どん底の中に
「……うっ」
目が、醒めた。
込み上げて来た吐き気を堪えることができず、俺は少し手の中に胃液を吐き出す。
喉を通る酸味が、不快感を伴って少しだけ排出され、両手を汚した。
幸いなことに、胃にほとんど何も入っていなかったらしく、シーツまで汚すことはなかった。
「総! 起きたの!?」
女性の声。
見やると、青い髪の少女が、暖かい手ぬぐいを差し出しながら心配そうに俺を見ていた。
その髪の色を見て、俺は、さきほどまでの光景が、夢だったのだと実感した。
そして、その夢がかつての現実だったことも、はっきりと思い出した。
「……スイ」
「良かった。私が気付いた時には、もう、生きているのが不思議なくらい、症状が進んでいて、それで」
「症状?」
「魔力欠乏症。それも、第五属性の。総のポーチのカクテル、勝手に解除したからね」
受け取った手ぬぐいで、文字通りに手をぬぐいながら、俺は少しずつ現状を思い出す。
俺は、ローズマリーの屋敷で、儀式を行って、それで。
ここには、トライスの転移で。
「トライス、は?」
「…………私が来たときには、総と、ローズマリーしかいなかった」
「それじゃ……」
「周りの話だと、光になって、消えたって」
それじゃ、やっぱり最後の光景は夢じゃない。
トライスはもう、この世にはいない。
そして鳥須伊吹は、そもそも、この世界に存在してもいなかった。
半端に起き上がっていた上体が、ふらり、目眩とともに脱力した。
そのままでいるのがひどく億劫で、俺はまた、寝かされていたベッドに横たわる。
「まだ、安静にしていて。危険域は脱したけど、それでも」
「それでも?」
「……かつての総とは比較にもならないくらい、落ちてるの。第五属性の回復力も、魔力総量も。これって……」
これって、何があったの。
スイの言葉を俺は推測しつつ、答えられることは何もなかった。
魔王ヘルメスの件は、きっとローズマリーからある程度は伝わっている筈だ。
彼女が、どういう扱いを受けるのかは、ちょっと想像できないが。
賢者の正体がどうのこうのなんて話題、今はどうでも良かった。
俺の胸中にあるのは、トライスを失った事実と。
そして、思い出した、罪の意識。
あの日、俺が寝坊しなければ、伊吹は事故に会うことは無かった。
あの日、飲み過ぎたりしなければ、俺が、迂闊なことをしなければ。
それは、俺が、鳥須伊吹を殺したのだという、冷たい現実。
「……総、今は、眠って。また起きたら、詳しい話をするから」
スイの声に甘えるように、俺は目を閉じた。
目を閉じながら、ひたすらに、考えていた。
何を考えているのか分からないほどに、ずっと、答えの出ない何かを考えていた。
そうして意識が沈んで行く中、ふと気付いてしまった。
ずっと看病してくれていたスイに、御礼すら言っていなかったことを。
「具合はどうかな?」
「見ての通り、最悪です」
「どうやら、少しはマシになったのかな」
再び目を覚ました時、俺の病室?寝室?に現れたのは、既に多少は見慣れてしまった金髪の美男子であった。
寝起きに見るにはいささか眩し過ぎる美貌であったが、その表情は口調とは裏腹に深刻そうであった。
「さっそくで悪いのだけれど、君にもいくらか聞きたいことがある」
「ええ」
「だけど、まずはこちらの事情を説明するべき、だろうなぁ」
リトロの表情に合わせるように、声もまた疲れきったものへと変わった。
少し耳をすませば、この部屋の外から、色々な人が慌ただしそうにバタバタ動き回っている音が微かに聞こえている。
俺を心配そうに見つめているスイも、リトロが何かを言い出すのを止める様子はない。
俺は、自分が気絶する前までの出来事を思い、少しだけ覚悟して言葉を待った。
「昨夜、魔王を名乗るモノが表れ、王城は一晩で占拠された。奇妙なことに、その魔王の容姿は、メリアステル家が身柄を保証していた『白の賢者』に似通ったものだったらしい」
それが、その『白の賢者』本人であることを俺は知っている。
そして、その報告とこの状況を合わせれば、現状はとてつもなく悪いのだと考えなくても分かってしまう。
「王城の兵士達の抵抗空しく、兵士達は惨殺、もしくは無力化された。現状、我々は魔王の奇襲に完敗したと言っても良いだろう。占拠された後、王城──いや、あえて呼称を変えて、魔王城には魔物らしき影が徘徊し、奪還を試みた作戦の全ては失敗に終わった」
「陛下は、無事なんですか?」
「幸いなことに、王城にはもしものための逃走経路がいくつか用意されているからね。その一つは、ここシャルト魔導院にも繋がっている。いま、ここは対魔王作戦本部の有様だとも」
いつか聞いたような響きだった。
そういえば、ドラゴンゾンビの襲来を知った時の領主様の館も、バタバタ具合はこんな感じだったか。
「陛下が無事であることが不幸中の幸いであるなら、最も不幸な事柄は──『銃』の設計図が魔王の手中に収まっていること、だろうね」
「……っ!」
「魔王からの犯行声明のようなものは、交戦した兵士達が何人か聞いていた。曰く『銃の解析を行ったのち、この国に不満を持つ者を煽動して、そのまま国家の支配を目指す』とのことだ」
それは、まるで、俺や領主様に着せられた罪状をなぞるような行いである。
面白がって、わざわざそういうストーリーを描いたと言っても、納得できる。
「昨夜の段階で交戦した者達からの報告を聞けば、魔王には一切の魔法が効かず、どのような名手の刃も皮膚を通らなかったそうだ。まさに、人外の強さだね。その魔王本人がその手で国の侵略を行わず、他人を使って支配を目論んでいることもまた、不幸中の幸いと言えるかもしれない」
昨夜の、圧倒的な力を持っていたヘルメスの姿を思い出す。
彼からすれば、まさしく人間など路傍の石ころに等しく、その手でこの国を支配するなり、滅ぼし尽くすなり、そんなことは気分次第な筈だ。
それをしない、というのは、やはり、昨夜の彼の言葉を信じるなら。
「……これも、ゲームなんだ」
「……? ゲーム?」
「あいつにとって、今やっていることは、新しいシナリオを作った上でのゲームだから、だから、自分の手で直接世界征服をしよう、なんてことは考えていない」
「…………ふむ」
俺の言葉を、リトロは興味深そうに聞いていた。
「とにかく、病み上がりの君には申し訳ないけれど、出来れば、君が考えていることや、感じたことについて、作戦本部にて報告をして欲しい。本当は、一般人の君にこんなことを頼むのは気が引けるけれど、それだけ、私達は切羽詰まっているんだ」
リトロは最初に『俺にも』聞きたいことがあると言っていた。
つまりは、昨日実際に交戦した印象以外に、得られた情報があったということ。
この場にいないローズマリーを思えば、さもありなんといったところか。
「俺は、ローズマリー以上に詳しい情報なんて、知らないですよ」
「それでも、一人よりは二人だ。実際に交戦した者や、会話をした者達の情報は少しでも欲しい。何より、君には、一つだけ希望がある、らしいじゃないか」
「希望?」
精神的にどん底もどん底の俺の中に、一体どんな希望があるというのか。
そう思って暗い瞳でリトロを見つめるが、リトロは恐らくわざと、その視線を受けて笑顔を浮かべ、言った。
「ローズマリーからの又聞きだが、確かに言ったそうじゃないか。トライス・トネリコ──白の勇者が。ヘルメスを止める切り札になる『カクテル』が、あるのだと」
トライス。
鳥須。
俺は、また、どうにも止まらない吐き気を必死で堪えながら、顔をしかめることしかできなかった。




