【サリーズ・ヒップス】
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「お待たせしました。こちらをどうぞ」
サリーの目の前に、一杯のグラスが置かれた。
色は少し薄い黄色。良く見ると、僅かに炭酸の作る泡が浮いていた。
「これは、なんですの?」
「何ってほどのもんでもないが、まずは飲んでみな」
総に促され、サリーはそのグラスを手に取った。
グラスから仄かに、甘い香りが漂う。
それが、桃の香りだということには、サリーはすぐに気付いた。
(あの状態から、桃を加えたの? でも、そのあとの動作を考えると、それほど大量に入ってはいないはず。そんなことで、あの強烈な『ポーション感』が収まるとも……)
そんな少しの猜疑心を抱きつつ、サリーはその液体を口に含む。
途端に、口の中に穏やかな炭酸の刺激と、爽やかな桃の風味が弾けた。
サリーは、その味に驚愕しながら、ただ舌の上を走る甘やかな味に翻弄される。
確かに入り口はピーチだが、決してくどくはない。
ピーチの味を整えるような仄かな酸味は、柑橘系。
そんな、甘く爽やかな流れの中に、僅かな苦み。
ただ甘いだけではない、サリーの記憶に無い苦みが、仄かにピーチの甘さを引き立てている。
それは、ほんの少しの『トニックウォーター』の苦みであった。
ただ甘いだけでも、酸っぱいだけでも、苦いだけでもない。
それら全てが、少しずつ互いに影響を与え合い、味を引き立て合う。
舌の上で繰り広げられるそんな味の奔流。
それが喉まで到達したとき、ピーチの風味の中に、ウォッタの強さがあった。
喉を通り、腹にまで降りて来たとき、ようやくサリーは実感した。
このカクテルが、先程のカクテルをベースに作られたものだということを。
入り口も、途中も、飲後感も全てが、別物だ。
だが、これはまぎれもなく『ウォッタ』と『オレンジ』を用いたカクテルであり、
同様に、それだけで留まらないように、作られたカクテルであった。
それを意識して飲むもう一口は、随分と印象が変わった。
ふわりと口のなかで踊るピーチを、全面的に補佐する『オレンジ』。
それらをまとめつつ、酒としての存在を印象づける『ウォッタ』。
甘く華やかな桃の風味は、一杯の『カクテル』の、ほんの一面でしかない。
それら全てが美しく調和した味が、このカクテルの醍醐味であるのだ。
「まったくの別物じゃない……」
最初に現れた一杯。
総が軽く手を加えた一杯。
そして、新たに運ばれて来た一杯。
全てが完全な別物だった。
サリーは、そのことを認められないほど、鈍感な舌を持ってはいなかった。
サリーの反応を窺っていた総が、そこでようやく口を開いた。
「だから言っただろ? 最後に『発想力』を学んで貰いたいってな。フィルも」
「え、あ、はい」
総に促され、フィルもまたその液体に口をつける。
ふわりと満たされたような、そんな優しい表情を浮かべた。
「すごいですね。この【スクリュードライバー】と、材料はそれほど違いはないのに、少し他の材料を加えただけでこうまで変わるなんて」
「ああ。カクテルってのは、本当に繊細なんだ。このグラス──まぁ容量300mlくらいの中に、たった5mlでも違うものが混ざればそれは別のカクテルになる」
総は補足するように説明し、最後に固まって動けなくなっているサリーに言った。
「『カクテルのレシピ』を教えるのは簡単だ、サリー。だけどな、『カクテル』を教えるってのは、難しい。技術、知識、そして発想。それらはゆっくりと身につけていくことだ」
「……分かりましたわ」
悔しいが、サリーは自分がどれだけ甘い考えであったのか、理解できていた。
この『一杯』は、総がものの数分で作り上げたものだ。
そして、これをものの数分で作るために、呆れるほど長い時間、修行を積んだのだろう。
(私は……それができるの?)
ふいに、サリーの中に恐れのようなものが生まれた。
ぱっと、思いつきのように覚えたいといった『カクテル』だ。
その道の長さを感じて、戦慄したのだ。
「だけどな、そんな小手先の技術なんかより大事なことがある。美味しい『カクテル』を作るのにもっとも重要なことは、今すぐにでも身につけられる」
「え?」
先程までの、師匠然とした張り詰めた声ではなく。
やや気さくな、先輩の声で総が言った。
「俺も昔、散々言われたよ。『レシピ通りに作るだけがカクテルじゃねぇ』って。それってどういう意味だと思う?」
「……分かりません」
「さっきも言ったことだ。『カクテルは飲んでもらう人のために作る』んだ」
飲んでもらう人のために。
その言葉の裏にある意味を、総は静かに告げた。
「つまり『相手に喜んで欲しい』って気持ちがあれば、技術なんて後から付いてくるってことなんだよ」
それが『カクテル』の大前提だ。
飲んでもらう相手にあった『比率』を考え、
飲んでもらう相手の好きな状態を作るために『技術』を磨き、
そして、飲んでもらう相手に喜んでもらうため、『発想』するのである。
「その相手が『自分』だろうと『お客さん』だろうと、『誰かの為』の方が、成長ってのはしやすいもんなんだぜ」
「…………」
「ま、偉そうなこと言って、俺もまだまだなんだけどな」
それまで散々、説教めいたことを言っていた総は、少しだけ苦笑いをする。
そのあと、手が止まっているサリーに向けて、軽く言った。
「サリーは、その『カクテル』を美味しいと思ってくれたか?」
「え? は、はい」
「そいつは良かった」
サリーの返答を聞いて、総はほっと胸をなで下ろしたような表情を浮かべた。
そして、とても嬉しそうな、にかっとした笑みで、付け加えたのだ。
「その一杯は、サリーの為に作った一杯だからな」
「……え?」
「だからそれは、お前に喜んで欲しくて作ったんだ。勉強とか、色々と考えてもいたけど、お前が美味しいって言ってくれて、すげー嬉しい」
その真っ直ぐな笑顔を向けられて、
不意に、サリーの心臓が跳ねた。
(な、なに?)
総の嬉しそうな笑顔を見て、どうしてだか、恥ずかしい気持ちになる。
……自分は、さっきまで何を考えて『カクテル』を作ったのか。
何も考えてはいなかった。
そんな自分が、たまらなく恥ずかしくなったのだとサリーは理解する。
そんなサリーの思いは置いて、総はすぐにサリーに向けていた視線を、隣のフィルにも向けた。
「もちろん、これはフィルの為に作った一杯でもある。美味しいと思ってくれたか?」
「はい! まだ『カクテル』のことは良く分からないですが、総さんの伝えたいことが、少しは分かった気がします」
「それは良かった!」
隣で、総とフィルが楽しそうに会話をしていて、サリーは少しだけ、面白くない気分になった。
自分のために作ったと言ったのに、結局は二人のためだったのかと。
そんなサリーの心情を知らず、総が会話を締めるように言った。
「じゃ、お勉強はこれくらいだ。その一杯を飲み終わったら休憩を終わること。後は、酔いそうだと思ったらしっかりと水を飲むことだな」
それだけを告げて、総はすぐにイソトマ達の所に戻っていった。
二人残された兄妹は、静かに、感想を言い合った。
「なんだか、大変な所に来ちゃったのかもね」
「でも、結構面白そうよ。そうでしょ?」
「うん、そうだね」
その後は、特に何かが起きるでもなく一日は終わった。
総は一日の営業が終わったあと、少しフラフラしている二人に感想を尋ねた。
兄妹は揃って『疲れたけど、楽しかった』と告げたのだった。
なお、総が先程のカクテルの名前が【サリーズ・ヒップス】だと教えた時。
サリーは、これ以上ないほどに複雑な表情を浮かべたのだった。
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ここまで読んでくださってありがとうございます。
ここで弟子の一日目終了になります。
ここである意味一区切りなので、次回からまた展開が少し違うかもしれません。
同じに思うかもしれません。
スローペースなのは変わりませんので、よろしければ気長にお付き合いいただけると幸いです。
※0922 少し表現を修正しました。
※0922 誤字修正しました。




