第八王女の矜持
少女は自らの価値を正しく理解していた。
四つの国々と国境を面する陸の港、リンスティール王国。交通の要所として栄え、様々な文化と技術の集積所でもあった。
最新の情報。最先端の技術。だが、それらも恩恵ばかりではない。国を出入りする人々には後ろ暗い仕事に従事する類の輩も多い。人類の交差点であるリンスティール王国はそういった者たちにとって絶好の稼ぎ場であり、決して治安は良いとは言えなかった。
内側だけではない。国境を面する周辺国にも気を配らなければならなかった。交通の要所であるリンスティール王国を我が物にする事ができれば、もたらされる恩恵は計り知れない。故に周辺国は表向きだけは良い顔をしつつも、付け入る隙を常に伺っていた。
そんなリンスティール王国の第八王女レオノーラ・リンスティールは、自らの〝使い道〟を正しく理解していた。
まだ幼いと言えるほどの年頃であるレオノーラ。だが、自分がどのような立場であるのかを周囲に侍る者達の態度から察してしまえるほどには聡明であった。
真っ白なお屋敷。季節の花々に彩られた庭園。綺麗なドレスに甘いケーキ。そして、ふかふかベッド。ダンスの稽古や座学は嫌いだけれど、私は十分以上に幸せ。レオノーラはそう思っていた。
そんな彼女に自分の立場を自覚させる切っ掛けになったのは、ふと耳にしたある日の侍女たちの立ち話だった。
――お飾りのお姫様のくせに――
――わがままばかりで、手に負えない――
――ダンスもマナーも全然だけど、見た目だけは良いから――
――さっさとどこかの国に嫁がせてしまえば――
初めは何を言っているのか解らなかった。解らなかったが、自分が良くないことを言われている事だけは理解できた。
その些細な事件は少女の視点を変えさせ、改めて見つめた少女の世界は酷く歪で、実に醜いものだった。
綺麗なドレスも、ダンスのお稽古も、全部自分の価値を高める為の物なんだ。綺麗に包んでリボンで飾り、どこかの王様にプレゼントされるだけの存在なんだ、とそう思った。
悲しいとは思わなかった。ただ、納得はしたくなかった。
リンスティール王国がどのような立ち位置にあるのかは子供ながらに理解していたし、国の為に身を捧げる事も王女としての務めだという事は理解しているつもりだった。しかし、レオノーラは唯々諾々(いいだくだく)とそれを受け入れられるような性格では無かった。
強くあらねばならない。自分で自分の未来を築き上げるには、誰かに守られているばかりではいけない。それは我儘というよりは、自立心に近いものだった。
そうして彼女が手に取ったのは、剣であった。
レオノーラは剣術の稽古に没頭した。しかしすぐに物足りなくなる。稽古の相手も適当に打ち合うと剣を取り落とし「いやぁ姫様には敵いませんなぁ。あっははは」と来たものだ。これでは実力など付くはずもない。
素振りだけでは強くなれない事は流石に解る。どこかに都合のよい相手は居ないものか……。
あ、そうだ。あいつにしよう。
「ねぇあんた」
「……へっ? え、うわぁぁぁ!?」
レオノーラが顔を出しているのは天井裏だ。庭師の倉庫からこっそり持ち出した脚立を寝室に運び込み、夜を待って天井裏を覗き込んだ。脚立は軽くはないが、そこは稽古で培った筋力の賜物である。
「なっ、なんで! え? はっ!?」
「し――っ!」レオノーラは唇の前に指を立てる。「静かにしなさいよ! 誰か来ちゃうじゃない」
そういうと天井裏の住人……という訳でも無いが、少年は口を押えて小さく何度も頷いた。
「あんた、私の護衛よね?」
「――え、えぇ……。そ、その通りでございます」
少年は息を詰まらせながら応える。
「って事は強いのよね? 剣も扱えるわね?」
「それは、勿論でございますが……」
「ふぅん……」少年を値踏みするように見つめ、レオノーラが一つ頷く。「うん、決めた」
レオノーラは天井裏によじ上り、手にしたランタンを置く。灯りに照らし出され、黒衣に身を包んだ少年の姿が露わになる。年はレオノーラより二つか三つほど上だ。幾分若すぎる気もするが、王族の護衛を任されるほどである。そこらの大人よりも余程腕は立つのだろう。稽古相手にはもってこいだ。
「あんた、私に剣を教えなさい」
「……はっ!? な、なりません姫様! わたくしのような者に――」
「あんたの身分なんて関係ない。私が教えろと言っているの」
「しかし……」
なおも煮え切らない少年に、レオノーラは不満げに鼻を鳴らす。
「素直に頷かないと、あんたに乱暴されそうになったって言うわよ」
「はぁ!?」少年は思わず声を上げ、レオノーラに口を抑え込まれる。「むっ、ぐっ! び、びめさば! ぞればあばりにもっ」
「静かにって言っているでしょ!」
一喝され、少年の動きがぴたりと止まる。
「黙って私に剣を教えなさい。雨の日も風の日もよ。良いわね?」
有無を言わさぬその様子に、少年は渋々頷く。レオノーラは満足そうに頷くと「じゃあ、早速明日からね」と言って脚立を降り始めた。
「お、お待ちを」少年はレオノーラに声をかける。「どうして私に気が付いたのですか? 気配断ちは完璧だったはずですが」
「はぁ?」眉をひそめ、レオノーラは呆れたように息をつく。「ず――っと前から気が付いていたわよ。当然じゃない」
そう言い残し、今度こそレオノーラは寝室へ降りて行った。脚立を巨大なベッドの下に隠し、布団に潜り込んでものの数秒で寝息を上げ始めた。
天井裏からそろり、と寝室を覗き込み、少年は大きくため息をつく。
「普通は気が付きませんって。野生動物ですか、あなたは……」
幸せそうな寝顔に向かって、少年はそう呟いた。
「踏み込みが甘い! 肘を伸ばさないで! 剣に振り回されていますよ!」
屋敷から少し離れた森の中で、金属がぶつかり合う音と少年の声が響く。どれだけの音を上げようと、ここからならば屋敷まで届く心配は無い。
「せっ! はぁ!!」
「半端なフェイントは付け入る隙になります。もっと一撃に魂を込めて!」
「せっ――やぁ!!」
気合と共にレオノーラが鋭く踏み込み、少年の首を狙って閃光の様な突きを放つ。刃を潰した稽古用の剣と言えど、その切っ先を受ければ無事では済まない。レオノーラの剣が一直線に少年の喉に迫り――直前でその軌道を大きく逸らされた。少年はレオノーラの突きを剣の腹で絡め取り、その切っ先を払ったのだ。
レオノーラの剣は空を切り、体制を立て直す前に少年の剣が白く細い首へ突きつけられた。
「勝負あり、です。迂闊な無理攻めは、反撃を受けやすいと教えたはずですね?」
「……だぁ――って、全然勝てないんだもん」
唇を尖らせてレオノーラが言う。少年が稽古の相手を務めるようになって早二週間。レオノーラはただの一度も少年に勝利することができないでいた。
「姫様は十分お強いですよ」
「お世辞なんていらないわよ」
剣を鞘に納め、手近な岩に腰掛けながらレオノーラが頬を膨らませる。
少年は世辞を言ったつもりなど、少しもない。まだ胸も膨らみ始めたばかりの年頃だと言うのに、レオノーラの剣技は既に王国騎士の域に達していた。筋力など身体面での力不足は否めないが、剣を扱う技術は舌を巻くほどである。事実、先ほどの突きも少年は必死の思いで防いだのだ。痺れて震える手のひらを、少年は腰の裏にそっと隠した。才能――、なのだろう。リンスティールの第八王女は剣を抱いて生まれて来た、と言われても信じてしまえそうだと思った。
「私より強い相手に敬語を使われるのも、なんだか癪に障るわね」半目で少年を睨む。「これから敬語禁止ね。後、私を〝姫様〟と呼ぶのも禁止」
少年は何かを言い返そうと口を開けるが、結局首を緩く振った。レオノーラは一度言い出したら聞かない性格だというのは、もう十分に理解している。
「ではなんとお呼び、じゃなくて。呼べば良いんだ?」
「そうねぇ……って、あんたは何て言うのよ。そういえば名前も知らないんだけれど」
少年は困ったように頭を掻く。
「名前は無いんだ」
「……本気で言っているの?」
今まで気にもしなかった自分も悪いが、そんな笑えない冗談を――とレオノーラは思ったが、少年の様子に〝嘘ではない〟と気が付くと、これでもかと言うほどに大きなため息をついた。
「やっぱり、身分制度って言うのはクソね。ロクなもんじゃねーわ」
「言葉が荒れているぞ」
肩を竦め、少年が苦笑いを浮かべる。
少年に名は無い。闇を闇のまま葬る闇の者に、名など必要ないからだ。王族の為に人知れず刃を振るい、人知れず死んでいく。
使い捨ての道具。穴が開けば捨てられる一枚の盾。
それが本来あるべき少年の運命だった。
しかし、少年はそれを不幸とは思っていなかった。野犬の餌になるのが関の山であった捨て子の自分が偶然に拾われ、戦闘技術を叩きこまれ、王侯貴族を守るための道具になった。それだけの話だ。
だがレオノーラにはそのような運命など、到底許せるものではなかった。
「私が名を与えるわ。あんたはこれから〝アベル〟と名乗りなさい」
「……それ、童話に出てくる犬の名前じゃなかったか?」
「あ、バレた?」
良いじゃない。可愛いし、と悪びれも無くレオノーラが笑い、その無邪気な笑顔にアベルも釣られて笑みを浮かべる。
「お詫びって訳でもないけれど、私の呼び方はアベルが決めて良いわよ」
あ、決定なんだ。とアベルが呟き、顎をつまむようにして考え込む。
「レ、レ……。あ、レナエルって言うのはどうだ」
「それ、別の童話に出てくる猫の名前じゃない」
「バレたか?」
半眼で睨むレナエル。とぼけるように肩を竦めるアベル。やがてどちらともなく吹き出し、二人は腹を抱えて笑い合う。麗らかな陽光に包まれた森に、穏やかな空気が満ちていく。
「さて、と。今日はこれくらいにしましょう」
「なんだ、稽古はもう良いのか」
腰を上げるレナエルに向けてアベルが言う。
「テランス兄様が来られるの。だというのに汗まみれじゃ失礼でしょ? 湯浴みをして香水をつけて……。あぁっ、ドレスはどうしようかしら!?」
一人慌て始めるレナエル。まるで恋する乙女だな、とアベルは思った。
テランス第二王子。王位継承権第二位。レナエルにとっては母を同じくする、実の兄である。
王族たちは確かに血の繋がった家族ではあるが、その間柄は必ずしも友好的ではなく、特に男児ともなれば尚更である。
しかし、レナエルは違う。王位継承権最下位の彼女は、王族内での自分の立ち位置などには食べ残したランチボックスのパセリほどの興味も無かった。
息の詰まる毎日を送るテランスにとって権力争いの絡まない家族との交遊は貴重な時間であったし、単純にレナエルとテランスは気が合う。レナエルはテランス王子を敬い、テランス王子もレナエルをとても大切に思っていた。
「本当に好きなんだな、テランス王子殿が」
「もっちろんよ! 兄様は優しくて格好良くて、ちょっと間抜けと言うか……とぼけた所もあるけれど、そこがまた良いのよ!!」
「は、はぁ……」
ぐっ、と拳を握るレナエルに、アベルは曖昧に返事をする。
「テランス兄様がリンスティールの王になれば、この国もきっと、もっと良くなるわ。私、テランス兄様が王になる為ならばなんだってしちゃう」
「政略結婚以外は、だろ?」
意気込んでいたレナエルがガクリと肩を落とす。
「ぐ……。あ、案外意地悪ね、アベル」
「お褒め頂き、身に余る光栄にございます」
苦笑いを浮かべるレナエルの耳に、遠くから自分を呼ぶ声が届く。声は次第に近づき、やがて木立の間から白いエプロンを腰に巻いた一人の女性が姿を現した。レナエルの身の回りの世話をする侍女だ。
「あぁっ、こんな所にいらした! さぁ早くご準備をなさいませ。間もなくお約束の、――っ!?」
侍女が息をのんでアベルを睨みつける。
「おまえ……っ! なぜ姫様の前に姿を晒している! 失せろ、身の程を弁えよ!」
仇に食らいつくような形相で侍女がアベルを怒鳴りつける。アベルはただ膝をつき、顔を伏せている。アベルは本来であればレナエルはおろか、その侍女の前にすら姿を晒す事も許されない身分であるのだ。あまつさえ口答えでもしようものなら、その場で手打ちになっても文句は言えないのである。
その様子を見かね、レナエルが口を挟む。
「アベルを稽古相手に据えたのは私よ。私が考え、私が決めた。何か問題があるかしら」
「いえ、それは……。――アベル? ま、まさか姫様、この者に名をお与えになったのですか!?」
「そうよ。それが?」
「もう少しご自身のお立場と言うものをお考えくださいませ! このような者とお関わりになられるばかりか、名まで授けるなどっ! 万が一この事が他の王族たちに知られでもしたら」
「お前は、私を人形か何かと勘違いしてはいないかしら」
侍女が言い終わるのを待たず、レナエルが言葉を返す。侍女の表情に狼狽の色が浮かんだ。
「そっ――、そんな事は決して! わたくしはただ」
「そういえば、いつか私を〝お飾り〟とか抜かしていたわね。忘れていないわよ?」
レナエルは血の気が引く音を聞いた気がした。侍女の顔は見る間に青くなり、膝が微かに震え始めた。乾いた唇を動かして弁明を計ろうとするが、荒く息を吐き出すばかりで言葉と呼べるようなものでは無かった。
そこまで恐れられては、まるで自分が悪い事をしているような気分になる。座りが悪くなったレナエルはひとつ咳払いをする。侍女の瞳に光が戻り、その背筋が伸びる。
「お前の不敬を私の〝聞き間違い〟としても良いわ。その代り、お前がここで見たことは全て〝見間違い〟よ。良いわね」
侍女は喉を引き攣らせながら、何とか頷いて見せる。その首がまだ肩の上にある事が信じられない、とレナエルの腰に下げられた剣に注がれた視線が語っていた。侍女ごときの命など、王族にとってはパンの切れ端と変わらない。リンスティールにおける身分制度はそれほどまでに苛烈であり、徹底されている。故に自身の立場と利用価値を理解し、なおかつ剣の腕も立つひねくれ王女など、多くの者にとっては厄介者以外の何物でもなかった。
逃げるように侍女が立ち去る。その気配が完全に遠ざかるのを待って、アベルが口を開く。
「ごめん。嫌な役回りをさせた」
レナエルは片眉を上げ、自嘲するように口端を歪める。
「今更だわ。私は生まれた頃から嫌な役回りなのよ。国から何もかもを与えられるけれど、私自身の持ち物は何一つとしてない。人生でさえも」
レナエルは鞘を払い、鈍く光る剣を陽光にかざす。
「国の為に尽くすのは王族の役目よ。それは解っている。でも私は、自分を誰かに売り渡すつもりはない」
「だから剣で、国と国民を守ろうという訳か」
「いいえ? 私が大切なのはお兄様だけよ」
「…………」
アベルは開いた口が塞がらない。
「俺の感動を返せ」
「受け取ってもいないものは返しようがないわ」悪びれも無くレナエルが言う。「テランス兄様を国王にする。それが私の務めの果たし方よ。それ以外はどうでも良い。手に負えない事をあれこれ考えていても仕方がないもの」
何もかもを理解し、その上で全てをざっくりと二つに割り切る。行動そのものに正解などは無く、結果によってこそ、それは認められるのだという事を、年端も行かぬ小さなお姫様は正しく認識していた。
「ま、お前らしいよ。レナエル」
まったく、恐れ入る。
この小さなおてんば姫様が今後どう成長していくのか。アベルは生まれて初めて、未来を楽しみに思った。
「本当について行かなくて大丈夫なのか?」
朝の光が差し込む寝室。ドレスを着こんだレナエルの背中に、天井裏から顔を出してアベルが声をかける。
「大丈夫だって。アベルは心配性ね」
「いやしかし……」
「片道半日の近場よ? 護衛の騎士も居るんだし、たまにはのんびりしていなさいよ」
レナエルの住まう屋敷の地下には、ある一本の宝剣がある。それは一振りで軍事バランスを崩すとまで言われる武具〝魔装具〟であった。
魔装具を扱うにはその適性者の存在が不可欠だ。しかし扱えるものがおらずとも、魔装具を所持しているという事実は周辺諸国に対して抑止力となる。故に魔装具は厳重に保管され、その保管場所も不定期に移動されるのだ。今回はライエル第一王子の屋敷へ移送される事になっていた。
「魔装具の移送ついでに、ちょっと挨拶に行ってくるだけよ。そういう事をないがしろにし過ぎると、テランス兄様にも迷惑が掛かっちゃうからね」
あくまでテランス王子基準で動くんだな、とアベルは苦笑いを浮かべる。
「お土産に途中の街で短剣でも見繕ってきてあげるから、大人しくお留守番してなさいな」
「……扱いまで犬っぽくなってないか?」
剣の稽古を始めてから二か月程の時が立ち、二人の間柄は主従を超えて兄妹のようになっていた。軽口を叩いて笑い合う姿などは、まるで血の繋がった本物の家族のようだった。
「三日後には帰るわ。私のベッドで寝ていても良いわよ」
「それは遠慮しておくよ。侍女たちに細切れにされかねない」
それもそうね、と笑いながらレナエルが寝室を後にする。やがて馬の嘶きが響き、がたがたと音を立ててレナエルの乗り込んだ馬車が走り出した。
前後を馬に跨った数名の護衛の騎士に挟まれ、馬車が地平線の向こうへ消えていく。その様を寝室の窓から見つめていたアベルの胸に、暗雲が立ち込める。
それは、いわく〝悪い予感〟と呼ばれるものだった。
光の帯が幾筋にも降り注ぐ森の中を、ゆったりと馬車が進んでいく。
馬車の旅は退屈で仕方がない。窓から見える景色に代わり映えは無く、向かい座っているのはレナエルとアベルの関係を知っている例の侍女だ。表情を強張らせ、肩をいからせて固まっている。とても話し相手という大役を務められるようには見えなかった。
心地よい振動と車輪の立てる単調なリズムにレナエルが眠気を覚え始めた時、突然怒号が上がる。それは確かに「敵襲」と聞こえた。
悲鳴のような馬の嘶きが響き、馬車が急停車する。レナエルは御者台の方へ駆け寄り、小窓から前方の様子を確認しようとする。
その眼に飛び込んできたのは、こめかみから矢をはやした御者の姿だった。
「ひ、姫様! お隠れになってください!!」
「隠れるってどこに――むぐっ! ちょ、痛いわよ!」
侍女が座席の下に設けられた荷室へレナエルを押し込める。暗いし寒いし、先客ともいうべき長方形の箱のせいで酷く狭い。
木陰から黒衣に身を包んだ多数の人影が飛び出し、護衛の騎士たちを襲う。魔装具の存在があっても、日中に、それもごく短距離を行く第八王女へ付けられた護衛の数は多くはない。瞬く間に制圧され、人影はレナエルの馬車を取り囲んだ。
鈍い破砕音と侍女の悲鳴が響く。扉が破壊されたようだ。
「姫が居ないぞ! 魔装具も無ぇ!」「くそっ、囮か!?」「別ルートを張っていた奴らからの連絡は無いぞ!」
男たちが口々に叫ぶ。やり過ごせるか……? と思っていたところへ、別の男が口を開く。
「おい、姫と魔装具はどこだ。素直に言えば見逃してやる。ここからなら街へも歩いていけるだろう」
侍女が短い悲鳴を上げる。そしてしばしの沈黙――。
不意に、男たちが下卑た笑い声をあげた。
「へぇ。そこか」
背筋に悪寒が走る。――売られた。侍女が我が身可愛さに主であるレナエルを売ったのだ。
だが、レナエルの心中にあったのは怒りでも哀しみでもない。ただ、「そりゃそうよね」という思いだけだった。身を挺して守られるほど立派な主であるとは、自分でも思っていない。
覚悟はしていた。第八王女といえど、腐っても王族。人質としての価値は計り知れず、そのくせいつも護衛は手薄。いつかこんな日が来るとは思っていた。
「やっ――、約束でしょ!? 離して! 離してよ!!」
「あぁ、見逃してやるぜぇ。俺は、な」
耳障りな笑い声が空気を汚す。放り出された侍女はすぐさま別の男に捕らえられた。悲痛な叫びが響き渡る。これから侍女がどんな苦痛と屈辱を味わう羽目になるのか、レナエルには想像もつかない。
可哀想だとは思わない。自業自得。そう、全ては自業自得だ。守られる事に慣れ切って、自ら戦う術を身に着けてこなかった。自分の命を他人に預けた。その代償だ。
だから、私は戦う。私の最後は私が決める。一人でも多く道連れにし、虜にされる前に自害してやる。
しかし手元にあるのは小さな短剣。自害くらいは可能だが、これで戦うのは難しい。
何かに呼ばれた気がした。首を巡らすと、その気配は荷室の先客であった長方形の箱から発せられていた。鍵はない。ゆっくりと蓋を開き、中身を確認する。
「剣……?」
それは一振りの剣だった。鞘は無く、薄暗い荷室にあって剥き出しの刀身は仄かに光を発していた。
何者かが馬車へ乗り込む気配に、レナエルは咄嗟に剣を手に取る。
そして汚泥の様な笑い声と共に、荷室の扉が開かれ――。
レナエルはゆっくりと目を開く。視界に飛び込んできたのは、月明かりに浮かび上がった木製の天井。まるで犬小屋ね、と寝起きの頭でレナエルは思った。
レナエルを目覚めさせたのは朝の光では無い。ひんやりと漂う、冷気の様な気配。狭い荷室で初めて感じ、以来身を晒し続けた恐怖の舌。
「――殺気……」
レナエルが身を横たえる部屋の扉が、静かに開かれた。




