たちでさっさと片付けちまおうって考えだったようです」
アーリィとトニスが疲れたように言葉を吐き出す。
「しかし、それこそが奴らの狙いだった」
ギリアムの握りしめられた拳がギリッ、とテーブルの上で音を上げる。
「我々の隙を突く形で、敵は強襲を仕掛けてきました。連絡を受けた時には、もう――」
リズの声が冬の夜風のように吹き抜ける。
「……敵の情報は?」
「ズルカ。ズルカ公国ですよ、姫様」レナエルの言葉にギリアムが応える。「奴ら、ああ、くそっ! 奴ら、燃えるルーフォニア宮にズルカの旗を立てやがった! ちくしょう、馬鹿にしやがって!!」
ギリアムが握り拳でテーブルを叩く。少し間を置き、「……すみません」と、ギリアムが呟くように言う。
「ズルカ公国、ね。ライエル王子とコンタクトを取ろうとしていたのは、知っているけれど」
顎に指を当て、レナエルが眉根を寄せる。ズルカ公国とは〝公王〟と呼ばれる七人の大貴族に統治されている、特殊な国だ。リンスティールと国境を面する国家の一つでもある。ズルカ公国は大変に野心的な国家で、常に複数の国と戦争状態にある。
交通の要所であるリンスティール王国は、ズルカ公国の侵略から多くの国を守る〝門〟としての役割を担ってきた。その門が開け放たれれば、戦火は更に広がっていくだろう。
「ズルカとライエルが繋がっている、と考えるのが妥当でしょうね。ズルカの部隊を国境から引き入れたとして……、窓口はスキニッツ伯爵あたりかしら。彼がズルカの部隊が領地内を通り抜けることに目を瞑れば、ズルカはノルイエ山地を抜け、グル・ヴァニス地方を迂回してルーフォニア宮まで最短ルートで迫れるわ」
レナエルの言葉に、アーリィが頷く。
「ご明察ですねぇ、姫様。奴らも隠す気は無い様子で、捕らえた襲撃者を捻ったら、色々教えてくれましたよ」
アーリィが手首をクリッ、と返す。彼女が何をしたのか、アベルは考えないようにした。
スキニッツ伯爵の屋敷は、ランドルマに向かう道からあまり離れていない場所にあるという。レナエルの元へ急ぐ道すがら、アーリィとトニスで伯爵邸に侵入し、直接伯爵を締め上げて自白させたという事だった。騎士というよりは、暗部の人間のような仕事ぶりだった。
「知りえた情報は、それだけじゃない」トニスの視線がレナエルへ向けられる。「ライエル王子はイマルタル聖堂会ランダルマ教区長、アズガルドと共謀して、姫様の暗殺計画を進めているみたいでしてね。スキニッツはその連絡役でもあったようですぜ」
「どうにも付いていけないが、そのライエルってのを消してしまえば解決ではないのか」
「はぁ? 物騒ね。馬鹿じゃないの?」レナエルがアベルへ冷たい視線を向ける。「これ以上、王族どうしで殺しあっていたら国が成り立たないわよ。それに、そうなればズルカも焦れて黙っていないでしょう。恐らくは、リンスティールを呑み込もうとするでしょうね」
その後に待っているのは未曾有の大戦争だ。ズルカ公国はリンスティール王国の豊富な資金と魔霊星を始めとする物資を手に入れ、戦線を拡大する。人の世は再び混沌に堕ちるだろう。事ここに至っては、リンスティールの民を守るためには、毒と知りつつもライエルを次期国王の座に座らせておかなければならない。
「しっかし、なんだってズルカなんかと手を組むかね」トニスが言う。
「自分ならばうまく渡り合えるとでも思ったんだろう。あのお坊ちゃまらしい思い上がりだ」
リズは吐き捨てると、レナエルへ視線を向けた。
「アズガルドが姫様の暗殺を企てているとすれば、聖堂騎士団も敵ということになります。何か対策を講じなければ、リンスティールはおろか、ランダルマにも戻れません。人界門を抜けた瞬間に捕縛されます」
八方塞がりというやつだった。友好国に助けを求めようとも、人界線を越えなければ話をする事もできず、人界線を超えるには人界門をくぐるしかない。その出口では、アズガルドの率いる聖堂騎士団が手ぐすねを引いて待ち構えている事だろう。
「弱りましたねぇ。いっその事、私らもここの住人になっちゃいますか?」
「それは駄目よ、アーリィ。迷惑は掛けられないわ」レナエルが首を横に振る。「そのうち、あちらから私たちを探しに来るわ。それでこの場所が見つかれば――」
その先は言葉にするのもおぞましい。間違いなく、この世の地獄が顕現する事になるだろう。正義のためと呟けば、人はどこまでも残酷になれる。聖堂騎士団にとって、女神を脅かすアルケミストは滅するべき神敵なのだ。
「せめて外界に出ていなければ、他にやりようもあっただろうにな」アベルが言う。
「まったくだ」トニスがため息交じりに言う。「姫様が外界に出られる前に合流できれば良かったんだがな。どうにか遠征隊には追い付けたは良いが、今度は亜人王の部隊に襲われているときたもんだ。何の冗談かと思ったよ」
「そして、姫様の隣には見慣れぬ男がいるしな」リズの視線はアベルに向けられている。「私は、お前が刺客なのかと思っていたぞ」
「疑いは晴れたという事かな?」
「今も信用はしていないがな」
アベルは肩を竦める。リズの態度はどうにも頑なだ。騎士らしいといえば、その通りではあるが。
「テランス王子の件は火急だと思ったんですがね。当然姫様にも刺客が放たれているはずで、隣には親し気な見知らぬ男。一刻も早く事をお伝えするべきとは思ったのですが、我々の判断でしばし様子を見させて頂きました。申し訳ありません、姫様」
ギリアムたちは深々と頭を下げるが、レナエルは俯き気味に首を横に振る。
「テランス兄様が討たれた時点で、何もかもが既に手遅れだ。割れた壺を慌てて戻そうとしても、余計に欠けるだけで元には戻らない。お前たちの判断は正しいわ」
「とにかく、私たちにとっては外界が檻みたいになっちゃっていますね。この遠征隊、というか、禁足地の魔獣とやらもライエル王子たちの罠って事は、無いですよね?」
と、アーリィが言う。レナエルは少し首を傾げ「うーん」と唸る。
「流石にそれは無いわね。アズガルドが状況を上手く利用したって事でしょう」
「姫様の死は外界での事故、って事にすれば何とでも言い訳ができるからねぇ。ついでに、その責任を探索者組合に被らせれば完璧だ」
そう声を上げるのはトニスだ。それを受けてアベルが頷いた。
「禁足地の魔獣はまさに渡りに船だったと言う訳だな。レナエルならば、必ず食いつく」
レナエルは第八王女としてよりも、一流の武人としての方が名の通りが良い。禁足地へ送り出す人員としてはさほど不自然でもない。更にレナエルは戦功を求めていた。声をかければ必ず乗ってくるとアズガルドは踏んだのだろう。
「状況は、これ以上ないという程に悪い。さて、どうするか……」
小さく唸りながら、リズは前髪の毛先を指で弄ぶ。考え事をするときの癖なのかもしれなかった。毛が指の上を滑るたびに、テーブルの中央に置かれたランタンの灯りを反射してキラリ、と輝いた。
「なぁ、なんでライエル王子と聖堂会が手を結ぶんだ?」
今更なギリアムの質問に、リズは頭痛を掃うように首を振った。
「解らないのか。魔霊星絡みに決まっているだろう」
「うん……?」ギリアムは短く刈り込んだ頭を掻きながら唸る。「つまり、ええと。どういう事だ?」
「ギリリン、魔霊星はどこから調達していますか?」
アーリィの質問に、ギリアムは「外界だ」と答える。あんまりなあだ名にアベルは突っ込みたかったか、空気を読んで口を結んだ。
「そうですね。じゃあ、その採取と流通を管理しているのは?」
「探索者組合だろ。それがどうし……。ああ、そういう事か?」
戦線を拡大し続けるズルカ公国は、慢性的な魔霊星不足に陥っている。魔霊星を入手するには他国から略奪するか、リンスティール王国経由で入手するしかないが、その流通量は多くはない。探索者組合が各国のパワーバランスが崩れないように、意図的に制限しているのだ。
ズルカ公国は侵略した国の物資や魔霊星を略奪し、戦線を維持してきた。しかし最近はそれも限界に達しつつあるようだ。魔霊星を大量に消費する魔術は戦争の要だ。魔術を思うように行使できないのであれば、いくら強大な国力を持つズルカといえど、これ以上多数の国を相手に戦火を交え続けるのは苦しい。だが今更矛を収める事もできないといった状況であった。
ズルカ公国は多数の魔装具とその適性者を抱えていたが、その数にも限りがある。魔装具は確かに強力だが、それを扱うのはあくまで人間だ。終わりのない戦争に当然疲弊するし、死にもする。ズルカ公国にとっては、兎にも角にも、魔霊星の確保が急務であった。
一方、ライエルは武力を求めていた。敵対するテランス王子の元には多数の魔装具使いがおり、周辺国からの支持も厚い。正攻法でどうにかできる相手では無かった。特に、国民から圧倒的な支持を受けるレナエルと、その旗下のサンクションの存在が彼の頭を悩ませていた。
そしてアズガルド教区長は金を求めていた。金と権力の関係は切り離せない。ひたすらに権力を求め続ける彼の願いを叶えるのは、神ではなく金であった。
彼は多数の熱狂的な信者を抱え、その中には貴族の姿も多くあった。日々集まる膨大な献金。しかしまだ足りない。彼の欲望を満たすには、魔霊星の専売権利を手に入れるしかなかった。だが、その為には魔霊星の流通を牛耳る探索者組合の存在をどうにかする必要がある。それに首尾よく探索者組合を潰す事ができたとして、その後はどうする。彼には魔霊星流通のノウハウが無い。商品だけが手元にあっても、商売にはならないのだ。
「おそらく、ズルカがライエル王子に武力の貸与を申し出たに違いない。それを受けたライエル王子の目的はテランス王子、並びに姫様の暗殺。そしてサンクションの殲滅だ。ズルカが求めた見返りは物資支援、資金援助という所か」リズが言う。
「ズルカが攻めてくるとなれば、ライエル王子の強引なやり口に反発する周辺国も、それどころでは無くなりますしね。国民の関心もそっちに向きます。ライエル王子にとっては一石二鳥です」
アーリィが頷く。リズは言葉を続けた。
「しかし問題もある。既に戦線の伸びきったズルカがどれだけ戦えるか、ということだ」
「それで、アズガルドか」
アベルが唸る。次に口を開いたのはトニスだ。
「アズガルドが魔霊星の専売権利を狙い続けているのは、有名な話だからな。禁足地の魔獣騒ぎは、アズガルドにとっても探索者組合の勢力を削ぐには絶好の機会だった。そこへライエル王子が、魔霊星の販路を都合する代わりに姫様の暗殺を手伝え――、とでも持ちかけたんじゃねーかな。ズルカは、随分な太客になるだろう」
そんな所だろうな、と各々が頷いた。陸の港であるリンスティールならではの交換条件だ。
いくら貴重な品物を手に入れても、売り捌く為のルートが無ければ話にならず、そしてルートはいくら金を積んでも手に入る物ではない。アズガルドにとっては、喉から手か出るほど欲しい代物であっただろう。
「暗殺者の一団を雇ったのはどっちかな。ライエル王子か、アズガルドか」ギリアムが言う。
「どちらでも良いさ。手引きをしたのはアズガルドだろうがな。何にせよ、火傷の男も今頃はバング・ウルフの腹の中だろうが」アベルは肩を竦めた。
現状、結果だけを見ればレナエルの暗殺には失敗したが、ライエル王子やアズガルドにしてみれば、事はほぼ彼らの目論見通りに進んでいると言って良い。
レナエルたちは、進む事も戻る事も叶わない窮地に立たされている。
「このまま最後まで奴らの思惑通りに事が進めば、アズガルドは魔霊星の専売権利を手に入れ、ライエル王子は国王の座につき、ズルカ公国は戦火を拡大させる……か」アベルが言う。
「それだけじゃないわ」レナエルが口元を手で覆いながら言う。「ズルカはアズガルドから大量の魔霊星を手に入れる。そうなれば、他の国もアズガルドから魔霊星を買わざるを得ない。それがどれだけ法外な値段でも、よ」
「買いますかね? ただでさえ、一度見限っているのに」ギリアムが首を傾げる。
「過去の二の前にはならないわ。アズガルドもそこまで阿呆ではないでしょうし、今度はズルカという差し迫った脅威がある。アズガルドの懐は潤い、ズルカは思う存分侵略を続け、リンスティールは安泰。ズルカの属国として、だけどね」
「複雑だな」アベルが眉根を寄せる。
「シンプルよ。金と武力と権力。結局、どこまで行っても世の中はそんなものよ」
レナエルは天井を仰ぎ見る。テーブルを囲う面々が一斉にため息をついたところで、寝具を抱えたトモキとリンコが扉を開けた。
「寝具を持ってきたぞー。ベッドに慣れ切ったあんた達には合わないかも知れないが、野宿よりは……って、なんだこの空気」
どんよりと淀んだ気配にトモキは喉を詰まらせる。リンコは状況を察して、視線を斜めに床へ投げている。不意にレナエルが席を立ち、部屋の出口に向かった。
「ちょっと、外の空気を吸ってくるわ」
その背中を見送るアベルの脚を、トニスが軽く蹴る。見れば、トニスは顎で扉を示していた。どうやら「追いかけろよ」と言いたい様子だった。なんとなくリズの方を見遣ると、露骨に顔を逸らされた。アベルはもう一度ため息をつき、席を立った。
レナエルはすぐに見つかった。小さなバルコニーの手すりに身体を預け、何かを探すように星空を見つめていた。
アベルは隣に立ち、手すりに背中を預けて寄りかかる。「泣いているのかと思った」
レナエルは困ったように薄く笑う。「それができれば、少しは楽になれるのだけどね」
さらさらと隠れ里を流れ落ちる川の音と、優しい夜風が胸の中の毛羽立ちを取り去っていく。
「顔役さん……、だけれどさ」
夜風が身体に染み入り始めたころ、不意にレナエルが口を開く。
「テランス兄様の仇を討ちたいのか、と言われたときはびっくりしたわ。そんなこと考えても居なかったけど……。そうしたいという気持ちも、確かにあったかも知れない」
「手伝えと言うのなら、別料金だ。酒で払ってくれても良いぞ」
「意外と意地悪ね」
「俺なりの誠実さって奴なんだがね。何かで区切りを付けなくては、いつまでも借りばかりが残る。借りって奴はな、貸した方より借りた方に纏わりついて、いつまでも背中を重くする」
「言うわね」くすり、とレナエルが微笑む。「お酒にだらしなくて、金銭感覚が壊滅的なくせに」
うるさいよ、とアベルが笑い返す。いつの間に冗談を言い合うような間柄になったのだろう、とアベルは考えたが、答えは浮かんでこなかった。ずっと昔からだったような気さえする。
「教えてくれないか」昔話をするには、良い機会だと思った。「知っているんだろう? 俺の昔の事」
少し考えるように視線を伏せ、そしてレナエルはアベルの方を向き、「いやよ」と笑った。
「教えてあげない。教えてあげるもんですか」
「なぜ」
「だって、癪にさわるもの」レナエルは悪戯っぽく頬を膨らませる。「私から教えてあげるのは、なんだか違うって気がするのよね。自分で思い出しなさい」
そういうと、レナエルはくるり、と背を向けてしまった。片眉を上げ、アベルは小さく肩を上下させる。
「夢、だったのよ」
言葉が夜風に混ざる。アベルは口を開かず、続きを待った。
「テランス兄様とね、小さい頃から良く言っていたわ。外界に行ってみたい、未知の世界を旅してみたいって」
「だから、外界遠征の話に乗ったのか」
「そうね。確かにそれもあるわ。テランス兄様と旅をする前に、一度下見をしたかったのよ」
無謀な夢だ、とアベルは思う。王族が、それも次期国王の一角が魔獣の跋扈する未開の地を旅するなど、それこそ夢物語だ。
「でもそのせいで、私たちは窮地に立たされている。ままならない物ね」声に珍しく憂いの色が混じっていた。「アベルとの約束も果たせるし、今しかない! って思ったんだけどなぁ」
また〝約束〟か、とアベルは星空を見上げる。風が強まって来た。
「たとえここが夢の地でも、帰れなければ地獄の一丁目だな」
「これ以上、無理して私に付き合う必要も無いのよ? 最初とはもう事情が変わってしまった。今回の件は、リンスティール王家の内輪揉めみたいなものだもの」
アベルへ向き直り、レナエルが言う。アベルは自嘲するように口端を歪める。
「俺にだって、帰る場所はありはしないよ。アズガルドは、俺の事も放ってはおかないだろう。こうなったら、とことん付き合うさ」
「本当に、良いの?」
「ここまで来て放り出すのか? 酷い奴だな」
「……そうよね。ごめん、変な事を言ったわ」レナエルが照れくさそうに頬を掻く。「えっと、その。あ……、ありがとう」
「どういたしまして、と言うべきか?」アベルはわざとらしく肩を竦めて見せた。
「それにしても、何か良い手は無いかしら。リンスティールの立場は守る。ズルカの目論見は挫く。アズガルドの野望は砕く」
「欲張りすぎるとろくな事にならないぞ」
「そうよねぇ……」
レナエルは腕を組み、首を捻る。ふと、夜空に光る物を見た。星では無い。それは紅く、明滅している。形は一定では無く、時折蛇のように伸びて、夜空をのた打ち回っている。
「んん……?」レナエルは捻った首を戻し、眼を細める。「あの光、何かしら」
「どれだ」
流れる川を見つめていたアベルが、視線を夜空へ向ける。同時に、隠れ里はけたたましい騒音に包まれた。見張り櫓の上で男が激しく金属を打ち鳴らし、急報を告げている。
降るような星明りの中に、アベルは星々の合間から噴き出す紅を見た。
「炎……?」
どうして空に炎が? 確かに炎のはずだ。他に似たものを、アベルは知らない。目を凝らすと、炎の根元とその先には巨大な影があった。それらは徐々にこちらへ迫りつつあった。
「魔鳥種か!?」アベルが声を上げる。
「でも、炎を吐く魔鳥種なんて――」
レナエルがそういう合間にも、夜空を焦がす炎はこちらに近づいてくる。やがて、影の形がはっきりとしてきた。炎を先には梟を思わせる姿の巨大な魔鳥種がおり、その後方にもう一つの影がある。それが炎を吐き出しているのだ。
「命中した!」
レナエルが目を見開く。ついに炎が巨鳥の魔獣を捉え、炎に包まれた魔獣が悶えながら落下し始めた。
「って、ちょ。こっちに墜ちて来るぞ!?」
アベルが悲鳴のような声を吐き出す。悪夢の火炎弾となった魔獣が墜ちて来る。不運にも魔獣は山の内側、隠れ里へと墜落した。
いくつもの家屋を巻き込みながら魔獣が地面を滑る。燃えた羽が周囲にまき散らされ、見る間に炎が広がっていく。
隠れ里は騒然とした。あちこちの家屋から人々が飛び出した。逃げ惑う物、炎を消そうと奮闘する者。恐怖にただ泣き叫ぶもの。様々だった。
だが、人々の視線は空に釘つけになる。紅い星空に現れたもう一匹の魔獣を見上げていた。
それは一瞬だった。しかしその一瞬は、永遠となって人々の心に焼き付いた。
天を引き裂くような轟音と共に現れた魔獣は全身を鱗に覆われ、頭部からは捻じれた二本の角が突き出ていた。翼は星空を覆い隠して余りあり、長い尾が星明りを反射して揺れていた。
「まさか、そんな。あれって……!?」
レナエルの言葉に、ああ、と震える唇で応え、アベルは頷いた。
それは伝説の中の伝説。魔獣の中の魔獣。最恐にして最凶の脅威。
そして、人類の敵。
「火竜種〝サラマンダー〟……!!」




