【モヒート】(2)
「で、コレでどうやって飲めってんだよ」
グラスの中には、かき混ぜられたばかりのライムとミントの緑が、涼やかに泳いでいる。
しばらくそんなグラスを見つめてから、犬耳の男は呆れたように言った。
コレとは恐らく、身動きができないぐるぐる巻きの状態を差しているのだろう。
俺が答える前に、面白そうな顔をしたイベリスが、グラスを手にとった。
「じゃあ私が飲ませてあげよっか?」
「は?」
「口まで持って行ってあげるね!」
「ま、待て!」
イベリスがストローを口に近づけると、男は慌てて拒否に入る。
まぁ、いい歳になって、年下の女の子に飲み物の世話をしてもらうのは、恥ずかしいだろう。
だが、周りの客達はいつの間にかこちらを見て、ニヤニヤしていた。
仕方なく、俺が止めに入る。
「イベリス、ストップ」
「えー?」
「いいから。そういうのじゃないんだ」
楽しむ為なら放置してもいいのだが、生憎と俺の目的は違う。
イベリスはしぶしぶ手を収めると、ちょこんと席に着いた。
俺は一度カウンターを出て、男の縄を解いた。
男はあっさりと自分が解放されたことに、驚愕の目をした。
「お、おい? なんの真似だ?」
「ここで、また暴れるような方には見えなかったので」
俺は余裕の笑みを見せて、そっとグラスを手のひらで指した。
男は、迷うように入り口とグラスを交互に見る。だが、はぁ、と息を吐いてから、食って掛かるように言った。
「いいぜ。そこまで言うんなら、飲んでやるよ」
そう言って、憎らしげな表情は変えずに、グラスに手を伸ばした。
──────
(金持ちの気まぐれってやつか。俺が無様に驚くのを楽しもうってのか)
犬耳の男──ベルガモはイライラと心の中で吐き捨てた。
(だけど、これはチャンスだ。こいつらの目の前で、不味いって叫んでやる。この屑どもの驚いた顔にグラスを投げつけて、逃げてやる)
そう。ベルガモは最初から思惑に乗るつもりはなかった。
想定通りに動いて、そして、その期待を裏切るつもりだった。
それから逃げて……逃げて?
(……どこに逃げるってんだよ。逃げたって、意味がない。ここに来た意味が……)
頭の中で描いていた未来に、暗い影が射した。
もともと、ベルガモには目的があったのだ。そうでなければ強盗などしない。
しかし、顔を見られては、もう、おしまいだ。
自分一人ならば、まだ街から出れば助かるかもしれない。
しかし、ベルガモは『彼女』を置いて逃げるわけには、いかなかった。
(……ん?)
そんなベルガモの意識を誘うように。
手に持ち、口元まで運んでいたグラスから、すっきりと甘い香りがした。
(……なんだっけ。そうだ、ミント)
ベルガモは犬の獣人なので、もちろん香りには敏感である。
グラスからふわりと漂う香りを、認識していなかったとは言えない。
だが、意識して嗅いでみると、香りは表情を変える。
グラスから立ち昇るハーブの香りは、優しく導くようにベルガモを誘っていた。
そこで彼は初めて、供されたグラスそのものに注目した。
氷と液体で満たされたグラスの中にあって、優雅に泳ぐようにたゆたう新緑。
見た目にも美しいそれらが、ゆらゆらと手招きをしているふうだった。
(はっ、だから、なんだってんだ)
抱いたイメージを掻き消す。
ベルガモは、心に冷たいものを抱えたまま、憮然とした表情でそれを口に含んだ。
「……なっ!?」
そしてそれは、弾けた。
それまで抱いていた、冷えきった心のモヤモヤが、消し飛んだ。
細い管を通って運ばれてきた液体は、仄かに甘い。
だがそれはほんの入り口に過ぎなかった。
ストローを介すことによって、舌の中央から広がる液体は、『ラム』と炭酸の暖かな刺激を伴って、じわりと口中を染め上げる。
それはさながら、夜の平原を夜明けの太陽が呑み込んでいくようだ。
そうやって照らされた舌の上に、ミントの香りが次々と芽吹く。
口から鼻に抜けるような、甘く華やかな香味が、広がっていく。
ライムの酸味も、爽やかな風のようにミントの香りを広げる役割を果たす。
その二つが広がりきるころには、いつの間にか液体は飲み干されている。
そして、後に残るのは、爽やかな草原のような、無量の清涼感だけである。
穏やかに、そして爽やかに、その飲み物はベルガモの心を包み込んだ。
ずっと暗い所にいたのに、やさしく手を引かれて太陽の元に出たような気分だった。
そのとき、ベルガモの中に逃げ出そうという気持ちは、残っていなかった。
「……ごめん。ごめんよ」
代わりに出たのは、自分が犯した罪への、償いの言葉であった。
──────
スッキリとした味が特徴のミントには、それが元なのかこんな話を聞いたことがある。
『ミントには、魔除けの効果がある』
それにあやかった訳ではない。だが、少しだけ思ったところもあった。
『魔』が差しただけなら、それを払えば、本心が見えてくるのでは、と。
犬耳の男は【モヒート】を一口飲み、それから、懺悔のように謝罪を繰り返す。
俺は少し待ってから、静かに言った。
「その【モヒート】──いくらだか分かりますか?」
「え?」
犬耳の男は、その質問にさっと顔を青ざめさせた。
呼応するようにへたれた耳。やがて、恐る恐るという感じで、答えを出した。
「……銀貨四枚、くらいか?」
銀貨四枚。およそ『二万円』か。
銀座で飲む【マティーニ】だって、普通はそこまでいかないだろうな。
俺は、そんな彼に、優しく、されど突き放すように言った。
「いいえ。銅貨二枚ですよ」
「……は?」
「ここの『カクテル』は、全て銅貨二枚です」
銅貨二枚。俺的な換算では『千円』である。
男はもう一度グラスに目を落とし、立ち上がって叫んだ。
「嘘を吐くな! そんなわけが! そんなポーション屋があるわけが──」
「あるんですよ。ここに」
激昂した男に、なおも俺はまっすぐに目を向け続けた。
男は、俺の目を覗き込んで、そこに嘘の色を見出せなかったようだった。
意気消沈したように、ストンと座り込む。
「この店は、もともとあそこの『オーナー』が、貧しい人達のためのポーションを作りたくて、始めた店なんです」
『オーナー』という単語に反応して、スイがピクリとするが、続行する。
俺は、この犬耳の男が、やっぱりそこまで悪い奴には思えないのだから。
「ポーションは高級な薬だから、貧しい人には行き渡らない。結果、貧困の連鎖に繋がる。そんな状況を改善したい。安価な材料で、できるだけ安価なポーションを。それが、彼女が目指した、この店の形です」
「…………そんな店を、俺は?」
男の顔には、後悔の色が滲んでいた。
きっと彼は、ただ噂を聞いただけなのだろう。
『この辺りに、流行っているポーション屋がある』とでも。
それだけを聞けば、ここは、いかにも儲けていそうな店になるわけだ。
「ですから、事情が聞きたいんです。あなたがなぜ、ポーションを欲していたのか、を」
「……なぜだ?」
「決まっています」
こちらの思惑を計るような目に、俺はまっすぐ言った。
たぶんそれが、スイの思いと矛盾しないと信じて。
「うちのポーションをお求めになるお客様がいらっしゃるのなら、それをお届けするのが仕事です」
事情は知れない。
解決できるのかも、分からない。
だが、それを放って見捨てられるなら、スイは初めから『ポーション屋』など、やろうとは思わなかっただろう。
視界の端では、スイが微かに、だが確実に頷いていた。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
皆様に支えられて、やっていけております。
ここから、しばらくファンタジーな展開や、魔法の話に入る予定です。
展開上、ご都合も多少入るので、心を穏やかに読んでいただけると幸いです。
『ウォッカ』や『テキーラ』の出番が少なくてすみません。
活躍の場はこれからある予定です、もう少々お待ちいただければと幸いです。
※0805 誤字修正しました。