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序章 -フルーレラットの氷結薬ー

 夜は目覚めを必要としていなかった。闇が旅人たちを狩りたてる。


 月明かりも届かない暗い森を、一人の青年が駆けていく。周囲の闇の中からは助けを求める悲鳴が幾つも上がり、次の瞬間には、湿った断末魔となって木々を揺らす。


「ちょっと、アベル! いつまで逃げていれば良いのよ!?」

 白い外套のフードを目深に被り、青年の背後について走る人影から声が上がる。口調は荒いが、その声は瑞々しい少女のものだった。


「この一帯はもう奴らの餌場だ。とりあえずは逃げるしかないんだよ」

 アベルと呼ばれた青年が応え、苛立ちを奥歯で噛み砕く。

「この遠征隊はもうお仕舞だな」

「最初から烏合の衆だとは思っていたけれど、ね」

「落ち着いているんだな」

「この程度、ピンチの内にも入らねーわよ」

「そりゃ頼もしい事で」アベルは苦笑いを浮かべる。


 二人の背後、闇の中から大型の獣が姿を現す。長い鼻頭は狼を思わせ、高く分厚い体躯は熊のようだった。獣は大きく咢を開き、少女の小さな頭をフードごと噛み砕こうと飛び掛かる。

 突然少女の姿が掻き消えた。いや、ステップを踏むようにして右に跳んだのだ。

 銀閃が煌めく。少女は身体を回転させながら剣を抜き、獣とのすれ違い様に刃を一閃させた。


 獣の牙は空を穿つ。頭から地面に飛び込み、無様に転がる。獣は声を荒げて怒りを露わにし、前足をついて身体を起そうとする。しかしそれが果たされることは無かった。獣の身体は二つに切り分けられ、散らばっていたのだから。

 何が起きたのか解らないといった様子で獣が呻き、足掻く。少女はそれを一瞥し、もはや脅威無し、と捨て置いた。


「お見事」

「リンゴの皮を空中で剥くより簡単だわ」

 これほどの剣技を、少女は大道芸以下だという。アベルは流石に謙遜が過ぎるだろう、と肩を竦め、再び走り出した。外套の端で剣の血糊を拭って鞘におさめ、少女もその後を追う。


「子供の落書きみたいに不格好な奴だったわね」

「バング・ウルフ。外界の森に住まう魔獣だ。風を操って獲物の匂いを手繰り寄せ、仕留めるまで追い立てる」

「女の子には嫌われるタイプね」

「そうだな。常に集団で行動しているというのも、減点だ」


 二人の背後で遠吠えが上がる。別のバング・ウルフが両断された仲間の遺体を見つけたのだろう。その声に呼応するように、暗い森のそこかしこで次々に闇夜を震わせる遠吠えが立ち昇る。

 闇は深みを増し、より強固な殺気を孕んで二人を飲み込もうとしている。


「十……二十はいるかしら。追い付かれるわね」

「怒りをかっちまったみたいだな」

「やっぱり迎え撃ちましょう。あの巨体ですもの、森の中なら小回りが利かないはずよ」

「いや、このまま森を抜けて草原へ出る」

 アベルの言葉に、少女は「はぁっ!?」と声を上げる。

「ばっかじゃねーの!? 開けた場所に出たら包囲されて終わりじゃないの! だったら人の残っていた野営地で迎え撃った方がまだ――」

「任せろ。考えがある」


 アベルはそれだけを言うと口をつぐみ、後は少女に視線を向けることなく走り続ける。少女はしばらく不満そうに唸っていたが、やがて諦めたのか、それとも覚悟を決めたのか、小さく溜息をついてかぶりを振った。

 二人の瞳が光を捉えた。死神の指先のように垂れる木々の枝葉が途切れ、蒼く眩い月明かりに輝く草原へと飛び出した。むせ返る森の青臭さから解放された二人は、水晶が砕けた様な星空を見上げ、大きく息をついた。


「抜けた! んで、どうするってのよ!?」

 フードを払い、少女が言う。月明かりのような金髪が夜風に靡いた。

「まだだ、もう少し走れ!」

 少女は「あぁもう!」と悪態をつきながらもアベルの後に従い、そのまま走り続けた。しばらくしてアベルは立ち止まり、振り返って森を睨みつける。


「アベル!?」

「待てって」

 少女の問いかけにアベルが応えた数秒後、森の中から憎悪と殺意の塊が噴き出した。牙を剥き出しにしたバング・ウルフの群れが、仲間の仇を討とうと地を抉る。

 それは死の津波だ。一度呑み込まれれば奴らのディナーになるのは必定であった。


「十三匹か。更に後ろに大型個体……、十は居るか」

アベルは腰に付けたポーチの一つを開く。中には薄い鉄板と衝撃吸収の為に張られた厚いコルクが詰まっていた。コルクから赤い液体の詰まった細いガラス管を抜き出し、蓋を捻る。小さな結晶が液体の中に落ちて淡く発光を始めた。アベルはそれを確認すると、同じ動作をもう二回繰り返す。


「風向き……良し」

 バング・ウルフは風を操って獲物の臭いを追う。野生のなかにあってそれは大きなアドバンテージだ。しかし相手が人間では、その特性が害悪になる事もある。奴らは常に風下に居るのだ。

「シッ!」

 腕を振るい、アベルはガラス管を宙に放り投げる。次いで針のように小さなナイフを放ち、ガラス管を砕いた。空気に触れた赤い液体は瞬時に風に混ざり、霧となって辺りを包み込む。

 不可解な獲物の行動にバング・ウルフの脚が鈍る。鼻をひくつかせて辺りを警戒している。


「あれは?」少女が言う。

「フルーレラットの体液を精製した物だ。雌のな」

 アベルは別のポーチを開き、同じく三本のガラス管を取り出して蓋を捻る。淡く発光した液体の色は青であった。

「そんで、こっちは雄だ!」


 先ほどと同じようにガラス管を放り投げ、砕いた。中身の液体が撒き散らされて風に混ざる。

唸りを上げて風が逆巻いた。赤と青の霧は混ざり合い、緩やかに螺旋を描く。異様な光景にバング・ウルフの脚は完全に止まり、爪を大地に食い込ませる。

 何事かと眉を潜める少女の耳に、不意に断続的な金属音が響く。顎を上げ、辺りを見回す。そこでようやく自身の吐息が白く色づいている事に気が付いた。


「あんた、一体何を――」

「息を止めて伏せろ! 舌の根まで凍るぞ!!」

 世界が白く爆ぜた。音が消え、天と地の境が曖昧になる。圧倒的な力の気配に少女は咄嗟に身を屈める。やがて恐る恐る顔を上げた少女の瞳に映ったのは、全てが停止した白銀の光景だった。


「……これは――」

赤と青の螺旋はあらゆる熱を奪い、包み込んでいた全ての命を巻き込んで天へと昇って消えた。バング・ウルフは物言わぬ氷の彫像となり、大気ですらその暴力には抗えず、氷の結晶となって月明かりを反射して煌めいている。少女がその光景に息を呑む事ができるのは、霧の届かぬ風上に居たからだ。


「これが、魔法薬……!?」

 詠唱無しに魔術に相当する現象を引き起こすインスタント・マジック。まさか、これほどとは。世を乱すとしてイマルタル聖堂会から封印指定を受けたのも頷ける。少女の背筋を走る悪寒は、寒さばかりが原因ではあるまい。


 と、いうか。


「おいアベル! こんな奥の手があるならさっさと使いなさいよ!!」

「馬鹿言うな。これは風向きに注意しないと自分まで凍り付くんだぞ。森の中じゃ威力も減退するし、開けた場所まで来るしかなかったんだよ」

 肩を竦めてアベルは弁解する。〝フルーレラットの氷結薬〟は強力だが、扱いが難しい一品だ。それに大変高価でもある。今のでアベルの食費三か月分相当も天に消えた計算になる。


 森の中から湧き上がっていた殺気が遠のいていく。後続のバング・ウルフは眼前の光景に恐れをなして撤退したようだった。

 アベルと少女は草原に身体を投げ出し、満天の星空を見上げて大きな溜息をついた。


「なんて夜だ。最悪だ。ああ、くそ! 酒が飲みてぇ!」アベルは星空に毒づく。

「呆れた男ね、まったく。今はどうやって目的を果たして生きて帰るかを考えなさいよ。解ってる? 私たち、魔獣だらけの外界でろくな装備も持たずに焼け出されたのよ?」

「野営地に戻って装備を漁るか?」

「冗談。アイツらに食い荒らされているでしょう、色々と。見たくもねーわよ」

「死体なんて戦場で見飽きているだろう」

「敵の内臓をぶちまけたりはしねーもの」

「ま、そりゃそうだ」


 アベルは上体を起す。その頬を鋭い熱が走った。背後から突きだされた突撃槍の穂先が頬を浅く裂いたのだ。熱と共に血液が流れるのを感じながら、アベルは戦慄していた。まさか、自分が背後を取られるとは。


「貴様、外法(げほう)の使い手か」

 低く、くぐもった声が浴びせられる。気が付けば周囲を四人の人影に囲まれていた。分厚く上質な白い外套に身を包み、顔はマスクとフードで隠されている。しかし盗賊の類ではない。むしろ、高度に訓練された騎士のような気配だった。


「ここで絡んでくるのかよ……」

 アベルが呟く。白外套達の事は気になっていた。有象無象の寄せ集めである遠征隊の中において、あまりにも目立っていたからだ。この白外套たちもアベルと同じく、とある目的の為に組織された外界遠征隊の生き残りであるのだ。


「あ、あんたたち!?」

 少女が跳ねるように飛び起き、アベルに突き付けられた突撃槍の穂先を払おうとする。しかし白外套の一人に遮られ、二人は引き離される。


「だからさっさと始末してしまえば良かったのだ」

 アベルに穂先を突き付けている白外套が言う。

「逸るなと言っているだろう。お前はいつもそうだよな」

 大柄な別の白外套が声を上げる。

「あー、まぁ。とりあえず話を聞いてみれば良いんじゃねぇの? 俺には、敵だとは思えないけどねぇ」

 少女とアベルの間に立ちはだかる白外套が言う。同じく籠った声だが、こちらは先の二人と違って軽薄な口調だった。

「んじゃ、ここは私が」


 一際小柄な白外套の一人がアベルの前に進み出て、フードを払い、マスクをずり下げる。現れたのは艶のある黒髪、浅黒い肌に、琥珀のような黄色く大きな瞳。悪戯好きな猫を思わせるその笑顔と八重歯のせいで、幼さすら感じさせる少女だった。

 黄目の少女は腰を屈め、アベルに覆いかぶさるようにしてにじり寄る。


「あらぁ? 意外とカッコいいですね、お兄さん」

「そりゃどうも。腰のナイフから手を離して言ってくれると、もっと嬉しいかな」

 くふふ、と黄目の少女が笑う。

「だーめですよ。返答次第じゃとーっても残念な事になりますから、よーく考えて答えてくださいね?」

 腹から胸元、そして首筋に指を這わせ、嬲るように黄目の少女が言う。猫だと思ったが大間違いだ。こいつのそれは、獲物を痛めつける事に喜びを覚える蛇のようだ。


「んじゃ、聞かせて貰えます? ここに至るまでの経緯ってやつですよー。包み隠さず、一から十まで」

 別に隠すような話でもないし、面白い事も無い。全てを話す事には何の問題も無い。アベルは視線を雇い主である少女に向ける。果たして少女は不満げにではあるが、小さく頷いた。

「とはいえ、何から話したもんかね」


 アベルは首を傾げ、記憶の糸を手繰り始めた。


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