【チェイサー】あるいは……
伊吹が亡くなったとき、俺の部屋にあった伊吹の私物はまとめて彼女の実家へと送った。
だが、それで俺の家の中にあった伊吹の痕跡が全て消えたわけではない。
たった一つだけ、伊吹が持ち込んだものが『ゴミ』の形で残っていた。
それは、彼女が持ち込んできて、彼女と一緒に飲んだ『白州』の空き瓶だった。
白州に対して、俺はやや特別な思いを抱いている。
彼女と一緒に味わった最後のウィスキーであることとか。
彼女と一緒に旅行に行った最初で最後の蒸留所であることとか。
彼女が死ぬ前に最後に会話したのがその日であったこととか。
白州の側からすれば全く知った事ではない話なのだが、それくらい勝手に俺の中では特別なウィスキーであった。
そして、そんな特別なお酒の空き瓶を、俺はいつまでも捨てられずにいた。
いつでも捨てられる、今は時期が悪い、なんて言いながら、俺はたかが空き瓶一つをいつまでも抱え続けた。
青木達と久しぶりに家で飲んだ時、梅原にそれを捨てられそうになったとき、思わず声を上げてしまったくらい、気付かずに執着していたのだ。
友人達の中で青木だけは、そんな俺の執着に気付いた。
そして、無理やりにでも空き瓶を捨てようとした俺を止めたのも、青木だった。
『そのままでいい。空き瓶は、そのまま取っておくんだ。理由なんてない。だけど、お前はまだ捨てちゃだめだ。お前が、納得できるまで、捨てるな』
青木はそう言って、俺を止めた。
その時の、何かを許されたような気持ちは、まだ俺の中で残っている。
それから、色々なことがあった。
一言でまとめると、俺が異世界に行って帰って来たというだけなのだが、俺がこの家に帰って来たとき、真っ先に思ったのがこの瓶をどうするか、だった。
「洗ったんだな?」
「ああ」
青木の言葉に、俺は頷いた。
伊吹の遺書を読んで、俺はこの白州の瓶を洗うことにした。
その中に残されていた白州の香りは、注ぎ込んだ水と共に流れ出していった。
いつまでも生きているかのように感じられた、白州の華やかな香りは、静かに瓶の中から溶けて流れていった。
それは、俺がようやく、伊吹のことを振り切る決心をしたことの現れのようだった。
彼女の遺書を読んで、俺は彼女の願い通り、彼女を忘れるつもりで『白州の残り香』に別れを告げた。
「でも、捨てなかったんだな」
「ああ」
だけど、俺がしたのはそこまでだった。
俺は瓶を捨てることをしなかった。
『私の事なんて忘れて、って言ったけど。
本当は少しくらい覚えていてくれると、嬉しい』
遺書の中に残された最後の一文を、その時ふと思い出してしまったからだ。
忘れて欲しくて、それでも忘れて欲しくない。
そんな伊吹の思いを、俺はこの白州の瓶にだけ残してやろうと決めた。
だから俺は、白州の瓶を捨てるのはやめた。
だけど、中身の残る生きた瓶達と一緒にしておくのもやめた。
白州の瓶には新しい道を与えたかったのだ。
ふと思いついたそれが、水差しとして使うことだった。
「大丈夫、流石にもうアルコールを感じることもない、普通の水だよ」
チェイサーとして差し出されたものだが、やはりウィスキーの瓶から注がれた水には多少の警戒はするかもしれない。
なんとなく、青木の心情をそう理解して、俺はその言葉を告げた。
実際、三年間も水差しとして使っていて、中にアルコールが含まれていると考えるのは心配のし過ぎだろう。
もはや、アルコールどころかその香りの一欠片すら、残っているか怪しい。
だから、これは正真正銘ただの水──アルコールを追いかけるようにして飲む【チェイサー】だった。
青木は、それでも少し悩んだ様子であったが、意を決してといった感じでその水を口に含んだ。
「……ただの水だな」
「そう言っただろ」
どれだけ、瓶に歴史を込めようと、中の物は変わらない。
俺達がどんな思い入れを持っていようと、水は水だ。
「なんていうか、こういう残し方をするんだな、夕霧は」
青木は曖昧な笑みを浮かべつつ言った。
俺の出した答えの、中途半端さに思わず呆れているのかもしれない。
実際、俺も白州の瓶だけを残している自分に、女々しさのようなものを感じないでもない。
「総も、どうぞ」
「ありがとう」
言っているうちに、スイは俺にも水の入ったグラスをくれた。
正直に言えば、水差しとしてお酒の瓶はあまり向いていない気がする。
容量が少ないし、オシャレというほどでもないし、何より入れにくい。
綺麗さっぱり捨ててしまって、新しい水差しでも買うか、いっそ二リットルのペットボトルでも使った方が利便性は高いだろう。
白州の瓶に水を入れているのは、空き瓶を活用したかった俺のエゴでしかない。
本当の所を言えば、別にただ飾っておくだけだって良かったんだ。
でも、俺はそうしなかったというだけの話だ。
「…………」
ごくり、と喉を通っていく無色透明の液体。
スイから受け取ったグラスの中身は、やはり水だ。
だけど、同時に俺は、普段は思い出さないようなことも思い出す。
青木という、大学時代の友人と飲んだことで、少しだけ心が大学のころに戻ったから。
喉を通り、鼻から抜けていく空気に、仄かな麦を思う。
物理的には何も残っていない筈の、白州の残り香を、記憶の中だけで思い出す。
まだ異世界に居た頃、俺はお酒を人間に例えたことがあった。
一つ一つに個性があって、生まれて来た歴史があって、そして混ざり合うことでまた別の顔を見せたりする。
だから、お酒は一つ一つが一人の人間のようだと。
俺にとっての白州は、きっと一生、鳥須伊吹の顔をしていることだろう。
もう、この瓶の中には何も残ってはいないけれど。
居なくなってしまった伊吹の思い出は、瓶をきっかけに俺の頭で少しだけ思い出せる。
お酒が人間だというのなら、お酒の記憶は──記憶の中の残り香は、いつかは色褪せてしまう大切な写真のようなものなのだろう。
こればっかりは、デジタル化もできそうにない。
プログラムの道ではなくてバーテンダーの道に進んだ俺だから、それも仕方ないのかもしれないと、少しだけ心のなかで笑った。
だから、この【チェイサー】は、あるいは記憶だけで味付けした【白州の水割り】とでも言えるのかもしれない。
「少しだけ、嫉妬する」
そんな俺の考えを見透かすように、水を注いでくれたスイが少し唇を尖らせていた。
「記憶だけは、私にもどうしようもない」
スイの子供のような拗ね方に、俺は苦笑いを浮かべる。
そして、そのまま宥めるように彼女の頭を撫でた。
「悪いな。こればっかりは、どうしようもないから諦めてくれ」
「……私も、過去の過ちをいつまでも責めるほど狭量な女じゃないし」
「過ちて」
そう言われると、男女の何かがあったように聞こえるからやめて欲しい。
スイはそれから白州の瓶をじっと見つめ、無表情のまま、どこか得意気に言った。
「過去の思い出は、譲って上げる。その代わり、これからの未来は、私が貰うから」
自慢するかのような、あるいは宣戦布告するかのような物言いであった。
もし伊吹が生きていたとして、スイもまた記憶を取り戻していたとして。
二人がこの世界で出会ったとしたら、どんな会話をするのだろうか。
ふとそんなことを思った。
だけど、それはもう有り得ない世界の話だった。
伊吹は思い出の中に居て、今を生きるスイと交わることは二度とないのだから。
スイの横顔を眺めながら、もう一度グラスの中の水を飲んだ。
今度は白州の残り香を感じることはなかった。
「だから、急に二人の世界に入るのをやめろと」
なお、青木には大変申し訳ないという思いは、少しだけ感じるところだった。
そもそも、スイが家に居ると思わなかったんだよ。ごめんて。
あと一話か二話で特別編は終わりです。
よければもう少しだけ、蛇足にお付き合いください。
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