暗剣
月は蒼く、星々は競い合うように輝きを放っている。しかしその下に広がる広大な森はそれらの光を呑み込んで散らし、暗黒の世界を広げていた。
明と暗、きっちりと二つに分けられた世界。その暗の部分をアベルは見張り台の上から睨み続ける。人より夜目は効くほうだが、今宵の外界はしんと静まり返り、野営地の内側のほうがよほど騒がしい。
ふと視線をずらし、野営地のはずれで穴を掘っている一団へ目を向ける。既にいくつもの大穴がこさえられているが、まだ足りない。あれらは亜人王との戦いで犠牲になった者たちを埋葬するための墓穴だ。
外界で死亡した者の遺体は、基本的に持ち帰られる事は無い。血の匂いや死臭は魔獣を呼び寄せるし、そもそも数十キロ、装備込みで百キロを超える事もある遺体を苦労して持ち帰った所で何の利点も無いからだ。むしろ危険ばかりが増える。故に死亡した後に装備を剥ぎ取られ、そのまま放置されたとしても文句は言えないのだ。自ら望んでこんな場所へやってきたのだから、自業自得というものである。埋葬してもらえるだけマシというものだろう。
とはいえ、今回は遺体の数が多すぎる。埋葬には時間が掛るだろうし、腐敗も進むだろう。その間に匂いを嗅ぎつけた魔獣が近くまでやってきてもおかしくない。いや、匂いを追う事に特化した魔獣などは既に気が付いているはずだ。警戒は怠れない。
背後から梯子を上る音が聞こえ、一人の男が見入り台へ姿を現した。
「お疲れ兄ちゃん、交代だ。異常はあったか?」
「静かなものさ。過去に思いを馳せるには良い夜だ」
「若造の言うセリフじゃねぇよ。温めた葡萄酒でも飲んで、さっさと寝ちまうんだな」
男と不器用な笑顔を交わし、アベルは見張り台を後にする。
野営地ではあちこちで酒盛りが行われていた。これから三日間の周辺探索は本職の探索者が行う。つまり、飛び入り参加の者たちは仕事が無いのだ。一応は野営地の防衛という任務が与えられているが、気持ちが酒に向かうのも、多少はやむなしと言える。
昼間の緊張の反動か、犠牲になった者への弔いか。全ての酒樽を空にする勢いで男たちは酒を呑み、潰れた者たちがそこらの地面に転がっている。一日に二度の襲撃は無いと思っているのだろう。確かに亜人王は討った。しかし他の勢力がここらに入り込んでいる可能性もあるのだ。些か油断が過ぎるというものだろう。
かくいうアベルも、酒には目が無い方だ。初めて酒の味を覚えてからは、その魅力にどっぷりと嵌ってしまい、少々笑えない額のツケを作り出してしまうほどに。だが、流石に外界などという危険地帯で深酒をするほどの間抜けではない。死んでしまっては、二度と酒を口にすることはできないのだから。
寝酒に葡萄酒を一杯拝借し、ちびちびと傾けながらアベルは自身に割り当てられた寝所へと歩を進める。同室のレナエルはもう休んでいるだろうか。
寝所は木造二階建てで、入り口は引き戸になっている。アベルは戸口に立ち、手をかける。
「…………」
扉の向こう、左右に一つずつ、何者かの気配がある。サプライズパーティーという訳でなければ、およそろくな物ではない。
腰の短剣に手を伸ばし、途中で止めた。死体を増やして良い事などは無い。人を埋められるだけの穴を掘るのは大変な重労働だ。
扉を開け、葡萄酒が注がれた陶製のカップを投げ入れる。闇の中で、息を呑む二つの気配が広がった。カップが地面で砕ける音と同時に、アベルは屋内へ身を低くして滑り込む。
まずは右。体格からして男性、服装は黒いローブ、手には刃が湾曲した短剣。暗殺者の見本のような奴だった。
虚を突かれ、目を見開く男の顎を掌底で跳ね上げる。壺を叩き割るような感触が腕に伝わった。男はくぐもった声を上げて呻き、程なく白目を剥いて昏倒した。
無力化を確認したアベルは、背後で身を固くしているもう一人の男の顎へ回し蹴りを叩き込む。顎先を掠めたアベルの踵は、死神の鎌のように男の意識を刈り取った。男は力なく崩れ落ち、前のめりに許しを請うようにして倒れ込んだ。
やはりこちらも黒ローブに短剣という装いであった。アベルは心の中で首を傾げる。
感謝をされる事はあれど、命を狙われるような心当たりなど無い。酒場のツケだって、命を狙われるほどの額ではない。考えられるとすれば記憶を失う前に何かあったか、という点だが、このタイミングでと言うのもおかしな話だ。
足止め、という言葉が脳裏に浮かぶ。となれば……。
「狙いはレナエルか……!?」
アベルは駆け出した。足元で転がる男たちのことなどもはや眼中にもない。
階段を踏み割る勢いで駆けあがり、部屋の扉を勢いよく開け放つ。
「レナエル!! 無事――」
汚れて曇った窓から差し込む月光が、鉄臭い液体の広がる部屋の様子を映し出していた。床の上にはいくつもの肉塊が散らばり、渋みと酸っぱさを含んだ匂いをまき散らしている。
世界の果てのような光景の中で佇む人影がある。銀に輝く細身の長剣を携え、凄烈な美貌を振りまいている。鋭く引き絞られた蒼い隻眼がアベルを捉えると、ふっ、とその気配が緩む。
「あら、遅かったわね。アベルっていつもそう」
悪戯な笑みを浮かべながら、レナエルは刃にべったりとこびり付いた血糊と脂を、拾い上げた寝床のシーツで拭う。
「おまえ、これ……」
部屋の中は凄惨の一言では片づけられない有様だった。手や足を切り飛ばされた三人分の遺体が散乱し、手を伸ばせば触れられそうなほどに濃い血の匂いが充満している。遺体が三人分だと解るのは、単純に転がっている頭部が三つあるからだ。鮮血王女の異名にそぐわぬ容赦の無さである。
「三流も良い所ね。格好だけは、一人前のようだけれど」
三日月のように刃が湾曲した短剣を拾い上げ、レナエルが眉を顰める。刃には曇りも欠けも無く、新品をそのまま持ち出して来たかのようだ。
「さーて、寝直そうかしらね。あ、でもその前に別の部屋を手配して貰わないと」
レナエルは欠伸をして、そんな事を言って見せる。とても今しがた殺し合いを演じた者の台詞とは思えないが、彼女にとっては、この程度は日常茶飯事であった。
宿舎の掃除は基本的にその使用者が行う決まりになっている。この惨状をどう片づけたものかと諦め交じりに思案しながら、アベルは三つの遺体に背を向けかけた。その目端が、闇が揺らぐのを捉えた。目の錯覚かと思った。しかしそうではない。闇の中から滲みだすように現れた人影は一直線にレナエルへ迫る。
人影が何かを腰から抜き出す。闇に溶け込むように黒く塗られた短剣だ。そして欠伸をするレナエルへ、背後からその刃を食い込ませようと鋭く振るう。
アベルは弾かれたように駆け出した。短剣を抜き、レナエルへ迫る凶刃を止めようと床を蹴る。
ほんの数メートル。その距離が果てしなく遠い。黒い刃はレナエルの背後、更に死角である左側から、その首元へと吸い込まれ――、空を切った。
刃は正確にレナエルの首の動脈へ迫っていた。しかし正確過ぎるが故に、ほんの少し身体をずらすだけで躱す事ができたのだった。
レナエルは振り向きざまに剣を一閃。甲高い金属音と共に火花が散り、闇そのものと見紛う人影の姿が曝け出される。
「……ふふ。やはり、この程度では虚を付けぬか」
「殺気を漏らしすぎよ、あんた」
レナエルに斬りかかったのは、黒衣を纏った男だった。装いこそ似ているが、床に転がっている者たちとは明らかに格が違う。男はなぜか嬉しそうに嗤い、背後からのアベルの攻撃を事もなげに躱して見せる。
「大丈夫か」
「ええ、毛の一本もくれてやっちゃいないわよ」
アベルはレナエルに並んで二本の短剣を構え、レナエルは剣先を突き出して右半身だけを相手に向ける独特の型を取る。
妙な男だった。こうして真正面から相対しているというのに、まるで揺れる水面の像を見ているかのような、不確かな印象を受ける。今にも身体の輪郭が闇に溶けていきそうな気配であった。
「お前は何だ。なぜレナエルを狙う」
「暗殺者が獲物を狙う理由を聞きたいのか? 依頼をされたからに決まっている」男は鼻を鳴らす。「お前らは、特別だがな」
男は目から下を覆う布を、ゆっくりとずり降ろす。アベルとレナエルは思わず息をのんだ。
頭巾の下から現れたのは焼けただれた皮膚だった。鼻は完全に失われ、唇は焼き過ぎたチーズのようだ。剥き出しになった鼻孔と閉じきれない口から荒々しく息が吐きだされる。月明かりを背にするその様は、冥界からの使者を思わせた。
「長かった」男は火傷の痕に黒い短剣の刃を這わせる。「この火傷が疼くたびにお前たちを殺したくて、殺したくて、気が狂いそうだった。嗚呼、この時をどれほど待ち望んだか……。お前たちに復讐をするこの瞬間を!!」
醜い顔を更に歪ませ、男が言う。
「俺の顔を忘れたとは言わせんぞ、小娘ども! まずは全身の皮を剥いで塩漬けにしてや――」
「誰よ?」「誰だ?」
しん、と空気が冷えた。凪が訪れたように、全てが静まり返る。
「本、気で……、言っているのか?」
唖然とした様子で男が言う。
「恨みを買うような事ばかりしているからね。いちいち覚えちゃいないわよ。こっちのアベルに関しては、記憶を一部失っているらしいしね」
レナエルの言葉にアベルは頷く。男は口をあんぐりと開け、次第に身体を震わせ始めた。
「ふ、ふざ……。ふざけるな! 覚えてない? 記憶喪失!? そんな馬鹿な話があるか!!」
ふざけるな、と言われても困ってしまう。覚えていない物は覚えていないのだ。レナエルは肩を竦め、ため息をついた。
男は歯噛みする。子供と侮ったレナエルに後れを取り、魔装具の一撃により全身に酷い火傷を負った。復讐を誓った男は周囲から無能の誹りを受けながらも研鑽を積み、屈辱に耐えに耐え、ついにこの時を迎えたのだ。
満願成就の夜である。一世一代の夜である。
だと言うのに――覚えて、いない? 覚えられていないだと。
「……ふ、ふふふ。くっふふふふふ」
突然俯き、そして笑い出した男をアベルは怪訝な表情で見つめる。
「お、おい。なんかおかしい事になって来たぞ? お前、本当に知らないのか」
「だから知らないってば。アベルこそ、間違えて変な薬を渡したとかじゃないの?」
二人は肩で互いを突き合う。その様子を、男は汚泥の塊のような瞳で睨みつける。
「いいさ。もういい。覚えていないなら、思い出させてやる。――その身体になぁ!!」
実に悪党らしい台詞を吐きながら男の姿が掻き消える。人間がそう簡単に消えるはずがないのだが、アベルの目は男の姿を捉える事ができないでいた。
ふと寒気を感じて振り返る。黒い刃が鋭く迫っていた。
「のぅわ!?」
咄嗟に身を逸らして黒刃を躱す。巻き込まれた数本の前髪が宙に舞う。
「こっの……!」
なんとも妙な印象の男だが、やはり只者では無い。侮って良い相手ではなさそうだ。
男はもう一本の短剣を抜き、今度はレナエルに斬りかかる。レナエルはその一撃を手甲で弾き、銀色の刀身を真っ直ぐに立て、叫ぶ。
「目覚めよ(アウェイクン)!!」
眩い光が溢れる。グリントソーンから閃光が放たれ、男の瞳から視力を奪う。
「ぐっ……!? くそっ、ここで使う気か!?」
アベルは咄嗟に目を閉じたので無事だったが、男は至近距離で光の直撃を受けてしまう。瞳を焼かれた男は呻きながら飛び退き、窓から身を躍らせた。
「……。良い判断力ね」
視力を奪い、一息に制圧するつもりだったのだろう。目論見を外されたレナエルは小さく舌打ちをする。頭に血をのぼらせていても、相手もプロという事だ。不利を悟った男は即座に撤退し、状況のリセットを計った。足元に転がる一山幾らの半端者とは、やはり格が違う。
「追うか?」
「当然!」
まずレナエルが窓から飛び出し、アベルもそれに続く。降り立ったのは井戸のある宿舎の裏側。日中であれば水汲みや洗濯などをする水場だ。人の行き交う場所であるのでそれなりの広さであるが、夜中にこのような場所へ出向く物好きも居ない。辺りはしん、と静まり返り、眼を血走らせた男の怒気だけが静謐な空気に満ちている。
「まさか、魔装具を目くらましに使うとはな。畏れ多いお姫様だ」
「私の物をどう使おうが私の勝手よ。道具は使いこなしてこそ、でしょ」
火傷の男はアベルたちを待ち構えていた。どうあっても今日この場で決着をつけるつもりであるらしい。
短剣を構えるアベルをレナエルが横から手で制する。どういうつもりかと眉根を寄せるアベルをよそに、レナエルは一歩進み出た。
「さっきの反応……、思い出したわ。あんた、私が初めてグリントソーンを手にした時に襲ってきた賊ね? グリントソーンの力を知っていて、生き残っている奴なんてそうは居ないもの」
レナエルの言葉に、男は汚泥が泡立つような音を喉から漏らす。恐らくは笑みであるのだろう。にたり、とその口元が歪められる。
「やぁっと思い出してくれたかい。嬉しいよ」
「そう、良かったわ。じゃあ、もう思い残す事は無いわね」レナエルがグリントソーンをくるり、と手首を返して一回転させる。「手出し無用よ。あんた達も解ったわね?」
レナエルがそういうと不意に周囲から四つの気配が湧き上がり、消えていった。夜闇の中に、白い外套の裾が一瞬だけ翻る。
男は驚いたように目を見開き、焼け爛れた顔を歪ませる。
「一騎打ちをするつもりか。舐められたものだな」
「そっちこそ舐めないでよね。私を深窓のお姫様とでも勘違いしているのかしら」
男が黒い短剣を構え、レナエルはグリントソーンの剣先を突き出す。
張りつめた空気が更に引き絞られ、今にも破れてしまいそうだった。どちらも手練れだ、勝負は一瞬で決まるだろう。確実に仕留めるという強い気迫が、両者の肩から立ち昇っていた。
先に動いたのは火傷の男だった。黒い煙が滲みだすように輪郭がぼやけたかと思うと、闇の中へ溶けてしまった。何度見ても目を疑う光景である。
魔術か、とレナエルは思う。そうでなければ魔装具か。いや、そのような気配はない。小さく息を吐き、レナエルは瞳を閉じる。細かい事はどうでも良い、相手がどんな技を用いようが同じことだ。刃の向かう先は決まっている。
不意に闇が揺らぎ、漆黒の刃が走る。
レナエルは傷によって左目の視力を失っている。故に、身体の左側は殆どが死角なのだ。右半身のみを相手に向ける独特の型はその不利を打ち消すためのものだが、回り込まれてしまっては元の木阿弥だ。
しかしそれも、予測していなければ、の話である。
甲高い金属音が響く。鋭く振り抜いたレナエルの剣が黒刃を弾き、火花が二人を照らし出す。
「くっ……!」
「一度見せた手が、二度も通用するか!」
相手の虚を突き、死角から攻めるのは暗殺者の常套手段だ。もはや生態と言っても良い。しかし日夜を問わず暗殺の影に付きまとわれ、それらの多くを自らの手で打ち払ってきたレナエルにとって、暗殺者の強襲などは脅威足りえない。それがどれほどの手練れであっても。
鋭く息を吐き、男の胸元を狙ってレナエルが突きを放つ。しかし相手も百戦錬磨の強者、もう片方の短剣の腹で刃を受け流す。
力を逸らされ、その切っ先が空を切ると思われた瞬間――、レナエルは剣を手放した。
「「はっ!?」」
図らずもアベルと男の声が重なる。戦いの最中に自ら武器を手放すなど、誰に予想できるであろうか。しかも国宝たる魔装具をだ。虚を突くのを生業とする暗殺者でさえも、呆気に取られている。
その一瞬の隙を、レナエルは値千金の黄金へと変じさせる。
「せぇぇぇぇぇい!!」
猛々しい掛け声と共にレナエルが拳を振るう。手甲で固められた拳は男の顔面へめり込み、数本の歯を宙に散らばらせた。もし男に鼻があれば、そちらも折れていたはずだ。
蛙が踏みつぶされるような声を上げ、男が転がる。反射的に身を引いていたのか、気を失うまでには至っていないようだ。しかし口内からは滝のように血液と唾液が溢れ、頭を揺さぶられたせいで足腰に力が入らないようだった。
「お、おま――。ぶん殴るってのは流石にどうよ」
「武器に頼りすぎるなって、アベルが言ったのよ?」
「俺は振り回されるな、と言ったんだ。放り出せとは言っていない」
アベルはため息をつきながら首を振る。ふと、自分の発言に違和感を覚える。当然のように口を突いて出た言葉の出所が、解らない。
とある光景が脳裏にぼんやりと浮かぶ。記憶の残滓に漂う、少女との一時。アベルは寝起きに夢を思い出すような気持で、記憶の糸を辿る。
その作業を鋭い笛の音が遮った。火傷の男が細長い笛を口の端で咥え、吹き鳴らしたのだ。何事かと言う二人の視線を受け、血と唾液で汚れた笛を吐き捨てながら男が笑う。
「ただでばぁ逃がさんぞ……、ぶぉ娘どぼめ」
何を言っているか良く解らない。解らないが、とりあえず物騒な事を口走っているのは確かだ。
増援でも呼び寄せたのか、とアベルは周囲へ気を配る。男の傷は致命傷には程遠い。しかし相手がレナエルでは、ダメージを背負ったままでは勝機も無い。そう男は判断したのだろう。そしてアベルの耳に届いてきたのは、いくつもの叫び声だった。
あっという間に火勢が増し、暗い夜空が紅く色づき始める。人々の悲鳴に混じって仄かな熱波と煤の匂いが漂ってきた。
「お前、野営地ごと俺たちを始末する気か」
それほど風も無いのに、火足が早すぎる。あらかじめ仕込みをされていたらしい。アベルの舌打ちに、火傷の男はいやらしく口角を上げる。
野営地の周囲は丸太を隙間なく組み合わせた強固な防壁に守られている。炎に包まれる前に野営地から脱出を図らなければならないが、唯一の出入り口は固く閉ざされ、そして恐らくは既に炎に飲み込まれているのだろう。
何という捨て身であろう。火傷の男は、己の命と引き換えにしてでもアベルたちの命を奪うつもりなのだ。こいつの覚悟を、見誤っていた。
どうしたものか、と思案するアベルの髪を突然吹き抜けた突風が跳ねあげた。そして風は逆巻き、吹いてきた方向へと帰っていく。
不可解な風だった。炎に熱せされて上昇した空気が作り出した旋風かとも思ったが、どうにも様子が違う。
まるで、こちらの様子を伺うように頬を撫でる気配。そして微かに混じった獣の匂い――。
アベルははっとし、顔を跳ねあげる。
「まずい! 魔獣が来るぞ!!」
「はぁ? 何よそれ。どういう――」
レナエルの言葉は突然の轟音にかき消された。何かが崩れ落ちるような地響きが足元に伝わる。
鐘が打ち鳴らされる。それは魔獣の襲撃を知らせる急報であった。恐らくは野営地の周辺で機会を伺っていたのだろう。そして火災に乗じて攻め込んできたのだ。こうも簡単に防壁を突き崩したという事は、大型個体の魔獣も居るのだろうか。冗談ではない。
宿舎の影から分厚い影が飛び出す。熊とも狼ともつかぬ、奇妙な姿の魔獣だった。
唸り声を上げてアベルへ跳びかかってくる魔獣の爪を短剣で受け流し、飛び退く。入れ替わりに前に出たレナエルが掬い上げるように剣を振るい、その首を斬り落とす。
噴き出す鮮血を横に跳んで躱し、崩れ落ちる巨躯を見下ろす。
「本当に魔獣が……」
小さく呟くレナエルが、その顔を跳ねあげる。見れば、宿舎の影から再び魔獣が飛び出して来た。今度は一匹では無かった。無数の魔獣が圧倒的な圧力を振りまいて迫ってくる。
「レナエル! 退け!!」
アベルが声を張り上げる。濁流のように迫り来る魔獣に背を向け、レナエルが駆け出す。その後に続いてアベルもまた駆け出した。
「くそっ! 俺まだ一睡もしてねぇのに!!」
「私だって疲れてるわよ! ああもう、外界ってこんなに忙しい場所なの!?」
「今日は特別だよ! 魔獣どもが入って来た箇所から外へ出るぞ!」
背後で悲痛な叫びが上がる。首を向けると、未だ足腰の自由が利かぬ火傷の男が魔獣の群れに襲い掛かられていた。火傷の男にとっても、この状況は予想外のはずだ。こうなれば逃げの一手だが、足にダメージの残る火傷の男は逃げきれるのだろうか。
「あいつ、生き残ると思うか?」
「さぁね」興味も無さそうにレナエルが鼻を鳴らす。「神様に手紙で聞いてみたら?」




