【ミリオンズ・ブルー】(6)
それから、少し経った。
とりあえず俺が倒れた理由については酒の飲み過ぎとお客さんには説明していて、その件については笑い話として済ませてある。
まぁ、実際のところ、栄養失調というわけでもないし──意識がぶっ飛んで異世界に行っていましたなどといっても仕方ないしな。
そして仕事に復帰してからの俺は、自分で言うのもなんだが概ね好評だ。
まるでどこかで数年くらい修業を積んで来たみたいだ、とは、復帰後の俺を心配して様子を見に来たオーナーの言である。
まあそんな俺も、ガスの元栓が締まっていて火が出ないコンロで、魔石の補充場所をひたすら探してしまったりとか、色々後遺症はあるのだが。
とはいえ、そんなパワーアップ後の俺が、一つだけオーナーに話していることがあった。
それは──俺がいつ『バーテンダー』を辞めるのか、についてだ。
もともと、俺は伊吹の言っていたカクテルがなんなのかを知りたくて、バーテンダーになったようなものだった。
そしてその答えは既に得た。
異世界と違って、俺がこの地球でバーテンダーとして果たすべき義務のようなものも特には無い。
つまり、この世界でもう俺がバーテンダーに固執する理由はなかった。
だから俺は、地球に戻って来てから早い段階で一度オーナーに言っていた。
「自分は今、なんのためにバーテンダーをやるのか、というのが見えていません。自分にあるのは、ただカクテルが好きだという気持ちだけです。だから、これからもバーテンダーを続けたいと思うのか、他に何か、やりたいことができるのかも分かりません。そんな自分が、やりたいことを見つけるまで、ここで働いていても良いでしょうか?」
がむしゃらになってカクテルを追っていたときの俺ではない。
今の、色々と心に整理が付いた俺だから出て来た、新しい迷いだった。
俺は一体、何なのか。
俺という存在は何をすべきなのかを、改めて人生に問われているようだった。
そんな俺に対して、オーナーは怒ったり呆れたりすることはなかった。
ただ「好きにしろ」と答えただけだ。
戸惑う俺に対して、オーナーが語ったのは、俺をこの店に雇った理由だった。
曰く。
初めて出会ったときの俺は、ここで保護しないと大変な事になると思えるほど酷い顔をしていたとか。
そんな俺を、オーナーはどうにも放っておけなかった。
だから、面接後すぐに採用して、自分の直弟子でもある、俺が仕事を教わった先輩に世話を任せたのだという。
そして、俺が何かを乗り越えようともがいている姿を見守っていたが、今の俺はその壁を乗り越えたように見えるのだとか。
であるならば、自分が保護しなくてはいけない若者はもういない。
あとは、俺が、俺の人生を生きていけば良い。
それが、俺の選択の自由なのだ。
だからこそ「好きにしろ」ということだ。
俺はそんなオーナーに深い感謝をして、まだこの店で働かせてもらっている。
俺がこの先の人生をどう生きるべきか、という答えにはまだ出会えないまま。
──────
「仕事、辞めてぇなー」
時刻は午前五時を回っていた。
店の閉店時間は午前四時、既に片付けは終え、オーナーに売り上げの連絡もし終わって後は帰るだけというタイミング。
店の扉を閉めながら、漠然と思っていたことを気づいたら声に出していた。
「……なんてな」
もう数年前になる、異世界に行ったあの日のことをふと思い出す。
あの日、異世界に行く直前にも俺は同じ言葉を呟いた。
だけど、あの日抱いていた感情と、今の俺のものは大分変わっている。
早く、何か大切なことを見つけないといけないのに、カクテルが好き過ぎてバーテンダーという仕事を辞められそうにないのだ。
かつての俺は、この仕事に息苦しさを感じていた。
固まった常連同士で繰り返される同じ会話。要求だけが上がり続ける会話のハードル。集まる人間全てが、何かを手探りで探しているような息苦しさ。
自分もそれが見えないもどかしさ。
だけど、それは真実の半分でしかない。
他人は、自分を映す鏡だ。
俺がかつて、お客さんのことをそういう風にしか思えなかったのは、俺自身が、そういう苦しさを抱えていたからだ。それが今なら分かる。
俺が苦しんでいるからこそ、お客さんも俺に苦しみを見る。
それをなんとかしたいと皆が思えば、自然と会話のハードルも上がるし、手探りで答えを求めもする。
だから、俺が変われば雰囲気も変わる。
俺が心を開いて、カクテルが好きな自分をしっかりと認めて、それが楽しいのだと心から示せば、お客さんにもそういった心情は広がっていく。
俺がバーテンダーを楽しむ事で、お客さんもまた楽しんでくれるようになる。
だから、以前よりもずっと、俺は接客が楽しかった。
カクテルだけじゃない。人間としての俺にだって居場所はしっかりとあるんだと、改めて実感した。
かつてのイージーズでそうだったように、俺はこの店に、認められたのだろう。
ついでに、童貞といじられることにも大分慣れた。
そういうからかいも、結局みんな、俺が好きで言っているのだと今なら分かっているし、審議が必要だろうが、俺はもう童貞じゃないかもしれないし。
──異世界の経験がどうなのかは、もはや今の俺には何も言えないのだが。
なお、冗談で童貞を捨てさせてあげようか、なんて言ってくる女性客はみんな丁重に断った。
何故かと問われれば、返す答えは一つだ。
「自分、地毛が青髪の女の子が好きなんで」
さて。
その結果、この店で俺がオタクと呼ばれるようになったのは、特に説明の必要もないだろう。
反省はしているが後悔はしていない。
そんなこんなで、俺は今日もゴミを店の裏に片付けてから店に戻る。
イージーズは十二時閉店だったが、こっちの店は四時閉店だ。
といっても今はもう五時なので店はとっくに閉まっている。
あとは、元栓などのチェックをしてカギを閉めるだけだ。
にも関わらずだ。
「ん?」
店の中で物音がした。
ぎいっ、と誰かが椅子を引いたような音。
クローズの看板はかけてあるのだが、明らかに誰かが居る。
しかし、ドアを開けた時になる鐘の音は、聞こえなかった気がするんだが……?
「まぁいいか」
どちらにせよ、売り上げの報告をした後に新しい来客というわけにもいくまい。
道具だって既に片付けてしまっている。
店の事情を話して、今日のところは速やかにお帰り願うしかないだろう。
そう思って店のドアを開けた。
落ち着いた茶色がメインの、シックな色合いの店だ。
ダイニングバーの様相を呈していたイージーズとは違って、ややオーセンティックな雰囲気のあるショットバー。
店の規模も、イージーズに比べて小さく、カウンター席が十程度に、テーブル席が二つ。
そういうこじんまりとした店が、今の俺の城だ。
であるにも関わらず、俺は何故だが、一瞬この店がイージーズであるかのような錯覚を覚えてしまった。
不思議な気持ちを抱いたまま、カウンターに座っていた黒髪の女性を見て、俺は思わず固まってしまう。
店のドアが開いたことで、彼女もこちらを見る。
まるで、何かの企みに成功した悪戯っ子のように、にんまりとした、良い笑顔だ。
フリーズの解けた俺は、そんな彼女に思わず苦笑いを浮かべてしまった。
それから、クローズにしていた看板をオープンに戻す。
「失礼しました」
一声、頭を下げてから、カウンターに入った。
洗い終わっていた道具を、最低限作業ができるように広げ直す。
メジャーカップに、バースプーン、そしてシェイカー。
多分だが、これで充分だろう。
「ご注文はどうしますか?」
立つ場所は、カウンターを挟んでお客さんの斜め前。
威圧感を与えないよう、適度の距離を取りつつ、離れ過ぎない位置。
「知らなかったら、それで良いんですけど──」
女性は、そう前置きをして、
それから、ニッと子供のような笑みを浮かべて言った。
「【ミリオンズ・ブルー】を」
「かしこまりました」
決まった、と言わんばかりの女性に、俺は言いたい事や聞きたいことがいくつもあった。
だけど、それを尋ねるのは最初の一杯を出してからで良いと思ったのだ。
だって俺は、バーテンダーなのだから。
おしまい。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
カクテルポーションのメインストーリーは、これでおしまいです。
大変長い期間、実に6年くらいかかってしまいました。
途中、更新が滞ってしまったり、最後の最後に定期更新が怪しくなったり。
色々ありましたが、なんとかプロットを作っていた最後まで来ることができました。
地球に帰って来る終わり方については賛否あるかもしれませんし、完全無欠のハッピーエンドではないと思います。
それでも、ようやく総がバーテンダーとして一歩を踏み出せる終わり方にしたいと思っており、こういう終わり方になりました。
改めて、ここまで読んでくださって大変ありがとうございます。
さて、本編はここまでですが、エピローグ+ということで、後2つほど蛇足の小話が入ります。
パラレルエンド、そして、パラレルプロローグです。
こちらについても間髪を入れずに更新したいところなのですが
二回目のワクチン接種が迫っており予定通りに更新できるかわかりません。
そのため、その2つの蛇足は、九月中に更新という形にさせてください。
最後にもう一度。
これまで長い間拙作に付き合っていただき本当にありがとうございました。
カクテルポーションを完結まで書けたのは、読んでくださったあなたのおかげです。
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