バーテンダーマニュアル
「総。今大丈夫?」
店に向かう前、自室(という名の借りた部屋)で机に向かっていると、ノックと共にスイの声がかかった。
「大丈夫」
「じゃあ、入るよ」
俺の返事を待ってから、スイは部屋に入る。
彼女は、元物置きだった部屋の整理された様子を眺めた後、言った。
「そろそろ店に行く時間だけど、遅いから呼びに来たの」
「もうそんな時間か。待たせて悪い。準備は出来てるからすぐ行くよ」
俺は慌てて時計を確認すると、すでに昼前になっていた。
バー部門だけならばこんなに早く家を出る必要は無い。
だが、一ヶ月前の品評会以来、確実に増え始めた客足に対応するため、オヤジさんやベルガモは仕込みに専念している。
店の掃除やその他の雑事など、必然的にこちらで全てすることになっているが故の、この時間だ。
「『あの二人』の準備は?」
「大丈夫。いつでも出られるって」
「……吸血鬼って、昼間出歩けるんだな」
「……?」
俺の記憶にある吸血鬼は太陽の光がダメだったのだが、この世界ではそうでもないらしい。
あれか、太陽の光には別に魔力とかが含まれていないということか。
ついでに、この家で居候することになった二人の顛末も簡単に説明する。
サリーは部屋が狭いと不満を言い、フィルが謝った。
サリーは風呂が狭いと文句を言い、フィルが謝った。
サリーは……まぁ良いか。とにかくフィルが謝った。
その度に、俺はいちいち説教をする羽目になったのだが、どうでもいいことなので省略しよう。
一日で増えた頭痛の種に、頭を押さえてため息を吐いていると、
「あれ? 総、何を読んでたの?」
スイは目敏く俺が広げていた書類に気付いた。
俺は、一度説明するかを迷ったが、素直に言うことにした。
「これは、俺が働いていた店のマニュアルだ。弟子を持つことになったから、少し見直したくなってな」
言って、俺はそれをパタンと閉じる。
スイが少し不満そうに俺を見た。
「なんで見せてくれないの?」
「良く見ろ。マル秘って書いてあるだろ」
「あ、本当だ」
スイは書いてある文字を見て、頷いた。
そう。俺がこの世界の文字を覚えたように、実はスイも日本語をある程度覚えたのだ。
等価交換というか、なんというか。勉強してどうするんだか。
だが、そんな彼女だからこそ、このマニュアルを見せてあげるわけにはいかない。
内容が読めてしまうのだから。
「でも、諦めない」
「なんでだよ」
「私、秘密とか内緒とか、そういうのを見るの大好きだから」
「この問題児……分かったよ、教えるって」
手をわきわきと動かす彼女に、俺は呆れつつ、少しだけ説明することにした。
まぁ、この世界でバーの情報を秘密にしていたところで、特に意味はないだろう。
「といってもな、バーテンダーにはっきりとしたマニュアルはないんだ」
「どういう意味?」
「バーでは本当に様々なことが起こる。違う人間、違う状況、違う酒。ありとあらゆる状況に対応できるマニュアルなんて存在しないってことだ」
言いながら、俺はマニュアルを開いた。
そこに書いてあるのは、本当に簡単なことだ。
バーテンダーの三つの心構え。
こんな時にどう動くか、ではなく、バーテンダーとしてどう心構えを持つか。
「一つは『礼節を忘れないこと』。誰に対しても言動の一つ一つに気を付けて、その場にあった行動を心がけること」
バーテンダーは、常に人のことを考えながら動かなければならない。
言葉遣いはもちろん、笑顔であることや、会話の内容に気をつけること。元気に挨拶することや、失礼があれば速やかに謝ることなど。
当たり前のことだが、だからこそ大事なことだ。忘れてはいけない。
「一つは『忍耐を忘れないこと』。嫌なことがあったときや、諦めかけたときこそ、成長のチャンスだと思って耐え、乗り越えるよう努力すること」
バーテンダーをやっていれば、嫌なことなんていくらでもある。
毎日の特訓は面倒だし、他店に勉強に行くのは大変だし、理不尽に怒られることもある。誰も見ていないところで、手を抜かないというのも意識していないと難しいことだ。
だが、そんな時にこそ自分を律し続ければ、成長ができる。
嫌なことから逃げなければ、その嫌なことを『経験』に変えられるからだ。
「そして最後は……」
その最後の一つを口にしようとして、俺は少しだけ、息が詰まった。
「……最後は?」
「……最後は『目標を忘れないこと』。自分が何の為に働いて、何の為に成長するのか。その先に何を求めているのかを、常に意識すること……」
俺は、日本に居るときから忙しくて、ずっと開いていなかったマニュアルの、その最後の心構えに、答えられなかった。
バーテンダーを続けていくには、自分の中に芯がなければならない。
人生の大きな目標を掲げ、その為の小さな目標を設定し、毎日少しずつ、少しずつその目標に向かっていく。
たとえ真っ直ぐ道が繋がっていなくても、道筋があればそこに向かって歩いていける。
どうしたら達成できるのかを考え続けることが、自分が成長するための近道となる。
その、人間としての、人生の心構えが、最後の一つだった。
「……総?」
「いや。俺も、全然、まだまだだなって思ってさ」
説明の言葉を止めた俺に、スイが心配そうな声をかける。
だが、それに俺は曖昧な笑顔を返すことしかできなかった。
「ま、バーテンダーのマニュアルなんてこんだけだ。技術も知識も、自分で身につけることだからさ」
「そうなんだ。てっきり、あの『魔法』の秘密とか書いてあるのかと思った」
スイの真剣に残念そうな顔に、俺は思わず吹き出しそうになる。
「日本のマニュアルにそんなこと書いてあってたまるか!」
「む」
俺が少しだけ笑いながら答えると、スイはあからさまにムッとした。
だが、このマニュアルには『カクテル』の作り方すら書いていない。
この心構えのあとは、ほんの少しの業務の心得があるだけだ。
手助けするのはここまでで、そこから先は自分で努力しろ。
それが、うちの店の方針でもあったのだ。
「……俺は、いつからか『カクテル』ばかり見てて、先なんて見えてなかったな」
「……総?」
突然、笑い顔から真顔になった俺に、スイはまだ不思議そうな目を向けていた。
……だけど、目標か。
オヤジさんに言われたあの夜のことが、脳裏に自然と過った。
目先の目標ではなく、人生の目標。
さて、俺自身にも見えていない中で、記憶喪失の二人にこれを尋ねるのは酷だろうな。
そんなことを考えていると、俺の部屋にノックもせずに飛び込んで来た影があった。
「総さん! いったいいつまで待たせるつもりなんですの!」
銀色の髪の、美しい少女がその牙をむき出しにしている。
だが、その怒気に染まった顔は、俺とスイを見比べて、やや色を変えた。
「あら、まぁまぁ。失礼いたしました。この私を待たせるから何事かと思いましたら、スイさんと宜しくやっていたのですねぇ」
「サリー! 君はなんでそう喧嘩腰なんだ!」
「嫌ですわねフィル。私はありのままを告げただけですことよ」
そうやって、随分と見下した様子で俺とスイをニヤニヤと見てくるサリー。
フィルはペコペコと謝罪をするが、大丈夫、君は悪くない。
あー、いかんいかん。
自分がやられて嫌だったことは、人にはやらないようにしたい、そう思ってはいる。
だが、これほど先輩を馬鹿にしたことが俺にはないから、許してくれ、心の中の俺。
「バーテンダーの基本は礼節だごらぁ!」
「いだっ!?」
俺はひとまず、ニヤニヤと笑みを浮かべていたサリーの尻に、思い切り蹴りを叩き込んだのだった。
尻を押さえて涙目で睨んでくるサリーに、睨み返しながら思う。
本当に、俺はミスした時に先輩に蹴られるのは嫌だったから、後輩には優しくしようとずっと思っていたんだけど。
この場合は仕方ない。そういうことにしておこう。
※0916 誤字修正しました。




